第36話 武器を置き、食券を持って並べ
停戦会場となる国境の平原は、一触即発の火薬庫のような匂いがした。
北からはレガリア王国の重装歩兵と騎士たち。南からはノクティス魔王領の魔族兵と亜人の部隊。さらに、戦火を逃れてきた避難民や使節団の馬車が次々と集結してくる。
合わせて三千人。
彼らは皆、金環商会による兵糧攻めで何日もまともな食事をとっておらず、極限の飢えと疲労に苛立っていた。
「おい、なぜ魔族の連中が俺たちより先に広場に入っているんだ!」
「人間どもこそ、こんな場所で武器をチャラチャラ鳴らしおって。停戦など罠ではないのか!」
両軍の陣地は数十メートルしか離れていない。空腹による苛立ちが、長年の敵対心に火をつける。誰かが石を一つ投げれば、たちまち大規模な暴動と殺し合いが始まるだろう。
俺は大きく息を吸い込み、荷車を組んだ中央指揮台へ上がって拡声用の魔導具を構えた。
「全員、その場から動くな!」
俺の声が平原に響き渡り、三千人の視線が一斉にこちらへ向いた。
「俺は移動料理店の店主だ。あんたたちの腹を満たすためにここへ来た。だが、この人数が一度に鍋に群がれば、飯を食う前に死人が出る。だから、俺の店の規則に従ってもらう」
俺は手に持った色とりどりの木札――『食券』を高く掲げた。
「全員を一度には並ばせない。各部隊の長、および避難民の代表者は前へ出ろ。所属、配給を受ける屋台の場所、配給の時刻、そして種族ごとの食事制限を記した色別の食券を渡す」
群衆がざわめく。
「時間を分けるだと? 俺たちにいつまで待てと言うのだ!」
「そうだ! 飢えて死にそうな者が先だろうが!」
「その通りだ」
俺は野次を正面から受け止めた。
「だから、第一陣の配給は『負傷者』『子ども』、そして昨日から不眠不休で仕込みを手伝ってくれた『調理担当者』だ。五体満足な兵士たちはその後だ。文句のある奴には一枚も食券を渡さない」
俺の毅然とした宣言に、兵士たちは顔を見合わせたが、反論する者はいなかった。傷ついた仲間や子どもを差し置いて飯を寄越せと叫ぶほど、彼らは誇りを失ってはいない。
「それから、もう一つだ」
俺は広場の中央に設営した、長いカウンターと頑丈な木箱の山を指差した。
「販売区域へ入る者は、全員あの『武器預かり所』で剣や斧を預けてもらう。武器を持ったまま列に並ぶことは絶対に許可しない」
「ふざけるな! 敵の目の前で丸腰になれというのか!」
人間側の兵士が怒鳴った。魔族側からも同調する怒声が上がる。互いに疑心暗鬼に陥っている彼らにとって、武器を手放すことは命を捨てるに等しい恐怖なのだ。
だが、その恐怖を打ち砕いたのは、列の両端に立った二人の存在だった。
「店の規則だ。従えない者は、腹を空かせたまま帰れ」
レガリア王国最強の剣聖であるリシアが、躊躇いなく腰の大剣を外し、預かり所のカウンターへドンと置いた。
それを見た反対側で、黒い角を持つ魔王アシェリアが優雅に歩み出る。
「この領地の主である私が手ぶらで並ぶのだ。お前たちにできない理由はあるまい?」
彼女は護衛の魔族たちに武器を置かせ、自らも両手を広げてみせた。
剣聖と魔王が、率先して武器を手放し、同じ規則を守って列に並ぶ。
その圧倒的な光景を前にして、両軍の兵士たちは渋々と、しかし確実に武器を預かり所へ預け始めた。
「よし。食券の指定時刻通りに、各屋台の前へ並べ」
俺の指示で、武装を解いた三千人が二十四台の屋台へと分散していく。
俺は人間兵の列と魔族兵の列を壁で隔てることはしなかった。
屋台を扇形に配置し、列と列の間に十分な距離を取りつつも、互いの姿が視界に入るように導線を組んだ。
敵が壁の向こうで奇襲の準備をしているかもしれないという疑念を抱かせるより、「あいつらもただ大人しく並んで飯を待っている」という事実を互いに見せつけた方が、圧倒的に安全だからだ。
「配給を開始しろ!」
俺の合図と共に、二十四台の屋台の小鍋で一斉に『三境のとろ火シチュー』の仕上げが始まった。
ヴァルガルドが運んだ共同大鍋の基礎スープを、各屋台の料理人が小鍋へ分け、種族に合わせた仕上げダレを加える。
二十四本の柄杓が、琥珀色のスープを一斉にかき混ぜる。
人間向けの焼き塩と獣脂、獣人向けの青い香草、魔族向けの甘く濃い香辛料。三筋の香りが平原の風に乗り、同じ基礎スープから違う食欲を呼び起こした。
「お待たせしました、人間用の塩と獣脂強めです!」
パン屋の親方が、熱い湯気を立てる木椀を人間の兵士へ手渡す。
「こっちは獣人向け、香草ペースト入りだよ!」
ニアが尻尾を揺らしながら、避難民の子どもにシチューを渡す。
受け取った人間の兵士が、スプーンで琥珀色のスープをすくい、口に運ぶ。
ゴクリと喉を鳴らした瞬間、彼らの強張っていた肩からスッと力が抜け、殺気立っていた目が丸く見開かれた。
「……っ」
言葉は出ない。ただ、無言で次の一口をすくう速度が、周囲の兵士たちに伝染するように早まっていく。
煮込まれて繊維がほどけた骨付き肉が舌の上で崩れ、塩気と獣脂が空腹の胃袋に染み渡る。向かいの列では、魔族の兵士たちが甘みのあるスパイスの効いたシチューを夢中で掻き込んでいた。
誰もが、武器を預け、ただ自分の食事に向き合っている。
空腹の焦りは下がり、美味しい熱が体を温める。尖っていた殺気が、とろ火のシチューと共にゆっくり平原からほどけていった。
俺は全体の配給スピードと列の消化具合を確認し、小さく息を吐いた。
よし、このペースなら指定された四十八時間以内に三千人全員に食事が回る。食券による分散も機能し、暴動の兆候はない。
だが、このかりそめの平和が、俺の商売だけで守り切れるほど甘いものではなかった。
ダダダダダッ!
平原の北側と南側、両方の入り口から、土煙を上げて数騎の伝令が猛烈な勢いで駆け込んできた。
「伝令! レガリア王国代表団へ緊急の報告!」
人間側の伝令が、血相を変えて叫んだ。
「停戦会場へ向かっていた我が軍の補給隊が、魔族軍の奇襲を受けました! 停戦協定は破られました!」
時を同じくして、魔王領側の伝令も魔族の部隊長に向かって絶叫した。
「報告します! 人間軍が停戦の取り決めを破り、我が方の停戦代表使節を拘束したとのことです!」
広場の空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
「なんだと!? 貴様ら、よくも我らを騙したな!」
「人間どもめ、初めから我々を罠にかけるつもりだったのか!」
シチューの温もりで解けかけていた殺気が、倍以上の憎悪となって再び膨れ上がる。
両軍の兵士たちが木椀を放り出し、怒号と共に『武器預かり所』へと殺到しようとした。




