王女誘拐、決行
王城脇の警備詰所には、窓が一つしかなかった。
高い位置にある、小さな窓だ。
そこから差し込む光は細く、石の壁に白い線を引いている。
俺は椅子に座らされていた。
両手は革紐で縛られたまま。
足元には、さっき屋根の上で散らばった工具の代わりに、冷たい石床だけがある。
ヤスリは戻ってきた。
針金も、炭の欠片も、兵士が拾って机の端に置いた。
ただ、小さな釘は一本足りなかった。
屋根の端から落ちたやつだ。
そんなもの、今気にしている場合じゃない。
分かっている。
でも、分かっていても、目が机の端に行く。
残った針金。
欠けたヤスリ。
炭の欠片。
革紐。
壊れたものと、縛るもの。
まったく、ろくな組み合わせじゃない。
「アーデル」
隣でアイリスが言った。
「何だ」
「現状確認を行います」
「やめろ。嫌な予感しかしない」
「拘束。監視。王女接触失敗。社会的信用低下。所持工具の一部喪失」
「やめろって言っただろ」
「精神的負荷が高い状態です」
「お前が上げてるんだよ」
アイリスは平然としている。
いや、平然としているように見えるだけかもしれない。
彼女の瞳は、ときどき細かく明滅していた。
王女の足元にあった黒い線を見てから、ずっとだ。
白石の壇。
金の模様。
その下に隠れた黒い線。
システムによる対象個体の消去術式痕跡。
アイリスはそう言った。
短剣を持った誰かが王女を狙っているんじゃない。
王女が立つ場所そのものが、もう仕掛けられている。
俺は手首を動かした。
革紐が皮膚に食い込む。
痛い。
痛いが、動かないわけではない。
ラインハルト・クロウ。
あの若い近衛騎士は、詰所を出てから戻ってきていない。
確認すると言った。
この目で確かめると。
信じたわけじゃない。
でも、完全には無視しなかった。
それが今の俺たちに残された、ほとんど唯一の道だった。
「アーデル」
「何だよ」
「拘束解除を試みますか」
「やめろ」
「可能です」
「やめろ」
「左手首の革紐は、摩擦による繊維損傷が進行中です。机上の欠損ヤスリを使用すれば、解除成功率は上昇します」
「監視が三人いるだろ」
俺は視線だけで周囲を見る。
詰所の壁際に兵士が三人。
一人は扉の近く。
一人は窓の下。
一人は俺たちの背後。
全員、こちらを見ている。
いや、一人だけ机の右脚を見ていた。
さっきアイリスが腐食を言い当てた脚だ。
気になるのは分かる。
俺も気になる。
「監視個体三名。注意分散中。突破可能です」
「突破するな」
「では、机の右脚を破壊して注意を逸らします」
「もっとするな」
「不条理です」
「お前の案がだよ」
その時、扉の外で足音がした。
兵士たちが姿勢を正す。
扉が開く。
ラインハルトが戻ってきた。
顔色は変わらない。
だが、さっきより少しだけ目が硬い。
彼は俺たちの前に立った。
「連れていく」
「どこへ」
「儀式場の近くまでだ」
俺は思わず立ち上がりかけた。
背後の兵士が肩を押さえる。
「本当に確認するのか」
「お前たちの言葉を信じたわけではない」
「分かってる」
「だが、王女殿下の警備に関わる危険情報を放置することもできない」
ラインハルトはそう言って、机の上の包み紙を手に取った。
油が染みた紙。
炭の文字。
神託を疑え。
彼はそれを折り、また懐に入れた。
「不審者の供述確認として扱う。余計なことをすれば、今度こそ牢へ送る」
「今も似たようなものだろ」
「まだ椅子がある」
「比較対象が低い」
アイリスが言った。
「拘束状態を利用した王女接近経路です。学習しました」
「学習するな」
「次回以降、捕縛を前提とした接近案を追加します」
「追加するな!」
ラインハルトの眉が動いた。
「次回を想定するな」
「同意見だ」
俺は本気で言った。
兵士が俺を立たせる。
革紐は外されなかった。
むしろ、片方の兵士が俺の腕を掴み、もう片方がアイリスの横に立った。
アイリスは手を縛られていない。
だが、彼女が何かしようとすれば、すぐに止めるつもりなのだろう。
止められるかどうかは別として。
詰所を出ると、王城前の空気はさっきより重くなっていた。
人が増えている。
儀式の時刻が近いのだ。
白い石畳。
王家の旗。
青と金の布。
花を持った子どもたち。
整列する兵士。
白衣の神官たち。
中央広場の奥に、白石の壇がある。
遠目には、ただ美しい儀式台に見える。
丸い壇。
金の模様。
王家の紋章。
その下に黒い線があるなんて、誰も思わない。
誰も。
たぶん、王女本人でさえ。
「止まるな」
兵士が俺の腕を引く。
俺たちは群衆の外側ではなく、兵士用の通路を進んだ。
白い柵の内側。
昨日までは近づくことすらできなかった場所だ。
今は拘束されたまま歩いている。
ひどい近道だ。
「アーデル」
アイリスが隣で言う。
「今度は何だ」
「接触制限区域への侵入成功。拘束状態は移動許可証として機能しています」
「絶対に間違って覚えるな」
「人間社会の制度は複雑です」
「今のは制度じゃない。不審者の扱いだ」
「不審者は有用です」
「自分の人生で聞きたくない言葉だった」
ラインハルトが低く言う。
「黙って歩け」
俺は黙った。
アイリスも、一応黙った。
一応だ。
彼女の瞳はずっと壇を見ている。
神官たちが白石の壇の周囲に並んでいた。
王城門の前には、背の高い神託碑がある。
まだ光っていない。
だが、石の奥に青白いものが眠っているように見えた。
俺は胸の奥がざわつくのを感じた。
あれはただの石じゃない。
神の言葉を映す板でもない。
何かを受け取って、何かを出している。
父さんなら、そう言っただろうか。
構造を見れば分かる。
見えない。
俺にはまだ、神託の構造なんて分からない。
でも、壇の金の線と、神託碑の青白い光と、アイリスの低い声が、どこかで繋がっている気がした。
「ラインハルト卿」
白衣の神官がこちらへ歩いてきた。
細い顔の男だった。
目元は笑っているのに、目は少しも笑っていない。
「その者たちは?」
「王女殿下への不審な接触を試みた者です」
「そのような者を、なぜ儀式場へ」
「供述確認です。王女殿下の警備に関わる危険情報を得ました」
神官の目が、わずかに細くなる。
「危険情報?」
「儀式陣に異常がある可能性があるとの供述です」
神官は静かに笑った。
「王家の儀式陣に、異常などあり得ません」
「確認します」
「それは神官の領分です」
「王女殿下の警備は近衛の領分です」
空気が硬くなった。
ラインハルトは一歩も引かない。
神官はしばらく彼を見た。
それから、俺たちを見た。
「その男が、神託を疑えと書いた不届き者ですか」
懐の包み紙を見なくても、知っている。
伝わるのが早すぎる。
俺は息を呑んだ。
ラインハルトも、それに気づいたのかもしれない。
表情は変わらないが、右手の指が一度だけ動いた。
「供述の内容は、私が確認します」
「よいでしょう」
神官は柔らかく言った。
「ですが、儀式は間もなく始まります。王女殿下を不安にさせるような振る舞いは慎んでください」
「承知しています」
「神託は、王家を守ります」
神官はそう言って、壇へ戻っていった。
守る。
その言葉が、石畳に落ちたみたいに重かった。
俺は背中の後ろで、縛られた手首を密かに捻っていた。
左袖の内側に落とし込んだ欠けたヤスリの角が、革紐に当たる。
痛い。
手首の皮膚も一緒に削れて、熱いものが滲むのが分かった。
でも、止められない。
ぎり、と繊維が裂ける小さな手応えがあった。
まだ切れない。
でも、弱っている。
あと一度、強く引けば。
たぶん、切れる。
「アイリス」
俺は小声で言った。
「はい」
「あの壇、今は見えるか」
「昼光条件下では視認困難です」
「解析は」
「魔力流路は存在します。ただし、表層儀式線の下層に隠蔽されています」
「つまり?」
「見えないようにしてあります」
やっぱり。
ラインハルトが俺たちの会話を聞いていた。
「本当に、何かあるのか」
彼の声は低い。
俺は答えようとして、言葉に詰まった。
ある、と言いたい。
でも、今この場で俺が説明できるものは何もない。
見えた。
アイリスが解析した。
神託出力と同期している。
そんな言葉で、王家の儀式を止められるわけがない。
アイリスが代わりに言った。
「あります」
「根拠は」
「構造反応」
「人間に分かる言葉で言え」
「王女個体が壇の中央へ立つと、足元の術式が対象固定を開始します」
ラインハルトの目がわずかに動く。
「対象固定」
「はい」
「それは、儀式の一部ではないのか」
「儀式の一部です」
俺はアイリスを見た。
「おい」
アイリスは続けた。
「ただし、祝福ではありません」
ラインハルトは黙った。
俺も黙った。
人々のざわめきが遠くなる。
その時、広場の奥で鐘が鳴った。
一度。
低く、長く。
王城門が開く。
王女エリシア・レーヴェンが姿を見せた。
白と青のドレス。
金の髪。
背筋をまっすぐに伸ばした姿。
胸元には、青いペンダント。
彼女は笑っていなかった。
でも、怯えてもいなかった。
王女として、そこに立っていた。
群衆が一斉に頭を下げる。
「第二王女殿下……」
「神託に選ばれし王家の姫君……」
「王家更新の儀だ……」
ささやきが波のように広がる。
エリシアは壇の前で足を止めた。
神官が一礼する。
「殿下。神意に従い、認証位置へ」
認証位置。
俺の手首に巻かれた革紐が、急にきつくなったような気がした。
エリシアは壇を見た。
ほんの少しだけ、足が止まる。
あの時。
第6話で、俺と目が合った時のことを思い出したのかもしれない。
油染みの包み紙。
槍に弾かれた警告。
不審者の叫び声。
王家更新の儀は危険。
神託を疑え。
届かなかったはずの警告が、ほんの少しだけ彼女の中に残っているのかもしれない。
しかし神官が、もう一度促した。
「殿下」
エリシアは顎を上げた。
そして、一歩踏み出した。
アイリスの瞳が明滅した。
「対象個体、儀式範囲へ進入」
「アイリス」
「下層術式、待機状態から遷移」
神託碑が青白く光り始めた。
広場が静まり返る。
石碑に文字が浮かぶ。
王家更新の儀、開始。
群衆が息を呑んだ。
さらに文字が続く。
対象個体、認証位置へ。
俺は叫びそうになった。
ラインハルトの腕が俺の前に出る。
「動くな」
「止めろ!」
「まだだ」
「まだって何だよ!」
「確証がない」
ラインハルトの声は硬かった。
硬すぎるほどに。
彼は迷っている。
王女を守るために儀式を止めるべきか。
王女を守るために儀式を守るべきか。
その迷いが、たった一瞬、彼の足を縛っていた。
アイリスが言った。
「対象固定、開始」
エリシアが壇の中央へ近づく。
白石の中央。
金の線の交差する場所。
「神託出力との同期を確認」
青白い光が神託碑から壇へ流れた。
普通の人間には、たぶん祝福の光に見える。
俺には。
古代遺跡の制御盤の奥で、魔力が詰まった時の嫌な震えに似て見えた。
「消去術式、起動準備」
アイリスの声が低くなる。
「アーデル」
「分かってる」
「間に合いません」
その言葉で、何かが切れた。
俺は走り出した。
両手を縛られたまま。
兵士が腕を掴もうとする。
俺は肩でぶつかった。
転びかける。
足元が滑る。
でも止まらない。
「止まれ!」
ラインハルトの声が飛ぶ。
止まれない。
エリシアがこちらを向いた。
青い瞳。
あの時と同じ色だった。
「そこから離れろ!」
俺は叫んだ。
声が広場に響く。
群衆がざわめく。
神官が顔を歪めた。
「取り押さえなさい!」
兵士が動く。
でも、俺の方が先に壇へ近かった。
いや、違う。
近いんじゃない。
俺が勝手に飛び込んでいるだけだ。
エリシアは俺を見て、目を見開いた。
「あなたは――」
「離れろ!」
「何を――」
神官の手が、エリシアの背中に伸びる。
「殿下、認証位置へ」
その手が、王女を壇の中央へ押そうとしているように見えた。
俺は歯を食いしばった。
背中の後ろで、手首を思いきり引いた。
革紐が皮膚を裂く。
熱い痛みが走る。
ぶつり、と何かが切れた。
完全には自由じゃない。
でも、腕は前に出せる。
アイリスの声が背後から飛ぶ。
「右肩から接触。対象を壇外へ押し出してください」
「説明が遅い!」
「実行してください」
俺は壇へ飛び込んだ。
エリシアの目が大きくなる。
神官が叫ぶ。
「不敬者!」
俺はエリシアの腕を取った。
手首はまだ縛られている。
だから抱えるというより、体ごとぶつかるしかない。
「ごめん!」
「え――」
俺はエリシアを抱え込むようにして、壇の外へ転がった。
白いドレスが石畳に広がる。
俺の肩が地面に打ちつけられる。
息が詰まる。
エリシアの髪が頬に触れた。
甘い香りがした。
そんなことを思っている場合じゃない。
次の瞬間。
黒い光が落ちた。
音はなかった。
いや、あったのかもしれない。
耳が聞く前に、身体が先に震えた。
エリシアが立っていた場所。
白石の壇の中央。
そこへ、細い黒い柱のような光が突き刺さった。
金の儀式線が黒く焼ける。
白石がひび割れる。
花びらが舞い上がり、空中で灰になった。
群衆の歓声が、悲鳴に変わるまで、一拍遅れた。
「きゃああああああっ!」
「何だ!?」
「儀式が……!」
「王女殿下!」
俺はエリシアを抱えたまま、石畳の上で息をしていた。
肩が痛い。
手首が痛い。
頭も打った。
俺の下で、エリシアが身じろぎした。
「……あなた」
声が低い。
怒っている。
ものすごく怒っている。
俺は顔を上げた。
エリシアの青い瞳が、至近距離で俺を睨んでいた。
「何をしているの」
俺は息を切らしながら答えた。
「助けた」
エリシアは、俺の後ろを見た。
焼けた壇。
黒く焦げた儀式線。
砕けた白石。
ほんの少しだけ、彼女の瞳が揺れた。
でも、すぐに俺を睨み直す。
「どう見ても誘拐犯の動きだったわ」
「今それ言うか!?」
アイリスが駆け寄ってきた。
銀髪が揺れる。
表情はいつも通りに見える。
でも、瞳の光はまだ激しく明滅していた。
「対象個体エリシア・レーヴェンの生存を確認」
「おい、アイリス」
「王女誘拐、成功です」
「言うな!」
俺の叫びが広場に響いた。
その直後、兵士たちが一斉に剣を抜いた。
「王女殿下から離れろ!」
「不審者を捕らえろ!」
「儀式妨害だ!」
神官が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「その男を捕らえなさい! 神聖なる儀式を穢した反逆者です!」
「穢したのはどっちだよ!」
俺は立ち上がろうとする。
手首の革紐は半分切れていた。
もう少しで外れる。
でも、兵士の方が早い。
剣が近づく。
その時、金属音が響いた。
ラインハルトが剣を抜き、兵士の前に立っていた。
「下がれ」
兵士たちが固まる。
「ラインハルト卿?」
「王女殿下を確認する。不用意に近づくな」
「しかし、その男は――」
「下がれと言った」
声は低い。
だが、誰も逆らわなかった。
ラインハルトは俺を見た。
それから、焼けた壇を見た。
そして、エリシアを見る。
「殿下。お怪我は」
エリシアはゆっくりと立ち上がった。
ドレスの裾が汚れている。
髪も少し乱れている。
それでも、背筋はまっすぐだった。
「ありません」
「それは何よりです」
ラインハルトは一瞬だけ目を閉じた。
その仕草は、本当にわずかだった。
安堵したのだと、俺には分かった。
神官が叫ぶ。
「ラインハルト卿! その男を即刻捕縛しなさい! 王女殿下を壇から引きずり下ろしたのですよ!」
ラインハルトは神官を見た。
「壇には、何が起きた」
「儀式妨害による魔力暴走です!」
「魔力暴走にしては、殿下の立ち位置だけが焼けている」
神官の顔が強張る。
「それは……神意の乱れです」
「神意の乱れ」
ラインハルトは繰り返した。
その声に、何か冷たいものが混じった。
神官は黙る。
エリシアが焼けた壇を見つめていた。
彼女の顔から、怒りが少しずつ消えていく。
代わりに、別のものが浮かぶ。
理解したくないものを、理解してしまった顔。
「私は」
エリシアが呟いた。
「そこに立っていたのね」
誰も答えなかった。
アイリスだけが言う。
「はい。認証位置です」
「認証……?」
「対象個体を固定し、消去術式を同期させる位置です」
「消去って何」
エリシアの声は静かだった。
静かすぎて、怖かった。
アイリスは答える。
「あなたの生命活動を停止させる処理です」
広場が凍った。
神官が怒鳴る。
「黙りなさい! その娘は虚言を――」
「虚言ではありません」
アイリスの声は冷たい。
「術式痕跡、起動済み。対象離脱により照準喪失。出力は壇中央へ着弾しました」
「貴様……!」
神官がアイリスへ歩み寄ろうとする。
その前に、エリシアが一歩前に出た。
「下がりなさい」
「殿下、しかし――」
「下がりなさいと言いました」
神官が止まる。
エリシアの声は震えていなかった。
王女の声だった。
彼女は焼けた壇を見た。
神託碑を見た。
神官を見た。
そして、最後に俺を見た。
「あなた」
「はい」
「名前は」
「……ルカ」
隣でアイリスが口を開きかけた。
俺は全力で遮る。
「ルカ・アーデル。どっちも本名です。偽名じゃありません」
「聞いていないことまで答えるのね」
「さっき、それで疑われたので」
エリシアは一瞬だけ目を細めた。
笑ったわけではない。
たぶん。
「あなたは、私を助けたと言ったわね」
「ああ」
「その方法が、王女を抱えて壇から転がり落ちることだったと」
「他に何もなかった」
言った瞬間、詰所でラインハルトに言った言葉と同じだと気づいた。
他に何もなかった。
いつもそうだ。
俺には剣もない。
魔法もない。
権力もない。
正しい説明もできない。
ただ、壊れている場所が少しだけ分かる。
だから、手を出すしかない。
エリシアはしばらく俺を見ていた。
その青い瞳に、怒りと困惑と、ほんの少しの恐怖が混じっていた。
神託碑がまた光った。
青白い文字が浮かぶ。
王家更新の儀、異常発生。
第二王女、緊急保護対象。
妨害因子を捕縛せよ。
妨害因子。
俺のことか。
神託碑の光が、俺を見ているようだった。
見ているようで、見ていない。
エリシアがその文字を見上げる。
自分の名前ではなく、緊急保護対象と書かれた神託を。
俺は手首の革紐を引きちぎった。
皮膚が切れて、血がにじむ。
「アイリス」
「はい」
「逃げるぞ」
「了解しました」
エリシアが俺を睨む。
「私は逃げるとは言っていないわ」
「じゃあ残るのか」
「私は王女よ。王城から逃げる理由が――」
黒く焼けた壇が、ぱきりと音を立てた。
エリシアは言葉を止める。
理由なら、そこにあった。
白石の上に、黒く焼けた穴が開いている。
彼女が立っていた場所に。
「殿下」
ラインハルトが言った。
彼は剣を下げている。
だが、鞘には戻していない。
「今は、退避を」
エリシアが彼を見る。
「あなたも、そう言うの」
「はい」
「近衛騎士として?」
「近衛騎士としてです」
ラインハルトはまっすぐ答えた。
「殿下の安全を最優先します」
エリシアは唇を結んだ。
神官が叫ぶ。
「なりません! 王家更新の儀はまだ――」
「黙りなさい」
エリシアの声が鋭く響いた。
神官が息を呑む。
「私の立っていた場所が焼けました。これを儀式だと言うなら、私は今、その儀式を拒みます」
広場がざわめいた。
王女が神託の儀式を拒んだ。
その事実が、人々の間を波のように広がる。
ラインハルトが一歩前へ出る。
「殿下、こちらへ」
彼は王城側ではなく、広場の脇へ視線を向けた。
逃げ道。
いや、退避路だ。
近衛騎士らしい言い方をすれば。
アイリスが小さく言う。
「左路地より旧水路入口へ接続可能です」
「何で知ってるの」
エリシアが即座に聞いた。
アイリスは胸を張る。
「私は古代文明の最高傑作です」
「説明になっていないわ」
「よく言われます」
「本当に言われてるんだよ」
俺はエリシアの手を取ろうとした。
彼女はその手を見た。
血がついている。
革紐で擦れた血だ。
エリシアは一瞬だけ眉を動かした。
「……勝手に触らないで」
「悪い。でも走れるか」
「走れるわ」
「ドレスで?」
「王女を甘く見ないことね」
言うが早いか、エリシアはドレスの裾を片手で持ち上げた。
思ったより動ける。
だが、兵士たちも動き出していた。
「王女殿下を保護しろ!」
「妨害因子を捕らえろ!」
「銀髪の娘もだ!」
神託碑の光が強くなる。
まるで、広場全体に命令しているみたいだった。
アイリスが言う。
「アーデル、追跡者多数。最短経路は壁面経由です」
「また壁か!」
「壁は道です」
「違う!」
エリシアが息を呑む。
「この状況で言い合いをする余裕があるの?」
「ない!」
「なら走りなさい!」
王女に怒鳴られて、俺は走り出した。
アイリスが左を指す。
「左です」
「左は兵士がいる!」
「突破可能です」
「穏便な道は!?」
「ありません」
「だろうな!」
ラインハルトが兵士たちの前に立ち、剣を構えた。
「王女殿下の退避を優先する! 道を空けろ!」
「ラインハルト卿、命令は――」
「道を空けろ!」
その声で、一瞬だけ兵士の列が割れた。
完全な味方ではない。
彼は俺たちを逃がすために戦っているわけじゃない。
エリシアを守るために動いている。
それで十分だった。
「行け!」
ラインハルトが叫ぶ。
俺はエリシアを見た。
エリシアは悔しそうに唇を噛み、それでも走った。
アイリスが隣を滑るように進む。
俺はその後を追う。
背後で神官の声が響いた。
「神託に背く気ですか、殿下!」
エリシアは振り返らなかった。
王家の旗が風に鳴る。
青白い神託碑の光が、背中に刺さる。
俺たちは広場の脇道へ飛び込んだ。
その瞬間、アイリスが言った。
「王女誘拐後の逃走経路へ移行します」
「だから言うな!」
エリシアが横から鋭く言う。
「王女誘拐後?」
俺は走りながら叫んだ。
「違う! これは退避だ!」
アイリスが首を傾げる。
「現象としては誘拐です」
「現象で語るな!」
エリシアが俺を睨む。
「後で説明してもらうわ」
「今じゃなくて助かる!」
「逃げ切れたらの話よ」
背後から足音が迫る。
兵士たちの怒声。
神官の叫び。
群衆の悲鳴。
神託碑の光。
全部が背中を追ってくる。
俺は血のにじむ手首を握った。
エリシアは隣を走っている。
アイリスは前方を見ている。
ラインハルトの声は、もう聞こえない。
だけど、一瞬だけ開いた道があった。
それだけで、俺たちはまだ走れている。
王女を救うために来た。
王女に警告するはずだった。
自己紹介すら、まともにできなかった。
そして今。
俺は本当に、王女を連れて逃げている。
どう見ても誘拐犯だった。
でも、エリシアが立っていた壇には、黒く焼けた穴が残っている。
それだけは、もう消えない。
アイリスが前方を指した。
「右です」
「右は壁だ!」
「登れます」
「人間は壁を道に含めない!」
エリシアが息を切らしながら言った。
「あなたたち、いつもこうなの?」
俺は答えた。
「だいたい、こいつのせいだ!」
アイリスは胸を張る。
「私は古代文明の最高傑作です」
「今それ関係ある!?」
王城前の鐘が鳴り響く。
背後で、神託碑が新しい文字を冷たく吐き出し続けていた。




