表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/30

聖女は自分の足で壇を降りた

 大聖堂の空気は、まだ震えていた。


 祈りは止まっている。


 神託碑も沈黙している。


 それなのに、誰もすぐには動けなかった。


 白い壇。


 焦げた青い線。


 膝をついたエリシア。


 その横で、ラインハルトに支えられている聖女セラ。


 そして、壇の前で立ち尽くす神官長。


 誰もが、今見たものを頭の中で処理できずにいた。


「聖女セラの身柄は、第二王女エリシア・レーヴェンが預かります」


 エリシアの声だけが、大聖堂に通った。


 泥だらけで。


 髪は乱れ。


 ペンダントを握る手は震えている。


 それでも、その声は王女だった。


 神官長が一歩前に出る。


「お待ちください、王女殿下」


 その声は、まだ穏やかだった。


 だが、穏やかすぎた。


「聖女様は、教会都市ミストリアにおける大規模浄化儀式の中心です。王国といえど、教会の聖務(せいむ)に介入する権限はございません」


「聖務?」


 エリシアは、壇の焼け跡を見た。


 それから、セラの足元に残った薄い青い痕を見る。


「今のものを、あなたは聖務と呼ぶの」


「神託は、人の理解を超えるものです」


「便利な言葉ね」


 エリシアの声は冷たい。


「人が苦しんでも、名前を奪われても、神託と言えば済むのだから」


 神官長の眉がわずかに動いた。


「聖女様は民を救うために選ばれた方です」


「選ばれたのは、セラ本人の意思ではなくて?」


「聖女様は、民を救いたいとおっしゃった」


「だから、消えてもいいと?」


 大聖堂のざわめきが、もう一度小さく広がった。


 神官長は返事をしない。


 返事の代わりに、セラへ視線を向けた。


「聖女様」


 その声は、急に優しくなった。


「混乱しておられるのです。儀式の負荷によって、一時的に心が乱れているだけです。こちらへ戻りなさい。すぐに休ませます」


 セラの肩が、小さく震えた。


 ラインハルトが彼女を支えている。


 前に立つのではなく、横にいる。


 隠すのではなく、倒れないように支えている。


 セラは顔を上げた。


 唇が白い。


 声はまだかすれている。


「私は……」


 神官長が柔らかく微笑む。


「大丈夫です。あなたは聖女です。大丈夫でなければなりません」


 その言葉に、セラの指がぎゅっと中継石を握った。


 青い石は、もうほとんど光っていない。


 それでも、彼女の胸元にはまだ残っている。


 外れていない。


 離れていない。


 セラは唇を噛んだ。


 大丈夫です。


 そう言いかけた口が、一度止まる。


 それから、ゆっくり違う形になる。


「大丈夫では、ありません」


 声は小さかった。


 でも、大聖堂に届いた。


 神官長の表情が止まる。


 セラは、ラインハルトの腕を借りて、少しだけ姿勢を正した。


「怖かったです」


 静かな声。


「ずっと、怖かったです」


 誰かが息を呑んだ。


「でも、祈れば救われる人がいるから、怖くないふりをしていました」


 セラの瞳が、神官長を見る。


「大丈夫ではありません」


 もう一度、言った。


「私は、ここを出ます」


 その瞬間、神官長の顔から微笑みが消えた。


「聖女様」


「私は、セラです」


 セラの声は震えていた。


 それでも、止まらなかった。


「聖女として救いたい人はいます。でも、私が消えることを、私の意思にしないでください」


 大聖堂の奥で、泣き声が漏れた。


 さっき声を上げた巡礼者かもしれない。


 誰かが手を合わせたまま、目を伏せている。


 誰かは、神官長を見ている。


 誰かは、セラを見ている。


 祈りの形が、もう揃っていない。


 神官長が静かに息を吐いた。


「聖女様は、妨害因子の影響下にあります」


 その一言で、周囲の神官たちが動いた。


 白い袖が揺れる。


 数人がセラへ近づく。


 ラインハルトが、鞘に手を置いた。


「下がれ」


「近衛騎士殿。これは教会内部の問題です」


「聖女様本人が、ここを出ると言った」


「正常な判断ではありません」


「正常かどうかを、本人の言葉より先に決める権限が、あなたにあるのか」


 神官長は答えなかった。


 ラインハルトは続ける。


「私は王都近衛騎士団、ラインハルト・クロウ。王女殿下、および聖女セラ様の安全確認を優先する」


「聖女様の安全なら、こちらで――」


「今、壇の上で聖女様を固定した術式の説明が先だ」


 神官長の口が閉じた。


 ラインハルトの声は荒くない。


 だからこそ、逃げ場がない。


「説明できないなら、触れるな」


 神官たちは動けなかった。


 エリシアがセラの前へ歩み寄る。


 膝は少し震えている。


 さっきのペンダントへの逆流のせいだろう。


 だが、彼女はそれを隠そうともしなかった。


 王女らしく見せようとするためではなく。


 逃げないために、立っていた。


「セラ」


 エリシアが手を差し出す。


「歩ける?」


 セラは一度、足元を見た。


 壇の上。


 青い線の焼け跡。


 さっきまで、自分を縫いつけていた場所。


 彼女は唇を震わせた。


「分かりません」


「なら、分からないまま歩きなさい」


 セラが目を丸くする。


 エリシアは、ほんの少しだけ口元を上げた。


「私もそうしたわ」


 セラは泣きそうな顔をした。


 それでも、笑いそうにも見えた。


 ラインハルトが肩を支え、エリシアが手を差し出す。


 セラはその手を取った。


 白い祭服の裾が、壇の端を越える。


 一歩。


 青い焼け跡から離れる。


 もう一歩。


 大聖堂の石床に、聖女の靴音が落ちた。


 小さな音だった。


 けれど、その音で、大聖堂の空気が変わった。


 聖女が、壇を降りた。


 誰かに運ばれたのではなく。


 倒れて落ちたのでもなく。


 自分の足で。


 神官長が低く言った。


「その先に行けば、救われるはずだった民はどうなるのです」


 セラの肩が震えた。


 エリシアの手に、力が入る。


 だが、答えたのはセラだった。


「救いたいです」


 神官長が黙る。


「でも、私を使わない方法を探します」


「そのような方法は存在しません」


「探します」


 セラの声は弱い。


 弱いが、折れていない。


「私は、消えたくありません」


 大聖堂の奥で、またざわめきが広がった。


 神官長の顔が、今度こそ険しくなる。


「王女殿下。これは聖女様の一時的な混乱です。どうか冷静なご判断を」


「冷静に判断しているわ」


 エリシアは言った。


「この場で冷静さを失っているのは、聖女本人の言葉を聞こうとしないあなたの方です」


 神官長の背後で、別の神官が小声で何かを唱えた。


 その瞬間、大聖堂の壁際にある小さな神託盤が、かすかに青く光った。


 俺は水室の水面越しに、それを見た。


「……おい」


 喉が乾く。


 水室の静けさの中で、俺の声だけが落ちた。


「アイリス」


「確認済み」


 アイリスの青い瞳が細かく明滅する。


「神託碑本体は停止。ただし、補助盤が低出力で起動しています」


「何が出てる」


「解析中」


 水面が揺れる。


 大聖堂の壁際の補助神託盤に、青白い文字が走った。


 アイリスが読み上げる。


「聖女個体、再分類」


 雑音。


「接続不全」


 さらに雑音。


「代替経路、検索中」


 俺の背中が冷えた。


「代替って何だよ」


「不明」


「嫌な不明だな」


「同意します」


 アイリスが即答した。


 珍しく、ふざけた色がない。


 神官長の視線も、その補助神託盤へ向いている。


 彼はそれを読んだ。


 読んだ上で、表情を変えなかった。


「聖女様を控室へ」


 神官長が言う。


「今すぐ休ませる必要があります」


 ラインハルトが目を細めた。


「控室」


「はい。儀式後の聖女様のために用意された部屋です」


 アイリスの声が水槽の横で低くなる。


「アーデル」


「何だ」


「その部屋へ移動する場合、補助盤の代替経路と接続する可能性があります」


「控室じゃないってことか」


「名称と実態が一致しない可能性があります」


「つまり?」


「再接続室」


 俺は水槽の縁を掴んだ。


 腕に力が入らない。


 右足も死んでいる。


 立ち上がろうとして、視界が少し白くなる。


「くそ」


「アーデル、起立成功率は低いです」


「分かってる」


「襟首固定による搬送を提案します」


「首が死ぬ」


「歩行より成功率は高いです」


「俺の尊厳成功率は?」


「低いです」


「事実でも言うな」


 水室の扉の向こうで、さっき咳払いをした近衛騎士が立っている。


 彼は俺たちを見張っていた。


 だが、大聖堂の混乱も聞こえているのだろう。


 顔色が硬い。


 俺はその騎士を見る。


「おい」


 騎士の目が鋭くなる。


「何だ」


「今すぐ大聖堂に伝えろ。聖女を控室に入れるな」


「命令する立場か」


「じゃあ頼む。控室じゃない。再接続室の可能性がある」


「何を根拠に」


 俺の言葉を遮るように、アイリスが真顔で、冷たい声を扉の向こうへ叩きつけた。


「補助神託盤が代替経路を検索中。聖女セラを専用室へ移動させた場合、表層ログの強制再同期が発生します。室内の床、壁、天井に青色の魔導線があるはずです。照合してください」


 騎士は一瞬、迷った。


 その迷いが、もう答えだった。


 完全には信じていない。


 でも、聞き流すには、さっきの儀式を見すぎていた。


「……クロウ卿へ伝える」


 騎士は短く言い、扉の外の別の兵へ声を投げた。


「大聖堂へ。控室の確認を進言しろ。床と壁と天井の魔導線を見ろと伝えろ」


 伝令が走る。


 俺は水槽の縁に体重を預けたまま、息を吐いた。


「助かった」


 騎士は俺を睨む。


「礼を言われる筋合いはない」


「じゃあ言わない」


「言った後だ」


「細かいな」


「王女誘拐犯に言われたくない」


「それはそう」


 アイリスが俺の襟首を引いた。


「アーデル、発話量過多です。呼吸精度がさらに悪化します」


「お前の固定のせいだよ」


「固定精度は良好です」


「だから呼吸が悪いんだって」


 水面の中では、神官長がまだエリシアたちを控室へ誘導しようとしていた。


 伝令がラインハルトのところへ駆け込む。


 ラインハルトは短く頷き、神官長へ向き直った。


「その控室を確認する」


「必要ありません」


「必要かどうかを決めるのは、安全確認を行う側だ」


「教会の内部施設です」


「今は聖女様の安全が最優先だ」


 神官長の目が細くなる。


「先ほどから、近衛騎士団は教会の権限を軽んじておられる」


「聖女様を軽んじた覚えはない」


 ラインハルトは一歩も引かない。


 エリシアがセラの手を握ったまま、補助神託盤を見る。


 セラも同じものを見ていた。


 その顔から血の気が引いている。


「また、繋がるんですか」


 セラの声は小さい。


 エリシアが即答する。


「繋がせないわ」


 セラがエリシアを見る。


「でも」


「でも、じゃない」


 エリシアは言った。


「あなたは、ここを出ると言った。なら、その言葉を途中で取り上げさせない」


 セラの唇が震えた。


「はい」


 弱い返事。


 でも、自分の返事だった。


 補助神託盤の光が、また揺れた。


 青白い文字が増える。


 アイリスが読み上げる。


「聖女セラ、接続不全」


 雑音。


「王家認証波形、異常介入」


 さらに雑音。


「外部個体アーデル、接続痕跡」


 その無機質な文字列が網膜に映った瞬間、俺は自分の赤い指先を見た。


 針金一本で水の底の流れを曲げた。


 その感覚を、世界のシステムが、はっきりと記録したのだ。


 アイリスの瞳が、静かに明滅を止める。


「アーデル。追加の干渉が必要になる可能性があります」


「この腕でか?」


「はい」


「最高傑作」


「はい」


「そういう時は、嘘でも無理ですって言え」


「虚偽報告は非推奨です」


「だよな」


 俺は濡れた腕を見た。


 指先が赤い。


 何かを砕いた感覚が、まだ残っている。


 曲がった針金一本で、水の底の流れを曲げた。


 その結果、神託碑は止まった。


 でも、上位接続は切れていない。


 補助盤が動き出した。


 俺たちは勝ったのではない。


 せいぜい、儀式を一度失敗させただけだ。


 水面の向こうで、ラインハルトが神官長に言う。


「聖女様を控室へ移す前に、王女殿下の立ち会いのもとで部屋を確認する」


「王女殿下は、現在正常な判断状態とは言えません」


 エリシアの目が冷たくなった。


「では、異常な王女として命じます」


 大聖堂が静まる。


「その部屋を開けなさい」


 神官長は動かない。


 エリシアは、セラの手を離さずに続けた。


「聖女セラが入る部屋です。本人が確認を望むなら、教会に拒む理由はないはずでしょう」


 セラが小さく息を吸う。


 それから、顔を上げた。


「確認したいです」


 神官長の視線がセラへ移る。


 セラは震えた。


 それでも、もう下を向かなかった。


「私が入る部屋なら、私も見ます」


 ラインハルトが頷いた。


「聖女様の意思を確認した。部屋を開けろ」


 神官の一人が迷う。


 神官長は沈黙している。


 補助神託盤の光だけが、大聖堂の壁際で揺れていた。


 やがて、神官長はゆっくりと手を下ろした。


「……開けなさい」


 白い扉が、壇の裏手で開かれる。


 大聖堂の奥。


 聖女の控室と呼ばれていた部屋。


 中は薄暗い。


 白い寝台。


 祈りの香炉。


 清めの水瓶。


 一見すると、ただの休憩室に見えた。


 だが、床が青白く光っている。


 壁にも、細い線がある。


 天井にも。


 水室の底で見たものと、同じ種類の線だった。


 俺の喉が詰まる。


 アイリスが無機質に言った。


「再接続室で確定」


 水面の向こうで、セラが一歩下がった。


 エリシアが彼女の手を強く握る。


 ラインハルトの顔から、完全に温度が消えた。


「神官長」


 彼は言った。


「説明を」


 神官長は沈黙した。


 大聖堂のざわめきが、今までで一番大きくなる。


 控室じゃない。


 休ませる部屋じゃない。


 セラを、もう一度繋ぐ部屋だった。


 セラが小さく震えながら言う。


「ここで、いつも休んでいました」


 誰も言葉を返せない。


「祈った後、ここで眠っていました」


 セラは青い線を見ていた。


「起きたら、昨日のことが思い出せない時がありました」


 神官長が口を開きかける。


 ラインハルトが遮る。


「答える前に考えろ」


 短い声だった。


「今の答えは、民も聞いている」


 神官長は口を閉じた。


 大聖堂の巡礼者たちは、その部屋を見ている。


 聖女を休ませる部屋だと思っていた場所。


 その床に、神託碑と同じ青い線が走っている。


 もう、祈りの言葉だけではごまかせない。


 セラは一歩、エリシアの後ろへ下がった。


 それは逃げではなかった。


 自分の意思で、そこに入らないと決めた動きだった。


「私は、入りません」


 セラが言った。


 大聖堂の奥で、補助神託盤の光が強くなる。


 アイリスが読み上げる。


「聖女セラ、再接続拒否」


 雑音。


「代替経路、失敗」


 さらに雑音。


「処理保留」


 そこで、補助神託盤の光が一段弱まった。


 完全には消えない。


 でも、少なくとも今すぐセラを飲み込む力は失われた。


 俺は深く息を吐いた。


 その瞬間、足から力が抜けた。


「おっと」


 アイリスが襟を引く。


 首が絞まる。


「ぐえ」


「姿勢崩壊を防止しました」


「防止方法が雑なんだよ」


「高難度物理支援です」


「その単語でだいたいの暴力が許されると思うな」


 扉の向こうの近衛騎士が、また咳払いした。


 俺は黙った。


 大聖堂では、ラインハルトが部下に指示を出している。


「聖女様を再接続室から離せ。王女殿下とともに西側控え廊下へ移動。神官長には事情聴取を行う」


「クロウ卿!」


 神官長が声を荒げた。


「近衛騎士団に、教会都市の神官長を拘束する権限はない!」


「拘束ではない」


 ラインハルトは言った。


「安全確認のための同行要請だ」


「言葉遊びを」


「あなた方が得意なものだろう」


 大聖堂がまたざわめいた。


 神官長の顔が赤くなる。


 しかし、ここで強く出れば、聖女の再接続室の説明から逃げられない。


 彼は動けなかった。


 エリシアはセラを支え、ゆっくりと壇から離れる。


 ラインハルトがその横を歩く。


 神官たちは道を空けるしかない。


 セラは一度だけ、大聖堂の中央を振り返った。


 壇。


 神託碑。


 再接続室。


 祈っていた場所。


 眠らされていた場所。


 それを見て、胸元の中継石を握る。


「外したいです」


 セラが呟いた。


 エリシアが横を見る。


「それを?」


「はい」


 セラは透明な石を見下ろした。


「これがあると、また繋がる気がします」


 ラインハルトが手を伸ばしかける。


 アイリスの声が水面越しに飛んだ。


「無理に外さないでください」


 大聖堂側には聞こえていない。


 だが、水室の近衛騎士が反応し、伝令へ伝える。


 少し遅れて、ラインハルトが手を止めた。


「理由は」


 伝令が水室へ駆け戻ってくる。


 俺はアイリスを見る。


 アイリスが答える。


「中継石は聖女セラの生体魔力に癒着しています。強制除去時、神経系統および記憶領域に損傷の可能性」


「もっと短く」


「無理に外すと壊れます。石ではなく、セラが」


 伝令の顔が青くなった。


 彼は大聖堂へ戻る。


 ラインハルトは報告を聞き、セラへ静かに言った。


「今は外さない方がいい」


 セラの顔が歪む。


「じゃあ、私はまだ……」


「繋がせない」


 エリシアが言う。


「今は外せなくても、繋がせない。そういう順番で行きましょう」


 セラは、ゆっくり頷いた。


「はい」


 その声は弱かった。


 でも、折れてはいない。


 水室の中で、俺は床に座り込んだまま、頭を壁に預けた。


「順番、か」


「何ですか」


 アイリスが俺を見る。


「いや。エリシアも、まともなこと言うようになったなって」


「エリシアの判断精度は上昇しています」


「名前」


「はい」


「今、名前で呼んだな」


 アイリスは一瞬だけ止まった。


 本当に一瞬だけ。


「識別精度向上のためです」


「そうかよ」


「はい」


 それ以上は言わなかった。


 言わない方がいい気がした。


 大聖堂の水面映像が、少しずつ乱れる。


 儀式の水が落ち着いてきたのだろう。


 映像が消えかける。


 最後に見えたのは、西側控え廊下へ向かう三人だった。


 泥だらけの王女。


 白い祭服の聖女。


 銀の鎧の近衛騎士。


 その後ろに、納得していない神官長と、ざわめく巡礼者たち。


 完全な勝利には見えない。


 むしろ、問題が増えた。


 でも、セラは壇の上にはいない。


 再接続室にも入らなかった。


 自分で、ここを出ると言った。


 それだけは、確かだった。


 水面の映像が消える。


 水室に、石の冷たい匂いが戻ってきた。


 俺は濡れた腕を膝に置いた。


 痛い。


 右足も痛い。


 首も痛い。


 だいたいアイリスのせいだ。


「アーデル」


「何だ」


「移動します」


「俺が?」


「はい」


「どうやって」


「襟首固定搬送」


「却下」


「代替案。近衛騎士に担がせる」


「それも嫌だ」


「自力歩行成功率は低いです」


「じゃあ、肩を貸せ。首じゃなくて」


 アイリスは少し首を傾げた。


「肩部支援へ変更」


 彼女は俺の腕を自分の肩へ回した。


 小さい体なのに、支える力は十分すぎるほどある。


 ただし、力加減は雑だった。


「痛い」


「固定しました」


「圧が強い」


「脱落防止です」


「俺は荷物じゃない」


「高難度荷重物です」


「悪化したぞ」


 扉の向こうの近衛騎士が、今度は咳払いではなく、少しだけ笑いを噛み殺した顔をした。


 俺は睨む。


「笑ったか」


「笑っていない」


「嘘が下手だな」


「王女誘拐犯に言われたくない」


「それ便利に使うな」


 近衛騎士は扉を開けた。


「クロウ卿から命令が来ている。王女殿下、聖女様、およびお前たちを西側控え廊下へ移す」


「捕まえるんじゃないのか」


「捕まっている扱いだ」


「自由は?」


「ない」


「だよな」


 アイリスが言う。


「拘束状態を維持したまま、目的地へ接近できます」


「お前は本当に前向きだな」


「効率的です」


「効率だけならな」


 俺は立ち上がろうとした。


 右足に体重を乗せた瞬間、膝裏まで痛みが走った。


「っ……!」


 足が崩れる。


 アイリスが肩を押し上げる。


 近衛騎士が反対側から腕を支えた。


「歩けるか」


「歩くしかないだろ」


「無理なら担ぐ」


「それは最後にしてくれ」


 近衛騎士は短く頷いた。


 俺たちは水室を出た。


 石廊下は冷えている。


 遠くでは、まだ大聖堂のざわめきが続いている。


 神託碑が沈黙しても、人の声は止まらない。


 むしろ、神託が黙ったからこそ、人の声が戻ってきたのかもしれない。


 俺はそこまでは口に出さなかった。


 言うと、少し綺麗すぎる気がした。


 かわりに、右足を引きずる。


 一歩。


 もう一歩。


 アイリスが支える。


 近衛騎士が支える。


 王女誘拐犯としては、なかなか情けない移動だった。


 廊下の角を曲がる直前、壁際の小さな補助神託盤が、また一度だけ光った。


 アイリスが止まる。


「何だ」


 俺も見る。


 青白い文字が、細く流れる。


 アイリスが低く読み上げた。


「外部個体アーデル」


 雑音。


「王女個体エリシア」


 雑音。


「聖女セラ」


 俺は眉をひそめた。


 アイリスの瞳が明滅する。


 補助神託盤の文字は続く。


「再分類、保留」


 そこまで表示して、光が消えた。


 廊下は暗くなる。


 俺はしばらく、その石板を見ていた。


 エリシアはまだ王女個体。


 俺は外部個体。


 でも、セラだけは名前。


 それがいいことなのか、悪いことなのかは分からない。


 ただ、神託の中で何かがずれている。


 小さく。


 でも確かに。


「行くぞ」


 近衛騎士が言った。


「ああ」


 俺は頷いた。


 歩き出す。


 痛みで視界が少し揺れる。


 アイリスが肩を支えながら、真顔で言った。


「作戦名の更新を提案します」


「今じゃない」


「聖女を誘拐していないが、聖女が自発的に同行意思を示したため結果的に保護対象が増加した作戦」


「長い」


「短縮案。聖女増加作戦」


「最悪だ」


「では、聖女を連れて逃げる作戦」


「だいぶ犯罪っぽくなったな」


「実態に近いです」


「近づけるな」


 近衛騎士が前を向いたまま言う。


「その作戦名を、クロウ卿の前で言うな」


 俺は深く頷いた。


「全面的に同意する」


 アイリスだけが不満そうだった。


「記録保留」


「保留もするな」


 西側控え廊下の扉が見えてきた。


 その向こうに、エリシアとセラがいる。


 ラインハルトも。


 神官長も、たぶん近くにいる。


 教会都市は、もう俺たちを客として扱わないだろう。


 王国も同じだ。


 それでも、行くしかない。


 聖女は自分の足で壇を降りた。


 なら、次は。


 その足で、ここを出なければならない。


 俺は痛む右足を引きずりながら、扉の前に立った。


 アイリスが隣で言う。


「アーデル、歩行精度は低下しています」


「知ってる」


「ですが、停止していません」


「……そうだな」


 近衛騎士が扉を叩く。


 中から、ラインハルトの声がした。


「入れ」


 扉が開く。


 泥だらけの王女がこちらを見た。


 その隣で、聖女セラが自分の足で立っていた。


 白い祭服はまだ震えている。


 でも、彼女は壇の上にはいない。


 再接続室にもいない。


 自分の足で、ここに立っている。


 セラは俺のボロボロの右腕を見ると、小さく頭を下げた。


「ありがとうございました」


「まだ終わってない」


 俺はそう言った。


 セラは、まっすぐに俺を見返した。


「はい。だから、私を使わない第三案を、教えてください」


 その言葉に、アイリスの青い瞳がこれまでにない速度で脈打った。


「最高傑作のデータベースを解放。新規タスク『聖女セラを消費せず、救済出力を維持する代替回路の構築』を最優先処理に固定しました」


 セラが息を呑む。


 アイリスは続ける。


「成功率、算出不能。ただし――」


 アイリスは俺の腕を自分の肩へ担ぎ直した。


「ゼロとは記録されていません」


 俺は短く息を吐いた。


「じゃあ、行くか」


 エリシアが、ほんの少しだけ口元を上げた。


「逃亡者の機転の、見せ所ね」


 ラインハルトが扉の外を確認する。


「西門は使えない。巡礼者用の通路も封鎖される。地下の祈り水路なら、まだ監視が薄い」


 俺は彼を見る。


「逃がす気か」


「安全確認のため、聖女様を移動させるだけだ」


「言葉遊びじゃないか」


「必要な言葉遊びだ」


 ラインハルトは、まっすぐ俺を見た。


「私はあなた方を見逃したわけではない」


「じゃあ捕まえるのか」


「今は、聖女様の安全確認が先だ」


 その言葉に、俺は少しだけ笑った。


 聞き覚えがある。


 こいつは、いつもそれで道を作る。


 味方ではない。


 まだ、味方ではない。


 でも、少なくとも今は、同じ方向を見ている。


 外の廊下には、まだ神官たちの声が響いている。


 補助神託盤の青い光も、どこかでまた揺れている。


 俺たちはまだ捕まっている。


 まだ逃げられていない。


 まだ何も解決していない。


 それでも、聖女は壇を降りた。


 王女は檻の外で命じた。


 古代AIは、成功率不明のタスクを固定した。


 そして俺は。


 右足を引きずりながら、また一つ面倒を背負うことにした。


 誰かを一人で壇に立たせない。


 その約束は、たぶん。


 思っていたより、ずっと重い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ