第13話 三百食を売って、火事も病人も出すな
試験営業最終日。
指定された城外の広場には、開店前から三百人近い客が列を作っていた。
「制限時間内に三百食を売り切り、火事も病人も、客同士の混乱も一切出さないこと」
それが、竈印組合の検査官イルダが提示した、正式な営業許可を得るための公開試験の条件だ。
「生地の発酵状態、問題ありません。冷蔵庫の温度も二度で安定しています」
フィーナが手元の羊皮紙に素早く記録を書き込む。
パン屋組合の親方から仕入れた大量の黒麦生地と、下処理を終えた灰角兎の肉が、専用の保冷箱にぎっしりと詰まっていた。
「よし、開店だ」
俺が販売口の跳ね上げドアを開けると、待っていた労働者たちから歓声が上がった。
鉄板へ肉を並べるたび、乾いた焼け音が幾重にも重なる。脂の焦げ香へ刻んだ香草の青い匂いが混じり、列の後ろまで流れていった。
「次の方、銅貨三枚だ。熱いから気をつけて持ってくれ」
俺の手返しと、フィーナの的確な食材渡し、ボルグの魔石機関の火力調整。四日間の試験営業で培われた連携は、三百食というかつてない注文数を前にしても全く揺るがなかった。
受け取った客が歩きながら頬張るたび、炙り肉と玉葱の香りが列の先へ運ばれていく。
「うめえっ! 今日は一段と味が染みてるぜ!」
頬張った客の顔に、明確な活力と喜びが浮かぶ。列は順調に消化され、販売数はあっという間に二百食を超えた。
だが、商売における最大の危機は、常に順調な時にこそやってくる。
「……店長、ストップ!」
出店調査と客列の整理にあたっていたニアが、不意に鼻をヒクつかせて声を張り上げた。
「肉の脂じゃない。ランプ用の油の臭いがする!」
ニアの叫びとほぼ同時だった。
列の中ほどに並んでいた目つきの悪い数人の男たちが、唐突に大声で口論を始めたのだ。
「痛えな、どこ歩いてんだ!」
「そっちがぶつかってきたんだろうが!」
わざとらしい怒声と共に、男たちは揉み合うふりをしながら列を外れ、《ノマド》の車体に向かって突進してきた。そして、外套の下に隠し持っていた大きな壺を地面に叩きつける。
パシャァッ!
嫌な臭いを放つ黒い油が、車体の側面から広場の地面にかけて大量にぶちまけられた。
「移動竈は火事の元だ! 燃えちまえ!」
男の一人が、懐から火のついた松明を取り出し、油だまりに向けて投げ込もうとした。
「火だ!」
「逃げろ!」
列を作っていた客たちがパニックを起こし、悲鳴を上げて逃げ惑い始める。
金環商会の手下どもだ。俺の店を危険物として排除するため、公開試験の場で自ら火災と暴動を演出しようという腹だろう。
「この卑劣漢どもが……!」
リシアが激昂し、大剣を抜き放って男たちに斬りかかろうとした。
「リシア、追うな!!」
俺は鉄板から手を離し、腹の底から叫んだ。
「犯人はどうでもいい! 客を遠ざけて壁になれ! パニックを抑えろ!」
俺の指示に、リシアはハッとして踏み込んだ足を引き戻した。
「……承知した!」
彼女は犯人への怒りを呑み込み、逃げ惑う客と油だまりの間に割って入った。大剣を横に構え、王国最強の剣聖としての圧倒的な覇気で広場の混乱を強制的に押し留める。
「静まれ! 走って転んだ者は私が踏み潰すぞ! 慌てず順番に下がれ!」
その凛烈たる声に、労働者たちがピタリと動きを止めた。
「こっちだよ! 押さないで、あたしの尻尾についてきて!」
ニアが身軽な動きで群衆の先頭に立ち、安全な方向への避難導線を確保する。
客の安全は確保した。次は火災の阻止だ。
「ボルグ!」
「わかってるぜ! 防火板、下ろす!」
ボルグが車内のレバーを引くと、《ノマド》の側面と販売口の下部に仕込まれていた分厚い鉄板がガシャンと展開し、車体と地面を遮る物理的な盾となった。
「フィーナ!」
「はいっ!」
フィーナはすでに動いていた。彼女は俺に向かって、ピンと背筋を伸ばして宣言する。
「衛生管理責任者の権限において、全調理の停止と熱源の凍結を命じます!」
彼女が両手を鉄板と地面に向けると、周囲の空気が一気に凍てついた。
強力な冷却魔法が、松明の熱ごと周囲の温度を急激に奪い去る。投げ込まれた火種は油に引火する前にジュッと情けない音を立てて消滅し、ぶちまけられた油もドロドロに冷え固まって気化が止まった。
さらに、足元ではスライムのピカが這い回り、冷え固まった油の塊をチリチリと音を立てて次々に消化吸収していく。引火物は急速に姿を消していった。
「な、なんだと……?」
火が上がらず、パニックも起きない光景に、松明を投げた男が呆然と立ち尽くす。
「逃げるぞ!」
目論見が外れた男たちは、慌てて背を向けて広場の外へと走り去った。追う必要はない。都市の警備隊がすぐに捕縛するだろう。
広場に、再び静寂が戻った。
俺は車内から油が処理されたことを確認し、ゆっくりと息を吐いた。
「フィーナ、停止命令の解除を」
「……はい。安全を確認しました。熱源の凍結を解除します」
フィーナの魔法が解け、ボルグが防火板を元に戻す。
俺は再びバーナーに火を入れ、何事もなかったかのように肉を鉄板に乗せた。
「お待たせした。営業を再開する。列を乱さず並び直してくれ」
俺が声をかけると、呆気に取られていた労働者たちが、わっと歓声を上げて再び《ノマド》の前に列を作り始めた。
「すげえ……剣聖様が俺たちを守ってくれたぞ」
「店長も他の奴らも、全く慌ててなかったな」
「あんな安全な店、他にはねえよ!」
危機を乗り越えたことで、客の信頼は確固たるものになっていた。
残りの百食は、飛ぶような勢いで売れていった。
三百人目の客へ包みを渡すと、広場に残っていた列が消えた。
フィーナが記録板へ「三百」と書き、その下へ火災ゼロ、病人ゼロと追記する。油をまいた男が残した混乱も、客へ被害を出さずに収まっていた。
広場の端で腕を組んで一部始終を見ていた竈印組合のイルダが、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。
彼女の厳格な顔には、微かに感嘆の色が浮かんでいた。
「見事な危機管理だった、店主」
イルダは懐から、竈印組合の正式な紋章が刻まれた羊皮紙を取り出した。
「移動営業は危険だという古い偏見を、君たちの連携が覆して見せた。約束通り、これを交付しよう」
手渡された羊皮紙には、『移動竈営業許可・第一号』と記されていた。
「異世界で最初の許可証だ。ありがたく受け取っておくよ」
俺が羊皮紙を受け取ると、リシアやニア、フィーナが顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「許可が下りたなら、遠慮はいらねえな!」
ボルグが工具箱を開け、車体に新たなパーツを次々と組み込み始めた。
彼はこの五日間の試験営業の裏で、着々と正式な改装準備を進めていたのだ。
フィーナの冷却魔法の効率を上げる専用の魔導冷却庫。綺麗な水を使える浄水器。匂いと煙を上空へ逃がす排煙筒。そして、四人が同時に作業しても手狭にならない展開式のカウンター。
仮設だった《ノマド》は、異世界の技術と現代のロジックを組み合わせた『正式魔導キッチンカー』へとその姿を変えた。
これで、都市でも街道でも、胸を張って商売ができる。
俺たちが新たな店の完成に達成感を味わっていた、その時だった。
「だ、誰か……助けてくれ……!」
広場の入り口から、泥だらけになった粗末な服の男が転がり込んできた。
ニアが慌てて駆け寄り、男を抱き起こす。
「どうしたの!? 酷い怪我……!」
「村の……灰風街道沿いの村の、子どもたちが……倒れたんだ……! 食べ物がなくて……」
男は息も絶え絶えにそう告げると、そのまま気を失ってしまった。
許可証の喜びに浸る時間は終わった。俺は即座に黒板を裏返し、荷台の積載量を確認した。
客が待っているなら、店ごとそこへ行く。それが移動販売だ。




