第8話 ここにいることくらいはできます
石畳に足を下ろすと、夜の冷気がじわりと肌にまとわりついた。さっきまでざわついていた胸の奥が、ほんの少しだけ静まる。
カントは一歩だけ距離を詰めて、彼女の顔を覗き込んだ。
「顔色があまりよくありませんね」
「うるさい。いつもこんなもんでしょ」
「そうでしたか」
彼は軽く笑う。その軽さに肩の力が抜けた。
沈黙が落ちた。けれど、さっき部屋にいたときのような息苦しさはない。冷たい空気が心地いい。
「……今日さ」
ルナリアはゆっくりと口を開いた。
「気持ち悪かった」
誰が、とは言わない。それで十分だった。カントは何も言わない。ただその場にいる。
「触られてさ。……なんか、ぞわってして。……ほんと、最悪」
言い切ってから、ルナリアは自分で少し驚いた。彼はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「それは、不快でしたね」
慰めでも何でもない、ただの言葉。なのに、不思議と胸の奥のざわめきがすっと引いていく。
「……それだけ?」
「ええ。その件については、僕でもどうにもできないので」
カントはあっさりと言い切る。
「なにそれ」
ルナリアの肩から力が抜ける。カントは「ですが」と続けた。
「ここにいることくらいはできます」
「……え?」
ルナリアは視線を上げる。彼はいつものように、柔らかく微笑んでいた。
「……変なの」
「よく言われます」
ルナリアは少しだけ笑いをこぼす。胸の奥がさっきより軽い。
苛立ちは完全に消えたわけじゃない。けれど、さっきまでの衝動は、確かに遠のいていた。
「……ねえ」
「はい」
「この前のナイフ」
カントの視線がわずかに動く。ルナリアはそれを気にも留めず続けた
「まだ持ってる?」
「ええ」
彼は迷いなく取り出した。月明かりを受けて、刃が鈍く光る。
ルナリアはそれを見つめる。ほんの少しだけ指先が動いた。
だがその指は、ナイフに触れることはなかった。
「……やっぱいい」
彼女は視線を逸らす。
「今は、いらない」
カントは何も言わず、ナイフを懐に戻した。
「賢明ですね」
「上から言わないでよ」
軽く言い返すと、また少しだけ空気が緩む。そのまま二人はしばらく何も言わずに立っていた。
風が吹く。木々が揺れる。遠くで衛兵の足音がした。
「……もういいわ」
ルナリアがぽつりと言う。
「満足しましたか」
「別に。……ただ、なんか落ち着いた」
カントは小さく頷いた。
「それは何よりです」
「……じゃあ、帰っていいよ」
「はい。では、また」
彼はあっさりと踵を返す。その背中をルナリアは無意識に目で追っていた。
「……ほんと、変なやつ」
彼女は小さく呟く。けれどその声は、どこか柔らかかった。
読んでくださりありがとうございました。評価、いいね、ブックマークをしてくださると励みになります。




