第10話 取り返しのつかないことになる前に
部屋に戻ったルナリアは、乱暴に引き出しを開ける。だが、そこにナイフはない。
「あ……、やだ……、はっ、ひゅっ……」
ルナリアは荒い呼吸を繰り返す。胸の奥で何かがぐちゃぐちゃに掻き回される。吐き気が喉元までせり上がってきて、うまく息が吸えない。赤いダリアの花びらがぼたぼたとこぼれ落ちた。
(ナイフは、あいつが持ってる)
震える指でハンカチを掴む。乱雑に窓枠に結びつけた。息が苦しい。立っていられない。その場にしゃがみ込んで喉を押さえる。空気が足りない。肺がひりつく。かひゅ、かひゅと荒い呼吸を繰り返した。
「……姫?」
中庭からカントの声がした。下を見れば、カントの姿があった。
もうやだ、逃げたい、苦しい。体が自然に前に出る。落ちる、と思った。だが、避けようとする気力もなかった。
視界が一瞬、白く弾ける。次の瞬間、身体は植え込みに叩きつけられていた。痛みがほとんど分からない。カントは彼女の前に歩みを進めると、視線を合わせた。
「大丈夫ですか?」
ルナリアの目は虚ろで、涙と唾液がぐちゃぐちゃに混ざったもので顔を濡らし、しきりに荒い呼吸を繰り返していた。カントは彼女の背中にそっと触れる。
「もうやだ、消えたい……。ひゅ、はっ、ナイフ、貸して……」
ルナリアはカントの肩を掴む。その指は不規則に震えていた。
(……まずいですね)
彼の脳内で天秤が動く。宥めるのは成功率が限りなく低い。要求のままナイフを渡せば、確実に取り返しのつかないことになる。
(……仕方ありません、苦肉の策です)
外部刺激で自傷を代替するしかない。コストはカント自身の精神的ショック。メリットはルナリアの生命維持ができること。
カントは崩れそうになる彼女の背中を強く抱く。そして、その白い肩に歯を立てた。がり、と音が響く。
「……あっ……」
ぴくり、と彼女の肩が震える。乱れていた呼吸が、一瞬だけ止まった。微かに焦点が戻る。だが、それはすぐに崩れた。呼吸がまた浅く乱れ、視線が揺れる。
「……もっと……」
ルナリアは縋るような声を上げる。彼はもう一度歯を突き立てた。強すぎてもいけない。弱すぎても意味がない。必要な刺激の強さを見極めるため、ルナリアから決して視線を逸らさない。
彼女の体からくたりと力が抜けた。先ほどまでの重い赤は消え、ひらひらと月下美人の花びらが舞う。
「落ち着きましたか?」
「……さいあく……の……気分……」
呼吸は少し落ち着いたものの、焦点はあっていない。
「ぐちゃぐちゃの……めちゃめちゃに……なりたい……。ねえ、カント……。このまま……殺して……」
(……いけませんね。このままでは刺激への依存が強まるだけだ)
彼は彼女の肩から口を離すと、そのまま強く抱き寄せた。
「……カント?」
「ここにいます。僕を見てください」
ルナリアの頭を掴み、無理矢理視線を合わせる。
「いいですか、息を吸ってください。……ゆっくりで構いません」
カントは一定の調子で言葉を重ねる。彼の声に合わせ、ルナリアの肩が小さく上下する。乱れていた呼吸が、わずかにリズムを取り戻し始めた。
「視線を逸らさないでください。ここです。僕を見て」
「……ひゅ、……あ……」
「そうです。大丈夫。ここにいます」
しばらく声をかけ続けていれば、やがてルナリアの呼吸はある程度落ち着いた。それを見たカントはそっと体を離そうとする。ルナリアはそんなカントの腕を強く掴んだ。
「……やだ……。行かないで……」
肩が震える。カントは「貴女が望むのなら」と微笑み、再度彼女を抱きしめ直した。
「……ほんと?」
「ええ。ですので、辛くなったら、自分を傷つけたくなったら、呼んでください」
「……来て、くれるの……?」
「ええ」
迷いのない返答だった。ルナリアはしばらくカントの胸元に顔を埋めたまま、何も言わなかった。規則的になりきらない呼吸が、まだわずかに乱れている。
「……ねえ」
「どうしました?」
「……ぐしゃぐしゃの……、めちゃめちゃになりたい」
(やはり、衝動が落ち着きませんか)
カントは短く思考する。このまま彼女を一人にするのは悪手だ。
「来ますか? 僕の家」
「……カントの?」
「はい。邪魔は入りませんよ」
彼は静かに微笑む。
「……やってくれるの……?」
「はい」
カントの答えはよどみがない。ルナリアはしばらく彼を見つめた。視線が交差する。そして。
「……やって。お願い」
「かしこまりました。では、参りましょうか」
カントはルナリアの手をそっと引く。夜の庭を抜け、二人の姿は闇に溶けていった。
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