第32話 俺の店を、壊している
「……追うぞ。だが、絶対に武器は抜くな」
私兵の馬に牽引され、平原の彼方へ連れ去られていく《ノマド》を見送りながら、俺は低く押し殺した声で命じた。
大剣の柄を握りしめていたリシアが、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。
「店主! あのまま奪われて黙っている気か! 私が出れば、私兵の二十人や三十人――」
「駄目だ。ここで剣を抜けば、王国軍による『商会への不法な武力攻撃』になる。停戦会場での軍事衝突だ。間違いなく停戦交渉は破綻する」
俺の言葉に、隣に立つアシェリアも静かに頷いた。
「店主の言う通りだ。私が手を出せば『魔王が人間を襲撃した』ことになり、戦争が再開する。あのガレスという男は、私たちが武力で奪還できないことを計算した上で、堂々と白昼に持ち去ったのだ」
圧倒的な力を持つ剣聖と魔王がここにいながら、手出し一つできない。法と大義名分を盾にしたガレスのやり口は、あまりにも狡猾で隙がなかった。
「イルダ、あの戦時統制令の付属命令……危険設備没収の命令は、本当に正当なものなのか?」
俺が振り返ると、竈印組合のイルダが忌々しそうに首を振った。
「あり得ない。いくら軍の権限が強いとはいえ、組合の安全審査を通過した設備を即日没収するなど前代未聞だ。十中八九、ガレスが軍の上層部を取り込んで偽造させた付属命令だろう」
「なら、その偽造を証明して不服申し立てをすれば、合法的に取り戻せるな」
俺は即座に手続きの算段を立てた。
だが、イルダの表情は晴れない。
「手続き自体はできる。だが、不服申し立ての審査には最低でも数日かかる。それに対し、危険設備を無力化する条項には『即時実行権』があるんだ。奴は審査を待たずに――」
イルダの言葉の途中で、俺の背筋に氷のような悪寒が走った。
奴の目的は、車を取り上げて営業を止めることだけではない。俺という商売人の「象徴」を、群衆の前で排除することだ。
「……解体場だ。走れ!」
俺は叫び、金環商会の管理下にある仮設の解体場へと全速力で駆け出した。
リシアたちもすぐに俺の意図を察し、後に続く。
解体場は、停戦会場の端に急造された高い柵の向こうにあった。
俺たちが柵の入り口に辿り着いた時、そこからは重い金属を打ち据える音と、木材がへし折られる嫌な音が響いてきた。
「やめろぉぉぉっ!!」
俺の背後から駆け込んできたボルグが、絶叫に近い声を上げた。
俺も、目の前の光景に息を呑み、足が床に縫い付けられたように動けなくなった。
「俺の、店が……」
広場の中央で、《ノマド》は見る影もなく破壊されていた。
走行するための車軸は無残に切断され、車体は傾いて地面に沈み込んでいる。
ボルグが徹夜で組み上げた展開式カウンターは叩き割られ、フィーナの魔法を安定させるための冷却庫の配管は引きちぎられていた。防煙筒もへし折られ、車体の外壁は工具によって無数に切り裂かれている。
「てめえら、俺の作った車になんてことしやがる!!」
ボルグが血走った目でレンチを振り上げ、解体作業を行っていた私兵たちに飛びかかろうとした。
「ボルグ、やめろ!!」
俺は背後からボルグの腰に組み付き、必死に引き留めた。
ここで手を出せば、俺たち全員が反逆者として拘束される。それこそが奴の狙いだ。
「離せ、店長! あいつら、鉄板まで叩き割ってやがる! あれじゃもう火も入れられねえぞ!」
「堪えろ! 殴ったら俺たちの負けだ!」
暴れるボルグを押さえつけながら、俺は車体の奥から立ち上る黒い煙に気づいた。
鉄のドラム缶の中で、何かが焼却されている。
「ああっ……嘘……!」
フィーナが両手で口を覆い、悲鳴を漏らした。
ドラム缶の中で燃えていたのは、分厚い束になった紙だった。
「私の……記録が……」
フィーナがへなへなとその場に崩れ落ちる。
それは、ベルクでの試験営業から今日に至るまで、彼女が毎日欠かさずに書き続けてきた《ノマド》の営業記録だった。売上、仕入れ、食材温度、販売時刻。俺たちの商売の歴史そのものである『紙の帳簿』が、炎に包まれて灰に変わっていく。
「……危険設備から発見された、不衛生な可燃物だ。規則に従って焼却処分とした」
冷酷で、静かな声が響いた。
解体場の奥から歩み出てきたのは、ガレス・ローンだった。
彼は激昂するでもなく、残忍な笑みを浮かべるわけでもなく、ただ淡々と事務作業をこなすような目で俺たちを見た。
「なぜこんな真似を……!」
リシアが怒りに声を震わせる。「ただ営業を止めるだけなら、没収して監視を置けば済むはずだ。なぜここまで徹底的に壊す!」
「『危険設備の無力化』を実行したまでだ」
ガレスは平然と答えた。
「この車は、私が構築した秩序を乱す異物だ。ただ没収するだけでは、再び誰かがこれを持ち出し、無知な群衆に自由という名の混乱を与えるかもしれない。だからこそ、二度と機能しないよう解体する必要があった。……ああ、案ずるな。人的な被害を出すつもりは一切ない」
ガレスは周囲の私兵たちに視線を向けた。
「彼らには指一本触れるな。我々の目的は、あくまで危険設備の排除と、秩序の維持だ」
無差別な放火や、感情的な虐殺ではない。
だからこそ、恐ろしい。
ガレスは「自分の信じる秩序」を徹底するために、俺の商売の象徴を、法と規則に則って物理的に破壊したのだ。
「……満足か、ガレス」
俺はボルグをなだめ、ゆっくりと立ち上がった。
俺の愛した《ノマド》は、車軸を切られ、厨房を割られ、もはや鉄のスクラップになり果てていた。
「これで、君も理解しただろう。一人で抗ったところで、巨大なシステムには勝てないのだと」
ガレスは憐れむような目で俺を見下ろした。
「君の店は終わった。大人しく身を引き、私の商会の下で料理人として働くのなら、歓迎しよう」
ガレスが私兵たちを連れて解体場を去っていく。
残された俺たちは、夕闇が迫る中、破壊された《ノマド》の残骸の前に立ち尽くした。
車軸が折れた車体。
帳簿が焼かれたドラム缶から立ち上る、か細い煙。
俺が異世界に転移した日からずっと苦楽を共にしてきた店は、跡形もなく壊されてしまった。
周囲の静寂が、鼓膜を痛いほどに叩く。
停戦会場での営業まで、残り二十四時間。




