第3話 食べられる物ではなく、食べたい物
《ノマド》の運転席で、俺はダッシュボードの奥にある小型インジケーターを睨みつけていた。
冷蔵庫に電力を供給しているサブバッテリーの警告灯が、規則的な赤の点滅を繰り返している。残りの稼働時間は、長く見積もってもあと十八時間。
「急ぐしかないか」
「……すまない、私が余計な戦闘に巻き込んだせいで、進行が遅れた」
助手席から、申し訳なさそうな声が聞こえた。
王国最強の剣聖、リシア・ヴァレン。
彼女は今、俺の店で食事を提供することを条件に、臨時の護衛としてこの車に同乗している。銀の鎧が窮屈そうだが、彼女の存在がなければ魔物の巣窟である街道を無事に進むことはできなかっただろう。
「気にするな。あんたが魔物を片付けてくれたおかげで、客の安全は守られた。それに、食材が腐る前に次の町に着けば済む話だ」
俺はハンドルを握り直し、未舗装の街道を慎重に進んだ。
やがて、前方に石造りの関所が見えてきた。城塞都市ベルクへ続く街道の中間にある検問所だ。
車を停め、通行手続きのために外へ出ると、検問所の隅で役人と揉めている人影があった。
くすんだ青色のローブを着た、眼鏡の若い女性だ。
「だから、もう少し待ってください! 王都からの仕送りが来れば、通行料の銀貨くらい……!」
「嘘をつけ。お前、王立魔導師団を除籍された落ちこぼれだろう? 冷やすだけの無能魔法じゃ、傭兵団の雇い口もないくせに」
役人たちが嘲笑う。
女性は唇を噛み締め、俯いた。
「……無能じゃありません。温度の維持なら、一晩中だって誤差なく……」
「それが戦場で何の役に立つ? 氷の槍で魔物を串刺しにできるならともかく、ただ冷たい風を出すだけの手品になんか、一文の価値もない。さっさと道を開けろ!」
突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ女性を見て、俺は足をとめた。
物を冷やす。温度を一定に保つ。一晩中誤差なく。
俺は自分の耳を疑った。現代のコールドチェーン(低温物流)を知らないこの世界の連中は、とんでもないダイヤの原石をゴミとして捨てているらしい。
俺は役人の前に歩み出た。
「その女性の通行料は俺が払う。銀貨一枚だったな?」
懐から、先ほどの戦場で売り上げた銀貨を取り出して役人に投げて渡す。
驚いて見上げてくる眼鏡の女性に、俺は手を差し伸べた。
「立てるか?」
「あ、はい……あの、あなたは?」
「しがない移動料理店の店主だ。少し、あんたの魔法について聞きたい」
彼女はフィーナ・クライスと名乗った。
車に戻り、俺は単刀直入に尋ねた。
「フィーナ。あんたの魔法は、指定した空間の温度をピンポイントで下げて、それを数日間維持できるか?」
「え? ええ、対象の温度差を感知して制御するのが私の得意分野ですから。でも、凍らせて敵の動きを止めるような火力は出せませんよ?」
フィーナは自嘲気味に笑ったが、俺にとってはそんなことはどうでもよかった。
「素晴らしい。現代の最新設備なら奪い合いになる逸材だ。うちの店で働かないか?」
「……はい?」
フィーナは目を丸くし、助手席のリシアも怪訝そうな顔をした。
「俺の店は今、冷蔵庫の動力が切れかけていてね。食材が腐れば商売が終わる。あんたの魔法を最高の保存設備として買い取りたい」
俺は真剣なトーンで続けた。
「雇用条件はこうだ。一日三回のまかないの食事、規定の休憩時間、適正な給与、そして戦場や危険地帯に行く際の危険手当。これでどうだ?」
「……正気ですか?」
フィーナは呆然と呟いた。
「私のような落ちこぼれに、食事と給与? それに休憩や手当まで……?」
「空腹と疲労を抱えた人間に、まともな仕事はできない。従業員の健康管理は経営者の基本だ」
俺にとっては現代の飲食業における最低条件にすぎないが、フィーナはしばらく信じられないものを見るような目つきで俺を見つめた後、深く頭を下げた。
「……やらせてください。私の魔法を必要だと言ってくれたのは、あなたが初めてです」
契約は成立した。
フィーナが厨房の冷蔵庫に手を当て、魔力を流し込む。すると、唸りを上げていたサブバッテリーの負担が消え、庫内の温度が三度で安定した。
これでもう、時間が経っても食材が腐ることはない。最悪の危機は去った。
俺は安堵の息を吐き、検問所の近くで店を開いていた行商人から、追加の食材としてさばかれたばかりの灰角兎の肉と玉葱を買い取った。
そのまま車を街道の脇に寄せ、少し遅めの休憩をとることにした。
従業員が腹を空かせたままでは、次の仕事にかかれないからだ。
「さて、リシア」
俺は鉄板の前に立ち、助手席に座る剣聖に声をかけた。
「あんたはさっきの戦場でうちの肉汁包みを食ったが、あれは俺が勝手に用意したものだ。次はあんたに聞きたい」
「私に?」
「ああ。栄養補給のための『食べられる物』じゃない。あんた個人が『食べたい物』を教えてくれ」
リシアは灰青色の瞳を瞬かせ、戸惑ったように視線を泳がせた。
「た、食べたい物……? 私は王国の剣だ。与えられた配給を効率よく摂取することしか考えてこなかった。個人の好みなど……」
「俺は王国の剣に聞いてるんじゃない。うちの客に聞いてるんだ」
俺がそう言うと、リシアは微かに頬を朱に染め、真剣に考え込んだ。
やがて、ぽつりとこぼす。
「……さっきの包みは、美味しかった。だから……その、熱くて、噛んだら肉汁が出るものがいい」
「注文、承った」
俺はすぐに調理に取りかかった。
先ほど仕入れた新鮮な灰角兎の肉を強火で炙り、余分な脂を落とす。鉄板の上で焦げる音と濃い香りが、狭い車内に満ちた。
そこに飴色になるまで炒めた玉葱を合わせ、特製の濃い肉汁だれを絡めて、薄焼きの生地で素早く包み込む。
「待たせたな」
出来立ての熱い包みを二人に渡した。
リシアは両手で包みを受け取ると、立ち上る湯気を一度だけ吸い込み、大きく口を開けた。
炙った肉の焦げ香のあとから、飴色玉葱の丸い甘みがゆっくり追いかける。彼女は急いで飲み込まず、自分が頼んだ味を確かめるように何度も噛んだ。
「……これが、私の食べたかったものか」
険しい剣聖の表情が抜け落ちた。そこにあったのは、初めて自分で選んだ料理を喜ぶ、年相応の女性の素の笑顔だった。
「美味しい……本当に、美味しい」
「私も……こんなに温かくて美味しいお肉、いつぶりか分かりません……」
フィーナも、眼鏡を湯気で曇らせながら泣きそうな顔で頬張っている。
二人が食べる姿を見届けながら、俺はダッシュボードの上に放り出されていたゴミをまとめた。
その時、ふと手が止まる。
リシアが持っていた人間軍の保存食の空き袋と、さっきの戦場で魔族兵が落としていった保存食の袋。
二つの袋の端に、全く同じ『金色の環』の刻印が押されていることに気づいたのだ。
(人間軍と魔王軍……長年殺し合っている敵同士が、同じ業者から食料を買っている?)
商売人としての直感が、これは単なる偶然ではないと告げている。
飢えが支配するこの戦場で、何かが意図的に操作されている。俺はその刻印の形を深く記憶に刻み込んだ。
「よし、食い終わったら出発するぞ。ベルクの町まであと少しだ」
俺は運転席に戻り、キーを回してアクセルペダルを踏み込んだ。
ブルルン、とエンジンが唸りを上げる。
だが、次の瞬間。
ガクンッ。
プスン、プスン……カシュン。
車体が大きく揺れ、エンジン音が途絶えた。
俺は何度かキーを回したが、セルモーターが虚しい音を立てるだけだ。メーターパネルの燃料計を見る。
針はゼロを指し、底へ張り付いていた。
「……嘘だろ」
食材の腐敗問題は解決した。だが、肝心の車が、走行用の燃料を食いつくしてただの鉄の箱と化した瞬間だった。




