旅費を全部パンに変えるな
王都へ行くと決めた翌朝。
俺は人生で何度目か分からない、重大な問題に直面していた。
「金がない」
机の上に、銅貨と銀貨を並べる。
銅貨が二十七枚。
銀貨が二枚。
欠けた銅貨が一枚。
以上。
「王都までの馬車代、食料、水、宿代……」
俺は指で硬貨を動かしながら計算した。
何度数えても増えない。
昨日、地下遺跡で使った記憶石を売っていれば、もう少し余裕があった。
だが、その記憶石はもうない。
古代の扉を開けるために、制御盤へ押し込んだ。
結果、銀髪の少女を拾った。
高い買い物だったのか、安い買い物だったのか。
正直、まだ判断できない。
「問題ありません」
部屋の隅で、アイリスが胸を張った。
白い古代服。
銀の髪。
淡く光る青い瞳。
村の小さな家の中にいるには、あまりにも浮いている。
「私が最適な資金調達案を提示します」
「嫌な予感しかしない」
「第一案。家屋を売却します」
「却下」
「まだ説明していません」
「説明されても却下だ」
「第二案。村長宅の金庫を開封します」
「犯罪だ」
「第三案。裕福な商人を拘束し、救済活動への出資を要請します」
「犯罪だ」
「第四案。第二王女救済後、身代金を請求します」
「それは誘拐犯の発想なんだよ」
アイリスは少しだけ首を傾げた。
「王女を確保し、対価を得る。効率的です」
「効率と合法性を一緒にするな」
「合法性は常に効率を低下させます」
「人間社会では必要なんだよ」
「非効率な社会です」
「今それを論じてる場合じゃない」
俺は硬貨を袋に戻した。
かなりぎりぎりだ。
でも、行くしかない。
王都まで馬車で三日。
急げば、まだ間に合う可能性がある。
アイリスはそう言った。
信じ切ったわけじゃない。
けれど、昨日の落石も、削岩イタチの動きも、神託盤の異常も、無視できなかった。
俺は棚から工具袋を取った。
中身を確認する。
小型のやすり。
細い銅線。
補修用の魔導針。
古代ネジが六本。
焦げた記憶石の欠片。
売れそうで売れないガラクタが少々。
「旅費として不十分です」
「分かってる」
「では、家屋を――」
「売らない」
「非効率です」
「住む場所をなくす方が非効率だ」
アイリスは納得していない顔をした。
黙っていれば神秘的なのに、口を開くとだいたい家を売ろうとする。
俺は机の引き出しから、小さな記憶石を一つ取り出した。
昨日使ったものより、さらに小さい。
売っても銅貨数枚にしかならない安物だ。
「少し点検するぞ」
「点検対象は私ですか」
「他に誰がいる」
「最高傑作に対する点検行為には、事前申請と敬意が必要です」
「敬意は後払いでいいか」
「不当です」
文句を言うアイリスの胸元に、記憶石を近づける。
古代服の中央には、小さな紋章がある。
花のようにも、目のようにも見える不思議な文様。
昨日から何度か、そこが淡く光っていた。
記憶石に軽く魔力を流す。
細い光が伸びた。
アイリスの胸元の紋章へ向かう。
次の瞬間。
ぱちり。
小さな火花みたいな光が弾けた。
指先が、わずかに痺れる。
「……おい」
俺は反射的に記憶石を離した。
「今、無理やり魔力を流さなかったか」
アイリスは胸を張った。
「不正確です。私の演算処理および駆動機構は常に最適化されています」
「いや、今の流れ、少し――」
「その石の供給圧力が、私の規格に適合していないだけです」
「石のせいにしたな」
「低品質な供給源を使用した場合、最高傑作の性能を完全に発揮できないのは当然です。より上等な記憶石を要求します」
「要求すんな。高いんだよ」
俺は記憶石を工具箱へ戻した。
アイリスの胸元の紋章は、もう何事もなかったように静かに光っている。
……気のせいか。
さっき一瞬だけ、魔力の道筋がひどく歪んで見えたような気がした。
「アーデル」
「何だよ」
「観察時間が長いです」
「点検してただけだ」
「最高傑作への視線集中は理解できますが、移動準備を優先してください」
「お前のそういうところ、ほんと腹立つな」
「褒賞として記録します」
「してない」
俺は深く息を吐いた。
とにかく、まずは準備だ。
食料。
水。
旅費。
それから――。
「その服、目立ちすぎる」
アイリスが自分の服を見下ろした。
白い布地に、古代文字のような文様。
光を反射する細い線。
どう見ても、辺境村の人間が着る服じゃない。
「これは標準装備です」
「標準が目立つんだよ」
「視認性の高さは高性能個体の証明です」
「王都に着く前に不審者扱いされる」
「不審者ではありません。古代文明の最高傑作です」
「もっと悪目立ちするわ」
俺は棚から、昔使っていた古い外套を引っ張り出した。
さらに、村の道具屋で服を買う必要がある。
さすがにこのまま連れて歩くわけにはいかない。
「出るぞ」
「どこへ」
「ミーナの店だ。服と食料を買う」
「資金不足状態で購買行動を行うのは非効率です」
「じゃあ裸で王都に行かせる気か」
「私の外装は標準装備です」
「人間社会ではそれを服とは呼ばない場合がある」
「不便な社会です」
「二回目だぞ、それ」
俺は旅袋を背負い、家の扉を開けた。
朝のロット村は、いつもより少し静かだった。
畑へ向かう村人たち。
井戸端で水を汲む女たち。
小さな子どもが、木の棒を剣代わりにして走っている。
いつも通りに見える。
けれど、広場の方へ目を向ける者が多かった。
昨日、神託盤が勝手に光った場所だ。
王家更新の儀。
第二王女エリシア・レーヴェン。
あの文字は、もう消えている。
それでも、石板の周りにはまだ、誰も近づこうとしていなかった。
「アーデル」
隣でアイリスが言った。
「村内個体群の視線分布に偏りがあります」
「簡単に言え」
「みんな気にしています」
「最初からそう言え」
広場を通り過ぎようとした時、井戸端にいたおっさんが俺たちを見た。
「おい、ルカ。本当に王都まで行くのか」
「ああ」
「昨日の今日で、よく動くな。昔から変なところだけ親父さんに似てる」
俺は一度、旅袋の紐を握った。
「……似てないよ」
「そうかい」
おっさんはそれ以上、何も言わなかった。
近くにいた婆さんが、アイリスを見て目を細める。
「あれまあ。精霊様も一緒かい」
「精霊ではありません。私は古代文明の最高傑作です」
「そうかいそうかい。最高傑作様かい」
「正確です」
「調子に乗るな」
婆さんは小さく笑った。
でも、すぐに神託盤の方を見た。
「昨日のは、なんだか……少し冷たかったねえ」
誰も返事をしなかった。
アイリスの青い瞳が、ほんの一瞬だけ細かく明滅する。
「処理負荷の微増を確認」
「大丈夫か」
「問題ありません。周辺環境の情報密度が低いため、処理余力は十分です」
「村をけなすな」
「事実です」
「余計悪いわ」
俺は婆さんに軽く頭を下げて、道具屋へ向かった。
ミーナの店は村の東側にある。
道具屋といっても、鍋、針、油、保存食、古着、農具、たまに怪しい護符まで置いている。
辺境では、何でも売る店が一番強い。
扉を開けると、鈴がからんと鳴った。
「いらっしゃ――って、ルカかい」
奥からミーナが顔を出した。
三十代半ばの、いつも袖をまくっている女店主だ。
俺が古代遺物を持ち込むと、大体まず疑う。
そして大体買い叩く。
「王都へ行く準備をしたい。保存食と水袋、それから服」
「服?」
ミーナの視線が、俺の隣へ移った。
アイリスが無表情で立っている。
ミーナは一秒黙った。
それから、腹を押さえて笑い出した。
「ルカ、あんたまた変なもの拾ってきたねえ!」
「拾ったのは事実だけど、物扱いすると面倒になるぞ」
「訂正を要求します。私は物ではありません。古代文明の最高傑作です」
「ほらな」
「本当に変なものじゃないか」
「だから言っただろ」
ミーナは笑いながら、棚の奥から子ども用の服を何枚か出してきた。
「古着だけど、これならその子に合うんじゃない?」
いつもの調子だった。
けれど、その目は一度だけ、俺の背負った旅袋へ向いた。
笑っているのに、少しだけ真剣だった。
「……王都まで行くんだろ」
「ああ」
「昨日の今日で、あんたも落ち着かないね」
「俺もそう思う」
「まあ、ルカは昔から変なものを拾って、変なことに首を突っ込むからね」
「好きで突っ込んでるわけじゃない」
「どうだか」
ミーナは軽く笑った。
その笑い方はいつも通りだったが、声はほんの少しだけ低かった。
「とりあえず、奥で着替えな。外套だけじゃ目立ちすぎる」
「了解しました。現地偽装を開始します」
「着替えって言え」
アイリスは服を受け取って、店の奥へ入った。
しばらくして、布がばさばさ鳴る音がした。
「アーデル」
「何だ」
「この布装備は、腕部可動域を不自然に制限します」
「袖を通せ」
「袖とはどの部位ですか」
「そこからかよ」
ミーナが棚にもたれて笑っている。
「手伝ってやろうか?」
「必要ありません。私は古代文明の最高傑作です」
数秒後。
「アーデル」
「何だ」
「布装備が敵対しています」
「服に負けるな最高傑作」
結局、ミーナが奥へ入った。
しばらくして、アイリスが出てくる。
灰色の上着。
少し色あせたスカート。
古い茶色の外套。
見た目だけなら、村の少女に見えなくもない。
ただし袖が長い。
両手が完全に隠れている。
「……まあ、前よりはましだな」
「装備品質に不満があります」
「無料に近い古着に文句言うな」
「最高傑作に対する扱いとして不適切です」
「なら家でも売るか?」
「家屋売却案を再検討しますか」
「しない」
ミーナはアイリスの姿を見て、口元を緩めた。
「かわいいじゃないか」
アイリスが止まった。
ほんの一瞬。
「……かわいい」
小さく、自分の口で確かめるように呟く。
淡い青の瞳が、細かく明滅した。
「それは、戦闘性能に――」
そこで言葉が途切れる。
アイリスは、自分でも理由が分からないように瞬きをした。
「……戦闘性能に、影響しますか」
ミーナは目を丸くした後、吹き出した。
「するかもねえ。少なくとも、値引き交渉には効くよ」
「重要性能です」
「真に受けるな」
アイリスは真顔で頷いた。
「かわいい。交渉補助性能。記録しました」
「記録するな。あと使うな」
「なぜですか」
「お前が使うとろくなことにならない」
「不当な評価です」
俺は保存食を選び始めた。
固い黒パン。
干し肉。
干し果物。
豆の袋。
水袋。
王都まで三日。
途中で馬車に乗れれば多少楽になるが、最初から全部当てにするわけにはいかない。
「この量で足りるかね」
「足りさせる」
「相変わらず貧乏くさいねえ」
「貧乏なんだよ」
アイリスが棚をじっと見ていた。
パンの棚だ。
「アーデル」
「今度は何だ」
「この物体群は何ですか」
「パンだ」
「栄養摂取用固形物ですか」
「言い方」
「摂取により活動時間が延長されますか」
「人間はな」
「私は食事を必要としません」
「なら見るな」
「調査です」
「絶対違う」
アイリスの視線が、棚の端で止まった。
小さな紙包み。
蜂蜜を練り込んだ焼き菓子。
村の子どもが祭りの日に買うような、安い甘い菓子だ。
アイリスが動かなくなった。
長すぎる袖の先が、わずかに揺れる。
胸元の紋章が、外套の下でかすかに光った気がした。
「アイリス?」
呼びかけると、アイリスはゆっくり瞬きをした。
青い瞳が、棚と俺の間で一度だけ迷う。
「……味覚、入力用、物体を確認」
「食いたいだけだろ」
「違います。現地文化調査です」
「食いたいだけだな」
「調査です」
ミーナが蜂蜜菓子を一つ手に取った。
「これかい?」
アイリスの視線が、紙包みを追った。
「重要調査対象です」
「重要菓子みたいに言うな」
「購入を推奨します」
「食事いらないって言ったよな」
「味覚入力は食事ではありません」
「屁理屈を覚えるの早いな」
俺は財布を開けた。
残りの銅貨を見る。
買えないことはない。
だが、余裕はない。
俺が黙っていると、ミーナがにやにやした。
「買ってやりなよ」
「簡単に言うな。こっちは王都までぎりぎりなんだ」
「じゃあ、何か置いていきな」
「買い叩く気だろ」
「道具屋だからね」
俺は工具袋を開けた。
中から、昨日拾って直したばかりの古代ネジを二本取り出す。
ただのネジに見えるが、魔力を通すと微細に締まり具合を調整する。
使い道は限られるが、好きな職人には売れる。
「これでどうだ」
ミーナはネジを受け取って、光にかざした。
「また妙なものを直してきたねえ」
「菓子一つと保存食の足しにはなるだろ」
「足元見たいところだけど、今日は見逃してあげるよ」
「いつも見逃せ」
「それは商売上できないね」
ミーナは蜂蜜菓子を紙に包んだ。
アイリスはそれを、無言で見ていた。
いつもの偉そうな顔ではない。
ほんの短い沈黙。
「ほら」
俺は紙包みをアイリスへ渡した。
長い袖の中から、白い指先が少しだけ出てくる。
アイリスは紙包みを受け取った。
「……了解しました」
「礼を言う場面だぞ」
「礼」
「単語だけ出すな」
「ありがとうございます、アーデル」
「……まあ、それでいい」
アイリスは外套の内側へ、蜂蜜菓子の包みを大事そうにしまった。
「今食わないのか?」
「保存します」
「調査対象なんだろ」
「重要調査対象です。適切な環境で実施します」
「菓子食うだけなのに大げさなんだよ」
「不適切な入力環境は、調査結果に影響します」
「はいはい」
俺は買ったものを旅袋へ詰めた。
黒パン。
干し肉。
干し果物。
水袋。
古着。
蜂蜜菓子。
最後の一つだけ、明らかに旅の必需品ではない。
でも、なぜか袋から出せなかった。
「ルカ」
ミーナが低い声で呼んだ。
アイリスは店の外で、長すぎる袖と格闘している。
「何だよ」
「あの子、何者なんだい」
「俺にも分からない」
「分からないものを連れて王都に行くのかい」
「そうなるな」
「相変わらず馬鹿だねえ」
「自覚はある」
ミーナはため息をついた。
それから、干し果物の小袋を一つ追加で旅袋へ押し込んだ。
「これは?」
「おまけ」
「珍しいな」
「今日くらいはね」
俺は袋の口を結んだ。
「気をつけて行きな」
「ああ」
「本当に」
その声だけは、からかいではなかった。
店を出ると、アイリスが外套の袖を見下ろしていた。
「アーデル」
「何だ」
「この袖は長すぎます。手部出力が阻害されます」
「折ればいい」
「折る?」
俺はアイリスの袖を軽く折った。
細い指が少しだけ出る。
「こうだ」
「なるほど。現地装備には手動調整が必要なのですね」
「だいたい何でもそうだ」
「非効率です」
「人間社会に何回言うつもりだ」
「必要回数分です」
村の門には、何人かの村人が集まっていた。
見送り、というほど大げさなものじゃない。
でも、みんな畑仕事の手を止めて、こちらを見ていた。
「ルカ、無茶すんなよ」
「たぶんしない」
「その『たぶん』が信用ならん」
「精霊様、ルカを頼んだよ」
「精霊ではありません。古代文明の最高傑作です」
「最高傑作様かね」
「それは正確です」
「調子に乗るな」
近所の子どもが、アイリスの袖を見て笑った。
「手、なくなってる!」
「消失していません。収納されています」
「収納って言うな」
子どもはさらに笑った。
村人たちもつられて笑う。
けれど、その笑いの奥には、昨日の青白い光がまだ残っていた。
誰も神託盤の話をしない。
しないからこそ、余計にそこにある気がした。
ミーナが俺に小さな袋を投げてよこした。
「干し果物、もう一つ追加だ」
「さっきももらったぞ」
「うるさいね。受け取りな」
「……ありがとな」
「帰ってきたら、ちゃんと代金を払わせるからね」
「おまけじゃなかったのかよ」
「出世払いだよ」
「出世する予定はない」
「じゃあ借金だね」
「最悪だ」
ミーナは笑った。
でも、目だけは笑い切っていなかった。
「行ってきな」
「ああ」
村人たちの笑い声を背に、俺たちは村の門へ向かった。
その途中で、村長の家の前を通る。
昨日まで開いていたはずの雨戸が、今朝は全部閉まっていた。
古い木戸。
固く閉ざされた窓。
人の気配はあるのに、音がない。
窓の隙間から、誰かがこちらを見ている気がした。
すぐに、布が揺れて見えなくなる。
俺は足を止めた。
「アーデル?」
アイリスがこちらを見る。
俺は閉まりきった雨戸を見た。
それから、拳を一度だけ握った。
「……今は王都が先だ」
それだけ言って、歩き出した。
西辺境の朝の空気は冷たい。
土の匂いと、草の匂いがする。
遠くには、王都へ続く街道が伸びていた。
馬車に乗れれば三日。
乗れなければ、もっとかかる。
俺たちにあるのは、ぎりぎりの旅費と、固いパンと、水袋と、安物の古着。
それから、古代文明の最高傑作を自称する、常識の足りない少女。
「アーデル」
「何だ」
アイリスは外套の内側に、蜂蜜菓子の包みを大事そうにしまった。
「楽しみにします」
その言い方だけは、少しだけ普通の少女みたいだった。
「……ああ、そうしろ」
俺は前を向いた。
王都までは三日。
第二王女が死ぬとされる日まで、同じく三日。
街道の先に、小さな荷馬車の影が見えた。
「では、旅費調達の最適解を提示します」
「嫌な予感しかしない」
「前方に商人個体を検出。接近し、護衛業務を強制受注しましょう」
「強制受注って言うな!」
「必要であれば、軽度の危険を演出します」
「マッチポンプから離れろ!」
俺の声が、朝の街道に響いた。
ロット村が、少しずつ遠ざかっていく。
旅費は少ない。
荷物も少ない。
常識は、もっと少ない。
そしてその少ない常識を補う役目が、どうやら俺に回ってきたらしい。




