第20話 三つの拠点が、一つの商会を困らせる
「今日を限りに、金環商会からこの村への穀物と塩の販売が、一斉に停止されたんだ」
長老の悲痛な声が、広場に重く響いた。
村人たちの顔から、先ほどまでの希望に満ちた表情がさっと消え失せる。無理もない。彼らにとって、大手商会からの流通が止まることは、文字通り「死」を意味するからだ。
「昨日の輸送隊襲撃を受け、この一帯は危険地帯に指定されたそうだ。護衛の費用が見合わないという理由で……」
「そんな! じゃあ、パン屋から生地を仕入れることもできなくなるのか?」
「塩がなきゃ、肉の保存もできないぞ……!」
広場がパニックに包まれかける。
俺は小さく息を吐き、腕を組んだ。
金環商会・灰風支部長のガレスという男。まだ直接顔を合わせたことはないが、やり口ははっきりと理解できた。
ニアが安全なルートを開拓したことで、商会の「魔物を使った輸送独占」が崩れ始めた。だから今度は、上位の流通網を止めるという強権的な「兵糧攻め」に出て、提携屋台ごと俺の事業を潰しにかかったのだ。
逃げられない市場を作り、飢えを管理して利益を得る。それが奴の商売の思想だ。
「店長……どうするの? このままじゃ、村の皆も、屋台を始めたあいつも……」
ニアが不安そうに俺の袖を引く。
「慌てるな」
俺は広場の村人たちに向けて、はっきりとした声で告げた。
「商会が小麦や塩を売らないというなら、買わずに済む商品を売ればいいだけだ。俺たちはベルクの町や遠方の穀物に依存するのをやめる」
俺は黒板をひっくり返し、メニューを書き換えた。
「ニア。あんたは若者たちを連れて森に戻り、あの『赤根菜』を採れるだけ採ってきてくれ。フィーナは冷蔵庫の温度を調整して、大量の根菜を保存するスペースを確保しろ。塩を使わずに日持ちさせる方法に切り替える。ボルグ、規格屋台の追加はあと何台出せる?」
「荷車の車台さえあれば、明日までにあと五台は組めるぜ。鉄板の予備は打ってあるからな」
ボルグが工具を鳴らして答える。
「よし。近隣の集落にも声をかけて人を集めろ。明日から、うちの屋台網の真価を見せてやる」
翌日。
俺たちは、小麦粉を使った『焼きパイ』の販売を一時的に停止した。
代わりに提供するのは、森で大量に採れる赤根菜を主食に据えた新メニューだ。
赤根菜をよく洗い、フィーナの冷却魔法と俺の加熱を交互に繰り返して細胞壁を破壊し、短時間で柔らかいペースト状にする。そこに、灰角兎の肉を炭火でカリッと焼いた『香草脂串』の肉を外し、濃厚な脂ごとペーストの上に乗せた。
「『灰角兎と赤根菜の焼きペースト丼』だ。パンがなくても、根菜の炭水化物で十分に腹に溜まる」
完成した新メニューを、俺は六台に増えた規格屋台の店主たち――村の若者や、近隣の集落から集まった働き手たちに教え込んだ。
仕込みの負担を減らすため、俺の《ノマド》が「セントラルキッチン」として赤根菜のペーストを大量に作り、各屋台に分配する。屋台の店主たちは、現場で串を焼き、ペーストに乗せて客に渡すだけで済む。
「いいか、火加減と衛生基準は絶対に守れ。客を待たせるなよ」
「おう! 任せとけ店長!」
六台の屋台は、この村の広場だけでなく、工事現場の近くや、隣の集落といった「三つの拠点」に分散して配置された。
昼時になると、それぞれの拠点で炭火の煙が上がり、獣脂の、腹を鳴らす焦げ香が立ち込める。
「おおっ、今日はパイじゃなくて丼ぶりか!」
「甘みのある根菜に、この肉のしょっぱい脂が最高に合うぜ! 麦がなくても全然いける!」
客たちは、小麦が使われていないことなど気にも留めず、熱々の丼を夢中で掻き込んだ。
夕暮れには、三つの拠点から空の椀と集計札が戻ってきた。広場を埋めた椀は六百。明日の分を予約する村人の列は、屋台を半周している。
フィーナは黒板へ「六百」とだけ書き、しばらく白墨を置かなかった。
「一台では、ここまで届きませんでした」
村の飢えが一日で消えたわけではない。だが、金環商会の穀物を待つ以外の食事が生まれ、材料を採る者、仕込む者、売る者へ代金が回り始めた。兵糧攻めは、少なくとも絶対の命令ではなくなった。
「一台の店で抱え込まず、他人に利益と責任を渡したからできたことだ。商会がどれだけ流通を絞ろうと、現場で動ける屋台の数があれば負けやしない」
俺が黒板の数字を見上げて満足していると、ふと、広場の入り口からコツ、コツという硬い足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……見事だな」
冷たく、しかしどこか楽しげな声。
振り返ると、そこに立っていたのは、かつてベルクの広場で『一台でどこまで増やせるか』と言い残して去った、あの黒衣の女だった。
今日も深いフードを被り、二人の護衛を従えている。
「あの時の客か。今日は随分と遠くまで来たな」
俺が言うと、女は周囲で店仕舞いをしている規格屋台の数々を見回し、赤い唇を歪めて笑った。
「一台の竈で限界が来るなら、自分の技術と印を他人に分け与え、竈そのものを増やすか。商会の嫌がらせなど意に介さず、見捨てられた食材で市場を回すとは……実に痛快だ」
女は《ノマド》の販売口に歩み寄り、カウンターに例の黒い銅貨を数枚置いた。
「今日の飯は残っているか?」
「悪いが、完売だ。売り切れるのが商売だからな」
俺が断ると、女は少しだけ残念そうに目を細めたが、すぐに興味深そうな視線を俺に向けてきた。
「ならば、一つ聞かせてくれ。お前は、客がいればどこへでも行くと言ったな」
「ああ。条件が揃えばな」
「もし……もしだ。人間の国ではなく、人間の敵である『魔族の領地』に飢えた客が万単位でいたとしたら。貴様は同じようにそこへ行き、魔族にこの飯を売り、彼らに技術を教えるか?」
その問いに、俺の後ろで片付けをしていたリシアがピクリと反応した。
だが、俺は表情を変えずに女の赤紫の瞳を真っ直ぐに見返した。
「客に人間も魔族もない。腹を空かせているならどこへでも行く。それに、種族で値段は変えない。それがうちの規則だからな」
俺の即答に、女は一瞬だけ目を丸くし、やがて声を上げて笑った。
「ふふっ……あはははは! いいだろう、その言葉、忘れるなよ」
女は護衛を連れ、夜闇に紛れるようにして村から去っていった。
「店主。あの女が何者か、本当に気づいていないのか」
リシアが低い声で尋ねた。
「ベルクで会った時から、魔力の隠し方が尋常ではなかった。おそらく、ノクティスを統べる者だ」
「なら、本人が名乗るまでは黒衣の客だ。正体だけで値段も順番も変えない」
リシアは呆れたように息を吐いたが、口元にはわずかな笑みがあった。
いずれ大きな商いに関わってくる客であることだけは、これで疑いようがない。
事業が軌道に乗り、商会の嫌がらせも跳ね返した。
提携屋台の仕組みは完成し、これならどんな妨害が来ても安定して利益を出せる。俺がそう確信した翌朝のことだった。
「て、店長! 大変だ!」
ボルグが血相を変えて《ノマド》に駆け込んできた。
「どうした、屋台の機関にトラブルか?」
「違う! 街道だ! 人間領と魔王領を繋ぐ一番の要所、『灰風山脈』の主要街道が塞がれちまった!」
俺とリシアは顔を見合わせた。
「土砂崩れか何かか?」
「んなもんじゃねえ! 山脈の主である古竜が、怒り狂って街道の中央に陣取って、一切の商隊の通行を禁じてやがるんだ! 討伐隊も手が出せねえらしい!」
魔物による襲撃でも、商会による経済封鎖でもない。
規格外の圧倒的な暴力による、物理的な流通の完全停止。新たな問題が、俺たちの前に巨大な壁となって立ち塞がった。




