王都到着、そして即迷子
ミナギ宿場の入口で、俺は財布の中身を確認した。
銅貨が少し。
銀貨は、もうない。
黒パンを買えば終わる。
宿に泊まれば終わる。
王都行きの馬車に乗れば、当然終わる。
つまり、全部終わっていた。
「アーデル」
「言うな」
「資金不足です」
「言うなって言っただろ」
「現実から目をそらしても、所持金は増加しません」
「正論が腹立つ」
宿場町の通りには、旅人が多かった。
王都へ向かう商人。
巡礼者。
護衛らしい傭兵。
王女の儀式を見物に行くらしい家族連れ。
神託碑の周りには、まだ人だかりが残っている。
王家更新の儀。
予定通り執行。
青白い文字は、もう消えていた。
それでも、目の奥に残っている気がした。
「対策を提示します」
「聞くだけ聞く」
「第一案。宿場内の裕福な商人個体に接触し、護衛業務を強制受注します」
「却下」
「第二案。軽度の危険を演出し、護衛需要を発生させます」
「マッチポンプから離れろ」
「第三案。宿場の防衛構造を掌握し、安全確保と宿泊権を同時取得します」
「立てこもりだ、それは」
「表現の問題です」
「法律の問題だ」
アイリスは少しだけ不満そうに袖を揺らした。
「では、合法的な方法を要求します」
「俺が要求したいよ」
通りの向こうで、怒鳴り声が聞こえた。
「だから、火がつかないって言ってるだろ!」
俺はそちらを見た。
宿屋らしい建物の裏手に、人が集まっている。
煙突から煙は出ていない。
夕飯時のはずなのに、宿屋の厨房からは料理の匂いもしてこなかった。
「何だ?」
「調査します」
「勝手に行くな」
と言う前に、アイリスはすでに歩き出していた。
俺はため息をついて追いかける。
宿屋の裏手では、太った宿屋の主人と、細身の魔導技師らしい男が言い争っていた。
「王都行きの客で満室なんだぞ! 今夜、飯が出せなかったらうちは終わりだ!」
「分かってますよ! しかし、この型は王都製の最新式でして、勝手に分解すると保証が――」
「保証で飯が炊けるか!」
地面には、黒い鉄箱のような魔導具が置かれていた。
上部に鍋を置く場所があり、横には火力調整用の丸いつまみ。
普通のかまどではない。
魔力で熱を出す魔導コンロだ。
表面には薄い装飾があり、王都製らしく無駄にきれいだった。
ただし、動いていない。
「アーデル」
「何だ」
「資金獲得対象を検出しました」
「言い方」
アイリスは魔導コンロを見下ろした。
「旧式……ではありません。現行世代の高密度加熱端末です」
「つまり?」
「調理器具です」
「最初からそう言え」
俺は人だかりの端からコンロを見た。
魔導技師は汗を拭きながら、外装を軽く叩いている。
宿屋の主人は腕を組んで唸っている。
周囲の旅人たちは、夕飯の心配をしてざわついていた。
「おい、今夜飯抜きか?」
「王都行きで宿代上がってるのに冗談じゃないぞ」
「別の宿に行くか?」
「どこも満室だよ」
俺は自分の財布をもう一度思い出した。
黒パン一つで終わる財布。
動かない魔導コンロ。
宿代。
翌日の馬車代。
「……アイリス」
「はい」
「強制受注はしない」
「不満です」
「でも、普通に仕事を頼むならありだ」
アイリスの青い瞳が、少しだけ明るくなった。
「つまり、合法的強制受注ですか」
「合法的なら強制じゃない」
「難解です」
「人間社会を覚えろ」
俺は宿屋の主人に近づいた。
「あの」
「ああ? 何だい、今こっちは忙しいんだ」
「それ、見てもいいですか」
宿屋の主人と魔導技師が、同時に俺を見た。
宿屋の主人は俺の服を見て、眉をひそめる。
「旅人か?」
「はい。辺境で古代遺物の修理をしています」
「古代遺物?」
魔導技師が少し鼻で笑った。
「これは王都製の最新式魔導コンロだ。辺境のガラクタとは違うよ」
「だろうな」
「分かっているなら――」
「でも、火がつかないなら、壊れてるのは同じだ」
魔導技師が黙った。
宿屋の主人は、俺をじろじろ見た。
「直せるのか?」
「直るかは分からない。見るだけなら」
「見て直るなら、今すぐ見てくれ。夕飯が出せなきゃ本当に困る」
俺はうなずいて、魔導コンロの前にしゃがんだ。
外装を軽く叩く。
固い音。
内部で魔力が回ろうとしているが、どこかで引っかかっている感じがある。
目で見えるわけじゃない。
でも、触れると分かる。
魔力が入り、細い道を通り、熱を作る直前で戻っている。
水路に小石が詰まっているみたいな感覚。
「……戻りが詰まってるな」
「戻り?」
魔導技師が眉を上げる。
「火力調整じゃない。魔力の通り道が歪んでる」
「何を言ってるんだ。外装も封印も破損していない。詰まりなんて――」
「この型、裏板を外せるか?」
「外せるが、専用工具が必要だ」
「細い針金とヤスリあるか。あと、曲がってない小さめの釘」
宿屋の主人がすぐに厨房の若い男に叫んだ。
「持ってこい!」
しばらくして、古い工具箱が運ばれてきた。
中身はひどいものだった。
曲がった釘。
欠けたヤスリ。
油の染みた布。
細い針金。
取っ手の外れかけた小槌。
「道具が死にかけてる」
「宿屋だからね! 鍛冶屋じゃないんだよ!」
「辺境の俺の家よりひどいぞ」
「そこまでかい!?」
俺は針金を取り、曲がりを伸ばした。
魔導コンロの裏板に指をかける。
ネジが固い。
「うわ、この噛み合わせ最悪だな」
俺はヤスリでネジの頭を少し削った。
魔導技師がぎょっとする。
「おい、削るな! その部品は王都製で――」
「削らないと回らない」
「しかし保証が」
「飯が炊けない保証って何だよ」
宿屋の主人が小さく吹き出した。
俺は釘を使ってネジを少し浮かせ、針金で回す。
ぎり、と嫌な音がした。
「折れるなよ……」
汗が額を流れる。
ネジが少しずつ動く。
外れた。
裏板を開けると、細い魔導線が複雑に絡んでいた。
王都製らしく詰め込みすぎだ。
きれいだが、余裕がない。
一か所でも歪むと、全部が詰まる。
「面倒くさいな、これ」
俺が呟くと、魔導技師が目をむいた。
「面倒くさいで済む構造じゃないぞ。それは高密度循環式の――」
「説明は後でいい」
俺は焦げた端子を見つけた。
完全には焼けていない。
ただ、片側がほんの少し浮いている。
そこに魔力が引っかかり、戻りの流れが詰まっている。
「ここだ」
「どこだ?」
「この端子」
「端子? そこは補助固定具だろう」
「固定具が歪んで、魔力の戻り道を塞いでる」
「そんな馬鹿な。補助固定具に魔力経路は――」
俺は針金で端子の奥を少し押した。
ぱちり、と小さな火花が散る。
指先がしびれた。
「痛っ」
「アーデル」
アイリスが一歩近づく。
「損傷しましたか」
「少し痺れただけだ」
「作業継続は非推奨です」
「もう少しで通る」
「非推奨です」
「分かってる」
俺は布で指先を拭き、ヤスリを細く立てた。
焦げた部分をほんの少し削る。
削りすぎると死ぬ。
残しすぎると詰まる。
こういうのは、だいたい面倒くさいところが一番大事だ。
「……よし」
針金を細く折り、浮いた端子の下に挟む。
小槌で軽く叩く。
一回。
二回。
三回。
魔導線の奥で、詰まっていた魔力が細く流れた。
熱が戻る。
「つまみを一番弱くして」
厨房の男が慌ててつまみを回した。
魔導コンロの上部に、薄い赤色の光が灯る。
じわり、と熱が出た。
周囲が静まり返った。
それから、宿屋の主人が叫んだ。
「ついた!」
厨房の中から歓声が上がる。
「火が戻ったぞ!」
「鍋をかけろ!」
「客に飯が出せる!」
俺は息を吐いて、裏板を戻した。
疲れた。
普通に疲れた。
「……辺境のガラクタより素直だけど、詰め込みすぎだろ」
俺がそう言うと、魔導技師が震える声で言った。
「今、何て言った?」
「詰め込みすぎ」
「それ、王都製の最新式だぞ。普通は専用工具と診断石がないと触れない。魔導技師でも分解許可が要る型だ」
「そうなのか」
「そうなのか、じゃない! 針金と欠けたヤスリで直すものじゃない!」
俺は工具箱を見た。
「でも、針金とヤスリしかなかったし」
「そういう問題じゃない!」
宿屋の主人が俺の両手を握った。
「兄ちゃん、助かったよ! 本当に助かった!」
「あ、いや、飯が出るならよかったです」
「もちろん礼はする。今夜の部屋と飯はうちが持つ。それと、明日の王都行きの乗合馬車も手配しよう」
「本当ですか」
「本当だ。厨房を救ってくれたんだ。それくらい安いもんだよ」
俺は思わず肩の力が抜けた。
宿と飯。
明日の馬車。
これで王都へ行ける。
「アーデル」
アイリスが横に立った。
「何だ」
「対価交渉を実行します」
「もう十分もらった」
「不十分です」
「何が」
アイリスは宿屋の主人を見た。
「我が仮登録者の技術は、最高傑作である私の点検基準に適合します。対価として、安全性の高い部屋、温水、十分な食料、王都までの最速馬車を要求します」
「要求が多い!」
「アーデルの稼働状態維持、および第二王女救済成功率の向上に必要です」
「俺を機械みたいに言うな」
「拒否された場合、宿屋の防衛構造を利用し、一時占拠へ移行します」
「救済から犯罪に行くな!」
宿屋の主人はぽかんとした。
それから、また腹を抱えて笑った。
「はははは! 何なんだい、この嬢ちゃんは!」
「古代文明の最高傑作です」
「最高に物騒だねえ!」
「訂正を要求します」
「やめとけ。事実だ」
結局、部屋は普通の二人部屋になった。
温水はなかった。
飯は出た。
ただし、アイリスの皿だけ、宿屋の主人が笑いながら蜂蜜を少し垂らした焼き菓子を置いてくれた。
「さっきから菓子を大事そうにしてたからね。うちの余りもんだけど、よかったら」
アイリスは皿を見た。
そして、自分の外套の内側を一度だけ押さえる。
ロット村で買った蜂蜜菓子は、まだそこにある。
「これは、重要調査対象と同一分類です」
「食べたいなら食べろ」
「比較調査を実施します」
「便利だな、調査」
アイリスは焼き菓子を小さく割り、口に入れた。
少しだけ、黙る。
「どうだ?」
「甘いです」
「そりゃそうだ」
「黒パンより、口腔内の負荷が低いです」
「比較対象がひどい」
アイリスはもう一口食べた。
その横顔は、いつもの自信満々な顔ではなかった。
何かを探しているような顔だった。
でも、すぐにいつもの真顔に戻る。
「アーデル」
「何だ」
「味覚入力は有効です」
「そうか」
「追加調査を要求します」
「ただのおかわりだろ」
「重要です」
「はいはい」
その夜、俺は宿屋の硬い寝台に倒れ込んだ。
指先がまだ少し痛い。
魔導コンロの端子を押した時の痺れが残っている。
アイリスは窓辺に立ち、外を見ていた。
宿場の神託碑は、夜の中で静かに沈んでいる。
「寝ないのか」
「睡眠は必須ではありません」
「知ってる。でも休め」
「休止状態へ移行する必要性は低いです」
「明日、王都だぞ」
アイリスは振り返った。
「第二王女救済まで、残り二日」
「分かってる」
「現時点での推奨行動は、王女本人との接触です」
「まずは警告だ」
「警告成功率は低いと推定されます」
「それでも最初は警告だ」
「非効率です」
「人間社会では、いきなり誘拐する方が非効率なんだよ」
アイリスは少し考えた。
「不条理です、アーデル。では、自発的同行を促すため、軽度の危険――通称マッチポンプを演出――」
「マッチポンプは寝ろ!」
「私は睡眠を必要としません」
「そういう意味じゃない」
アイリスは少しだけ首を傾げた。
窓の外では、宿場の灯りが揺れていた。
王都までは、あと一日。
王女の儀式まで、あと二日。
俺は目を閉じた。
寝られる気はしなかった。
それでも、いつの間にか意識は落ちていた。
翌朝。
宿屋の主人が手配してくれた乗合馬車は、想像以上に混んでいた。
王女の儀式を見に行く客でいっぱいだ。
荷台ではなく、客車付きの馬車。
ただし人が多すぎて、隣の肩が普通にぶつかる。
アイリスは窓際に座り、外を見ていた。
「人間密度が高いです」
「我慢しろ」
「接触回避が困難です」
「王都はもっと多いぞ」
「非推奨環境です」
「俺もそう思う」
馬車の中では、王都の噂で持ちきりだった。
「第二王女様、見られるかな」
「儀式の日は中央広場が開くんだろ」
「王家更新の儀なんて、一生に一度あるかないかだぞ」
「神託に選ばれるなんて、さすが王族だなあ」
アイリスは何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
馬車は街道を進む。
昼を過ぎる頃、道幅が広くなった。
人が増える。
馬車が増える。
巡回の兵士が増える。
遠くに、高い城壁が見えた。
アステリア王都。
大陸中央にある王国の心臓。
白い石壁。
高い尖塔。
青い旗。
「アーデル」
アイリスが窓の外を見ながら言った。
「都市外壁を確認。人口密度、ロット村の推定四百八十倍以上」
「比較対象が村なのやめろ」
「防衛構造は標準以上です。門の検問は三列。歩行者用、荷馬車用、貴族用に分離されています」
「よく見えるな」
「基礎観察です」
「便利だな、本当に」
「もっと敬ってください」
「調子に乗るな」
王都の門に近づくと、馬車は列に並んだ。
検問では兵士が荷物を確認している。
俺は少し緊張した。
まだ指名手配はされていない。
何もしていない。
なのに、妙に背中が落ち着かない。
「アーデル」
「何だ」
「心拍数が上昇しています」
「緊張してるんだよ」
「犯罪実行前の一般的反応ですか」
「まだ犯罪してない」
「予定はあります」
「ない」
「王女救済方法の最適解は――」
「門の前で言うな!」
前の席の老婆が振り返った。
俺は慌てて笑ってごまかす。
「妹が物騒な芝居にハマってまして」
「誰が妹ですか」
「黙ってろ」
老婆はにこにこ笑った。
「仲がいいねえ」
「よくないです」
「即答するな」
検問は思ったより簡単だった。
王女の儀式目当ての旅人が多すぎるせいで、兵士たちも一人ひとり詳しく調べていられないらしい。
「目的は?」
「王都見物です」
「儀式か?」
「まあ、そんなところです」
兵士は俺とアイリスを見た。
「その子は?」
「連れです」
「私は古代文明の――」
「妹です」
「不正確です」
「妹です」
兵士は面倒そうに手を振った。
「通れ。王都内では騒ぎを起こすなよ」
「起こしません」
「努力します」
「お前は黙れ」
馬車が門をくぐる。
視界が一気に開けた。
王都の大通りは、人で埋まっていた。
石畳の道。
左右に並ぶ店。
焼き菓子の匂い。
肉を焼く煙。
色とりどりの布。
呼び込みの声。
馬車の車輪の音。
鐘の音。
どこかで鳴る笛。
全部が一度に押し寄せてくる。
「……すごいな」
俺は思わず呟いた。
アイリスは無表情で大通りを見ていた。
「都市構造を解析中」
「迷子になるなよ」
「私は高精度の位置把握能力を有しています」
「そういうやつが一番迷子になる」
「不当な評価です」
乗合馬車を降りた瞬間、宿場とは比べものにならない人波に押された。
王女の儀式が近いせいか、街全体が祭りの前みたいに浮ついている。
屋台では焼き肉、果物水、菓子が売られている。
布屋には王家の紋章入りの旗。
子どもは紙で作った王冠をかぶって走っていた。
「アーデル」
「何だ」
「嗅覚入力に高糖度反応があります」
「まさか」
アイリスの視線は、屋台の一つに向いていた。
蜂蜜を塗った小さな焼き菓子。
湯気と甘い匂い。
ロット村のものより、ずっと派手で高そうだ。
「重要調査対象の派生型を検出」
「お前、都市構造の解析は?」
「並列処理中です」
「本当か?」
「当然です。私は古代文明の最高傑作です」
アイリスは屋台の方へ一歩動いた。
俺は外套の裾を掴む。
「待て。金がない」
「確認済みです」
「じゃあ見るだけだ」
「視覚調査を実行します」
「買わないぞ」
「視覚調査です」
「絶対嘘だ」
その時、大通りの奥で歓声が上がった。
人々が一斉に道の端へ寄る。
「王家の馬車だ!」
「第二王女様だ!」
「エリシア様!」
俺は反射的にそちらを見た。
白い馬が引く馬車列が、大通りの向こうから進んでくる。
金の装飾。
青い旗。
槍を持った近衛騎士たち。
そして、その中央の馬車。
窓辺に、一人の少女が座っていた。
金色の髪。
白い横顔。
遠目にも分かる、まっすぐな姿勢。
胸元で、青い石のペンダントが夕陽を受けて光った。
アイリスが止まった。
甘い屋台へ向かいかけていた足が、ぴたりと止まる。
淡い青の瞳が、細かく明滅した。
「……認証反応」
「何だって?」
俺はアイリスを見た。
アイリスは馬車の窓を見つめている。
王女の馬車は、人々の歓声の中をゆっくり進んでいた。
「あれが、第二王女か」
「対象個体、エリシア・レーヴェンと推定」
「対象って言うな」
「胸部装飾品に、未登録の認証反応を検出」
「ペンダントのことか?」
「不明です」
「不明?」
「記録層との照合に失敗しました」
アイリスの声が、いつもより少しだけ低かった。
――うわっ、と、後ろから凄まじい人波が押し寄せた。
俺は体勢を崩した。
肩が誰かにぶつかる。
足元の荷袋が引っかかる。
「アイリス、離れるな!」
返事がない。
俺は振り返った。
さっきまで隣にいた銀髪の少女が、いない。
「アイリス!」
人波の向こうに、銀色の髪が一瞬見えた。
屋台の前。
いや、王女の馬車の方か。
分からない。
「アイリス!」
俺の声は、王女を讃える歓声に呑まれた。
王都到着。
そして、即迷子だった。




