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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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25/30

逃亡者の機転はだいたい泥臭い

 西側控え廊下の空気は、白い大聖堂とは違っていた。


 香の匂いは薄い。


 祈りの声も遠い。


 代わりに、石壁の奥を水が流れる音がする。


 細く、低く、絶えない音。


 祈りの水路。


 ラインハルトはそう呼んだ。


「ここを抜ける」


 彼は短く言った。


 銀の鎧は大聖堂の光を失い、廊下の薄暗さの中で鈍く沈んでいる。


 その横に、エリシア。


 泥だらけのドレス。


 裂けた裾。


 それでも背筋は伸びている。


 さらにその隣に、セラ。


 白い祭服は乱れ、胸元の中継石を両手で握っている。


 彼女はまだ震えていた。


 けれど、足は床についている。


 自分の足で立っている。


 俺はと言えば、アイリスに肩を貸されている。


 右足に体重を乗せるたび、膝裏まで痛みが走った。


 右腕もまともに上がらない。


 水槽の底を押さえ続けたせいで、指先の感覚が少し鈍い。


 つまり、だいたい終わっている。


「アーデル、歩行速度が低下しています」


「知ってる」


「この速度では、追跡者に追いつかれる可能性があります」


「じゃあ、俺を置いていけ」


 言った瞬間、エリシアが振り返った。


 目が冷たい。


「それを言うなら、もう一度言いなさい」


「……言いません」


「よろしい」


 王女の圧が強い。


 セラが小さくこちらを見る。


 不安そうな目だった。


 俺は片手を少し上げようとして、痛みでやめた。


「大丈夫だ。置いていかれるのは慣れてない」


「それ、大丈夫という意味ですか」


「違うと思う」


 セラがほんの少しだけ困った顔をした。


 笑う余裕はまだない。


 でも、さっきよりは呼吸がある。


 ラインハルトが扉の外を確認する。


「西門側はすでに塞がれている。巡礼者用通路も神官が回る。地下の水路へ降りる階段までは、こちらの廊下を進む」


「あなたは来るの?」


 エリシアが問う。


 ラインハルトは一瞬だけ黙った。


「途中までです」


「途中?」


「私は王都近衛騎士団の者です。教会都市で勝手に王女殿下と聖女様を連れ出せば、それは護衛ではなく逃亡補助になる」


「今さらではなくて?」


「今さらです」


 ラインハルトは淡々と言った。


「だから、途中までです」


「言葉遊びね」


「必要な言葉遊びです」


 エリシアは少しだけ目を細めた。


 怒っているわけではない。


 たぶん、見極めている。


 この騎士がどこまで自分たちの味方で、どこから王国の騎士に戻るのか。


 ラインハルトも、それを分かっている顔だった。


「クロウ卿」


 セラが小さく呼んだ。


 ラインハルトが彼女を見る。


「はい」


「あなたは、叱られますか」


「叱られる程度で済めば幸運です」


 セラの顔が青くなる。


 ラインハルトは続けた。


「ですが、聖女様が再接続室へ戻されるよりはましです」


 セラは言葉を失った。


 エリシアも黙った。


 ラインハルトは、そこで余計な言葉を足さなかった。


 正しいことをした、とも。


 あなたのためです、とも。


 言わない。


 ただ、扉の外を見ていた。


 俺はその横顔を見ながら、少しだけ息を吐いた。


 やっぱり、こいつは面倒だ。


 真面目すぎて、信用しにくい。


 信用しにくいのに、背中を向けるのも怖くない。


 そういう面倒さだ。


「アイリス」


 俺は小声で言った。


「水路は?」


 アイリスの青い瞳が明滅する。


「地下二層。祈りの水を浄化槽へ戻す補助経路。幅、成人一名半。水深、膝程度」


「まともそうだな」


「教会基準では」


「その前置きやめろ」


「古代基準では狭小、不衛生、保守不良です」


「やっぱり嫌な予感しかしない」


 ラインハルトがこちらを見た。


「その少女は水路の構造が分かるのか」


「分かるらしい」


「らしい?」


「最高傑作だからな」


「説明になっていない」


「俺もそう思う」


 アイリスは胸を張る。


「私は古代文明の最高傑作です。教会施設の低品質な水路程度、解析可能です」


 セラが少しだけ目を丸くする。


「教会の水路は、低品質なのですか」


「はい。保守記録が雑です」


「保守記録……」


 セラの表情が少しずつ変わる。


 今まで「祈りの水」として扱っていたものが、アイリスの口からは「水路」「保守記録」「再接続室」という言葉になる。


 信仰が剥がれて、仕組みが見える。


 それはたぶん、怖いことだ。


 セラは中継石を握り直した。


 だが、目は逸らさなかった。


「なら、教えてください」


 セラは言った。


「私が、どこを通れば繋がらずに出られるのか」


 アイリスの瞳が、一度だけ強く光った。


「聖女セラの移動経路探索を開始」


 彼女は即答した。


「接続反応の薄い経路を選びます」


「お願いします」


「要求を受理」


 それだけ。


 礼も、励ましもない。


 でも、セラは少しだけ頷いた。


 冷たい言葉でも、今は必要だった。


 廊下の向こうから足音がした。


 白い靴音。


 鎧ではない。


 神官だ。


 ラインハルトが手で全員を止める。


 俺は止まるだけで足が痛い。


 アイリスが俺の腕をさらに支える。


「圧が強い」


「転倒防止です」


「だから痛い」


「痛覚は生存反応の一部です」


「便利に使うな」


 ラインハルトが短く睨む。


 黙れ、という目だった。


 俺は黙った。


 廊下の角から、神官が二人現れる。


 手には青い灯りの小さな棒。


 探索用の魔導灯だろう。


「こちらの控え廊下も確認しろ」


「聖女様は西側へ移されたはずでは」


「神官長の命令だ。王女殿下と接触させるな」


 ラインハルトが低く息を吐く。


「早いな」


「どうする」


 エリシアが小声で聞く。


「私が出ます」


「それで止まる?」


「一時的には」


「一時的では足りないわ」


 エリシアは壁際を見る。


 そこには、香炉を置くための細い棚があった。


 その下に、清めの布が積まれている。


 さらに奥には、巡礼者用の白い外套が数枚掛かっていた。


 エリシアの目が動く。


 王女の知識ではない。


 逃亡者の機転だ。


「セラ、外套を」


「え?」


「被って。顔を隠すの」


 セラは戸惑いながらも、白い外套を受け取る。


 エリシアは自分も別の外套を羽織った。


 泥だらけのドレスが隠れる。


 完全ではない。


 だが、薄暗い廊下なら一瞬は誤魔化せる。


「ルカ」


「何だ」


「あなたは黙って壁にもたれていなさい」


「俺の役割、壁?」


「今のあなたに一番向いているわ」


「否定できないのが悔しい」


 アイリスが俺を壁際へ押しつけた。


「壁役へ配置」


「役職にするな」


 セラが外套の奥で息を整える。


 ラインハルトは軽く目を伏せた。


 それから廊下の中央へ出る。


「何をしている」


 神官二人が足を止めた。


「クロウ卿」


「この廊下は封鎖した。王女殿下と聖女様の安全確認中だ」


「神官長より確認命令が出ています」


「私も王女殿下より安全確認命令を受けている」


「しかし――」


「聖女様は、先ほど壇の上で負荷を受けた。これ以上、無関係な者を近づけるな」


 無関係。


 神官たちの顔が一瞬こわばった。


 自分たちが聖女にとって無関係だと言われたように聞こえたのだろう。


 だが、反論しようとした瞬間、エリシアが外套を深く被ったまま、低い声で言った。


「水を」


 神官たちの視線がそちらへ動く。


 エリシアは顔を見せない。


 声も抑えている。


 それでも、命令に慣れた響きだけは隠せない。


「聖女様に清めの水を」


 神官の一人が反射的に頭を下げた。


「は、はい。ただいま」


 もう一人が少し怪しむ。


 しかし、ラインハルトが前に立っている。


 白い外套の女が二人。


 壁際の怪我人。


 煤だらけの銀髪少女。


 状況は怪しすぎる。


 だが、神官たちも混乱していた。


 大聖堂で起きたことを、まだ整理できていない。


 エリシアは続けた。


「神官長には、聖女様の呼吸が戻り次第、こちらから報告します。今は近づかないように」


 神官が迷う。


 その一拍に、ラインハルトが声を重ねる。


「聞こえなかったか」


「……承知しました」


 神官たちは一礼し、いったん引いた。


 角を曲がる音が遠ざかる。


 全員が息を吐いた。


 セラが外套の下から小さく言う。


「すごいです」


「逃亡者の機転よ」


 エリシアは短く答えた。


 その口元が、ほんの少しだけ上がっている。


 俺は壁にもたれたまま言った。


「王女様、悪いこと覚えるの早いな」


「あなたとアイリスのせいでしょう」


「俺は悪くない」


「あなたは王女誘拐犯よ」


「便利だな、それ」


 アイリスが静かに言う。


「会話時間が増加しています。移動推奨」


「そうだった」


 ラインハルトが先へ進む。


「今のうちだ」


 俺たちは廊下を進んだ。


 エリシアとセラは白い外套を被ったまま。


 ラインハルトが先頭。


 アイリスと近衛騎士に支えられた俺が後ろ。


 遅い。


 どう考えても遅い。


 右足が床を叩くたび、痛みで息が詰まる。


 でも、止まれない。


 角を二つ曲がると、廊下の空気が湿った。


 壁に細い水滴がついている。


 石床も少し滑る。


 奥に、低い鉄扉が見えた。


 その上に、女神の紋章。


 その下に、小さく古代文字。


 アイリスが読む。


「祈り水路、保守口」


「保守口……」


 セラが呟く。


 その声に、少しだけ苦さがある。


 彼女が聖なるものだと思っていた水路は、アイリスにとって保守口だった。


 ラインハルトが扉に手をかける。


 鍵がある。


 教会式の簡単な封印。


 アイリスが手を伸ばした。


「開錠します」


「音は」


「低減します」


「ゼロじゃないんだな」


「扉の質が低いため」


「また教会をけなしたな」


 アイリスの指が封印に触れる。


 青い光が音もなく走り、錠前だけが内部で滑らかに落ちた。


 開錠精度は完璧だった。


 だが、ラインハルトが鉄扉をわずかに押した瞬間、長年放置されていた重いヒンジが、ぎ、と石壁に擦れる不穏な金属音を立てた。


 全員が止まる。


 遠くの廊下で、巡回する神官の足音が一つ、ぴたりと止まった。


 俺はアイリスを見る。


「今のは」


「扉の保守不良です」


「お前のせいじゃないと」


「はい。私は完璧です」


「そこで胸を張るな」


 ラインハルトが低く言う。


「静かにしろ」


 俺とアイリスは黙った。


 息を殺す。


 遠くの足音は、しばらく止まっていた。


 水の音だけが、壁の奥から響いている。


 やがて、足音は別の方向へ動いた。


 全員が、ほんの少しだけ息を吐いた。


 ラインハルトが扉を押し開ける。


 冷たい湿気が流れ出す。


 狭い階段。


 下へ続いている。


 水音が強くなる。


「ここから先は鎧が響く」


 ラインハルトが言う。


「私は先に周囲を確認する。王女殿下、聖女様、足元に注意を」


 エリシアが頷く。


 セラは中継石を握ったまま、階段の暗さを見下ろしている。


 白い顔。


 震える指。


 それでも、一歩を出そうとしている。


 俺は言った。


「セラ」


 彼女が振り返る。


「怖いなら、怖いって言えよ」


 セラは一瞬、驚いた顔をした。


 それから、小さく頷いた。


「怖いです」


「よし」


「よし、なのですか」


「大丈夫って言うよりは、よしだ」


 セラは少しだけ息を吐いた。


「怖いです。でも、行きます」


「それでいい」


 エリシアが静かにセラの横に立つ。


「私も怖いわ」


「王女様も?」


「もちろん」


 エリシアは階段の暗がりを見る。


「ただ、怖いからといって、神託に戻る理由にはならないだけよ」


 セラはその言葉を、小さく飲み込むように頷いた。


 ラインハルトが先に降りる。


 次にエリシアとセラ。


 俺はアイリスに支えられて階段へ足をかけた。


 右足が震える。


「痛い」


「痛覚報告、受信」


「感想は?」


「階段移動に不向きです」


「分かってる」


「担ぎ上げますか」


「今度は首じゃなくて?」


「腰部固定搬送」


「響きが嫌だ」


 近衛騎士が後ろから言った。


「無理なら俺が支える」


「助かる」


「逃げるなよ」


「この足で逃げられると思うか」


「思わない」


「だろ」


 彼は俺の反対側を支えた。


 近衛騎士と古代AIに抱えられて、王女誘拐犯が階段を降りる。


 やっぱり情けない。


 でも、下りるしかない。


 階段を降りると、低い水路へ出た。


 天井は低い。


 大人が腕を上げれば届くくらい。


 両側には細い通路。


 中央に、水が流れている。


 水深は膝程度。


 ただし、真っ暗だ。


 壁に埋め込まれた青い石が、ところどころ弱く光っている。


 その光は神託碑と同じ色に見えた。


 俺は思わず足を止めた。


「どうした」


 ラインハルトが聞く。


「いや」


 青い石。


 細い魔導線。


 水の流れ。


 祈りの水。


 さっきまで、セラを縛っていたものと繋がっているかもしれない。


 そう思うだけで、指先が疼いた。


「アイリス」


「確認中」


 アイリスは壁に触れた。


 青い光が、彼女の瞳に映る。


「表層水路。現在の接続反応、低。神託碑本体との同期は停止中。ただし、補助盤経由の微弱な監視反応あり」


「つまり?」


「早く出るべきです」


「最初からそれでいい」


 水路の奥から、かすかな音がした。


 水の音に混じって、別の音。


 靴音。


 遠い。


 まだ近くはない。


 でも、追手が動いている。


 ラインハルトが短く言う。


「急ぐ」


 俺たちは水路沿いを進んだ。


 セラは足元の水を見ながら歩く。


 白い祭服の裾が濡れる。


 エリシアが横で支える。


「大丈夫?」


「大丈夫ではありません」


「よろしい」


「よろしい、なのですね」


「ええ。今の方が信用できるわ」


 セラは小さく頷いた。


 大聖堂の時より、表情が少しだけ生きている。


 怖いと言えるからだろう。


 大丈夫ではないと言えるからだろう。


 アイリスが先を見ながら言う。


「前方、分岐」


 水路が三つに分かれていた。


 左は細い。


 中央は広い。


 右は天井が低い。


 壁にはそれぞれ教会文字の札がある。


 左、巡礼者清め水。


 中央、大聖堂還流。


 右、旧式排水。


 ラインハルトが中央を見る。


「大聖堂還流は危険だ。人が多い」


 エリシアが左を見る。


「巡礼者用なら出口があるはずよ」


 アイリスは右を指した。


「右です」


「右、旧式排水って書いてあるぞ」


「監視反応が最も低いです」


「汚いのではなくて?」


 エリシアが眉をひそめる。


「汚いです」


 アイリスは即答した。


「でも最適です」


「少しは迷いなさいよ」


「迷うと遅れます」


 セラが右の水路を見た。


 暗い。


 狭い。


 天井が低い。


 そこへ行けば、白い祭服はもっと汚れる。


 聖女らしい姿など、もう残らない。


 セラは胸元の中継石に触れた。


 それから、ゆっくり右を向いた。


「右へ行きます」


 エリシアが彼女を見る。


「いいの?」


「はい」


 セラは、小さく息を吸った。


「聖女らしくない道の方が、今は安全なら」


 少しだけ声が震えていた。


「そちらへ行きます」


 俺は思わず笑った。


「いいな、それ」


 セラが不安そうに俺を見る。


「変でしたか」


「いや。かなりいい」


 エリシアも口元を緩める。


「逃亡者向きね」


「それは、褒め言葉ですか」


「今はね」


 アイリスが右の水路へ進む。


「聖女セラ、逃亡者適性を仮登録」


「登録しなくていい」


 俺とエリシアが同時に言った。


 セラが少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 でも、笑った。


 右の水路へ入る。


 天井が低くなり、ラインハルトは少し身を屈めた。


 俺はアイリスと騎士に支えられながら歩く。


 水の匂いが強い。


 泥と、古い石と、少しだけ薬草の匂い。


 壁の青い光はほとんど消えている。


 代わりに、古い銀色の線がところどころ露出している。


 指先が、勝手にそこを追いかけそうになる。


 だが、触れない。


 今触れば、何が起きるか分からない。


「アーデル」


 アイリスが言った。


「触れないでください」


「分かってる」


「指先の視線移動を確認しました」


「視線移動って何だよ」


「触りたそうでした」


「子ども扱いするな」


「修理対象を見る時の反応です」


 俺は言い返せなかった。


 確かに、見ていた。


 壊れかけた線。


 詰まりかけた流れ。


 直せそうなもの。


 でも今は、直すより逃げる方が先だ。


 奥から、突然、青い光が走った。


 全員が止まる。


 水路の壁に、小さな補助神託盤が埋まっていた。


 ひび割れた石板。


 そこに、文字が浮かぶ。


 アイリスが低く読む。


「聖女セラ、経路逸脱」


 セラの肩が跳ねた。


 文字は続く。


「王女個体、同伴」


 エリシアの目が細くなる。


「外部個体アーデル、接続痕跡」


 俺は赤い指先を握った。


 さらに。


「未登録演算体、干渉継続」


 アイリスを、そう呼んだ。


「アイリス」


 俺が呼ぶと、彼女はいつも通り真顔のまま、瞳の奥で青い文字列を爆速で走らせた。


「警告。オラクルコア側のマスターデータと、私の識別IDの照合に失敗。システムは私を例外エラーとして分類しました。現在、局所神託網による私の位置情報捕捉処理を遮断しています」


 エリシアが、外套のフードの隙間からその無機質な横顔を見つめた。


「つまり……追手はあなたを追えないの?」


「この局所網に限定すれば、はい」


 アイリスは壁の補助神託盤を見る。


「ただし、上位接続へ再送信された場合、再分類が発生する可能性があります」


「完全に安全ではないのね」


「はい」


「それでも、今は助かる」


「はい」


 補助神託盤の光が、そこで途切れた。


 水路が一段暗くなる。


 緊迫した水路の中で、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


 それも一瞬だった。


 背後から、鉄扉が開く音がした。


 遠い。


 でも、確実に追ってきている。


 ラインハルトの顔が引き締まる。


「進む」


 水路はさらに狭くなった。


 右足が滑る。


 俺は壁に手をつき、痛みを飲み込む。


 アイリスが支える。


 近衛騎士も支える。


 情けないが、今は使えるものは全部使う。


 エリシアとセラは前を歩く。


 白い外套はもう泥だらけだ。


 セラの祭服の裾にも泥がついている。


 それを見て、セラは少しだけ立ち止まった。


「汚れてしまいました」


 エリシアが振り返る。


「困る?」


 セラは裾を見た。


 それから、自分の足を見た。


 泥水に濡れた靴。


 神聖な壇の上ではなく、旧式排水路を歩いている足。


「いいえ」


 セラは言った。


「今は、これでいいです」


 エリシアは頷いた。


 何も言わなかった。


 ただ、前へ進んだ。


 水路の先に、光が見えた。


 外の光ではない。


 緑がかった薄い光。


 水路の終点に、古い浄化槽があった。


 広い円形の空間。


 中央に、透明な水が溜まっている。


 天井から、教会都市の外壁近くへ続く排水口が伸びていた。


 そこを抜ければ、外へ出られる。


 たぶん。


 ただし。


 浄化槽の上には、青い輪が浮かんでいた。


 神託碑ほど大きくはない。


 補助神託盤よりは強い。


 空中に浮かぶ、青い円環。


 水面に、文字が映る。


 アイリスが止まった。


「局所再同期ノード」


「何だ、それ」


「小型の神託接続点です」


「つまり邪魔ってことか」


「はい」


 青い円環が回る。


 水面の文字が流れる。


 聖女セラ、回収。


 王女個体、保護。


 外部個体アーデル、拘束。


 未登録演算体、隔離。


 ラインハルトが剣に手をかける。


「ここで待ち伏せか」


「待ち伏せというより、通行判定です」


 アイリスが答える。


「この円環を通過すると、聖女セラの中継石が反応します」


 セラが胸元を押さえる。


「また、繋がるのですか」


「可能性があります」


 セラの顔が青くなる。


 エリシアが即座に彼女の前へ立つ。


「通らなければいい」


「出口はあそこだけだ」


 ラインハルトが言う。


 俺は浄化槽を見る。


 水。


 青い円環。


 排水口。


 壁の古い銀色の線。


 壊れかけた構造。


 たぶん、昔は水だけを通して、余計な反応を切る仕組みがあった。


 今は、その切り替えが壊れている。


 水の流れが、神託の線と同じところを通っている。


 俺は壁にもたれたまま、息を吸った。


 指先が、疼く。


「ルカ」


 エリシアが俺を見る。


 分かっている目だった。


「直せる?」


「見ただけで無茶言うな」


「直せない?」


「……見れば見るほど、直せそうなのが嫌だ」


 アイリスが青い瞳を光らせる。


「アーデルの追加干渉が必要です」


「さっき言ってたやつか」


「はい」


「この腕で?」


「はい」


「最高傑作」


「はい」


「今度こそ、嘘でも無理ですって言ってほしかった」


「虚偽報告は非推奨です」


「だよな」


 セラが俺を見る。


「でも、ルカさんはもう……」


 俺は笑いそうになった。


「さん?」


「え?」


「いや、何でもない」


 王女誘拐犯に「さん」をつける聖女。


 この状況でちょっと変だ。


 でも、悪くなかった。


 俺は浄化槽へ近づこうとした。


 右足が悲鳴を上げる。


 ラインハルトが反射的に支えた。


「無理をするな」


「じゃあ他に誰がやる」


 ラインハルトは答えなかった。


 アイリスが俺の肩を支える。


「必要作業を提示します」


「短く」


「円環の下部にある旧式遮断弁を、物理的に動かしてください」


「また弁か」


「はい」


「好きだな、弁」


「構造がそうです」


「俺が好きみたいに言うな」


 アイリスは浄化槽の縁を指す。


 水面の下、青い円環の真下。


 そこに、石の突起がある。


 さっきの水室の弁より大きい。


 だが、固まっている。


 水の中。


 深さは腰ほど。


 右足で立つにはきつい。


 腕もまともじゃない。


 でも、やるしかない。


 エリシアが言った。


「私も支えるわ」


「お前はペンダントを使ったばかりだろ」


「だから何?」


「だから休め」


「逃亡者に休憩制度があるなら、教えてほしいわね」


 セラが一歩前に出る。


「私も」


 エリシアが止める。


「セラ」


「私のための道です」


 セラは胸元の中継石を握った。


「立っているだけでは、また壇と同じです」


 エリシアは言葉を止めた。


 ラインハルトも止めない。


 アイリスだけが淡々と言う。


「聖女セラの中継石が円環に近づくと、再接続率が上昇します」


 セラの顔が少し白くなる。


 でも、下がらない。


「どのくらい近づけば危ないですか」


「三メートル以内で反応上昇。二メートル以内で接続試行。一メートル以内で強制同期の可能性」


「では、三メートルより近づきません」


「推奨」


 セラは頷いた。


「そこから、見ています」


 俺は水に足を入れた。


 冷たい。


 痛みが少しだけ鈍る。


 でも、右足を踏み出すと、やっぱり膝裏が焼ける。


「っ」


 エリシアが俺の左腕を支える。


 アイリスが右側を固定する。


 ラインハルトが後ろから体重を支える。


「すごいな」


 俺は息を切らしながら言った。


「王女と古代AIと近衛騎士に支えられて、排水口の弁をいじる日が来るとは」


「誇る場面ではありません」


 アイリスが言う。


「分かってる」


 エリシアが低く言う。


「無駄口を叩けるなら、まだ平気ね」


「平気じゃないけどな」


「なら、早く終わらせなさい」


「王女様、命令が雑」


「逃亡者の機転よ」


「便利だな、それ」


 弁に手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間、青い円環が強く光った。


 セラの中継石も、かすかに反応する。


 彼女が小さく息を呑んだ。


「この線、全部止めたら円環が強制再同期へ移行します。波形を部分的に逸らすのが最適です」


「……口で言うのは簡単だな」


 俺はそれ以上声を出すのをやめ、錆びた針金を弁の隙間へ深く押し込んだ。


 嫌な振動。


 水の中なのに、指先が、ぴき、と焼けるように熱い。


 青い円環が回る。


 回る速度が上がる。


 セラの中継石がまた光る。


「セラ」


 エリシアが呼ぶ。


「まだ、三メートルです」


 セラはそう答えた。


 距離を自分で確認している。


 逃げていない。


 見ている。


 俺は歯を食いしばり、針金をほんの少し捻った。


 ぱき、と小さな音がした。


 弁の奥の固着が一枚剥がれる。


 水の流れが変わった。


 青い円環がぶれた。


 アイリスの声。


「遮断弁、〇・四ミリ移動」


「小さすぎるだろ!」


「有効です」


「ならよし!」


 さらに押す。


 右腕が痛む。


 指先が滑る。


 水が濁る。


 青い光が、針金を伝って腕に上ってきそうになる。


「逆流しかけています」


 アイリスが言う。


「分かってる!」


「停止しますか」


「まだ」


「アーデル」


「まだ!」


 針金が曲がる。


 もう限界だ。


 折れる。


 その前に、欠けたナイフの破片を弁の横へ噛ませる。


 支点を作る。


 職人仕事というには雑すぎる。


 でも、手が勝手に動いた。


 壊れたものを、無理やり動かす時の感覚。


 父さんの背中。


 村の古い水車。


 魔導コンロ。


 王都の壇。


 水室の弁。


 全部が、一瞬だけ指先に重なる。


 俺は小さく息を吐いた。


「壊れてるなら」


 針金を押す。


「直せばいいだろ」


 ご、と鈍い音がした。


 弁が動いた。


 大きくではない。


 ほんの少し。


 でも、流れが変わった。


 青い円環の光が、水面の上でぐにゃりと歪む。


 セラの中継石が一瞬強く光った。


 セラが身を震わせる。


「っ……!」


 エリシアが彼女の方へ走りかける。


「セラ!」


「止まらないでください!」


 セラが叫んだ。


 その声に、全員が止まった。


 セラは胸元を押さえている。


 苦しそうだ。


 でも、目は開いている。


「今、遠くなりました」


 セラは言った。


「何かが、少しだけ遠くなりました」


 アイリスの瞳が明滅する。


「中継石への接続反応、低下。円環の同期処理、失敗」


「ルカ!」


 エリシアの声。


「もういい!」


「分かってる!」


 俺は針金を抜こうとした。


 抜けない。


「嘘だろ」


「針金が弁内部に残留」


 アイリスが言う。


「取れるか?」


「取ると弁が戻ります」


「最悪だな」


「はい」


 俺は一瞬だけ迷った。


 針金を残せば、もう俺の手元には何もない。


 欠けたナイフの破片も、弁を支えるために噛ませている。


 王都の屋根でまともな工具を失って。


 ここで最後の針金も失う。


 俺は水の中の弁を見た。


 それから、セラを見た。


 彼女は胸元を押さえたまま、こっちを見ている。


 青い光は弱まっていた。


 俺は針金から手を離した。


「置いていく」


 二度と戻らない指先の感覚を切り離すように、冷たい水から腕を引き抜く。


 アイリスの瞳が、静かにその濡れた右腕を見つめ、小さく一度だけ明滅した。


「……もう無理だろう」


 ラインハルトが後ろから支える。


「今さら優しいな」


「事実だ」


「アイリスみたいな言い方するな」


「不本意です」


 アイリスが即座に言った。


「どっちに対してだよ」


 エリシアが俺の腕を掴む。


「立ちなさい」


「無茶言うな」


「あなたが置いていった針金の分、歩きなさい」


「理屈がめちゃくちゃだ」


「逃亡者の機転よ」


「それで全部通す気だろ」


 セラが近づいてくる。


 三メートルを少し越えたあたりで止まる。


 彼女は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 俺は濡れた手を振る。


「礼はいい。あれ、俺の最後の道具だったし」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 軽く言ったつもりだった。


 でも、胸の奥が少し痛んだ。


 セラは顔を上げる。


「最後の」


「まあ、また拾う」


 青い円環がさらに薄くなった。


 ラインハルトが剣を抜かずに、出口を確認する。


「今なら通れる」


 エリシアがセラを見る。


「行ける?」


 セラは胸元の石に触れた。


 青い光は弱い。


 でも、残っている。


「怖いです」


「ええ」


「でも、行きます」


「ええ」


 二人は水路の出口へ進む。


 セラが青い円環の下を通る瞬間、全員が息を止めた。


 中継石が一瞬だけ光る。


 セラの体がこわばる。


 だが、引き戻されない。


 円環はぶれたまま、何もできずに回っていた。


 セラは通り抜けた。


 自分の足で。


 エリシアが続く。


 ラインハルト。


 アイリス。


 最後に、俺。


 出口の排水口は狭かった。


 外の風が流れ込んでくる。


 夜の匂い。


 土。


 草。


 教会都市の外壁の外だ。


 俺たちは一人ずつ、排水口を抜けた。


 俺はほとんど引きずり出された。


 外に出た瞬間、濡れた体に夜風が当たった。


 寒い。


 でも、生きている。


 背後では、教会都市ミストリアの白い塔が月明かりに浮かんでいた。


 大聖堂の鐘は鳴っていない。


 神託碑も見えない。


 ただ、遠くで人の声がざわめいている。


 混乱はまだ続いている。


 ラインハルトが外壁を見上げる。


「ここまでだ」


 エリシアが彼を見る。


「戻るの?」


「戻らなければ、神官長を止める者がいない。王都近衛騎士団として、場を抑える必要がある」


「あなたは、私たちを逃がしたことになるわ」


「聖女様の安全確認のため、危険な再接続室から一時退避させた」


「また言葉遊びね」


「必要な言葉遊びです」


 ラインハルトは同じ言葉を返した。


 そして、セラを見る。


「聖女様」


「はい」


「あなたの意思は、私が聞きました」


 セラが唇を震わせる。


「はい」


「それを、なかったことにはしません」


 セラは深く頭を下げた。


 ラインハルトはそれ以上言わない。


 俺を見る。


「ルカ・アーデル」


「何だ」


「私はあなたを見逃したわけではない」


「分かってる」


「次に会う時、私はあなたを捕らえる立場かもしれない」


「今もだろ」


「今は、聖女様の安全確認が先だった」


「便利な言葉だな」


「必要な言葉だ」


 ラインハルトは、俺の濡れた右腕を一度だけ見た。


 そこに道具はもうない。


 針金も。


 ナイフの破片も。


 全部、水路の弁に置いてきた。


「その腕で、よくやった」


 俺は少しだけ目を細めた。


「褒めてるのか」


「部分的に」


 アイリスが即座に反応する。


「模倣を確認。不本意です」


「お前の専売特許じゃない」


 ラインハルトは少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 すぐに背を向ける。


「東の森へ行け。巡礼者の廃道がある。明け方までは追手が薄い」


「ありがとう」


 エリシアが言う。


 ラインハルトは振り返らない。


「感謝される筋合いはない」


「なら、命令として受け取りなさい」


 ラインハルトが一瞬止まる。


「戻って、生きて説明しなさい」


 エリシアの声は、王女だった。


 ラインハルトは背を向けたまま、短く頭を下げた。


「承知しました」


 彼は排水口へ戻っていく。


 銀の鎧が暗い穴の中へ消えた。


 味方ではない。


 まだ、味方ではない。


 でも、その背中は、追手の背中ではなかった。


 俺たちは東の森へ向かった。


 歩くというより、半分引きずられる。


 アイリスが俺を支える。


 エリシアがセラを支える。


 セラは何度も後ろを振り返る。


 白い塔。


 大聖堂。


 再接続室。


 祈り。


 怖かった場所。


 救いたかった人々。


 全部を置いてきたわけではない。


 置いて逃げたわけでもない。


 方法を探すために、離れただけだ。


 そう思いたい。


 森の入口に着く頃、セラが立ち止まった。


「どうしたの」


 エリシアが聞く。


 セラは胸元の中継石を見た。


 それから、泥だらけの自分の祭服を見る。


 そして、俺たちを見る。


「私」


 声が震える。


「本当に、ここに来てしまいました」


「来たわね」


 エリシアが答える。


「戻りますか」


 セラは首を横に振った。


「戻りません」


 少し間を置いて、もう一度。


「戻りません」


 その二回目は、さっきより強かった。


 アイリスの瞳が明滅する。


「聖女セラ、同行意思を確認」


 セラがアイリスを見る。


「聖女ではなく、セラでお願いします」


 アイリスは一瞬だけ、その青い瞳の明滅を止めた。


「セラ、同行意思を確認。登録更新」


 彼女が平然と、だが確実にその名をデータベースに刻んだ瞬間、セラは両手で中継石を強く握り締めながら、深く、深く頷いた。


「はい」


 夜風が森を揺らす。


 遠くで、教会都市の鐘がようやく鳴った。


 一つ。


 二つ。


 遅すぎる警鐘。


 アイリスが顔を上げる。


「追跡開始までの推定猶予、短いです」


「どのくらい」


「非常に短いです」


「具体的に言え」


「言うと精神的負荷が増加します」


「もう増えてる」


「では、非常に短いです」


「結局そこか」


 エリシアが森の奥を見る。


「東の廃道へ行くわ」


「王女様、方向分かるのか」


「地図で見たことがあるだけよ」


「それ、分かるって言えるのか」


「逃亡者の機転よ」


「乱用してるな」


 セラが小さく笑った。


 今度は、はっきり笑った。


 その笑い声はすぐに夜風に消えたけれど、確かにそこにあった。


 俺は濡れた腕を押さえた。


 痛い。


 足も痛い。


 道具はない。


 金もない。


 王女誘拐犯に加えて、聖女連れの逃亡者になった。


 王国にも教会にも追われる。


 神託には、外部個体アーデルとして接続痕跡まで残った。


 最悪だ。


 本当に最悪だ。


 でも、セラはここにいる。


 エリシアは自分で命じた。


 アイリスは名前を記録した。


 それなら、まあ。


 まだ歩ける。


 アイリスが俺の肩を支え直す。


「アーデル、右足機能、低下」


「知ってる」


「右腕機能、低下」


「知ってる」


「工具残数、ゼロ」


「それは言うな」


「ですが」


 アイリスは少しだけ首を傾げた。


「同行者数は増加しました」


 俺は一瞬、言葉に詰まった。


 それは効率の話なのか。


 荷重の話なのか。


 救済対象の話なのか。


 たぶん、全部だ。


「……そうだな」


 俺は森の奥を見た。


 暗い。


 道は見えにくい。


 先は分からない。


 でも、もう戻らない。


「じゃあ、行くか」


 エリシアが頷く。


 セラも頷く。


 アイリスは真顔で言った。


「作戦名の更新を提案します」


「今度こそ却下」


「セラ同行開始。逃亡者四名。工具ゼロ。成功率不明」


「それ、作戦名じゃなくて現状報告だろ」


「正確です」


「やめろ」


 セラがまた笑った。


 エリシアも少しだけ口元を緩めた。


 遠くで、教会都市の鐘が三度目を鳴らす。


 追手は来る。


 神託も沈黙したままではない。


 でも、俺たちは森へ踏み込んだ。


 聖女を使わない第三案。


 そんなものが本当にあるのかは分からない。


 成功率は算出不能。


 ただし。


 ゼロとは記録されていない。


 それだけを頼りに、俺たちは夜の廃道へ進んだ。

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