王女はまだ俺を誘拐犯と呼ぶ
古代の通路は、王都の下にあるとは思えないほど静かだった。
さっきまで頭上では鐘が鳴り、兵士が叫び、神託碑が青白い文字を吐き出していた。
けれど、石扉が閉じた途端、それらは全部、厚い壁の向こうへ押し込められた。
残ったのは、俺たち三人の息遣いだけだった。
俺。
アイリス。
エリシア。
王女誘拐犯。
古代文明の最高傑作。
逃げてきた第二王女。
やっぱり、ひどい組み合わせだ。
「アーデル」
アイリスが前方を指した。
「右です」
「右は通路なんだよな」
「はい」
「壁じゃないんだよな」
「はい」
「本当に?」
「信用が低下しています」
「自業自得だ」
右側には、黒い石でできた通路が続いていた。
床は滑らかで、王都の石畳とは違う。
壁には細い線が何本も走っている。
その線の奥を、かすかな青い光が流れていた。
生きている。
古いのに、まだ死んでいない。
俺は壁に手を当てた。
冷たい石の奥で、魔力が細く脈を打っている。
どこかで詰まりながら、それでもまだ先へ流れようとしていた。
古代遺跡で何度も感じた、あの感覚だ。
「ここ、王城の下だよな」
俺は呟いた。
エリシアが俺を見た。
「私に聞いているの?」
「王女だろ」
「王城の下にこんな場所があるとは聞いていないわ」
「王族でも?」
「王族でも、知らされることには順番があるの」
「面倒だな」
「国というのは面倒なものよ」
エリシアはそう言って、通路の壁を見た。
ドレスの裾は泥で汚れ、袖には錆と水の跡がついている。
それでも、背筋だけはまっすぐだった。
王女は王女のまま、下水みたいな道を歩いている。
なかなか奇妙な光景だった。
「あなた」
「はい」
「今、失礼なことを考えたでしょう」
「考えてない」
「間があったわね」
「ない」
「言い訳が下手ね」
「それ、さっきアイリスにも言ってただろ」
「あなたたち、似ているのかしら」
「やめろ。かなり傷つく」
「不当です」
アイリスが真顔で言った。
「私とアーデルの類似性は低いです。知性、演算速度、歴史的価値、装備品質に大きな差があります」
「どっちが上か言わなくても分かる言い方をするな」
「分かるなら説明不要です」
「腹立つなあ」
エリシアは小さく息を吐いた。
「本当に、いつもこうなのね」
「今日だけで四回目だな、その質問」
「では答えも同じ?」
「だいたい、こいつのせいだ」
「私は古代文明の最高傑作です」
「今それ関係ある!?」
声が通路に反響した。
反響が思ったより長く続く。
俺は口を閉じた。
少し遅れて、遠くから金属音がした。
閉じた石扉の向こうではない。
もっと上。
別の通路の方からだ。
追手かもしれない。
エリシアの顔が引き締まる。
「近いの?」
アイリスが壁に手を当てる。
瞳が淡く光った。
「振動伝播を確認。距離は不明。ただし、こちらの経路と完全には接続していません」
「完全には?」
「旧水路と現行排水路の接続部が複数あります。追跡者が経路を特定する可能性はあります」
「つまり、急ぐ必要がある」
「はい」
俺は歩き出した。
手首がずきりと痛む。
血は止まりかけているが、動かすたびに皮膚が引っ張られる。
ヤスリもまだ持っている。
さっきまで革紐を切り、鉄格子をこじ開け、古代扉の錆を削ったやつだ。
ただの欠けたヤスリなのに、今日だけで王女誘拐の主犯道具みたいになっている。
申し訳ない。
誰に対してかは分からない。
「ルカ・アーデル」
背後からエリシアが呼んだ。
フルネームで呼ばれると、やっぱり怒られる気がする。
「何だ」
「あなたは何者なの」
「さっきも言っただろ。ただの遺跡拾いだ」
「ただの遺跡拾いが、王家の儀式場で私を抱えて逃げるの?」
「俺もおかしいと思ってる」
「ただの遺跡拾いが、王城地下の古代扉を開けるの?」
「それもおかしいと思ってる」
「ただの遺跡拾いが、神託を疑えと王女に書き残すの?」
「……それは」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
足元に水が流れている。
薄い水が、黒い床の溝を伝って奥へ向かっていた。
「父さんが、昔言ってた」
「お父様?」
「神託は神の声じゃない。構造を見れば分かるって」
エリシアは黙った。
アイリスも何も言わなかった。
水音が、暗い通路に冷たく響くだけだった。
エリシアは俺たちを見比べた。
「あなたたちの関係が、よく分からないわ」
「俺も分からない」
「拾っただけだ」
俺が言うと、アイリスがすぐに訂正した。
「正確には、アーデルが私の封印維持装置を不適切に再起動し、仮登録状態となりました」
「拾っただけだろ」
「簡略化が過剰です」
「その方が分かりやすい」
「低精度です」
エリシアが額を押さえる。
「では、あなたはその少女を拾って、王都に来て、私を助けた結果、王女誘拐犯になったということ?」
「まとめるな。きつい」
「でも、そうでしょう」
「そうだけど」
「最悪ね」
「よく言われる」
「誰に?」
「主に今日の俺に」
エリシアは短く息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
たぶん、違う。
たぶん。
通路の先で、壁の青い線が途切れていた。
アイリスが立ち止まる。
「経路分岐です」
前方には、三つの道があった。
左は低く、天井が落ちかけている。
中央はまっすぐだが、床が水没している。
右は壁に大きな亀裂が入り、奥が暗い。
俺はアイリスを見た。
「どれだ」
「最短経路は中央です」
「水没してるぞ」
「膝上程度です」
「王女のドレスは?」
「濡れます」
「即答するな」
エリシアが中央の通路を見た。
黒い水面が、ぼんやり青い光を映している。
「別の道は?」
「左は崩落確率が高いです。右は構造不明領域へ接続しています」
「構造不明領域?」
「未登録空間です」
「つまり?」
「分かりません」
「最高傑作なのに?」
「未登録です」
「便利な言葉ね」
アイリスは少し誇らしげに頷いた。
「はい」
「褒めていないわ」
「難解です」
俺は中央の水没通路を見た。
水は黒い。
深さは分からない。
でも、流れは弱い。
通れるかもしれない。
ただ、王女のドレスが完全に終わる。
いや、もうだいぶ終わっている。
「エリシア、いけるか」
「王女を甘く見ないことね」
「三回目だ」
「必要なら何度でも言うわ」
彼女はドレスの裾を持ち上げた。
だが、足元の水を見て少しだけ顔をしかめる。
「……冷たそうね」
「たぶん冷たい」
「あなた、本当に安心させるのが下手ね」
「嘘つくよりいいだろ」
「それはそう」
エリシアは水没通路へ足を入れた。
水が跳ねる。
彼女の肩が少しだけ震えた。
「冷たいわ」
「やっぱり」
「そこは否定しなさい」
「無理だろ」
俺も水へ入った。
冷たい。
傷口に染みる。
「っ」
思わず息が漏れた。
エリシアがこちらを見る。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「今、間があったわ」
「これは痛みの間だ」
「言い訳?」
「事実」
アイリスが水に入る。
ほとんど音がしない。
水が彼女の足元で不自然に波を避けたように見えた。
「お前、濡れてない?」
「防水処理があります」
「ずるい」
「最高傑作ですので」
「今だけ本気で羨ましい」
水没通路を進む。
壁の青い線は水面の下で揺れている。
奥へ行くほど暗い。
背後の音は遠くなった。
代わりに、別の音が聞こえる。
低い唸り。
水の流れではない。
石の奥から響く、古い機械の息みたいな音だ。
「アイリス」
「はい」
「この音は?」
「旧式排水制御機構です。稼働状態は不安定」
「危ないのか」
「現在の水位では問題ありません」
「現在のって言ったな」
「はい」
その瞬間、通路の奥で何かが鳴った。
ごん、と低い音。
水面が揺れる。
エリシアが足を止めた。
「今のは?」
アイリスが前を向く。
「水門作動音」
「作動?」
次の瞬間、奥から水が押し寄せてきた。
「うわっ!」
俺は思わず壁に手をついた。
水位が一気に上がる。
膝上だった水が、太ももに届きかける。
冷たい。
重い。
流れが強い。
「アイリス!」
「旧式機構が神託出力に反応した可能性があります」
「何で神託がここに来るんだよ!」
「接続が残っています」
「嫌な残り方だな!」
エリシアが足を取られた。
「っ!」
俺は反射的に腕を伸ばす。
彼女の手を掴んだ。
水が二人の間を押し流そうとする。
エリシアの指が冷たい。
「離すなよ!」
「命令されなくても分かっているわ!」
「今のは頼みだ!」
「ならそう言いなさい!」
アイリスが前方を指す。
「右壁、保守用段差。上へ」
「右は壁だろ!」
「今回は段差です」
「そういう問題じゃない!」
水がさらに押し寄せる。
俺はエリシアの手を引いて右壁へ向かった。
壁には確かに浅い段差があった。
人が立てるほどではない。
だが、足をかければ水の流れから少し逃げられる。
俺はエリシアを先に押し上げた。
「上がれ!」
「押さないで!」
「押さないと流される!」
「なら押しなさい!」
「どっちだよ!」
エリシアが段差に足をかける。
俺も続く。
アイリスはすでに上にいた。
「誘導成功」
「お前、もうちょっと焦れ!」
「焦燥機能は現在優先度低です」
「うらやましいような、腹立つような!」
水は数秒で勢いを弱めた。
奥の水門が再び音を立てる。
流れが落ち着く。
エリシアは壁に手をつき、息を整えていた。
濡れた金髪が頬に張りついている。
ドレスはもう完全に水を吸って重そうだった。
それでも、彼女は顔を上げた。
「王女を甘く見ないことね」
「さすがに今のはもう意地だろ」
「そうよ」
即答だった。
俺は少しだけ笑いそうになった。
笑っている場合じゃない。
でも、少しだけ。
「アーデル」
アイリスが低く言った。
「前方に制御盤があります」
「水門のか?」
「はい。再作動すれば、通路全体が水没します」
「じゃあ止める」
「破壊しますか」
「止めるって言っただろ。なぜ壊すんだ」
「迅速です」
「雑だ」
水が引いた通路を進むと、壁の一部に古い制御盤があった。
半分は水に浸かっている。
石の表面にはひび。
金属の留め具は錆びている。
青い光が点滅していた。
生きている。
でも、おかしな脈を打っている。
俺は制御盤に手を当てた。
魔力の流れが分かる。
左から入って、右で詰まり、下へ逃げようとしている。
でも、下の経路は水に浸かっていて、流れが乱れている。
「アイリス、ここの右下」
「確認済みです」
「この詰まりを抜けば止まるか?」
「水門の再作動は抑制可能です。ただし、経路が古すぎます」
「何か道具は」
「ヤスリ」
「知ってる」
俺は欠けたヤスリを出した。
今日だけで酷使しすぎだ。
刃先はさらに欠けている。
もう本来のヤスリとしては半分死んでいる。
でも、まだ使える。
壊れていても、使える。
俺は右下の隙間にヤスリを差し込んだ。
浅い段差の上、足元を水流が洗っている。
少しでも体勢を崩せば、そのまま水に持っていかれる。
「エリシア、支えてくれ」
「……私が?」
「今は王女とか言ってる場合じゃない」
「言っていないわ」
エリシアは短く返すと、背後から俺の体を押さえた。
濡れたドレスが背中に触れる。
彼女の腕が、俺の胴を壁へ押しつける。
俺は血の滲む右足を、保守用段差のわずかな亀裂へ無理やり抉り込ませて、体を固定した。
指先が冷たく震えているのが、服越しに分かった。
「落ちたら怒るわよ」
「落ちた後に怒れるなら、まだましだ」
「嫌な言い方ね」
俺は両手でヤスリを握り直した。
手首の傷が開きそうになる。
でも、片手では無理だ。
エリシアが支えている今なら、両手を使える。
「右の線が強くなったら教えてくれ」
「分かったわ」
俺は錆びた石を削った。
がり。
がり。
濡れた石粉が爪に入る。
指先が滑る。
エリシアの腕に力がこもった。
「右の線が強くなったわ!」
「まだだ……!」
「下も光っている」
「アイリス、少し」
「はい」
アイリスの手から青い光が流れる。
制御盤が震えた。
水門の奥で、ぎぎ、と音がする。
「強い!」
「低出力です」
「俺にとっては強い!」
「調整します」
光が少し弱まる。
俺はもう一度、ヤスリを押し込んだ。
手首に熱い痛みが走る。
足元の亀裂に押し込んだ右足も、じんと痺れる。
エリシアの指が、俺の服を強く掴んだ。
がり、と最後の引っかかりが抜ける。
魔力の詰まりが抜けた。
制御盤の点滅が、ゆっくり落ち着く。
水門の音が止まった。
俺は壁に手をついたまま、息を吐いた。
「止まったか」
「一時的に」
「一時的かよ」
「旧式機構です」
「全部それで済ませるな」
エリシアが制御盤を見つめていた。
「あなた、本当に修理できるのね」
「壊れてるところが分かれば、少しは」
「少し?」
「今のはかなり運がよかった」
「誘拐犯に命を預けるには、嫌な言葉ね」
「まだ誘拐犯って呼ぶのか」
「まだ呼ぶわ」
アイリスが言う。
「現象としては継続中です」
「お前は黙ってろ!」
通路は水門を越えて、さらに奥へ続いていた。
床が少しずつ上がっている。
水は引き、足音が乾いた音に変わる。
壁の古代文字は増えていった。
円。
線。
記号。
見たことのない文字。
アイリスはそれを読みながら歩く。
時々、瞳が明滅する。
エリシアはそれを横目で見ていた。
「読める文字と読めない文字があるのね」
「はい」
「最高傑作なのに?」
「記録層の破損があります」
アイリスはあっさり言った。
俺は少し驚いた。
今までなら、環境が低品質だの、石が不適切だの、外部要因のせいにしていたはずだ。
エリシアも気づいたのか、少しだけ目を細める。
「破損?」
「一部記録にアクセスできません」
「それは、あなた自身の問題?」
「未確定です」
「また間がありそうね」
「先回りしないでください」
「便利な言葉を覚えたわね」
「不満です」
アイリスは前を向いた。
その歩き方はいつも通りだった。
でも、さっきより少しだけ静かだった。
通路の奥に、広い空間が現れた。
円形の部屋だ。
中央には、壊れた石柱。
壁には古い文字。
床には細い溝が何本も走っている。
昔は水を流す部屋だったのかもしれない。
あるいは、何かを認証する場所だったのかもしれない。
部屋の壁の一部に、王家の紋章があった。
その横に、見慣れない古代文字が刻まれている。
エリシアが足を止めた。
「王家の紋章……」
「王族用の避難路なんだろ」
「ええ。でも、こんな文字は知らないわ」
アイリスが壁へ近づく。
指先で文字をなぞる。
「王家認証……個体……」
その声が少し低くなる。
俺はアイリスを見た。
エリシアも見ている。
「続きは?」
「破損しています」
「本当に?」
エリシアが問う。
アイリスは振り向かなかった。
「はい」
今度は間がなかった。
けれど、そのせいで余計に不自然だった。
エリシアは何も言わなかった。
俺も言わなかった。
部屋の奥から、別の水音が聞こえた。
左側の通路だ。
アイリスがそちらを指す。
「旧水路本線です。外縁部へ接続します」
「出口に向かえるか」
「可能性はあります」
「また可能性」
「確定情報が不足しています」
「王女の知識は?」
俺がエリシアを見ると、彼女は壁の紋章から視線を外した。
「王族用の避難路には、いくつか合図があると聞いたことがあるわ。水路の壁に、小さな王冠の刻印がある方へ進め、と」
「王冠?」
「ええ」
俺たちは左の通路へ入った。
壁を探しながら進む。
しばらくして、エリシアが立ち止まった。
「あったわ」
壁の低い位置に、小さな王冠の刻印があった。
苔と汚れに隠れている。
俺だけなら見落としていた。
アイリスだけなら、古代文字ばかり見ていたかもしれない。
「こっちか」
「ええ。たぶん」
エリシアが言う。
「王女のたぶんも怖いな」
「不満なら別の道へ行けば?」
「行きません」
「賢明ね」
アイリスが王冠の刻印を見て首を傾げた。
「非効率な目印です」
「人間用だからな」
「形状認識に依存しています」
「それが普通だ」
「魔力反応を付与すべきです」
「古い避難路にそこまで求めるな」
エリシアが言う。
「でも、あなたは魔力反応の方が分かりやすいのでしょう?」
「はい」
「私は王冠の刻印の方が分かりやすいわ」
「人間は視覚情報への依存度が高いです」
「王女は、王冠を見るのに慣れているの」
「なるほど」
アイリスが真面目に頷いた。
「王女個体は王冠図形に対する認識優先度が高い」
「だから、私は対象でも個体でもないと言っているでしょう」
「では、王冠認識優先者」
「悪化しているわ」
「名前で呼べばいいだろ」
俺が言った瞬間、空気が少しだけ止まった。
アイリスがこちらを見た。
エリシアも俺を見た。
俺は自分が何を言ったのか、一拍遅れて気づいた。
「あ、いや」
アイリスはエリシアを見る。
青い瞳が、一度だけ明滅した。
「対象個体エリシア・レーヴェン」
「長いわ」
エリシアの声は冷たかった。
「私は対象ではなく、エリシアです」
アイリスは止まった。
本当に一瞬だけ。
水音が響く。
遠くで石が軋む音がした。
「登録名の使用は、現在の処理規格に含まれていません」
「それはあなたの都合でしょう」
「はい」
「なら、覚えなさい」
エリシアはまっすぐ言った。
「私はエリシア。あなたが救済対象と呼ぶ何かではないわ」
アイリスは黙った。
珍しく、すぐに言い返さなかった。
俺は口を挟まなかった。
これは俺が説明することじゃない。
アイリスはゆっくりと頷いた。
「検討します」
「検討ではなく、覚えなさい」
「難易度が高いです」
「名前を呼ぶだけよ」
「はい」
「なぜ難しいの」
「不明です」
エリシアの目が少しだけ揺れた。
怒りではない。
たぶん、初めてアイリスをただの失礼な少女ではなく、どこか壊れているものとして見た顔だった。
アイリスは前を向く。
「進みます」
それ以上は言わなかった。
通路は緩やかに上っていた。
王冠の刻印を頼りに進む。
エリシアの知識。
アイリスの解析。
俺の修理。
さっきの水門も、今の道選びも、どれか一つだけでは進めなかった。
俺は少しだけ奇妙な気分になった。
逃走中なのに。
追われているのに。
俺たちは、少しずつ形になっている。
仲間というには早すぎる。
信頼なんてまだない。
でも、同じ方向へ歩いている。
今はそれだけで十分だった。
「アーデル」
アイリスが言った。
「今度は何だ」
「前方に昇降機構があります」
「昇降?」
「上へ移動可能です」
「出口か?」
「不明です」
「またか」
通路の先には、丸い縦穴があった。
中央に古い足場。
壁に錆びた鎖。
上へ伸びる暗い穴。
昇降機というより、古い荷物用の台に見える。
エリシアが見上げる。
「これで上へ?」
「動くのか?」
俺は鎖に触れた。
錆びている。
だが、完全には切れていない。
足場の下には制御石。
青い光はない。
死んでいるように見える。
でも、奥でほんの少しだけ、魔力が残っていた。
「直せるかもしれない」
「本当に?」
エリシアが聞く。
「本当に、とは言えない」
「またそれね」
「でも、他に道は?」
アイリスが縦穴を見上げる。
「壁面を登ることも可能です」
「却下」
「まだ説明していません」
「壁を登る話だろ」
「はい」
「却下」
エリシアも即座に言った。
「私も却下するわ」
「二対一です」
アイリスは不満そうだった。
「では昇降機構の修復を推奨します」
「最初からそう言え」
俺は制御石の前にしゃがんだ。
ヤスリはもう限界に近い。
針金も少し残っている。
炭の欠片は使えない。
制御石の周囲には、黒く焼けた跡があった。
魔力が通りすぎて、焦げた跡。
俺は指先で触れる。
流れは上から下。
いや、逆だ。
下から上へ行こうとしている。
途中で焦げた接点が邪魔をしている。
「焦げたところを削って、針金でつなぐ」
「可能です」
アイリスが即答した。
「ただし、負荷に耐えられる保証はありません」
「乗ってる途中で止まるか?」
「止まる可能性があります」
「落ちるか?」
「落下の可能性もあります」
「言い方を選べ」
「昇降中断です」
「意味は変わってない」
エリシアが冷静に言う。
「それでも、壁を登るよりはましね」
「王女判断がたくましくなってきたな」
「あなたたちのせいよ」
「その通りです」
アイリスが頷く。
「肯定するな!」
俺は作業を始めた。
焦げた接点をヤスリで削る。
欠けた刃がさらに削れる。
もう道具としての寿命は短い。
けれど、まだいける。
針金を曲げる。
焦げた接点の間に挟む。
小槌はない。
代わりに、石の欠片で軽く叩く。
かん。
かん。
音が縦穴に響く。
上から小さな砂が落ちてきた。
「崩れないかしら」
「たぶん」
「その言葉、嫌いになりそう」
「俺もだ」
アイリスが制御石へ触れる。
「魔力供給準備」
「弱く」
「暫定定義を保持」
「頼むぞ」
「はい」
青い光が流れる。
制御石が一度だけ強く光った。
鎖が震える。
足場が、ぎぎ、と音を立てて動いた。
「動いた!」
俺は思わず声を上げた。
エリシアが小さく目を見開く。
「本当に直したのね」
「まだ分からない。乗ってからが問題だ」
「余計なことを言わないで」
「事実だ」
「事実でも言わないでいいことはあるのよ」
足場に乗る。
三人乗ると、ぎし、と嫌な音がした。
俺は足場の端を見た。
古い金属。
錆びた留め具。
針金で応急処置した制御石。
落ちたら痛いどころではない。
「アイリス」
「はい」
「落ちる確率は言うな」
「了解しました」
間があった。
「高いのか?」
「発言禁止項目です」
「やっぱり高いんだな!」
エリシアが俺の腕を掴んだ。
無言だった。
俺も無言で足場の柱を掴む。
アイリスが制御石へ手を当てた。
「上昇します」
足場がゆっくりと動き始めた。
ぎぎ。
ごん。
ぎし。
音が悪い。
ものすごく悪い。
でも、上がっている。
縦穴の壁には、古代文字と王冠の刻印が交互に刻まれていた。
王家の避難路。
古代の構造。
どちらが後から足されたのか分からない。
エリシアは壁を見上げていた。
「王家は、ずっとこれを使っていたのかしら」
「さあな」
「でも、王家の紋章と古代文字が一緒にある」
「そうだな」
「神託と王家は、最初から近かったのかもしれないわね」
俺は答えなかった。
答えられるほど、何も分かっていない。
アイリスも黙っていた。
その沈黙が、かえって重かった。
足場が途中で止まった。
「おい」
「停止しました」
「見れば分かる!」
「上部接続部で引っかかっています」
「直せるか?」
「外部からの衝撃が必要です」
「つまり?」
「蹴ってください」
「また力技かよ!」
足場の上部に、錆びた金具が引っかかっている。
俺は柱を掴んだまま、足で金具を蹴った。
一回。
動かない。
二回。
金具が鳴る。
三回。
足場が大きく揺れた。
エリシアが俺の腕を強く掴む。
「慎重に!」
「今のは慎重だった!」
「どこが!」
アイリスが言う。
「あと一回です」
「信じていいんだな」
「たぶん」
「最悪だ!」
俺はもう一度蹴った。
がこん、と金具が外れた。
足場が一気に半歩分上がる。
「うわっ!」
エリシアが俺にぶつかる。
俺は柱にしがみつく。
アイリスだけが平然としていた。
「接続回復」
「先に言え!」
「言いました」
「遅い!」
足場は再びゆっくり上がり始めた。
そして、しばらくして上部の通路に到着した。
俺たちは足場から降りる。
足が少し震えていた。
エリシアも壁に手をついている。
アイリスだけが平然と歩き出そうとした。
「待て」
「何ですか」
「一回休ませろ」
「時間がありません」
「分かってる。でも足が人間なんだよ」
「不便です」
「本当にそう思う」
エリシアが息を整えながら言った。
「私も、少しだけ同意するわ」
「するな、王女」
「今日はもう、王女らしくないことをいくつもしたわ」
「壁、屋根、排水溝、水路、昇降機」
「数えないで」
「ごめん」
短い休憩の後、俺たちは上部通路を進んだ。
空気が少し変わった。
湿った匂いが薄くなり、乾いた石の匂いが強くなる。
壁の青い線も、さっきより明るい。
奥に、大きな扉が見えた。
今度の扉は半分開いている。
その向こうから、淡い光が漏れていた。
「出口か?」
俺が言うと、アイリスは首を傾げた。
「外光ではありません」
「じゃあ何だ」
「記録室、または制御室の可能性があります」
「また面倒そうな場所だな」
エリシアが扉へ近づく。
壁に刻まれた王冠の印に触れる。
「ここは、避難路の中継室かもしれないわ」
「分かるのか?」
「王族の避難路には、逃げ込んだ者が状況を確認するための部屋があると聞いたことがある」
「それを早く思い出してほしかった」
「泥水に膝をついて逃げている最中に、昔聞いた話を全部思い出せると思う?」
「すみません」
エリシアは扉の隙間から中を覗いた。
俺も横から見る。
中は円形の部屋だった。
壁一面に、古代文字。
中央には、腰ほどの高さの石台。
その上に、割れた透明な石が浮いている。
記憶石に似ていた。
ただ、村で売れるような小さなものとは違う。
もっと大きく、もっと古い。
アイリスが部屋に入った瞬間、石が淡く光った。
エリシアのペンダントも、同じように光る。
「またか」
俺は呟いた。
アイリスは石台を見つめていた。
青い瞳が細かく明滅する。
「記録層、断片応答」
「読めるのか?」
「一部」
アイリスの声が低い。
部屋の壁に、青白い文字が浮かび上がった。
古代文字だった。
読めない。
でも、いくつかの形が、アイリスの口から音になる。
「王家……認証……個体」
エリシアが息を呑んだ。
アイリスは続ける。
「更新……待機……中枢……」
青い文字が乱れる。
砂嵐のように崩れる。
アイリスの瞳が強く明滅した。
「鍵」
エリシアの胸元のペンダントが、強く光った。
彼女は反射的にそれを押さえる。
「鍵……?」
アイリスが一歩、石台へ近づいた。
その瞬間、壁の文字がさらに乱れた。
「照合……失敗」
アイリスの声が揺れる。
ほんの少し。
「記録層との照合に失敗しました」
「アイリス?」
俺が呼ぶと、彼女は目を閉じた。
次に開いた時には、いつもの表情に戻っていた。
戻っているように見えた。
「この記録は破損しています」
エリシアが低く聞く。
「本当に、それだけ?」
「はい」
間はなかった。
けれど、今度はエリシアも何も言わなかった。
代わりに、彼女はペンダントを握りしめた。
その指先が、少しだけ白い。
部屋の外で、金属音が響いた。
さっきより近い。
追手が別経路から近づいている。
「長居はできないな」
俺は言った。
アイリスが頷く。
「出口方向を探索します」
「王冠の刻印は?」
エリシアが壁を見た。
部屋の奥に、小さな王冠が刻まれている。
その下に、古代文字が並んでいた。
アイリスが読む。
「外縁……森……退避」
「森へ出られるのか?」
「可能性があります」
「よし、行くぞ」
俺は走り出そうとした。
エリシアが立ち止まる。
「待って」
「何だ」
彼女は石台を見ていた。
割れた記憶石。
青白い光。
自分のペンダント。
「私は、何なの」
その声は小さかった。
王女の声ではなかった。
年相応の少女の声だった。
俺は答えられなかった。
アイリスも答えなかった。
通路の外から、兵士の声が響く。
「この先だ!」
「神託の示した反応がある!」
神託。
ここまで追ってきている。
俺はエリシアを見る。
「今は逃げる」
エリシアは俺を見た。
「答えは?」
「後で探す」
「あなたが?」
「俺だけじゃ無理だ」
俺はアイリスを見た。
それから、エリシアを見る。
「でも、ここで捕まったら、探せない」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
そして、ペンダントから手を離した。
「分かったわ」
アイリスが奥の通路を指す。
「外縁退避路へ移動します」
「今度こそ普通の道だろうな」
「はい」
俺は一瞬だけ安心した。
アイリスが続ける。
「ただし、最後に縦穴があります」
「またか!」
エリシアが深く息を吐いた。
「あなたたち、いつもこうなの?」
「今日だけで五回目だ」
「答えは?」
「だいたい、こいつのせいだ」
アイリスは胸を張った。
「私は古代文明の最高傑作です」
「今それ関係ある!?」
俺の声が、古い記録室に響いた。
背後から追手の音が迫る。
前方には、森へ続くかもしれない暗い通路。
俺たちは、王城の地下深くから、さらに奥へ走り出した。




