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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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23/30

王女は檻の外で命じる

 第二王女エリシア・レーヴェンの名において命じます。


 その声が、石の廊下にまっすぐ通った。


 水室の扉の外に立っていた近衛騎士は、剣の柄に手をかけたまま固まっていた。


 無理もない。


 指名手配されているはずの王女が、泥だらけのフード姿で、教会の水室から出てきたのだ。


 しかも、その背後には。


 右腕を水槽に突っ込んだまま動けない、王女誘拐犯がいる。


 俺だった。


 最悪の絵面だ。


 言い訳のしようがない。


 だが、エリシアは一歩も引かなかった。


「この扉を開けなさい。聖女セラの安全を確認します」


 近衛騎士の喉が動いた。


「エリシア、殿下……?」


「ええ」


 エリシアはフードをさらに脱いだ。


 乱れた金髪。


 泥。


 水。


 裂けたドレス。


 王城の広間で見た王女とは似ても似つかない姿だった。


 それでも、騎士は膝をつきかけた。


 エリシアはそれを短く止める。


「今は礼はいらないわ」


「しかし、殿下は、王女誘拐犯に――」


「誘拐されたわ」


 俺は水槽の奥で思わず目を閉じた。


 そこは否定してほしかった。


 エリシアは続ける。


「でも、私は自分の意思でここにいる」


 近衛騎士が息を呑む。


 水槽の底が、また強く脈打った。


 俺の腕が引き込まれそうになる。


「っ……!」


 指先が痺れる。


 弁の位置が戻されかけている。


 今、離したら終わる。


 外の会話に意識を割いている場合じゃない。


 それでも、聞こえてしまう。


 エリシアの声は、扉の向こうからでも逃げなかった。


「聖女セラは、今この瞬間、神託の儀式に利用されています。私は王族として、その安全確認を命じます」


「ですが、クロウ卿は封鎖を――」


「そのクロウ卿が、王族の許可を取ると言ったのでしょう」


 騎士は黙った。


 エリシアは半歩進む。


 濡れた靴音が石床に落ちる。


「私が許可します。大聖堂へ案内しなさい」


 その一言で、空気が変わった。


 逃亡者の声ではない。


 誘拐された王女の声でもない。


 命令だった。


 王家更新の儀で壇に立たされ、消されるはずだった王女が、今度は自分の名前で命じている。


 騎士は一瞬だけ俺を見た。


 水槽に腕を突っ込んだままの俺を。


 非常に、見られたくない姿だった。


 俺は小声で言う。


「見るな」


 騎士の眉が動く。


 エリシアが即座に言った。


「彼は今、この儀式を止めるために必要な作業をしています」


「その者は王女誘拐犯です」


「知っているわ」


「ならば――」


「彼を捕らえるなら、儀式を止めた後にしなさい」


 俺は水槽の縁に額をぶつけそうになった。


 やっぱり捕まえる前提なのか。


 だが、騎士はそれで理解したらしい。


 いや、理解したというより、今はそれ以上逆らえなかったのだろう。


 彼は短く頷いた。


「……ご案内します」


 エリシアは振り返らなかった。


 ただ、扉の前で一度だけ言った。


「ルカ」


「何だ」


「離さないで」


「言われなくても」


 俺は水槽の底を睨んだ。


「こっちは離したら腕ごと持っていかれそうなんだよ」


「なら、腕ごと残しておきなさい」


「王女ってやっぱり乱暴だな!」


「逃亡者よ」


 その声だけを残して、エリシアは廊下へ出た。


 扉が開いたままになる。


 外の空気が水室に流れ込む。


 同時に、大聖堂の祈りが一段と強く聞こえた。


 神よ。


 清き祈りを。


 聖女様に。


 導きを。


 神託に。


 救いを。


 祈りはもう祈りではなく、重い波濤(はとう)だった。


 石壁を叩き、水槽を揺らし、俺の腕を内側から引っ張る。


「アイリス、聞こえるか」


 水槽の奥へ声を落とす。


 ざ、ざざ、と雑音。


 それから、細い声。


「受信中。アーデルの弁固定精度、低下」


「励ませ」


「低下しています」


「それは励ましじゃない」


「事実です」


「知ってる」


 俺は歯を食いしばった。


 腕の感覚が鈍い。


 右足はもう痛みを通り越して、床から切り離された別物みたいだった。


 だが、指先だけは弁を押さえている。


 小さな石の突起。


 たぶん、誰にも見えない。


 誰にも知られない。


 でも、そこが今、セラの声と繋がっている。


「そっちは」


「同期(そう)内部、過負荷。排水管経由の姿勢維持、困難」


「戻れるか」


「現在、蜂蜜菓子の将来的摂取可能性(せっしゅかのうせい)は維持されています」


「つまり戻る気はないんだな」


「第三案、継続中」


「最高傑作」


「はい」


「無茶するなよ」


「無茶の定義が現在の状況に適用不能です」


「だよな」


 水槽の奥で、金属が軋む音がした。


 アイリスが何かを動かしている。


 見えない。


 ただ、音だけが聞こえる。


 ぎ、ぎぎ。


 石を削るような音。


 その度に、水槽の底の光が乱れる。


 俺の指先に伝わる圧力も、少しだけ変わった。


 アイリスが下から押している。


 俺はここで押さえている。


 エリシアは大聖堂へ向かっている。


 セラは壇の上にいる。


 ばらばらだ。


 でも、一本の細い線だけで繋がっている。


 その線が切れたら、全部終わる。


 水面が揺れた。


 映像が浮かぶ。


 大聖堂。


 白い壇。


 青い神託碑。


 胸元の石を握るセラ。


 その前に立つラインハルト。


 神官長の顔は、もう穏やかではなかった。


「王族の許可など不要です」


 神官長の声が響く。


「神託は、王国も教会も超えるもの。聖女様の祈りは、民のために捧げられるものです」


 ラインハルトは剣を抜いていない。


 ただ、セラと神官長の間に立っている。


「ならば、民の前で答えろ。聖女様は何を失う」


「神に近づくのです」


「何を失う」


 同じ問い。


 短い。


 逃げ道がない。


 神官長の背後で、神官たちがざわめく。


 巡礼者たちも息を殺している。


 その沈黙の中で、神託碑が青く鳴った。


 音ではない。


 でも、鳴った。


 水室の底まで震えるほどに。


 アイリスの声が、水槽の奥から走る。


「神託碑、再同期を開始。定型祈祷文の上書き処理、二重化」


「もっと分からなく言え!」


「声を二重に潰しに来ています」


「分かりやすくなったけど最悪だな!」


 水面の中で、セラの喉元の青い線が増えた。


 一本ではない。


 二本。


 三本。


 細い糸みたいな光が、彼女の口元へ絡みつこうとしている。


 セラは震えた。


 それでも胸元の石を握っている。


 神託碑から響いた彼女の声は、もう消えている。


 けれど、さっき確かに響いた。


 セラの祈りを、聞いてください。


 大聖堂の人々は、それを聞いた。


 なかったことにはできない。


 神官長が壇を指差す。


「儀式を続けなさい。聖女様、定型句を」


 セラの唇が動く。


 声は出ない。


 青い光が喉を縛っている。


 ラインハルトが一歩動こうとする。


 神官たちが遮る。


「近衛騎士殿、これ以上は――」


 その時、大聖堂の側廊から、別の声が響いた。


「これ以上は、私が許しません」


 水面の映像が揺れる。


 白い人垣が割れた。


 そこに、エリシアが立っていた。


 泥だらけのフード。


 裂けたドレス。


 濡れた髪。


 とても王女の式典姿ではない。


 だが、大聖堂の視線が一斉に彼女へ向いた瞬間、その場の誰もが息を呑んだ。


 第二王女エリシア・レーヴェン。


 神託では、誘拐されたはずの王女。


 王都では、保護対象になっている王女。


 その本人が、教会都市の大聖堂に立っている。


 神官長の顔から色が消えた。


「エリシア王女……なぜ、ここに」


「歩いて来ました」


 エリシアは短く答えた。


 俺は水槽の前で思わず笑いそうになった。


 歩いて来ました、じゃない。


 半分、俺を置いて来ただろ。


 ラインハルトだけが、表情を変えなかった。


 ただ、わずかに目を伏せる。


 礼でも謝罪でもない。


 確認のような、短い動きだった。


 エリシアは神官長を見る。


「聖女セラの儀式を中断しなさい」


 大聖堂がざわめいた。


 神官長はすぐに声を張る。


「王女殿下。これは教会の聖務(せいむ)です。王家であっても――」


「王家であっても?」


 エリシアが半歩前に出た。


 濡れた裾が床を引く。


「王国の民が集められ、王国の近衛騎士団が安全確認のために入っている場で、王家に発言権がないと?」


「神託は王家より上位にあります」


 その言葉が、大聖堂に落ちた。


 巡礼者たちがざわめく。


 神託は王家より上位。


 誰もが何となく信じていたこと。


 しかし、口に出されると、妙に冷たい。


 エリシアの目が細くなった。


「では、神託は聖女本人の言葉よりも上位なのね」


 神官長は答えなかった。


 エリシアはセラを見る。


 セラは壇の上で、青い糸に喉を縛られたまま立っている。


 声が出ない。


 けれど、目はエリシアを見ていた。


 エリシアが言う。


「セラ。あなたは、続けたい?」


 神官長が割り込む。


「聖女様は民のために――」


「あなたには聞いていないわ」


 鋭い声だった。


 白い大聖堂の空気が、一瞬で切れた。


 エリシアはもう一度、セラを見る。


「セラ」


 名前。


 それだけで、セラの目が揺れた。


 セラは口を開く。


 声は出ない。


 青い糸が喉元で光る。


 エリシアの指が、胸元のペンダントにかかった。


 水槽の中で、同じ光が走る。


 俺の腕がまた引かれる。


「ぐっ……!」


 アイリスの声。


「王家認証波形、再接続。音声供給プロトコル、再割込み可能」


「できるならやれ!」


「実行中」


 水面の中で、エリシアのペンダントが光った。


 神託碑が嫌な音を立てる。


 その奥から、かすれた声が漏れた。


「……止めたい、です」


 セラの声だった。


 神託碑からではない。


 今度は、セラの喉から出た声と、神託碑の中の音が重なっていた。


 不完全な声。


 割れた声。


 それでも、大聖堂に届いた。


「私は」


 セラが両手で中継石を握る。


「止めたいです」


 巡礼者たちがざわめいた。


「でも」


 セラの声が震える。


「助けたいです」


 その言葉で、ざわめきが止まった。


 誰かが息を呑む。


 誰かが泣きそうな声を漏らす。


 大聖堂にいる人々は、救いを求めて来た。


 セラに救われた人もいる。


 これから救われると信じていた人もいる。


 セラは、それを捨てたいとは言っていない。


 ただ、自分を消したくないと言っている。


 それだけだった。


 それだけのはずだった。


 神官長が顔を歪める。


「聖女様。迷いは神託を濁らせます」


「濁っているのは、神託の方ではありませんか」


 エリシアが言った。


 神官長が睨む。


「殿下。その発言は、神への――」


「神が、セラの名前を消そうとしているのなら」


 エリシアの声は静かだった。


「私は、その神に従いません」


 大聖堂が完全に沈黙した。


 俺は水室で腕を押さえたまま、息を止めた。


 言った。


 とうとう言った。


 王女が。


 神託の前で。


 ラインハルトが剣に手をかける。


 神官たちが動く。


 巡礼者の一部が悲鳴を上げる。


 神託碑が、轟音を立てて光った。


 水槽の底が爆ぜるように震える。


「まずい!」


 俺は叫びかけた。


 アイリスの声が鋭く響く。


「神託碑、緊急補正。聖女セラを出力点へ再固定」


 水面の中で、青い光がセラの足元に広がった。


 白い壇に、幾何学的な光の線が走る。


 王都の壇でエリシアを縛り付け、消去しようとしていたあの魔導線と、完全に同じ輝きだった。


 対象を固定する線。


 人を、システムの一部へ縫いつける線。


「セラが動けない!」


 エリシアが壇へ向かって走り出そうとする。


 ラインハルトが先に動いた。


 神官たちの間を抜け、壇へ上がる。


 セラの腕を掴もうとした神官の手を、剣の鞘で弾いた。


「下がれ」


「近衛騎士殿!」


「下がれと言った」


 剣は抜いていない。


 だが、それだけで神官が怯んだ。


 ラインハルトはセラの前に立つ。


 青い光が彼の足元にもかかった。


 鎧の脛当(すねあ)てが青く光る。


 神官長が叫ぶ。


「その場を離れなさい! 神託の出力に干渉すれば――」


「干渉する」


 ラインハルトは短く言った。


 その声に迷いはなかった。


 ラインハルトは、セラに言った。


「聖女様。立てますか」


 セラは首を振った。


 足元の光が強い。


 動けない。


 ラインハルトは頷いた。


「では、私が支える」


 セラの前に立つのではなく、横に立った。


 彼女を隠すのではなく、肩を貸す位置。


 王女を守る近衛騎士の動きとは違う。


 守られる者を立たせる動きだった。


 水槽の水面を凝視するエリシアの指先が、石縁を白くなるほど強く掴み締める。


 俺も、それ以上は声を出すことができなかった。


 次の瞬間、水槽の奥からアイリスの声がする。


「固定線、二名に拡張。神託碑側、負荷上昇」


「ラインハルトを巻き込んだってことか」


「はい」


「それはいいのか悪いのか」


「不明。ただし、処理が重くなっています」


「じゃあ、いい方に賭ける」


「根拠が不足しています」


「いつものことだろ」


「はい」


 水槽の底の弁が暴れる。


 俺の指先が滑った。


「っ!」


 弁が戻りかける。


 水の流れが、一気にまっすぐになる。


 まずい。


 俺は反射的に腕を深く突っ込んだ。


 肩まで水に沈む。


 痛い。


 焼ける。


 骨の中に針を刺されているみたいだった。


「ルカ!」


 水室の扉の向こう、廊下側からエリシアの声がした。


 戻ってきたわけじゃない。


 大聖堂へ向かう途中、声が反響しているのか。


 いや、水面越しの声かもしれない。


 もう分からない。


「押さえろって言ったのはお前だろ!」


 俺は水槽に向かって叫んだ。


「責任は取ってくれ!」


 返事はなかった。


 代わりに、水面の中でエリシアが壇へ進む姿が見えた。


 近衛騎士が彼女の前を開ける。


 いや、開けさせられている。


 王女の命令。


 ラインハルトの視線。


 巡礼者たちのざわめき。


 神官たちの戸惑い。


 それらが、一瞬だけ道を作った。


 エリシアは壇の下に立った。


 青い光を睨む。


「アイリス」


 彼女が言う。


「この固定線、私の認証で割れる?」


 アイリスの声が水槽から響く。


「危険です」


「質問に答えなさい」


「王家認証波形による干渉は可能。ただし、エリシアのペンダントに高負荷」


「壊れる?」


「可能性があります」


 エリシアの手が、ペンダントを握った。


 母の形見。


 古い認証の残骸。


 神託が彼女を縛るために使ったもの。


 今は、それを自分で使おうとしている。


 俺は水槽の前で叫んだ。


「やめろ、エリシア!」


 水面の中の彼女が、少しだけ笑った。


「あなたにだけは言われたくないわ」


「俺は腕だぞ!」


「私は、形見よ」


「重さが違う!」


「どちらも残ればいいだけでしょう」


 乱暴すぎる。


 本当に王女は乱暴だ。


 エリシアはペンダントを壇へ向けた。


 青い光が、彼女の手の中で強くなる。


 アイリスの声。


「王家認証波形、出力」


 神託碑が鳴る。


 青い固定線が揺れる。


 ラインハルトがセラを支え、セラが中継石を握り、エリシアがペンダントを掲げる。


 俺は水槽の底で弁を押さえ、アイリスは見えない管の奥で同期槽に干渉している。


 全部が、無茶だった。


 全部が、足りなかった。


 それでも、一瞬だけ。


 線が、裂けた。


 セラの足が動いた。


 一歩。


 白い壇の上で、彼女の靴が青い線から外れる。


 その瞬間、大聖堂に集まった祈りの声が、途切れた。


 セラは倒れかける。


 ラインハルトが支える。


 エリシアが壇へ手を伸ばす。


 神官長が叫ぶ。


「戻しなさい! 聖女様を出力点へ!」


 神官たちが動く。


 その前に、巡礼者の一人が声を上げた。


「待ってください!」


 年老いた女の声だった。


 水面には映らない。


 でも、声は聞こえた。


「聖女様は、苦しんでおられます」


 別の声。


「昨日、私の子を助けてくださいました」


 また別の声。


「でも、あんな顔で祈ってほしいとは思っていない」


 ざわめきが広がる。


 神官長が振り返る。


「静まりなさい! 儀式中です!」


 だが、もう遅い。


 祈りの波が割れた。


 全員が同じ言葉を唱える状態ではなくなった。


 神託にとって、それは濁りだった。


 人間にとっては、初めて自分で考えた声だった。


 アイリスの声が、かすかに乱れる。


「集団祈祷同期、低下。神託碑、出力維持に失敗」


「止まるのか!」


「まだです」


 まだ。


 その言葉通り、神託碑は最後の光を放った。


 青い線が一本、セラではなく、エリシアのペンダントへ伸びる。


 王家認証。


 記録層。


 波形。


 嫌な単語が頭をかすめる。


「エリシア!」


 俺は叫んだ。


 彼女は逃げなかった。


 ペンダントを握ったまま、神託碑を睨む。


「来なさい」


 青い光がペンダントに刺さる。


 エリシアの体が揺れた。


 ラインハルトがセラを支えながら、顔を上げる。


 アイリスの声が、今までで一番低くなる。


「ジャックした適合波形、閾値(いきち)を突破――高負荷により逆流。エリシアの生体反応、低下」


「止めろ!」


「処理中」


「止めろ、アイリス!」


「処理中」


 同じ言葉。


 冷たい。


 でも、管の奥から、石が砕ける音がした。


 ばきん。


 今度は、はっきり聞こえた。


 水槽の底の青い線が一本、消えた。


 俺の腕を引いていた力が、一瞬だけ弱まる。


「今だ!」


 俺は反射的に弁を押し込んだ。


 正しいかどうかは分からない。


 ただ、押した。


 指先が何かを砕いた。


 痛みが肩まで跳ねる。


 水槽の底で、魔導線が白く光った。


 大聖堂の神託碑が、悲鳴のような音を上げる。


 青い光が割れる。


 エリシアのペンダントへ伸びていた線が、途中で千切れた。


 彼女は膝をつく。


 だが、倒れない。


 片手で床を突き、顔を上げた。


 セラは壇の上から降りていた。


 ラインハルトがその肩を支えている。


 巡礼者たちの声が、大聖堂に満ちていく。


 祈りではない。


 ざわめき。


 問い。


 怒り。


 泣き声。


 人間の声。


 神託碑の光が弱まる。


 神官長が呆然と立っている。


「そんな……神託が……」


 セラが、息を切らしながら言った。


「私は、ここにいます」


 さっきと同じ言葉。


 でも、今度は、大聖堂の誰もが聞いていた。


 神託碑が最後に、小さく光った。


 水槽の底に、文字のようなものが流れる。


 読めない。


 でも、アイリスの声が拾った。


「聖女個体、出力失敗」


 雑音。


「代替処理、保留」


 さらに雑音。


「個体名、セラ。未定義」


 そこで、光が落ちた。


 水室が、急に静かになった。


 俺の腕から力が抜ける。


 水槽に突っ込んだまま、体が傾いた。


 右足が支えきれない。


 床に倒れかける。


 その前に、誰かが俺の襟首を掴んだ。


「倒れるなら、せめて水槽から腕を抜いてからにしてください」


 水槽の奥からではない。


 背後から聞こえた。


 俺は首だけ振り返る。


 そこに、ずぶ濡れの銀髪少女が立っていた。


 白い服は、白くなかった。


 泥。


 水。


 青い魔力の(すす)


 村人に平謝りどころでは済まない。


 アイリスは真顔だった。


「ただいま戻りました」


「……蜂蜜菓子は?」


「将来的摂取可能性(せっしゅかのうせい)、維持」


「そうかよ」


 俺は笑いそうになった。


 笑う前に、体から力が抜けた。


 アイリスが俺の襟を掴んだまま、少し首を傾げる。


「アーデル、機能低下」


「死にそう、の間違いだろ。……手、離すなよ。マジで立てない」


「了解。高難度物理支援、襟首固定を維持します」


「首が絞まってるんだが」


「固定精度は良好です」


「俺の呼吸精度が悪化してるんだよ」


 水面の中で、大聖堂の映像が揺れる。


 エリシアが立ち上がっていた。


 セラが彼女のそばにいる。


 ラインハルトが神官長を見張っている。


 巡礼者たちは、まだ混乱している。


 儀式は止まった。


 完全に解決したわけではない。


 教会は敵になる。


 王国にも見つかった。


 俺たちは、ますます逃げられない。


 でも、壇の上に一人で立っていた聖女は、もう壇から降りていた。


 それだけで、今は十分だった。


 水面の中で、エリシアがこちらを見た気がした。


 たぶん見えてはいない。


 それでも、彼女は小さく顎を上げた。


 俺は床に座り込んだまま、濡れた腕を上げる。


 力は入らない。


 でも、合図くらいはできた。


 アイリスが俺の隣で、水面を見つめる。


「聖女セラ、生存反応維持」


「そうか」


「記憶欠落反応、現時点で増加なし」


「そうか」


「第三案、部分成功」


「部分かよ」


「完全成功ではありません。神託碑は停止しましたが、上位接続が切断されたとは限りません」


 俺は天井を見上げた。


 白い女神の翼。


 その奥に隠れた古い魔導線。


 全部が、まだ繋がっている。


 たぶん、もっと深い場所へ。


 もっと大きな、世界の奥へ。


「完全な嘘だったら、もっと楽だったんだけどな」


 俺の呟きは、水室の深い静寂のなかに溶けて消えた。


 アイリスはそれ以上理由を問い詰めず、ただその青い瞳を小さく一度だけ明滅させた。


 大聖堂の方から、エリシアの声がかすかに響いた。


「聖女セラの身柄は、第二王女エリシア・レーヴェンが預かります」


 神官長の抗議が重なる。


 ラインハルトの硬い声が続く。


「王女殿下の安全、および聖女様の安全を優先する。異議は後で聞く」


 その後で、セラの小さな声が聞こえた。


「私は、セラです」


 水室の中で、誰も何も言わなかった。


 アイリスの瞳だけが、静かに青く明滅している。


 そして彼女は、いつもの無機質な声で言った。


「聖女セラ、登録更新」


 俺は濡れた床に座り込んだまま、目を閉じた。


 王女を連れ去った。


 聖女の儀式を壊した。


 近衛騎士に見つかった。


 教会を敵に回した。


 たぶん、神託にも。


 悪名はもう、洗って落ちる段階を越えている。


 それでも。


 セラは、自分の名前を言えた。


 エリシアは、自分の名前で命じた。


 アイリスは、二人を名前で記録した。


 だったら、まあ。


 今日のところは、最悪にしては上出来だった。


 水槽の底で、消えかけた青い文字が一瞬だけ瞬いた。


 聖女個体、再分類。


 個体名、セラ。


 処理保留。


 その文字はすぐに消えた。


 だが、俺は見た。


 アイリスも、たぶん見た。


 彼女は少しだけ首を傾げる。


「アーデル」


「何だ」


「次回以降、教会からの追跡強度が上昇すると予測されます」


「だろうな」


「王国側からの追跡強度も上昇します」


「だろうな」


「作戦名の更新を提案します」


「却下」


「聖女を誘拐していないが、結果的に連れて帰る作戦」


「却下したよな?」


「登録しました」


「最低だな」


 扉の向こうで、近衛騎士が咳払いをした。


 俺は口を閉じる。


 アイリスは真顔のまま言った。


「音量過多です」


「お前のせいだよ」


 水面の向こうで、セラが小さく笑った気がした。


 大聖堂の神託碑は沈黙している。


 けれど、沈黙は終わりじゃない。


 たぶん、始まりだ。


 神託に逆らった王女。


 祈りを乱した聖女。


 濡れ鼠の古代AI。


 そして、右足と右腕がほぼ終わった王女誘拐犯。


 最悪の一団が、また一つ増えた。


 俺は濡れた床に背を預けて、息を吐いた。


 誰かを一人で壇に立たせない。


 そう決めたせいで。


 俺たちはとうとう、神託そのものの前に立ってしまった。

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