第29話 三つの味を、一つの厨房から
「その香辛料を大鍋へ入れるな!」
人間の料理人の怒声が、仕込み場に響いた。
向かいでは、黒い爪を持つ魔族の料理人が木匙を握りしめている。
「香りのない湯を料理と呼ぶ気か。魔根菜には黒炎椒が要る」
「そんなものを入れたら、人間の負傷者は一口でむせる!」
獣人の料理人も黙っていなかった。
「どっちも脂と香辛料が強すぎるよ。あたしたちの香草を後回しの飾りみたいに扱わないで」
三千食の仕込みは、鍋へ火を入れる前から止まった。
俺は最初、三種族の希望量を足して三で割り、共通の配合を作ろうとした。試作鍋を三つ用意し、塩、香草、黒炎椒の比率を少しずつ変えた。
結果は全部外れた。
人間の料理人は「甘くて力が出ない」と言い、魔族は「香りが死んでいる」と匙を置く。獣人は鼻を押さえ、「脂で森の匂いが全部消えた」と顔をしかめた。
数字の中間が、味の中間になるわけじゃない。
「これ以上は時間の無駄だ。人間用だけ先に完成させる」
「なら我々は別の鍋を使う」
「大鍋は八つしかないんだぞ!」
声が大きくなるほど、客の姿が消えていく。
全員、自分の文化を守ろうとしていた。だが、誰も実際に食べる三千人を見ていない。
ニアが作業台へ飛び乗り、三つの試作椀を奪った。
「はい、交換」
人間の料理人には魔族用、魔族には獣人用、獣人には人間用を押しつける。
「自分の味を説明する前に、隣の客が何を嫌がってるか食べてみなよ」
文句を言いながらも、彼らは口をつけた。
人間の料理人は、黒炎椒の熱が喉ではなく胸の奥へ長く残ることに驚いた。魔族の料理人は、酸味のある木の実が脂の膜を切り、次の一口を軽くすることを知った。獣人の料理人は、汗をかいた兵士には強い塩気が必要だと認めた。
「誰の味が正しいかじゃない」
ニアが尻尾を打ちつける。
「誰が、どこで、どんな体で食べるかでしょ。店長がいつも言ってるくせに、今日は全員忘れてる」
俺も含まれていた。
俺は三つの失敗した鍋を見た。
完成味を一つへまとめようとするから、互いの長所を潰す。
「未完成のスープを作る」
全員がこちらを向く。
「大鍋では肉、骨、黒麦、魔根菜から旨味だけを取る。塩も強い香辛料も入れない。客へ渡す直前、小鍋で三種類に仕上げる」
人間用は、炒った塩と獣脂。鼻へ先に届く焦げ香が、疲れた兵士の食欲を起こす。
獣人用は、潰した青い香草と酸味のある木の実。ひと匙飲むと舌の脂が洗われ、鼻へ森の清涼感が抜ける。
魔族用は、魔根菜の蜜と黒炎椒を溶いた油。甘みの後から胸の内側へ穏やかな熱が広がる。
「基礎は共有する。完成は各自に任せる。互いの味を勝手に直すな。ただし、客へ出す前に別種族の一人にも味見してもらう」
魔族の料理人が人間の男へ黒炎椒の量を尋ねた。
人間の男は迷った末、「さっきの半分なら、寒い夜に欲しい」と答えた。
獣人の女性は人間用の脂へ香草の茎を一本だけ落とし、「匂いを消すんじゃなく、後味だけ軽くする」と説明した。
衝突は消えなかった。
だが、怒鳴る理由が相手への嫌悪から、目の前の一杯を良くするための議論へ変わった。
フィーナが三つの小鍋へ温度札を差し込む。
「仕上げ油が違えば、安全に保てる温度も変わります。人間用は高温、獣人用は香草を入れる直前に少し下げる。魔族用は蜜を焦がさないこと」
「よし。三チームで手順を固定する」
共通の大鍋から、三色の湯気が立ち始めた。
一つへ混ぜて同じにするのではない。同じ厨房を使いながら、違う客へ違う完成を渡す。
『三境のとろ火シチュー』。
ようやく献立が形になった時、平原の入口から馬蹄の音が近づいた。
「リシア・ヴァレン殿! 王国軍より即時帰還の命令である!」
重装騎士の声に、三つの鍋を囲んでいた料理人たちの手が止まった。




