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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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11/30

王女が死ぬ予定だった理由

 古い記録室の奥で、追手の足音が近づいていた。


 金属が石を叩く音。


 鎧の擦れる音。


 誰かが低く命令する声。


 その全部が、扉の向こう側から響いてくる。


 俺たちは、光の消えかけた石台の前に立っていた。


 割れた透明な石。


 壁に浮かんだ青白い文字。


 そして、エリシアの胸元でまだ淡く光っている青いペンダント。


「外縁退避路へ移動します」


 アイリスが奥の通路を指す。


「早く行くぞ」


 俺は言った。


 エリシアは動かなかった。


 彼女はペンダントを握りしめたまま、石台を見ている。


「認証」


 小さく呟いた。


 さっき、アイリスが読んだ言葉だ。


 王家認証個体。


 更新処理。


 消去許容。


 出力同期。


 その単語だけが、部屋の空気に残っていた。


「エリシア」


 俺が呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。


「私は、何に認証されたの」


 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。


 アイリスは石台を見たまま、瞳を細かく明滅させている。


 俺は追手の音を聞いた。


 近い。


 ここで立ち止まっている時間はない。


 でも、エリシアの足が動かない理由も分かる。


 さっきまで王女だった。


 神託に守られる王家の娘だった。


 それが今は、地下の古代文字に「認証個体」と呼ばれている。


 たぶん、俺なら叫んでいる。


 エリシアは叫ばなかった。


 ただ、顎を上げて、アイリスを見た。


「答えなさい。あなたは、何を読んだの」


「記録は破損しています」


「それは聞いたわ」


「完全な回答は不可能です」


「完全でなくていい」


 エリシアの声が鋭くなる。


「あなたが読めたものだけ言いなさい」


 アイリスは沈黙した。


 少しだけ。


 エリシアの眉が動く。


「また、間があったわね」


「処理中です」


「なら、処理した結果を言いなさい」


「要求を受理」


 アイリスは石台へ手を伸ばした。


 青い光が、再び壁に走る。


 割れた透明な石が、かすかに震えた。


「記録層へ再接続します」


「大丈夫なのか」


 俺が聞くと、アイリスは平然と答えた。


「大丈夫です」


 間がなかった。


 それが逆に怖かった。


 アイリスの指先が石台に触れる。


 次の瞬間、壁一面の古代文字が乱れた。


 青白い線が走り、途切れ、また繋がる。


 水面に映った月が割れるみたいに、文字が揺れていた。


「王家……認証個体……」


 アイリスの声が低い。


「更新処理……待機……」


 エリシアの指が、ペンダントに強くかかる。


「続けて」


「消去……許容……」


 部屋の空気が、一段冷えた。


 エリシアは動かなかった。


「出力同期……儀式場……認証位置……」


 青い文字が激しく崩れた。


 アイリスの瞳も、それに合わせて明滅する。


「神託出力……接続……更新……」


 エリシアが一歩、石台へ近づいた。


「私が立っていた場所」


 誰も答えない。


 エリシアは続けた。


「あの壇の中央が、認証位置だったのね」


 アイリスは静かに言う。


「はい」


 今度は間がなかった。


 エリシアの顔から、色が少し抜けた。


 それでも、声だけは折れなかった。


「私は、神託に選ばれた王女として、あそこに立つはずだった」


「はい」


「そして、私は消される予定だった」


 アイリスの瞳が一度だけ明滅した。


「記録上は、その可能性が高いです」


「可能性?」


「完全な記録ではありません」


「便利な逃げ方ね」


「逃げていません」


「では言い換えるわ」


 エリシアはペンダントを握る。


「私は、王家更新の儀に組み込まれていた」


「はい」


 その一言は、石より重かった。


 外で、兵士の声が大きくなる。


「この先だ!」


「反応が近い!」


 俺は扉の方を見た。


「まずい。もう来る」


 アイリスが石台から手を離す。


 壁の文字が薄れる。


「外縁退避路へ移動します」


 エリシアはまだ動かない。


「待って」


「待てない」


 俺は言った。


「捕まったら、また儀式場に戻されるかもしれない」


「分かっているわ」


「じゃあ」


「でも、今聞かなければ、私は自分が何なのかも分からないまま逃げることになる」


 エリシアは俺を見た。


 怒っているわけではなかった。


 怯えているわけでもない。


 ただ、必死だった。


「私は王女よ。自分が何に使われようとしていたのかも知らずに、ただ逃げるだけなんてできない」


 俺は言葉に詰まった。


 王女らしい。


 意地っ張りで、面倒で、でも逃げない。


「アイリス」


 俺は短く言った。


「あと何が読める」


「断片のみ」


「断片でいい。短く」


「了解しました」


 アイリスはもう一度、石台に手を触れた。


 青白い光が、今度は弱く走る。


「王家認証個体。血統維持。更新処理。神託出力同期。消去許容」


 単語だけが落ちていく。


 誰かが作った記録の残骸みたいに。


「第二王女……」


 エリシアが息を呑む。


 壁の文字が一瞬だけ濃くなる。


「エリシア……レーヴェン……」


 アイリスの声が止まった。


 部屋が静かになる。


 エリシアの名前だけが、青白い文字の中に残っていた。


 対象個体でも、緊急保護対象でもない。


 名前だった。


 エリシアは、それを見つめた。


「今、私の名前があったわ」


「はい」


 アイリスの声は低い。


「でも、神託碑には出なかった」


「神託碑の表層出力では、処理分類が優先されます」


「表層出力?」


「人間が見る神託文です」


 エリシアの顔が固まった。


「人間が見る、神託文」


 アイリスは頷く。


「はい」


「では、裏側には別の記録があるのね」


「あります」


 今度は、エリシアが黙った。


 その沈黙に、追手の音が入り込んでくる。


 扉の向こうで、何かがぶつかる音がした。


 兵士が近い。


「行くぞ!」


 俺はエリシアの腕を掴もうとして、止めた。


 勝手に掴めば、また怒られる。


 エリシアはそれに気づいたのか、短く言った。


「走るわ」


「助かる」


「ただし、私はまだあなたを許していない」


「今それ言うか」


「今言っておくわ」


 アイリスが前へ進む。


「外縁退避路はこちらです」


「今度は壁じゃないよな」


「途中で縦穴があります」


「第十話から引き継ぐな!」


「構造は私の責任ではありません」


「案内はお前の責任だ!」


 俺たちは記録室を出た。


 奥の通路は細く、空気が乾いていた。


 壁の青い線はほとんど消えかけている。


 ところどころで王冠の刻印が見える。


 エリシアが先に見つけた。


「左」


 アイリスが即座に反応する。


「右の方が短いです」


「王冠は左よ」


「右の方が短いです」


「王族用の避難路でしょう?」


「はい」


「なら、王族の目印を信じなさい」


 アイリスは一瞬黙った。


「……了解しました」


「今、納得していない顔をしたわね」


「表情筋制御に問題はありません」


「顔に出ているわ」


「不満です」


 俺は二人の後を追う。


 今のやり取りだけ見れば、ただの口喧嘩だ。


 でも少し前まで、エリシアはアイリスを不審な銀髪の少女として見ていた。


 今は違う。


 信用ではない。


 信頼でもない。


 それでも、同じ道を選ぶために言い合っている。


 妙な形だが、前には進んでいる。


 背後で、記録室の扉が開く音がした。


「いたぞ!」


 兵士の声。


 かなり近い。


「走れ!」


 俺たちは一斉に走った。


 通路が少しずつ狭くなる。


 壁から突き出した石が肩に当たり、エリシアのドレスの裾がまた何かに引っかかった。


「っ」


「大丈夫か」


「大丈夫」


「間が」


「痛みの間よ」


「俺のを使うな!」


 アイリスが前方で言う。


「段差です」


「どれくらい」


「成人男性の膝程度」


「今度はまともだな」


 そう思った瞬間、床が途切れていた。


 膝程度ではない。


 腰くらいはある。


「膝程度って言ったよな!」


「古代基準の成人男性です」


「でかすぎる!」


 エリシアが短く息を吐く。


「先に降りるわ」


「待て、危ない」


「王女を甘く見ないことね」


「六回目になるぞ」


「数えないで」


 エリシアはドレスの裾を片手でまとめ、段差を降りた。


 着地は少し崩れたが、転ばなかった。


 俺も続く。


 手首が痛む。


 足も痛む。


 さっき亀裂に無理やり押し込んだ右足が、じんじんしている。


 でも止まれない。


 背後から鎧の音が迫る。


 通路の先に、縦穴が現れた。


 今度の縦穴は、さっきの昇降機みたいな足場がない。


 下へ続く梯子だけがある。


 古い金属の梯子。


 半分錆びている。


 途中で一本、段が抜けている。


「下です」


 アイリスが言った。


「またか!」


「外縁退避路へ接続します」


「この梯子、生きてるのか?」


「部分的に」


「嫌な言い方!」


 エリシアが梯子を見下ろす。


「高さは?」


「七メートル程度」


「七!?」


「落下時の負傷確率は」


「言うな!」


 俺とエリシアが同時に言った。


 アイリスは少し不満そうに口を閉じた。


 背後から光が差した。


 兵士たちが角を曲がってきたのだ。


「止まれ!」


「王女殿下!」


 エリシアが振り返る。


 兵士たちは、彼女を見て足を止めた。


 王女を見つけた安堵。


 俺たちを見つけた敵意。


 その両方が顔に浮かんでいる。


「殿下、こちらへ!」


 先頭の兵士が叫んだ。


「その者たちから離れてください!」


 エリシアは動かなかった。


「下がりなさい」


「殿下!」


「これは命令です」


「しかし、神託では――」


 その言葉で、エリシアの顔が変わった。


 冷たくなった。


「神託が、私を壇に立たせたわ」


 兵士たちは黙った。


 知らないのだろう。


 壇に何が起きたのか。


 神託碑に何が表示されていたのか。


 自分たちが何を守ろうとしているのか。


 エリシアは続ける。


「私の命令を聞きなさい。追ってはなりません」


 兵士たちは動けなかった。


 だが、その後ろから別の声がした。


「神託に背く言葉は、王女殿下ご本人の意思とは限らない」


 神官だった。


 白い衣。


 泥一つない裾。


 この地下にいるのが不自然なくらい、整った姿だった。


「殿下は妨害因子の影響下にある。保護せよ」


 兵士たちの目が変わる。


 迷いが薄れる。


 神官の言葉は、王女の声より扱いやすいのだろう。


「やっぱり来たか」


 俺は呟いた。


 エリシアの横顔が硬くなる。


「私の言葉より、神託の解釈を選ぶのね」


 アイリスが淡々と言う。


「現在、その傾向が高いです」


「腹立たしいわね」


「同意します」


「あなたが同意すると不思議な気分だわ」


「不満です」


 神官が一歩前に出る。


「殿下、お戻りください。王家更新の儀は、神託が示した通り、妨害因子の穢れによって汚されただけです。もう一度壇の上で祈りを捧げ、神意を再同期させれば、王家は守られます」


 エリシアの手が、胸元のペンダントに触れた。


「私を消そうとしたものを、守ると言うの」


「消すなどと、その者たちの虚言です」


 アイリスが小さく首を傾げる。


「虚言ではありません」


「黙りなさい、異端の娘」


「分類が不正確です」


「分類?」


「私は娘ではなく、古代文明の最高傑作です」


「今言うな!」


 俺の声が縦穴に響いた。


 エリシアが俺を見た。


 こんな状況なのに、ほんの一瞬だけ呆れた顔をした。


「本当に、いつもこうなのね」


「後で数える」


「もう数えなくていいわ」


 神官が手を上げた。


「捕らえなさい」


 兵士たちが動く。


「下りるぞ!」


 俺は梯子へ飛びついた。


 錆びた金属が嫌な音を立てる。


「アイリス、先に!」


「了解しました」


 アイリスはほとんど滑るように梯子を降りていく。


 人間じゃない降り方だ。


 エリシアが梯子の前で一瞬だけ止まる。


 下を見たのだろう。


「エリシア!」


「分かっているわ!」


 彼女は梯子に手をかけた。


 白い指が、錆びた鉄を握る。


 俺は彼女のすぐ上から降りる。


 背後では兵士が迫っている。


 槍の先が縦穴の入り口に見えた。


「急げ!」


「王女に向かって急げとはいい度胸ね!」


「今は誘拐犯だから許してくれ!」


「許さないわ!」


 梯子が揺れる。


 途中の段が抜けている場所に来た。


 アイリスの声が下から飛ぶ。


「次の段はありません」


「先に言え!」


「今言いました」


「遅い!」


 エリシアの足が空を踏んだ。


「っ!」


 俺は片腕を伸ばし、彼女の腰の後ろを支えた。


「触ったわね」


「落ちるよりましだろ!」


「あとで怒るわ」


「生きてたらな!」


「その言い方、嫌いよ!」


 エリシアは次の段を掴んだ。


 俺も続く。


 上から兵士が降りてこようとする。


 その時、アイリスが下で何かを操作した。


「下部固定具を解除します」


「何を!?」


 梯子が大きく揺れた。


「おい!」


「追跡者の降下を妨害します」


「俺たちも乗ってる!」


「計算済みです」


「その言葉が一番怖い!」


 上の方で、兵士が叫んだ。


 梯子の上部が一瞬傾く。


 俺はエリシアの腕を掴む。


 エリシアも、俺の袖を掴んだ。


 錆が手の中で崩れる。


 数秒。


 長すぎる数秒だった。


 梯子は完全には外れなかった。


 ただ、上部の角度が変わり、兵士たちは降りにくくなった。


 俺たちは最後の数段を滑るように降りた。


 足が床についた瞬間、膝が抜けかける。


 エリシアも壁に手をついた。


 アイリスだけが平然としている。


「降下成功」


「成功の意味を考え直せ」


「追跡者の到達遅延を確認」


「そこだけは助かった」


 下の通路は、今までよりさらに古かった。


 壁の青い線はほとんどない。


 代わりに、黒い石の床に細い銀色の線が走っている。


 その線は、奥へ奥へと続いていた。


 エリシアのペンダントが、また淡く光った。


 アイリスも止まる。


「認証反応」


「また?」


 エリシアの声には、もう驚きより苛立ちの方が混じっていた。


「私のペンダントは、いったい何に反応しているの」


 アイリスは答えない。


 銀色の線を見ている。


「アイリス」


 俺が呼ぶ。


 彼女は低く言った。


「記録層との照合に失敗。マスター波形との類似率、二十三パーセント」


「二十三パーセント……?」


 エリシアが繰り返す。


「それは、近いの? 遠いの?」


「不明です。該当記録、破損。システムアクセス、拒否」


「分からないことばかりね」


「はい」


「堂々と認めるのね」


「事実です」


 エリシアはペンダントを握った。


「私ではなく、このペンダント?」


「両方に反応があります」


 アイリスの声は硬い。


「王家個体と認証具。二つの反応が重なっています」


「王家個体って言わないで」


「……王女個体」


「悪化しているわ」


 アイリスは一瞬黙った。


 青い瞳が、細く明滅する。


「では、エリシア・レーヴェン」


 その場の空気が止まった。


 エリシアが目を見開く。


 俺もアイリスを見た。


 アイリス自身も、少しだけ驚いたように止まっていた。


 言った。


 今、名前を言った。


 でも、次の瞬間にはアイリスの顔がいつもの無表情に戻る。


「識別精度向上のためです」


「そう」


 エリシアは短く答えた。


 それ以上は言わなかった。


 でも、ペンダントを握る手が少しだけ緩んだ。


 上から兵士の声が響く。


「下へ回れ!」


「別経路を探せ!」


 まだ追ってくる。


 俺たちは銀色の線に沿って走った。


 通路は途中で崩れていた。


 天井が落ち、石が道を塞いでいる。


 完全には塞がっていない。


 人一人なら通れる隙間がある。


「通れるか」


 俺はしゃがんで隙間を見た。


 狭い。


 かなり狭い。


 アイリスならいける。


 俺もなんとか。


 エリシアはドレスが邪魔だ。


 エリシアは俺の視線に気づいた。


「何?」


「いや」


「今、ドレスが邪魔だと思ったでしょう」


「思ってない」


「間があったわ」


「最近それ強すぎるな」


「事実よ」


 エリシアはドレスの裾を見た。


 泥。


 水。


 破れ。


 錆。


 もう王城の儀式場に立っていた時の美しさはない。


 けれど、彼女は迷わず裾を裂いた。


 びり、と布が裂ける音がした。


 俺は目を見開いた。


「いいのか?」


「走れないドレスに価値はないわ」


「王女判断が強すぎる」


「王女を甘く見ないことね」


「七回目だ」


「なら八回目も言うわ」


 エリシアは裂いた布を腰で結び、隙間へ身を滑り込ませた。


 アイリスが先に進む。


 エリシアが続く。


 俺が最後だ。


 石の隙間は狭く、肩がこすれた。


 手首が痛む。


 右足も痛い。


 それでも這うように進む。


 背後から、石の向こうで誰かの声がした。


「ここを通った跡がある!」


 まずい。


 俺は隙間を抜けた。


 その先は、下り坂だった。


「うわっ」


 足元が滑る。


 黒い石の床が濡れていた。


 俺はそのまま滑り落ちた。


 前にいたエリシアにぶつかりかける。


「ちょっと!」


「悪い!」


 アイリスが下で立っている。


「下降路です」


「見れば分かる!」


「転倒リスクあり」


「もう転びかけた後だ!」


 坂の先には、古い扉があった。


 木ではない。


 石でもない。


 黒い金属の扉だ。


 中央に、小さな円形のくぼみがある。


 エリシアのペンダントが光る。


 アイリスが言う。


「認証具の接触位置です」


 エリシアはペンダントを見た。


「これを、そこへ?」


「はい」


「開けたらどうなるの」


「不明です」


「最高傑作」


「未登録です」


「便利な言葉ね」


 背後から、石を崩す音がした。


 追手が瓦礫を越えようとしている。


 時間はない。


「開けるしかない」


 俺が言うと、エリシアは俺を見た。


「あなたは本当に、選択肢を最悪に絞るのが得意ね」


「主に状況が悪い」


「知っているわ」


 エリシアはペンダントを外した。


 青い石が、暗い通路で淡く光る。


 彼女はそれを扉のくぼみに近づけた。


 手が止まる。


「エリシア」


「分かっている」


 彼女は少しだけ息を吸った。


 そして、ペンダントを押し込んだ。


 青い光が走った。


 扉の模様が、円形に広がっていく。


 古代文字が浮かぶ。


 アイリスが読む。


「王家認証……確認……」


 光が強くなる。


「仮接続……拒否……再試行……」


 エリシアの顔が歪んだ。


 ペンダントを押さえる手に力が入る。


「っ……!」


「エリシア!」


「大丈夫よ」


「大丈夫じゃない顔してるぞ!」


「王女を甘く――」


「今は言わなくていい!」


 扉が重い音を立てて開いた。


 中から冷たい風が吹く。


 風の向こうに、暗い通路。


 その先に、かすかな緑の匂い。


 森だ。


「外気を確認」


 アイリスが言った。


「出口に近いです」


「行くぞ!」


 エリシアはペンダントを引き抜いた。


 光は少し弱まったが、完全には消えない。


 俺たちは扉の向こうへ走った。


 背後で、追手が叫ぶ。


「扉が開いたぞ!」


「追え!」


 アイリスが振り返る。


「閉鎖します」


「頼む!」


「手動です」


「手動!?」


 扉の内側に、大きな石のハンドルがあった。


 古い。


 重そう。


 最悪だ。


 俺はそれに飛びついた。


 エリシアも反対側を掴む。


「回すのね」


「たぶん!」


「またそれ!」


 アイリスも手を添える。


 三人で回した。


 重い。


 びくともしない。


「動け!」


 俺は歯を食いしばった。


 手首が悲鳴を上げる。


 エリシアの濡れた袖がハンドルに絡む。


 アイリスの青い光が石の内側へ流れる。


 ごん、と音がした。


 ハンドルが回る。


 扉が閉じ始めた。


 追手の足音が近い。


 兵士の顔が見えた。


 神官の白い袖も見えた。


「殿下!」


 エリシアはそちらを見た。


 ほんの一瞬。


 そして、ハンドルをさらに押した。


「私は戻らないわ」


 扉が閉じた。


 音が断たれる。


 冷たい風だけが残った。


 暗い通路の先から、緑の匂いが濃くなっている。


 出口は近い。


 俺は息を吐いた。


 その場に座り込みたかった。


 でも、アイリスが前を指す。


「進みます」


「少し休ませろ」


「追跡者は遅延中ですが、停止していません」


「分かってるよ」


 エリシアがペンダントを胸元へ戻した。


 顔色は少し悪い。


 けれど、歩き出す。


「行くわ」


「大丈夫か」


「大丈夫ではないわ」


「正直だな」


「でも、止まらない」


 俺は頷いた。


 アイリスは先頭を歩く。


 暗い通路の奥に、細い光が見えた。


 外の光だ。


 その手前の壁に、最後の古代文字が刻まれている。


 アイリスが足を止めた。


「何だ?」


 彼女は壁の文字を読んだ。


「王家認証個体……更新処理……保留」


「保留?」


 エリシアが聞く。


 アイリスの瞳が明滅する。


「妨害因子……記録」


「俺か」


「おそらく」


「おそらくって嫌だな」


 アイリスは続ける。


「再同期……必要……」


 壁の文字がそこで途切れていた。


 エリシアのペンダントが、また淡く光る。


 すぐ消えた。


 アイリスの顔も、一瞬だけ固まる。


「アイリス」


 俺が呼ぶ。


「記録層との照合に失敗しました」


 淡々とした声だった。


 でも、さっきより少しだけ低い。


 エリシアが一歩近づく。


「あなたは、このペンダントを知っているの?」


 アイリスは答えなかった。


 青い瞳が、エリシアの胸元の石を映している。


「アイリス」


 俺がもう一度呼ぶ。


 彼女はようやく目を上げた。


「不明です」


「本当に?」


 エリシアが聞く。


 アイリスはすぐに答えた。


「不明です」


 エリシアは何も言わなかった。


 ただ、暗闇の中で、その銀髪の少女を品定めするような冷たい視線だけを向けていた。


 外の光が、通路の奥で揺れている。


 森の匂いがした。


 追手の音は遠い。


 けれど、完全には消えていない。


 エリシアはペンダントを握った。


 アイリスは前を向いた。


 俺は痛む手首を押さえた。


「行こう」


 誰も反対しなかった。


 俺たちは光の方へ歩き出した。


 背後の壁に残った古代文字だけが、青白く薄れていった。


 王家認証個体。


 更新処理。


 消去許容。


 出力同期。


 記録層、欠損。


 認証波形、照合不能。


 そして、その下に。


 エリシア・レーヴェン。


 名前だけが、最後まで消えなかった。

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