第11話 この店には、裏口がない
試験営業四日目の夕方。
俺はその日に出会った獣人の少女、ニアに案内され、城壁の外れにある夕市へ食材の買い出しに来ていた。
「この時間なら、夜明け前に森で獲れたばかりの香草や野菜が安く手に入るんだ。労働者向けの飯なら、原価は少しでも抑えたいでしょ?」
ニアが尻尾を揺らしながら前を歩く。彼女の土地勘と相場観は確かだった。俺が前日までに仕入れていた価格の三割引きで、質の良い野菜を手に入れることができた。
必要な食材を麻袋に詰め終わったところで、ニアがふと足を止めた。
視線の先には、城壁のすぐ外に店を構える中規模の固定食堂があった。裏手からは、肉を煮込むような重たい匂いが漂ってきている。
「店長、ちょっと待ってて。あたしも遅い昼飯、買ってきちゃうから」
ニアはそう言うと、食堂の正面入口ではなく、薄暗い裏路地へと回っていった。
俺は不思議に思い、麻袋を提げたまま彼女の背中を追った。
裏口の勝手口で、ニアは腰を低くして扉の向こうに声をかけていた。
「おやじさん。いつもの、硬くなったパンの端っこと、鍋の底の余り汁をくれないかな。銅貨一枚で」
すると、中から恰幅の良い食堂の店主が顔を出し、シッシッと犬でも追い払うように手を振った。
「あっちへ行け! 獣人のガキに売る飯はねえよ。最近はあの奇妙な鉄の馬車のせいで、こっちも売上が厳しいんだ。残飯だってタダじゃねえんだぞ」
「銅貨一枚、払うってば。お願い――」
「うるせえ! 表の客が獣人の臭いを嫌がるんだよ。二度と裏口をうろつくな!」
店主は無情にも扉をピシャリと閉めた。
ニアはわずかに肩を落とし、握りしめていた銅貨を懐にしまった。慣れた仕草だった。彼女にとって、正面の扉から店に入れないことや、裏口で残飯を乞うことは、日常の風景なのだろう。
「……何をしてるんだ」
俺が背後から声をかけると、ニアはびくっと耳を跳ねさせた。
「て、店長。見てたの? いや、その、いつもは買えるんだけど、今日はたまたま機嫌が悪かったみたいで……」
「そうじゃない。なぜ裏口なんかに回る必要がある」
俺の問いに、ニアは自嘲するように笑った。
「なんでって……あたしたち獣人は、人間のお店じゃ表の入口を使えないのが普通だからだよ。臭いがするから、客の迷惑になるんだって」
俺はため息をついた。
異世界における種族差別の実態。だが、俺は政治家でも活動家でもない。社会の仕組みを変えるつもりはないが、俺の商売の領域にまでそのくだらない常識を持ち込まれるのは御免だ。
「帰るぞ、ニア。そんな店で硬いパンを買う必要はない」
「えっ、でもあたし、腹ペコで……」
「俺の店で食え。《ノマド》には、客の迷惑になる裏口なんてものは存在しない」
広場に戻り、《ノマド》の厨房に入った俺は、すぐにバーナーの火を入れた。
「さあ、あんたが最初の客だ。表の列に並べ」
俺が販売口から声をかけると、ニアは信じられないものを見る目で俺と列の先頭のスペースを交互に見比べた。
「ほ、本当に並んでいいの? 人間と同じ場所で?」
「この店は『武器を収めて並ぶ』ことと『一人一個』しか規則はない。獣人だから裏に回れなんてルールは、一度も設定してないぞ」
ニアは恐る恐る、しかし嬉しそうに列の先頭にあたる場所に立った。
「じゃあ、注文させてもらうよ。昨日のパサパサのパイ、あたしなら直せるって言ったよね」
「ああ。お手並み拝見といこう」
俺たちは開店前の時間を使って、昨日の売れ残り商品『黒麦チーズと燻製肉の焼きパイ』の改良に取り掛かった。
「まず、生地が厚すぎる。労働者はゆっくり噛んでる時間がないんだ。もっと薄く、小さくして」
ニアの指摘に従い、俺はパン屋から仕入れた黒麦の生地を、片手で握り込めるサイズまで小さく、薄く伸ばした。
「次は中身。燻製肉の塩気を薄めるために、酸っぱい味が欲しい。さっき市場で買った『酢漬けの赤根菜』を細かく刻んで入れて」
「酸味か。確かに、塩気と脂を中和して胃もたれを防げるな」
「それから、口の中の水分を持っていかれないように、肉を煮た時のスープを少しだけとろみをつけて一緒に包んでよ」
指示通りに具材を構成し、鉄板の上の急造オーブンで焼き上げる。
香ばしい匂いと共に焼き上がった改良版のパイを、俺は耐油紙に包んでニアに渡した。
「代金は、さっき握ってた銅貨一枚でいい。試食品の特別価格だ」
ニアは銅貨をカウンターに置き、熱々のパイを両手で包み込むように持った。人間と同じ列に並び、正面から料理を買った。その事実を噛み締めるように、彼女は大きく口を開けた。
サクッ。
薄くした黒麦の生地が、小気味良い音を立てて砕ける。
その瞬間、熱で溶けたチーズと燻製肉の強烈な旨味が広がるが、昨日までの重さはない。細かく刻まれた酢漬けの赤根菜が、爽やかな酸味で脂のくどさを綺麗に洗い流していく。さらに、とろみをつけたスープが生地のパサつきを補い、飲み込みやすくしていた。
「……うんっ、これ! これだよ店長!」
ニアは目を輝かせ、あっという間にパイを平らげた。昨日、三口目で手が止まったのとは大違いだ。
「これだ。これなら労働者も、水筒の水をガブ飲みせずに仕事に戻れる」
俺は満足して頷いた。味の足し算ではなく、客の状況に合わせた引き算と調整。現場を知る者の意見は、どんな高級な調味料よりも価値がある。
昼時になり、労働者たちが続々と広場に集まってきた。
「おっ、今日はパイが少し小さくなったな?」
「値段は銅貨三枚で変わらないのか。まあいい、一つくれ」
俺は改良版の『黒麦チーズと燻製肉の焼きパイ』を次々と売り捌いていく。
客の反応は、昨日とは劇的に違っていた。
パイにかぶりついた鉱夫たちは、「おっ?」と目を丸くし、次々に二口目、三口目へと進んでいく。水筒を取り出す者はいない。爽やかな酸味と適度な水分が、彼らの渇いた喉を潤しながら塩分を補給していく。
「これ、昨日よりずっと食いやすいな! 胃にズンとこねえ!」
「ああ、これならすぐにツルハシを振れそうだ。午後も頑張れるぜ!」
彼らは満足げな顔でパイを完食し、足取りも軽く仕事場へと戻っていった。
結果は明白だった。
予定していた百五十食は、昨日より早く売り切れた。十二食の売れ残りから始まった試験営業四日目は、ニアの提案によって黒字へ戻った。
「お疲れ様、店長! やったね!」
ニアが尻尾をピンと立てて誇らしげに笑う。
俺は車内の片付けをしながら、ニアに向き直った。
「ニア。あんたの鼻と、客の需要を正確に言葉にする能力は本物だ。それに市場の相場も熟知している」
「えへへ、まあね。ずっと下働きでこき使われてきたから、そういうのだけは得意なんだ」
「うちの店で働かないか?」
俺の提案に、ニアは耳をピクッと動かした。
「俺は調理はできるが、この世界の食材の相場や、安全な仕入れ先には疎い。あんたには、この店の『調達・試食・出店調査担当』を任せたい。給料も出すし、まかないの飯も休憩もある。そして、あんたは裏口を通る必要はない。この《ノマド》の正式な従業員だ」
ニアは琥珀色の瞳を潤ませ、何度も瞬きをした。
「あたしが、表から堂々と働ける……?」
「ああ。うちには表のカウンターしかないからな」
「……やる! あたし、店長の下で働くよ!」
ニアは満面の笑みで頷いた。
こうして、鋭い嗅覚と現場の目線を持つ獣人の少女が、俺の事業の新たな推進力として加わった。
試験営業の五日間を無事に終え、俺たちは竈印組合のイルダに正式な営業許可の申請を行う準備を始めていた。火災も、食中毒も、客同士のトラブルも一件も起こさなかった。俺たちの勝ちだ。
だが、広場の片付けを終えようとした、その時だった。
「う、うあああっ……! 腹が……腹が痛えぇぇっ!」
突如、広場の反対側から悲鳴のようなうめき声が上がった。
振り返ると、数人の労働者が地面に蹲り、腹を抱えてのたうち回っている。彼らの顔は青ざめ、激しく嘔吐している者もいた。
「なんだ!? どうした!」
周囲の客たちがパニックになり、後ずさる。
倒れた労働者たちの足元に転がっていたのは、うちの店の商品ではない。
それは、《ノマド》の繁盛ぶりを見て、昨日あたりから広場の隅で勝手に商売を始めていた『粗悪な模倣露店』の肉串だった。
「おい、食中毒だ! あの移動露店の肉を食った奴らが倒れたぞ!」
誰かが叫んだ。
俺は舌打ちをした。
俺の店で起きたことではない。だが、移動営業を目の敵にしている金環商会が、この絶好の口実を見逃すはずがない。
「移動竈は危険だ」という彼らの主張を裏付ける、最悪の事態が起きてしまったのだ。




