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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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8/30

王女誘拐、決行

 王城脇の警備詰所には、窓が一つしかなかった。


 高い位置にある、小さな窓だ。


 そこから差し込む光は細く、石の壁に白い線を引いている。


 俺は椅子に座らされていた。


 両手は革紐で縛られたまま。

 足元には、さっき屋根の上で散らばった工具の代わりに、冷たい石床だけがある。


 ヤスリは戻ってきた。

 針金も、炭の欠片も、兵士が拾って机の端に置いた。


 ただ、小さな釘は一本足りなかった。


 屋根の端から落ちたやつだ。


 そんなもの、今気にしている場合じゃない。

 分かっている。


 でも、分かっていても、目が机の端に行く。


 残った針金。

 欠けたヤスリ。

 炭の欠片。

 革紐。


 壊れたものと、縛るもの。


 まったく、ろくな組み合わせじゃない。


「アーデル」


 隣でアイリスが言った。


「何だ」


「現状確認を行います」


「やめろ。嫌な予感しかしない」


「拘束。監視。王女接触失敗。社会的信用低下。所持工具の一部喪失」


「やめろって言っただろ」


「精神的負荷が高い状態です」


「お前が上げてるんだよ」


 アイリスは平然としている。


 いや、平然としているように見えるだけかもしれない。


 彼女の瞳は、ときどき細かく明滅していた。

 王女の足元にあった黒い線を見てから、ずっとだ。


 白石の壇。

 金の模様。

 その下に隠れた黒い線。


 システムによる対象個体の消去術式痕跡。


 アイリスはそう言った。


 短剣を持った誰かが王女を狙っているんじゃない。


 王女が立つ場所そのものが、もう仕掛けられている。


 俺は手首を動かした。


 革紐が皮膚に食い込む。


 痛い。


 痛いが、動かないわけではない。


 ラインハルト・クロウ。


 あの若い近衛騎士は、詰所を出てから戻ってきていない。


 確認すると言った。

 この目で確かめると。


 信じたわけじゃない。

 でも、完全には無視しなかった。


 それが今の俺たちに残された、ほとんど唯一の道だった。


「アーデル」


「何だよ」


「拘束解除を試みますか」


「やめろ」


「可能です」


「やめろ」


「左手首の革紐は、摩擦による繊維損傷が進行中です。机上の欠損ヤスリを使用すれば、解除成功率は上昇します」


「監視が三人いるだろ」


 俺は視線だけで周囲を見る。


 詰所の壁際に兵士が三人。

 一人は扉の近く。

 一人は窓の下。

 一人は俺たちの背後。


 全員、こちらを見ている。


 いや、一人だけ机の右脚を見ていた。

 さっきアイリスが腐食を言い当てた脚だ。


 気になるのは分かる。

 俺も気になる。


「監視個体三名。注意分散中。突破可能です」


「突破するな」


「では、机の右脚を破壊して注意を逸らします」


「もっとするな」


「不条理です」


「お前の案がだよ」


 その時、扉の外で足音がした。


 兵士たちが姿勢を正す。


 扉が開く。


 ラインハルトが戻ってきた。


 顔色は変わらない。

 だが、さっきより少しだけ目が硬い。


 彼は俺たちの前に立った。


「連れていく」


「どこへ」


「儀式場の近くまでだ」


 俺は思わず立ち上がりかけた。


 背後の兵士が肩を押さえる。


「本当に確認するのか」


「お前たちの言葉を信じたわけではない」


「分かってる」


「だが、王女殿下の警備に関わる危険情報を放置することもできない」


 ラインハルトはそう言って、机の上の包み紙を手に取った。


 油が染みた紙。

 炭の文字。


 神託を疑え。


 彼はそれを折り、また懐に入れた。


「不審者の供述確認として扱う。余計なことをすれば、今度こそ牢へ送る」


「今も似たようなものだろ」


「まだ椅子がある」


「比較対象が低い」


 アイリスが言った。


「拘束状態を利用した王女接近経路です。学習しました」


「学習するな」


「次回以降、捕縛を前提とした接近案を追加します」


「追加するな!」


 ラインハルトの眉が動いた。


「次回を想定するな」


「同意見だ」


 俺は本気で言った。


 兵士が俺を立たせる。


 革紐は外されなかった。


 むしろ、片方の兵士が俺の腕を掴み、もう片方がアイリスの横に立った。


 アイリスは手を縛られていない。

 だが、彼女が何かしようとすれば、すぐに止めるつもりなのだろう。


 止められるかどうかは別として。


 詰所を出ると、王城前の空気はさっきより重くなっていた。


 人が増えている。


 儀式の時刻が近いのだ。


 白い石畳。

 王家の旗。

 青と金の布。

 花を持った子どもたち。

 整列する兵士。

 白衣の神官たち。


 中央広場の奥に、白石の壇がある。


 遠目には、ただ美しい儀式台に見える。


 丸い壇。

 金の模様。

 王家の紋章。


 その下に黒い線があるなんて、誰も思わない。


 誰も。


 たぶん、王女本人でさえ。


「止まるな」


 兵士が俺の腕を引く。


 俺たちは群衆の外側ではなく、兵士用の通路を進んだ。


 白い柵の内側。


 昨日までは近づくことすらできなかった場所だ。


 今は拘束されたまま歩いている。


 ひどい近道だ。


「アーデル」


 アイリスが隣で言う。


「今度は何だ」


「接触制限区域への侵入成功。拘束状態は移動許可証として機能しています」


「絶対に間違って覚えるな」


「人間社会の制度は複雑です」


「今のは制度じゃない。不審者の扱いだ」


「不審者は有用です」


「自分の人生で聞きたくない言葉だった」


 ラインハルトが低く言う。


「黙って歩け」


 俺は黙った。


 アイリスも、一応黙った。


 一応だ。


 彼女の瞳はずっと壇を見ている。


 神官たちが白石の壇の周囲に並んでいた。


 王城門の前には、背の高い神託碑がある。

 まだ光っていない。


 だが、石の奥に青白いものが眠っているように見えた。


 俺は胸の奥がざわつくのを感じた。


 あれはただの石じゃない。

 神の言葉を映す板でもない。


 何かを受け取って、何かを出している。


 父さんなら、そう言っただろうか。


 構造を見れば分かる。


 見えない。


 俺にはまだ、神託の構造なんて分からない。


 でも、壇の金の線と、神託碑の青白い光と、アイリスの低い声が、どこかで繋がっている気がした。


「ラインハルト卿」


 白衣の神官がこちらへ歩いてきた。


 細い顔の男だった。

 目元は笑っているのに、目は少しも笑っていない。


「その者たちは?」


「王女殿下への不審な接触を試みた者です」


「そのような者を、なぜ儀式場へ」


「供述確認です。王女殿下の警備に関わる危険情報を得ました」


 神官の目が、わずかに細くなる。


「危険情報?」


「儀式陣に異常がある可能性があるとの供述です」


 神官は静かに笑った。


「王家の儀式陣に、異常などあり得ません」


「確認します」


「それは神官の領分です」


「王女殿下の警備は近衛の領分です」


 空気が硬くなった。


 ラインハルトは一歩も引かない。


 神官はしばらく彼を見た。


 それから、俺たちを見た。


「その男が、神託を疑えと書いた不届き者ですか」


 懐の包み紙を見なくても、知っている。


 伝わるのが早すぎる。


 俺は息を呑んだ。


 ラインハルトも、それに気づいたのかもしれない。

 表情は変わらないが、右手の指が一度だけ動いた。


「供述の内容は、私が確認します」


「よいでしょう」


 神官は柔らかく言った。


「ですが、儀式は間もなく始まります。王女殿下を不安にさせるような振る舞いは慎んでください」


「承知しています」


「神託は、王家を守ります」


 神官はそう言って、壇へ戻っていった。


 守る。


 その言葉が、石畳に落ちたみたいに重かった。


 俺は背中の後ろで、縛られた手首を密かに捻っていた。


 左袖の内側に落とし込んだ欠けたヤスリの角が、革紐に当たる。


 痛い。


 手首の皮膚も一緒に削れて、熱いものが滲むのが分かった。


 でも、止められない。


 ぎり、と繊維が裂ける小さな手応えがあった。


 まだ切れない。


 でも、弱っている。


 あと一度、強く引けば。


 たぶん、切れる。


「アイリス」


 俺は小声で言った。


「はい」


「あの壇、今は見えるか」


「昼光条件下では視認困難です」


「解析は」


「魔力流路は存在します。ただし、表層儀式線の下層に隠蔽されています」


「つまり?」


「見えないようにしてあります」


 やっぱり。


 ラインハルトが俺たちの会話を聞いていた。


「本当に、何かあるのか」


 彼の声は低い。


 俺は答えようとして、言葉に詰まった。


 ある、と言いたい。


 でも、今この場で俺が説明できるものは何もない。


 見えた。

 アイリスが解析した。

 神託出力と同期している。


 そんな言葉で、王家の儀式を止められるわけがない。


 アイリスが代わりに言った。


「あります」


「根拠は」


「構造反応」


「人間に分かる言葉で言え」


「王女個体が壇の中央へ立つと、足元の術式が対象固定を開始します」


 ラインハルトの目がわずかに動く。


「対象固定」


「はい」


「それは、儀式の一部ではないのか」


「儀式の一部です」


 俺はアイリスを見た。


「おい」


 アイリスは続けた。


「ただし、祝福ではありません」


 ラインハルトは黙った。


 俺も黙った。


 人々のざわめきが遠くなる。


 その時、広場の奥で鐘が鳴った。


 一度。


 低く、長く。


 王城門が開く。


 王女エリシア・レーヴェンが姿を見せた。


 白と青のドレス。

 金の髪。

 背筋をまっすぐに伸ばした姿。


 胸元には、青いペンダント。


 彼女は笑っていなかった。


 でも、怯えてもいなかった。


 王女として、そこに立っていた。


 群衆が一斉に頭を下げる。


「第二王女殿下……」

「神託に選ばれし王家の姫君……」

「王家更新の儀だ……」


 ささやきが波のように広がる。


 エリシアは壇の前で足を止めた。


 神官が一礼する。


「殿下。神意に従い、認証位置へ」


 認証位置。


 俺の手首に巻かれた革紐が、急にきつくなったような気がした。


 エリシアは壇を見た。


 ほんの少しだけ、足が止まる。


 あの時。


 第6話で、俺と目が合った時のことを思い出したのかもしれない。


 油染みの包み紙。

 槍に弾かれた警告。

 不審者の叫び声。


 王家更新の儀は危険。


 神託を疑え。


 届かなかったはずの警告が、ほんの少しだけ彼女の中に残っているのかもしれない。


 しかし神官が、もう一度促した。


「殿下」


 エリシアは顎を上げた。


 そして、一歩踏み出した。


 アイリスの瞳が明滅した。


「対象個体、儀式範囲へ進入」


「アイリス」


「下層術式、待機状態から遷移」


 神託碑が青白く光り始めた。


 広場が静まり返る。


 石碑に文字が浮かぶ。


 王家更新の儀、開始。


 群衆が息を呑んだ。


 さらに文字が続く。


 対象個体、認証位置へ。


 俺は叫びそうになった。


 ラインハルトの腕が俺の前に出る。


「動くな」


「止めろ!」


「まだだ」


「まだって何だよ!」


「確証がない」


 ラインハルトの声は硬かった。


 硬すぎるほどに。


 彼は迷っている。


 王女を守るために儀式を止めるべきか。

 王女を守るために儀式を守るべきか。


 その迷いが、たった一瞬、彼の足を縛っていた。


 アイリスが言った。


「対象固定、開始」


 エリシアが壇の中央へ近づく。


 白石の中央。

 金の線の交差する場所。


「神託出力との同期を確認」


 青白い光が神託碑から壇へ流れた。


 普通の人間には、たぶん祝福の光に見える。


 俺には。


 古代遺跡の制御盤の奥で、魔力が詰まった時の嫌な震えに似て見えた。


「消去術式、起動準備」


 アイリスの声が低くなる。


「アーデル」


「分かってる」


「間に合いません」


 その言葉で、何かが切れた。


 俺は走り出した。


 両手を縛られたまま。


 兵士が腕を掴もうとする。


 俺は肩でぶつかった。


 転びかける。


 足元が滑る。


 でも止まらない。


「止まれ!」


 ラインハルトの声が飛ぶ。


 止まれない。


 エリシアがこちらを向いた。


 青い瞳。


 あの時と同じ色だった。


「そこから離れろ!」


 俺は叫んだ。


 声が広場に響く。


 群衆がざわめく。


 神官が顔を歪めた。


「取り押さえなさい!」


 兵士が動く。


 でも、俺の方が先に壇へ近かった。


 いや、違う。


 近いんじゃない。


 俺が勝手に飛び込んでいるだけだ。


 エリシアは俺を見て、目を見開いた。


「あなたは――」


「離れろ!」


「何を――」


 神官の手が、エリシアの背中に伸びる。


「殿下、認証位置へ」


 その手が、王女を壇の中央へ押そうとしているように見えた。


 俺は歯を食いしばった。


 背中の後ろで、手首を思いきり引いた。


 革紐が皮膚を裂く。


 熱い痛みが走る。


 ぶつり、と何かが切れた。


 完全には自由じゃない。


 でも、腕は前に出せる。


 アイリスの声が背後から飛ぶ。


「右肩から接触。対象を壇外へ押し出してください」


「説明が遅い!」


「実行してください」


 俺は壇へ飛び込んだ。


 エリシアの目が大きくなる。


 神官が叫ぶ。


「不敬者!」


 俺はエリシアの腕を取った。


 手首はまだ縛られている。

 だから抱えるというより、体ごとぶつかるしかない。


「ごめん!」


「え――」


 俺はエリシアを抱え込むようにして、壇の外へ転がった。


 白いドレスが石畳に広がる。


 俺の肩が地面に打ちつけられる。


 息が詰まる。


 エリシアの髪が頬に触れた。


 甘い香りがした。


 そんなことを思っている場合じゃない。


 次の瞬間。


 黒い光が落ちた。


 音はなかった。


 いや、あったのかもしれない。


 耳が聞く前に、身体が先に震えた。


 エリシアが立っていた場所。


 白石の壇の中央。


 そこへ、細い黒い柱のような光が突き刺さった。


 金の儀式線が黒く焼ける。


 白石がひび割れる。


 花びらが舞い上がり、空中で灰になった。


 群衆の歓声が、悲鳴に変わるまで、一拍遅れた。


「きゃああああああっ!」

「何だ!?」

「儀式が……!」

「王女殿下!」


 俺はエリシアを抱えたまま、石畳の上で息をしていた。


 肩が痛い。

 手首が痛い。

 頭も打った。


 俺の下で、エリシアが身じろぎした。


「……あなた」


 声が低い。


 怒っている。


 ものすごく怒っている。


 俺は顔を上げた。


 エリシアの青い瞳が、至近距離で俺を睨んでいた。


「何をしているの」


 俺は息を切らしながら答えた。


「助けた」


 エリシアは、俺の後ろを見た。


 焼けた壇。

 黒く焦げた儀式線。

 砕けた白石。


 ほんの少しだけ、彼女の瞳が揺れた。


 でも、すぐに俺を睨み直す。


「どう見ても誘拐犯の動きだったわ」


「今それ言うか!?」


 アイリスが駆け寄ってきた。


 銀髪が揺れる。


 表情はいつも通りに見える。

 でも、瞳の光はまだ激しく明滅していた。


「対象個体エリシア・レーヴェンの生存を確認」


「おい、アイリス」


「王女誘拐、成功です」


「言うな!」


 俺の叫びが広場に響いた。


 その直後、兵士たちが一斉に剣を抜いた。


「王女殿下から離れろ!」

「不審者を捕らえろ!」

「儀式妨害だ!」


 神官が顔を真っ赤にして叫ぶ。


「その男を捕らえなさい! 神聖なる儀式を穢した反逆者です!」


「穢したのはどっちだよ!」


 俺は立ち上がろうとする。


 手首の革紐は半分切れていた。

 もう少しで外れる。


 でも、兵士の方が早い。


 剣が近づく。


 その時、金属音が響いた。


 ラインハルトが剣を抜き、兵士の前に立っていた。


「下がれ」


 兵士たちが固まる。


「ラインハルト卿?」


「王女殿下を確認する。不用意に近づくな」


「しかし、その男は――」


「下がれと言った」


 声は低い。


 だが、誰も逆らわなかった。


 ラインハルトは俺を見た。


 それから、焼けた壇を見た。


 そして、エリシアを見る。


「殿下。お怪我は」


 エリシアはゆっくりと立ち上がった。


 ドレスの裾が汚れている。

 髪も少し乱れている。


 それでも、背筋はまっすぐだった。


「ありません」


「それは何よりです」


 ラインハルトは一瞬だけ目を閉じた。


 その仕草は、本当にわずかだった。


 安堵したのだと、俺には分かった。


 神官が叫ぶ。


「ラインハルト卿! その男を即刻捕縛しなさい! 王女殿下を壇から引きずり下ろしたのですよ!」


 ラインハルトは神官を見た。


「壇には、何が起きた」


「儀式妨害による魔力暴走です!」


「魔力暴走にしては、殿下の立ち位置だけが焼けている」


 神官の顔が強張る。


「それは……神意の乱れです」


「神意の乱れ」


 ラインハルトは繰り返した。


 その声に、何か冷たいものが混じった。


 神官は黙る。


 エリシアが焼けた壇を見つめていた。


 彼女の顔から、怒りが少しずつ消えていく。


 代わりに、別のものが浮かぶ。


 理解したくないものを、理解してしまった顔。


「私は」


 エリシアが呟いた。


「そこに立っていたのね」


 誰も答えなかった。


 アイリスだけが言う。


「はい。認証位置です」


「認証……?」


「対象個体を固定し、消去術式を同期させる位置です」


「消去って何」


 エリシアの声は静かだった。


 静かすぎて、怖かった。


 アイリスは答える。


「あなたの生命活動を停止させる処理です」


 広場が凍った。


 神官が怒鳴る。


「黙りなさい! その娘は虚言を――」


「虚言ではありません」


 アイリスの声は冷たい。


「術式痕跡、起動済み。対象離脱により照準喪失。出力は壇中央へ着弾しました」


「貴様……!」


 神官がアイリスへ歩み寄ろうとする。


 その前に、エリシアが一歩前に出た。


「下がりなさい」


「殿下、しかし――」


「下がりなさいと言いました」


 神官が止まる。


 エリシアの声は震えていなかった。


 王女の声だった。


 彼女は焼けた壇を見た。

 神託碑を見た。

 神官を見た。


 そして、最後に俺を見た。


「あなた」


「はい」


「名前は」


「……ルカ」


 隣でアイリスが口を開きかけた。


 俺は全力で遮る。


「ルカ・アーデル。どっちも本名です。偽名じゃありません」


「聞いていないことまで答えるのね」


「さっき、それで疑われたので」


 エリシアは一瞬だけ目を細めた。


 笑ったわけではない。

 たぶん。


「あなたは、私を助けたと言ったわね」


「ああ」


「その方法が、王女を抱えて壇から転がり落ちることだったと」


「他に何もなかった」


 言った瞬間、詰所でラインハルトに言った言葉と同じだと気づいた。


 他に何もなかった。


 いつもそうだ。


 俺には剣もない。

 魔法もない。

 権力もない。

 正しい説明もできない。


 ただ、壊れている場所が少しだけ分かる。


 だから、手を出すしかない。


 エリシアはしばらく俺を見ていた。


 その青い瞳に、怒りと困惑と、ほんの少しの恐怖が混じっていた。


 神託碑がまた光った。


 青白い文字が浮かぶ。


 王家更新の儀、異常発生。

 第二王女、緊急保護対象。

 妨害因子を捕縛せよ。


 妨害因子。


 俺のことか。


 神託碑の光が、俺を見ているようだった。


 見ているようで、見ていない。


 エリシアがその文字を見上げる。


 自分の名前ではなく、緊急保護対象と書かれた神託を。


 俺は手首の革紐を引きちぎった。


 皮膚が切れて、血がにじむ。


「アイリス」


「はい」


「逃げるぞ」


「了解しました」


 エリシアが俺を睨む。


「私は逃げるとは言っていないわ」


「じゃあ残るのか」


「私は王女よ。王城から逃げる理由が――」


 黒く焼けた壇が、ぱきりと音を立てた。


 エリシアは言葉を止める。


 理由なら、そこにあった。


 白石の上に、黒く焼けた穴が開いている。


 彼女が立っていた場所に。


「殿下」


 ラインハルトが言った。


 彼は剣を下げている。

 だが、鞘には戻していない。


「今は、退避を」


 エリシアが彼を見る。


「あなたも、そう言うの」


「はい」


「近衛騎士として?」


「近衛騎士としてです」


 ラインハルトはまっすぐ答えた。


「殿下の安全を最優先します」


 エリシアは唇を結んだ。


 神官が叫ぶ。


「なりません! 王家更新の儀はまだ――」


「黙りなさい」


 エリシアの声が鋭く響いた。


 神官が息を呑む。


「私の立っていた場所が焼けました。これを儀式だと言うなら、私は今、その儀式を拒みます」


 広場がざわめいた。


 王女が神託の儀式を拒んだ。


 その事実が、人々の間を波のように広がる。


 ラインハルトが一歩前へ出る。


「殿下、こちらへ」


 彼は王城側ではなく、広場の脇へ視線を向けた。


 逃げ道。


 いや、退避路だ。


 近衛騎士らしい言い方をすれば。


 アイリスが小さく言う。


「左路地より旧水路入口へ接続可能です」


「何で知ってるの」


 エリシアが即座に聞いた。


 アイリスは胸を張る。


「私は古代文明の最高傑作です」


「説明になっていないわ」


「よく言われます」


「本当に言われてるんだよ」


 俺はエリシアの手を取ろうとした。


 彼女はその手を見た。


 血がついている。


 革紐で擦れた血だ。


 エリシアは一瞬だけ眉を動かした。


「……勝手に触らないで」


「悪い。でも走れるか」


「走れるわ」


「ドレスで?」


「王女を甘く見ないことね」


 言うが早いか、エリシアはドレスの裾を片手で持ち上げた。


 思ったより動ける。


 だが、兵士たちも動き出していた。


「王女殿下を保護しろ!」

「妨害因子を捕らえろ!」

「銀髪の娘もだ!」


 神託碑の光が強くなる。


 まるで、広場全体に命令しているみたいだった。


 アイリスが言う。


「アーデル、追跡者多数。最短経路は壁面経由です」


「また壁か!」


「壁は道です」


「違う!」


 エリシアが息を呑む。


「この状況で言い合いをする余裕があるの?」


「ない!」


「なら走りなさい!」


 王女に怒鳴られて、俺は走り出した。


 アイリスが左を指す。


「左です」


「左は兵士がいる!」


「突破可能です」


「穏便な道は!?」


「ありません」


「だろうな!」


 ラインハルトが兵士たちの前に立ち、剣を構えた。


「王女殿下の退避を優先する! 道を空けろ!」


「ラインハルト卿、命令は――」


「道を空けろ!」


 その声で、一瞬だけ兵士の列が割れた。


 完全な味方ではない。


 彼は俺たちを逃がすために戦っているわけじゃない。


 エリシアを守るために動いている。


 それで十分だった。


「行け!」


 ラインハルトが叫ぶ。


 俺はエリシアを見た。


 エリシアは悔しそうに唇を噛み、それでも走った。


 アイリスが隣を滑るように進む。


 俺はその後を追う。


 背後で神官の声が響いた。


「神託に背く気ですか、殿下!」


 エリシアは振り返らなかった。


 王家の旗が風に鳴る。


 青白い神託碑の光が、背中に刺さる。


 俺たちは広場の脇道へ飛び込んだ。


 その瞬間、アイリスが言った。


「王女誘拐後の逃走経路へ移行します」


「だから言うな!」


 エリシアが横から鋭く言う。


「王女誘拐後?」


 俺は走りながら叫んだ。


「違う! これは退避だ!」


 アイリスが首を傾げる。


「現象としては誘拐です」


「現象で語るな!」


 エリシアが俺を睨む。


「後で説明してもらうわ」


「今じゃなくて助かる!」


「逃げ切れたらの話よ」


 背後から足音が迫る。


 兵士たちの怒声。

 神官の叫び。

 群衆の悲鳴。

 神託碑の光。


 全部が背中を追ってくる。


 俺は血のにじむ手首を握った。


 エリシアは隣を走っている。


 アイリスは前方を見ている。


 ラインハルトの声は、もう聞こえない。


 だけど、一瞬だけ開いた道があった。


 それだけで、俺たちはまだ走れている。


 王女を救うために来た。


 王女に警告するはずだった。


 自己紹介すら、まともにできなかった。


 そして今。


 俺は本当に、王女を連れて逃げている。


 どう見ても誘拐犯だった。


 でも、エリシアが立っていた壇には、黒く焼けた穴が残っている。


 それだけは、もう消えない。


 アイリスが前方を指した。


「右です」


「右は壁だ!」


「登れます」


「人間は壁を道に含めない!」


 エリシアが息を切らしながら言った。


「あなたたち、いつもこうなの?」


 俺は答えた。


「だいたい、こいつのせいだ!」


 アイリスは胸を張る。


「私は古代文明の最高傑作です」


「今それ関係ある!?」


 王城前の鐘が鳴り響く。


 背後で、神託碑が新しい文字を冷たく吐き出し続けていた。

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