第19話 獣人の鼻へ、通行許可を求めろ
「ちょうどいい。お前の鼻でこの先の安全を確認しろ。先触れの仕事をくれてやる」
豪華な馬車の御者台から見下ろす商隊主バランの言葉は、提案ではなく、所有物に対する絶対的な命令だった。
ニアの体がビクッと跳ね、山猫の耳がぺたりと頭に張り付く。
彼女はかつて、この男の商隊で一番過酷で命の危険が伴う「先触れ」――魔物の臭いや罠がないかを先行して探る役割を、タダ同然の賃金でやらされていたのだ。使い捨ての道具として扱われていた記憶が、彼女を震えさせていた。
「おい、聞いてるのか! さっさと走って道の安全を確かめてこい!」
バランが苛立たしげに鞭を鳴らす。
「貴様……」
リシアが低い声で唸り、大剣の柄を握りしめて前へ出ようとした。王国最強の剣聖にとって、目の前の傲慢な商人を黙らせることなど赤子の手を捻るよりもたやすい。
だが、俺は片手でリシアの肩を制止した。
ここでリシアが武力でバランを追い払ったり、俺が前に出て代わりに口八丁で追い返したとしても、根本的な解決にはならない。ニアの心の中にある「人間に虐げられる獣人」という劣等感と恐怖は、彼女自身が乗り越えなければ一生消えないままだ。
俺は震えて《ノマド》の車体の影に隠れようとしているニアの背中を、手のひらでドンと強く叩いた。
「ひゃっ!?」
「怯えるな、ニア」
俺は驚いて振り向いた彼女の目を、真っ直ぐに見据えた。
「今のあんたは、誰かの下働きじゃない。《ノマド》の立派な『調達・出店調査担当』だ」
「あたしが……担当……」
「ああ。あんたはこの数日、自分の鼻と足で、魔物のいない安全なルートや水源を徹底的に調査して回った。その情報の価値を一番よく分かっているのは、あんた自身のはずだ。自分の仕事に自分で値段をつけて、あの客と交渉しろ」
俺の言葉に、ニアの琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
同情ではなく、ビジネスの担当者としての明確な権限と責任の付与。
店主である俺が、彼女を一人の「商売人」として対等に扱っている証だった。
ニアは小さく息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
震えていた膝に力がこもる。ペタリと伏せられていた耳が立ち上がり、股の間に丸まっていた尻尾が、バサッと音を立てて大きく膨らんだ。
彼女は俺の横を通り抜け、バランの馬車の前に堂々と立ち塞がった。
「なんだ? さっさと行けと言っているだろうが」
バランが不機嫌そうに見下ろす。
「お断りだよ。あたしはもう、あんたの商隊の先触れじゃないからね」
ニアははっきりとした声で宣言した。
「でも、あたしが調査した『この先の安全なルート情報』なら、売ってあげてもいいよ」
「……はぁ? 獣人のガキが、商人に物を売るだと?」
バランが馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ふざけるな。お前の鼻など、いくらでも代わりがいるわ。おい、こいつを退かせろ!」
バランが顎をしゃくると、馬車の周囲を固めていた数人の重武装の護衛たちが、剣に手をかけて進み出てきた。
だが。
「……一歩でもその足を進めてみろ。膝から下を綺麗に切り飛ばしてやる」
リシアが抜剣はせず、ただ冷徹な殺気のみを護衛たちに叩きつけた。
さらに、後ろに控えていたボルグが巨大なレンチを肩に担いでニヤリと笑う。剣聖と筋骨隆々のドワーフが放つ威圧感に、護衛たちは足を止め、それ以上動けなくなった。
「ち、チィッ……!」
武力で従わせることを諦めたバランは、忌々しそうに舌打ちをした。
「……分かった! 銀貨一枚だ! それでその安全なルートとやらを教えろ!」
「駄目。それじゃ足りないよ」
ニアはピンと指を立てて、首を横に振った。
「なんだと!? 銀貨一枚ならお前のような獣人、一ヶ月は雇える額だぞ!」
「情報料は銀貨一枚でいい。でも、あんたには『未払いのツケ』があるでしょ」
ニアは一歩前へ踏み出し、かつての雇い主を真っ向から見据えた。
「あたしに先触れをさせて払わなかった『未払い賃金』。魔物の群れに突っ込ませた『危険手当』。それから、岩トカゲに噛まれた時の『治療費の未払い分』。全部合わせて、銀貨三十枚。……きっちり清算してもらうよ」
「ぎ、銀貨三十枚だと!? ぼったくりもいい加減にしろ!」
バランが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「払えないなら、元の道を戻りなよ」
ニアは全く怯まずに肩をすくめた。
「でも、この先の街道には魔物誘引香に引き寄せられた群れがまだうろついてるかもしれないよ? あたしの情報なしで進んで、積荷の穀物が全部パーになっても知らないからね」
バランの顔色が変わった。
彼は独立商人だ。魔物に襲われて積荷を失うこと、あるいは遠回りをして納期に遅れることは、商隊にとって致命的な損害になる。銀貨三十枚など、積荷の価値に比べれば安いものだ。
安全な道を通って確実に利益を出したいなら、ニアの提示した条件を呑むしかなかった。
「……くそっ! 払えばいいんだろう、払えば!」
バランは怒りに顔を歪めながら、懐から重たい革袋を取り出し、ニアの足元に投げ捨てた。
ニアはそれを拾い上げ、中身の銀貨の数を正確に数え終えると、ふっと満足そうに笑った。
彼女は自分の懐から一枚の羊皮紙を取り出し、そこに備え付けの炭で印を描き込んでバランに手渡した。
「これが、あたしが保証する安全な迂回ルートの地図。調査印付きだよ」
「忌々しい獣人め……二度と私の前に姿を現すな!」
羊皮紙をひったくるように受け取ったバランは、護衛たちに怒鳴り散らしながら、土煙を上げて逃げるように街道を進んでいった。
その背中を見送りながら、ニアは手元の革袋をチャリンと鳴らした。
「やった……! 店長、見て! あたし、ちゃんと自分で交渉できたよ!」
彼女の顔には、過去の呪縛を力ずくの復讐ではなく、「対等な商取引の契約」として清算した誇りが満ち溢れていた。
「ああ、いい商売だった」
俺は彼女の頭をポンと撫でた。これで彼女はもう、誰の裏口にも回らない立派な商人だ。
魔物誘引香の証拠品と、ニアの未払い賃金を回収し、俺たちは意気揚々と村の広場へ戻ってきた。
だが、広場に到着した俺たちを待っていたのは、歓迎の声ではなかった。
「……どうしたんだ、これ」
ニアが耳を伏せて呟いた。
村の広場は、重苦しい沈黙と絶望に包まれていた。昨日、自分たちの手で稼いだ銅貨で焼きパイを食べ、活気に満ちていた村人たちの姿はない。
俺たちの馬車に気づいた村の長老が、力なく歩み寄ってきた。
「店主殿……終わった。この村は、もう冬を越せない」
「何があった?」
俺が尋ねると、長老はしわがれた声で、ベルクの城塞都市から届いたばかりの木札を差し出した。
「金環商会から、通達が来た……。昨日の輸送隊が魔物に襲われた件を受けて、この地域は危険地帯に指定されたそうだ」
長老は崩れ落ちるように膝をついた。
「今日を限りに、金環商会からこの村への穀物と塩の販売が、一斉に停止されたんだ」




