逃走中、AI少女は壁を道と言う
王城前の鐘が鳴り続けていた。
一度。
二度。
三度。
音が石壁に跳ね返り、王都の大通りへ広がっていく。
俺たちは広場の脇道へ飛び込んだ。
背後では、兵士たちの怒声が重なっている。
「王女殿下を保護しろ!」
「妨害因子を捕らえろ!」
「逃がすな!」
妨害因子。
さっき神託碑に出ていた言葉が、耳の奥に残っていた。
名前じゃない。
罪名でもない。
ただの排除対象みたいな言い方だった。
俺は血のにじむ手首を握りながら走る。
まだ痛い。
革紐で擦れた皮膚が、走るたびに熱を持つ。
袖の内側には、欠けたヤスリがまだ引っかかっている。
捨てる余裕はない。
拾い直す余裕もない。
俺の横では、エリシアがドレスの裾を片手で持ち上げ、息を乱しながらも走っていた。
王女なのに、意外と速い。
いや、意外と言ったら怒られそうだ。
「あなた」
エリシアが横目で俺を睨む。
「はい」
「どこへ向かっているの」
「逃げてる」
「それは見れば分かるわ」
「じゃあ聞くなよ!」
「私は、どこへ連れていかれるのか聞いているの」
「分からない!」
「誘拐犯として最低の答えね」
「誘拐犯じゃない!」
前を走るアイリスが振り返りもせずに言った。
「現象としては誘拐です」
「だから現象で語るな!」
「王女個体を本人の明示的同意なく儀式場から移動させています」
「言い方!」
エリシアの視線が鋭くなる。
「本人の同意がないことは認めるのね」
「今そこを詰めるな!」
「後で説明してもらうと言ったはずよ」
「逃げ切ってからにしてくれ!」
「逃げ切れたらね」
エリシアはそう言って、背後を一瞬だけ見た。
兵士たちが角を曲がってくる。
鎧の音。
槍の音。
靴が石畳を叩く音。
追いつかれたら終わりだ。
「アイリス、道は!」
「前方十七メートルで分岐。右です」
「右だな!」
俺は右へ曲がろうとした。
壁だった。
高い石壁。
窓も扉もない。
王都の裏路地にありがちな、生活感のない冷たい壁。
「右は壁だ!」
「登れます」
「人間は壁を道に含めない!」
「低性能な移動規格です」
「人類に文句言うな!」
アイリスは壁の前で止まると、石の出っ張りを指差した。
「足場があります。上方へ二・八メートル移動後、屋根の縁へ到達可能です」
「二・八メートルを移動って言うな。登るんだよ」
「同義です」
「違う!」
背後から兵士の声。
「いたぞ!」
「王女殿下を保護しろ!」
エリシアが壁を見上げた。
「……本当に登るの?」
「俺も嫌だ」
「私は王女よ」
「知ってる」
「王女に壁を登らせる気?」
「俺も人生で初めてだ!」
アイリスが淡々と言う。
「議論時間が過剰です。追跡者、接近」
「分かってる!」
俺は壁に手をかけた。
手首が痛む。
血が石に擦れる。
歯を食いしばる。
古い石壁の出っ張りに足をかけ、身体を引き上げる。
背後でエリシアが息を吐いた。
「王女を甘く見ないことね」
彼女はドレスの裾をさらに持ち上げ、片手で壁の出っ張りを掴んだ。
登った。
本当に登った。
動きは綺麗とは言えない。
でも、迷いがない。
この王女、意地が強い。
「アーデル、左足を上へ」
「今やってる!」
「遅いです」
「怪我人に優しくしろ!」
「身体損傷は軽微です」
「血が出てる!」
「致死量ではありません」
「基準が怖い!」
アイリスは俺たちより先に、ひょいと壁の上へ上がった。
人間離れした軽さだった。
銀髪が風に揺れる。
黙っていれば、本当に神秘的だ。
黙っていれば。
「アーデル、急いでください。王女個体の登攀効率は想定より高いです」
「褒めてるのかしら」
壁にしがみつきながら、エリシアが言う。
「事実です」
「褒めなさい、そこは」
「では、王女個体の壁面移動性能は優秀です」
「なんだか腹が立つわね」
「だいたい分かってきただろ」
「ええ。かなり面倒な子ね」
「本人に言うな。いや、言ってもいいか」
「不当な評価です」
アイリスは胸を張った。
その下で、兵士が壁の下へ到着する。
「上だ!」
「登っているぞ!」
「弓を持ってこい!」
「弓!?」
俺は慌てて壁の上へ這い上がった。
エリシアも遅れて上がる。
石壁の上は狭い。
片足分の幅しかない。
下を見ると、思ったより高い。
見なければよかった。
「前方の屋根へ移動します」
アイリスが言う。
「屋根は道じゃない!」
「壁より安定しています」
「比較対象がおかしい!」
エリシアが息を整えながら言った。
「あなたたち、いつもこうなの?」
「だいたいこいつのせいだ」
「私は最適経路を提示しているだけです」
「その最適が人間に優しくないんだよ」
アイリスは首を傾げた。
「人間は脆弱です」
「知ってるなら考慮しろ!」
「考慮しています。落下時の負傷確率は、先ほどより低下しています」
「落下前提で話すな!」
俺たちは屋根へ飛び移った。
瓦が鳴る。
エリシアの靴が滑った。
「っ」
俺は反射的に手を伸ばした。
彼女の腕を掴む。
今度は勝手に触るなとは言われなかった。
エリシアは一瞬だけ俺を見る。
「……助かったわ」
「どういたしまして」
「ただし、誘拐の件を許したわけではないわ」
「そこは一回忘れてくれないか」
「忘れないわ」
「ですよね」
背後から矢が一本飛んできた。
屋根瓦に当たり、かん、と跳ねる。
俺は思わず身を伏せた。
「撃ってきたぞ!」
エリシアが振り返る。
「王女がいるのに撃ったの?」
その声は怒りを含んでいた。
だが兵士たちは叫ぶ。
「王女殿下を傷つけるな! 男と銀髪の娘を狙え!」
「狙い分けられる距離か、これ!」
アイリスが言う。
「狙撃精度は低いです。問題ありません」
「俺に当たったら問題だろ!」
「致命傷確率は低いです」
「だから基準!」
屋根から屋根へ移る。
前方に煙突。
洗濯物を干した紐。
干された布が顔に当たる。
「ぶっ」
視界が白い布で塞がった。
「アーデル、正面障害」
「見れば分かる!」
「見えていません」
「布のせいだよ!」
俺は布を払いのける。
その横をエリシアが通り抜けた。
ドレスの裾を片手で押さえ、もう片方で屋根の縁を掴む。
王女らしさは、もう半分くらいどこかへ行っている。
だが、背筋だけはなぜか崩れない。
さすがに育ちが違う。
「左です」
アイリスが言う。
俺は警戒した。
「左は何だ」
「屋台の布屋根です」
「屋台!?」
屋根の端から下を見る。
下の通りに、果物屋の屋台がある。
その横に、布で覆われた露店。
かなり低い。
飛び降りられなくはない。
ただし、普通はやらない。
「落下先の布強度は十分です」
「お前の十分は信用できない」
「信頼してください」
「実績が足りない」
「救済実績はあります」
「犯罪実績もな!」
エリシアが短く息を吐く。
「行くしかないわね」
「いいのか」
「兵士に囲まれるよりはましよ」
「王女らしくない判断だな」
「今、王女らしくしていたら死ぬわ」
その言葉に、一瞬だけ息が詰まった。
彼女は見た。
自分が立っていた場所に黒い光が落ちたのを。
だから分かっている。
戻れば安全ではない。
戻れば、たぶんまた壇の上に立たされる。
「分かった」
俺は屋根の端に立った。
下の布屋根が揺れている。
王都の人々が上を見上げて、叫んでいる。
「何だ!?」
「屋根の上に王女様が!」
「王女様!?」
「誘拐犯だ!」
最悪の評判が広がっている。
「アーデル、今です」
「くそっ!」
俺は飛び降りた。
布屋根に落ちる。
ばふ、と身体が沈む。
布が裂けかける。
でも、ぎりぎり持った。
次にアイリスが軽く降りる。
布がほとんど揺れない。
おかしい。
最後にエリシアが降りてきた。
俺は手を伸ばす。
彼女は一瞬迷い、それから俺の手を掴んだ。
落ちてくる身体を受け止める。
肩に衝撃が走った。
「ぐっ」
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん?」
「王女を受け止める予定なんて人生になかったからな」
「私も、誘拐犯に受け止められる予定はなかったわ」
「まだ言うか」
「まだ言うわ」
布屋根が悲鳴みたいにきしんだ。
「下へ移動してください」
アイリスが言う。
「早く言え!」
三人で布屋根から転がるように下りる。
そこは細い裏通りだった。
両側に木箱。
水樽。
魚の匂い。
洗濯物。
裏口から顔を出した店主が目を丸くしている。
俺たちは王都の表通りから、完全に生活の裏側へ落ちてきた。
「こっちです」
アイリスが迷いなく走る。
「本当に合ってるのか?」
「旧水路入口までの最短経路です」
「また壁とか屋根とか言うなよ」
「次は排水溝です」
「最悪だ!」
エリシアが顔をしかめた。
「排水溝?」
「安心しろ。俺も嫌だ」
「あなた、安心させるのが下手ね」
「今日はそれどころじゃない」
裏通りを走る。
前方から、別の兵士の声がした。
「こっちに回り込め!」
「王女殿下を探せ!」
早い。
神託碑が情報を出したせいか。
それとも、王都の警備網が優秀なのか。
たぶん両方だ。
アイリスが足を止める。
「前方、追跡者」
「戻るか?」
「非推奨。背後にも接近中」
「じゃあどうする」
「右の店内を通過します」
「人の店だぞ!」
「通過のみです」
「勝手に入るな!」
「時間がありません」
アイリスは近くの裏口を開けた。
鍵がかかっていたはずなのに、かちゃりと音を立てて開いた。
「お前、今何した」
「簡易解錠です」
「犯罪だ!」
「通過のみです」
「言い方で軽くするな!」
中はパン屋だった。
焼きたての匂いがする。
店主の女性が、粉まみれの手でこちらを見た。
「え、ええっ!?」
「すみません通ります!」
「待ちなさい、ここは――」
俺たちは店内を横切る。
棚のパンが揺れる。
アイリスが一瞬だけ足を止めた。
蜂蜜のかかった小さな焼き菓子が並んでいた。
「重要調査対象」
「今じゃない!」
俺はアイリスの袖を掴んで引っ張る。
エリシアが走りながら呆れた声を出す。
「逃走中に菓子を見る余裕があるの?」
「あります」
「ない!」
「調査は継続性が重要です」
「命の方が重要だ!」
店の表口から飛び出す。
表通りではない。
小さな市場の横道だった。
人々がこちらを見る。
王女の顔に気づいた者が、息を呑む。
「王女様……?」
「違います」
俺は反射的に言った。
エリシアが俺を睨む。
「違わないわ」
「今だけ違ってくれ!」
「私は第二王女エリシア・レーヴェンです」
「名乗るな!」
周囲がざわめく。
アイリスが感心したように言う。
「王女個体、自身の識別情報を積極公開。隠密行動適性は低いです」
「あなたに言われたくないわ」
「同意します」
「お前もだよ、アイリス!」
遠くの神託碑が青白く光った。
市場の人々が一斉にそちらを見る。
文字が浮かんでいる。
第二王女、緊急保護対象。
妨害因子、三名。
王都西区へ逃走中。
三名。
増えた。
俺は顔をしかめる。
「俺たちの位置、出てるぞ」
アイリスの瞳が細く光る。
「神託碑間の連携速度が高いです。移動経路を予測されています」
「どうする」
「予測を外します」
「どうやって」
「不合理な経路を選択します」
「お前の得意分野だな」
「不当な評価です」
エリシアが市場の神託碑を見つめていた。
自分の名前はない。
第二王女。
緊急保護対象。
その文字を見て、彼女の表情が少しだけ固くなる。
「……私の名前は、出ないのね」
声は小さかった。
俺は答えられなかった。
アイリスだけが言う。
「神託出力では、個体名より処理分類が優先されます」
「そう」
エリシアは短く答えた。
その顔は、怒っているのか、傷ついているのか分からなかった。
背後から兵士の声。
「市場にいるぞ!」
「神託の示した通りだ!」
「アイリス!」
「左の排水路へ」
「やっぱりそこか!」
市場の端に、鉄格子のはまった排水路がある。
人が通るものじゃない。
明らかに水が流れるための穴だ。
「入れるのか?」
「格子は劣化しています」
「つまり壊すのか?」
「はい」
「堂々と言うな!」
エリシアが眉を寄せる。
「私はあそこに入るの?」
「たぶん」
「王女を甘く見ないことねと言ったけれど、限度はあるわ」
「俺も限度を超えてる!」
アイリスは排水路の格子に手をかけた。
ぎし、と金属が鳴る。
びくともしない。
アイリスが少し首を傾げる。
「想定より劣化が少ないです」
「いいことじゃないのか、それ!」
「通行には悪条件です」
「基準!」
俺は格子に近づく。
手首が痛むが、そこに構っていられない。
格子は古い鉄製。
下側の留め具が錆びている。
右の蝶番が浮いている。
触れると、嫌な引っかかりが指先に返ってきた。
まだ動く。
壊れているが、完全には死んでいない。
「右の留め具だ」
「アーデル、構造判断は適切です」
「褒めるなら手伝え」
「はい」
アイリスが右側を押さえる。
俺はヤスリの欠けた角を使い、錆びた留め具に差し込んだ。
がり、と音がする。
手が滑る。
血が混じる。
痛い。
でも、留め具が少し浮いた。
エリシアが背後を見る。
「来てるわ」
「もう少し!」
「急ぎなさい」
「王女命令が多い!」
「慣れなさい」
「慣れたくない!」
兵士の足音が迫る。
市場の人々が道を空ける。
神託碑の光が強くなる。
俺は留め具をさらにこじった。
がきん、と音がして、右の固定具が外れる。
「開くぞ!」
アイリスが格子を引く。
金属が嫌な音を立てて開いた。
下から湿った匂いが上がってくる。
エリシアが一歩引いた。
「……本当に、ここに?」
「本当に」
「あなたを一生許さないかもしれないわ」
「命があれば、後で怒れる」
エリシアは俺を睨んだ。
それから、ふっと短く息を吐いた。
「嫌な言い方ね」
「よく言われる」
「誰に?」
「主に自分に」
アイリスが排水路を覗き込んだ。
「内部空間あり。旧水路へ接続している可能性が高いです」
「可能性かよ!」
「九十一パーセントです」
「残り九パーセントは?」
「汚水溜まりです」
「言うな!」
兵士がすぐそこまで来ていた。
「いたぞ!」
「格子を閉じろ!」
もう選んでいる時間はない。
俺は先に排水路へ滑り込んだ。
狭い。
暗い。
湿っている。
最悪だ。
でも、人が通れるだけの高さはあった。
「大丈夫だ、来い!」
アイリスが続く。
エリシアは入口で一瞬止まった。
ドレスの裾。
王女の靴。
青いペンダント。
この場所に似合わないものばかりだった。
でも彼女は顎を上げた。
「王女を甘く見ないことね」
二回目だった。
今度は少し、言い聞かせるような声だった。
エリシアは膝をつき、排水路へ入った。
白と青のドレスが汚れる。
彼女は顔をしかめたが、声は上げなかった。
外から兵士が手を伸ばす。
俺は内側から格子を引いた。
錆びた格子が閉じる。
兵士の手が届く寸前だった。
「開けろ!」
「王女殿下!」
エリシアが格子越しに兵士を見た。
そして言った。
「追わないで」
「殿下!」
「命令です」
兵士たちが固まる。
王女の命令。
神託の命令。
どちらに従うべきか。
その迷いが、一瞬だけ生まれた。
その一瞬で十分だった。
「アーデル、進行方向はこちらです」
アイリスが暗い奥を指す。
「見えるのか?」
「はい」
「俺は見えない」
「低性能です」
「今それ言うか!」
エリシアが後ろから言う。
「私も見えないわ」
「王女個体も低性能です」
「あなた、本当に失礼ね」
「公平です」
「公平に失礼なんだよ」
俺は壁に手をつきながら進む。
ぬめった石。
湿った空気。
足元を流れる薄い水。
王都の華やかな広場とは別世界だった。
頭上では兵士たちの声が遠ざかっていく。
いや、遠ざかっているのか。
それとも別の入口へ回り込んでいるのか。
分からない。
少し進むと、排水路は二股に分かれていた。
左は狭い。
右は少し広い。
アイリスは迷わず右を指した。
「右です」
「本当に?」
「旧水路入口へ接続する確率が高いです」
「どれくらい」
「七十六パーセント」
「下がったな!」
「排水路内の改修履歴が不明です」
エリシアが眉をひそめる。
「旧水路入口?」
「知ってるのか?」
「王城には、非常時に王族が逃げるための古い避難路があると聞いたことがあるわ」
「それだ」
「でも、詳しい場所は王族でも限られた者しか知らないはずよ」
エリシアの視線がアイリスへ向く。
「なぜあなたが知っているの」
アイリスは暗がりの中で振り向いた。
青い瞳が淡く光る。
「構造から推定しました」
「それだけ?」
「はい」
少しだけ間があった。
ほんの少し。
エリシアは見逃さなかった。
「……今、間があったわね」
「間はありません」
「言い訳が下手ね」
「言い訳ではありません。回答選択に遅延が発生しただけです」
「それを言い訳と言うのよ」
排水路の先に、古い石扉が見えてきた。
表面には、王家の紋章ではない模様が刻まれている。
円と線。
複雑に絡み合う古代の文字。
エリシアの胸元のペンダントが、淡く光った。
アイリスが止まる。
「……認証反応」
その声は、また少し低かった。
エリシアがペンダントを押さえる。
「また?」
俺は石扉に触れた。
冷たい。
だが、奥で何かが動こうとしている。
魔力の道筋がある。
詰まっている。
でも死んでいない。
「開けられるか」
エリシアが聞いた。
「分からない」
「あなた、遺跡拾いなのでしょう」
「拾うのと王城地下の古代扉を開けるのは別だ」
「でも、やるのでしょう?」
俺は振り返った。
エリシアはまっすぐ俺を見ていた。
さっきまで誘拐犯と呼んでいた目とは、少し違う。
信用しているわけじゃない。
でも、見ている。
俺が何をするのかを。
俺は息を吐いた。
「やるしかないだろ」
アイリスが隣に立つ。
「アーデル、右下の制御石です」
「見えてる」
「魔力流路は三系統。上部二系統は死んでいます。下部一系統のみ残存」
「分かってる」
「では説明不要ですか」
「少しはしてくれ」
「難解です」
俺は欠けたヤスリを取り出した。
今度は紐を切るためではない。
制御石の周囲に詰まった古い錆を削るためだ。
がり、と音がする。
石扉の奥で、細い光が揺れた。
エリシアが息を呑む。
アイリスの瞳が明るくなる。
「入力反応を確認」
「まだだ」
俺は血のついた指で、制御石を押し込んだ。
動かない。
もう一度押す。
少しだけ沈む。
奥で何かが引っかかっている。
俺は肩で扉を押した。
重い。
手首が痛い。
でも、動く。
「エリシア、そこ押してくれ」
「私に命令?」
「頼む」
エリシアは一瞬だけ目を細めた。
それから、何も言わずに扉へ手を当てた。
ドレスの袖が汚れる。
彼女は気にしなかった。
「アイリス」
「はい」
「合図で魔力を少し流せ」
「少し、の定義が不明確です」
「壊れない程度!」
「それが不明確です」
「もういい、俺が言ったら弱く!」
「了解しました。弱く、を暫定定義します」
「怖いな!」
背後から、遠くで鉄格子の音がした。
兵士が別の入口を開けようとしているのかもしれない。
時間がない。
「今だ!」
アイリスの手が制御石に触れる。
淡い青い光が流れる。
強すぎない。
たぶん。
石扉の奥で、古い歯車のような音がした。
ごん、と何かが外れる。
扉が、わずかに開いた。
湿った空気とは違う、乾いた冷たい空気が流れてくる。
古い地下の匂い。
王都の下に眠っていた、別の時代の匂い。
俺たちは三人で扉を押した。
重い石が、ゆっくりと動く。
隙間が広がる。
その奥には、暗い通路が続いていた。
壁には古代文字が刻まれている。
足元には、今の王都の石畳とは違う、滑らかな黒い床。
エリシアが呟く。
「こんな場所が、王城の下に……」
アイリスは壁を見つめていた。
青い瞳が、文字を追っている。
「旧式避難路。王家認証系統。非常時使用」
「読めるのか」
「一部のみ」
「十分すぎる」
背後から声が響く。
「いたぞ! 奥だ!」
兵士たちが排水路の向こうに現れた。
早い。
「入るぞ!」
俺はエリシアを促した。
エリシアは一度だけ背後を見た。
王城の方向。
神託の方向。
ラインハルトが残っている方向。
それから前を向く。
「行くわ」
俺たちは古代通路へ飛び込んだ。
アイリスが石扉の制御石に触れる。
「閉鎖します」
「できるのか?」
「たぶん」
「お前のたぶんは怖い!」
青い光が走る。
石扉が重い音を立てて閉まり始めた。
兵士が駆け寄る。
槍の先が隙間から入る。
俺はそれを蹴った。
槍が外れる。
扉がさらに閉じる。
最後に見えたのは、兵士たちの驚いた顔だった。
石扉が閉じた。
音が消える。
王都の喧騒も。
鐘の音も。
神託碑の光も。
一瞬だけ、静かになった。
暗い古代通路の中で、俺たちは息をしていた。
俺。
アイリス。
エリシア。
王女誘拐犯。
古代文明の最高傑作。
逃げてきた第二王女。
ひどい組み合わせだ。
エリシアが俺を見た。
「ルカ・アーデル」
「はい」
「私は、まだあなたを信用していないわ」
「分かってる」
「でも」
彼女は閉じた石扉を見た。
その向こうに、王都がある。
神託がある。
焼けた壇がある。
「戻れば安全、とはもう言えない」
俺は頷いた。
「そうだな」
アイリスが壁の古代文字を見上げる。
「旧水路入口への接続を確認。進行可能です」
「じゃあ行くか」
俺は歩き出そうとした。
エリシアが言う。
「待ちなさい」
「何だ」
「さっきの話の続きよ」
「今?」
「今よ」
彼女は俺をまっすぐ見た。
「あなた、私をどこへ連れていくつもり?」
俺は暗い通路を見た。
先は見えない。
湿った空気の奥に、まだ何かが眠っている。
アイリスが当然のように答えた。
「王女救済後の一時退避経路です」
「あなたには聞いていないわ」
「不満です」
俺は頭をかいた。
手首が痛んで、顔をしかめる。
「正直に言うと、分からない」
エリシアの眉が上がる。
「またそれ?」
「でも、ここに残るよりはましだ」
「根拠は?」
「さっきの壇」
エリシアは黙った。
黒い光。
焼けた石。
神託碑の文字。
それ以上の根拠は、今の俺には出せない。
エリシアは小さく息を吐いた。
「最悪ね」
「よく言われる」
「でも、今はその最悪に乗るしかなさそうね」
アイリスが頷いた。
「王女個体、一時同行を承認」
「だから、私は対象でも個体でもないわ」
「では、王女個体エリシア」
「増やせばいいわけではないのよ」
「難解です」
エリシアが額を押さえた。
「本当に、あなたたちと逃げるのね……」
「嫌なら戻るか?」
俺が聞くと、エリシアは閉じた石扉を見た。
それから、少しだけ顎を上げる。
「戻らないわ」
アイリスが前方を指す。
「では進みます。右です」
「右は?」
俺は念のため聞いた。
「通路です」
「本当だな?」
「はい」
俺は右を見た。
黒い石の通路が続いている。
ようやく普通の道だ。
ほっとした。
アイリスが続ける。
「ただし、途中で壁を越える必要があります」
「やっぱりか!」
エリシアがため息をついた。
「あなたたち、いつもこうなの?」
「今日だけで三回目だな、その質問」
「答えは?」
「だいたい、こいつのせいだ」
アイリスは胸を張る。
「私は古代文明の最高傑作です」
「今それ関係ある!?」
暗い通路に、俺の声が響いた。
背後では、閉じた石扉の向こうから、かすかに金属音が聞こえた。
追手はまだ諦めていない。
たぶん、神託も。
俺たちは、古代の旧水路へ向かって走り出した。




