第27話 あの最後尾の客が、魔王だった
黒衣の女は、すでに列の最後尾にいた。
俺たちが魔王領側の街道で試験販売を始めると、角のある坑夫や鱗肌の荷運び人に交じり、いつもの深いフードを被って並んでいたのだ。護衛は離れた場所で立っている。
「姉ちゃん、その服で暑くないのか」
前に並ぶ小さな角の少年が尋ねた。
「少々な。だが、身軽に歩くには都合がいい」
「初めてなら赤根菜の煮込みにしろよ。甘いけど腹にたまるぞ」
「では、先達の勧めに従おう」
女は楽しそうに庶民の会話へ交じった。少年の母親は、今月になって保存肉の値段が二度上がったことを愚痴り、坑夫は北の村に食料が届かないとこぼす。女は口を挟まず、一つずつ聞いていた。
隣のリシアが小声で言った。
「やはり、あの女だ」
「知っていたのか」
「村で二度目に会った時からな。魔力を隠していても、剣を向けた相手の気配は忘れない」
「なら、なぜ黙ってた」
「正体を伏せて列に並ぶ客を、私の都合で暴く理由がない。お前ならそう言うだろう」
その通りだった。
俺たちが薄々気づいていることと、本人が公の場で名乗ることは別だ。後者には、国家の責任が伴う。
やがて女の順番が来た。
「赤根菜と骨付き肉の琥珀煮込みを一つ」
「銅貨三枚だ」
女は通常の交易銅貨を三枚置いた。俺が木椀を渡すと、彼女はまず湯気を吸い込んだ。
長く煮た肉は、匙を入れただけで骨からほどける。赤根菜の丸い甘みを、山菜のかすかな苦みが締めていた。女は急がずに食べ、最後の一口を飲み込んでから空の器を返した。
「列に並んだ甲斐があった」
その言葉を合図に、護衛たちが前へ出た。
女はフードを外す。隠蔽魔法が解け、艶のある黒い角と赤紫の瞳が露わになった。
周囲の客が息を呑み、次々と膝をつく。
「立て」
女は彼らへ命じ、それから俺を見た。
「改めて名乗ろう。私がノクティス魔王領を統べる、アシェリア・ノクティスだ」
驚きより先に、場の意味が変わった。
正体不明の客が店を試しているのではない。敵国の元首が、民衆と両国の見張りがいる前で、自国の名を背負って取引を申し出たのだ。
護衛が俺へ跪くよう迫ったが、アシェリアが手で止めた。
「この店では、客が店主を脅すと飯が出なくなる。三度並んで、ようやく学んだ」
列から笑いが漏れた。張り詰めていた魔族たちの肩が少し下がる。
「それで、魔王が一杯の煮込みだけを買いに来たわけじゃないだろう」
「無論だ」
アシェリアの目が、客から統治者のものへ変わる。
「我が領地には魔物素材、根菜、魔石がある。だが加工設備と長距離輸送が足りない。金環商会から高値で粗悪な保存食を買い、前線だけでなく民まで飢えている」
彼女は魔王領全域での独占営業権、食材、魔石を提示し、代わりに加工技術と小型屋台の運用法を求めた。
「独占営業権はいらない」
俺が答えると、護衛たちがざわめいた。
「俺があんたの軍属になれば、人間の客には敵国の店に見える。技術をあんた一人に渡せば、今度は魔王が客の選択肢を握ることになる」
「私をガレスと同じだと言うか」
「独占すればな」
一瞬だけ、空気が冷えた。
アシェリアは怒らず、続きを促した。
「やるなら共同事業だ。あんたは投資家と大口の取引先。俺たちは加工、衛生、屋台規格を提供する。現地の料理人を雇い、利益と責任を分ける。価格は公開する」
「王でも魔王でも、店を丸ごとは買えぬということか」
「客が逃げられなくなる契約は結ばない」
アシェリアは声を立てて笑い、右手を差し出した。
「いいだろう。その条件で、国家として契約する」
俺は手を握り返した。
周囲の民が見ている。これは秘密の取引ではない。
「相変わらず面白い男だ。剣聖、王国が持て余すなら、伴侶として我が城へ迎えてもよいぞ」
「彼は誰の所有物でもない」
リシアの返答は平静だったが、俺の前へ半歩出ていた。
アシェリアはそれ以上からかわず、表情を引き締めた。
「最初の依頼がある。四十八時間後、人間領と魔王領の停戦交渉が開かれる」
集まるのは兵士、使節、避難民、労働者。合わせて三千人。全員が飢え、互いを疑っている。
「一か所へ集めれば、些細な噂で暴動になる。だから、安全で公平な食事が要る」
アシェリアは、さきほどまで自分が立っていた列を振り返った。
「三千人全員へ、同じ規則で食事を届けてくれ」
一台の店に提示された、現実離れした注文数だった。




