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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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22/30

聖女は自分の名前を祈る

 大規模浄化儀式(じょうかぎしき)、開始。


 その声が、石壁の奥で割れた。


 水室の床底から、重い振動が突き上げてくる。


 水槽の底を走る魔導線が、青白い光を強めた。


 いや。


 青白い、ではない。


 濃すぎる。


 深すぎる。


 水の色ではなく、夜の底を煮詰めたような青だった。


「……始まった」


 エリシアが、声にならないほど小さく言った。


 俺は水槽の縁を掴んだまま、息を殺す。


 扉の向こうには近衛騎士が一人。


 水室は封鎖されている。


 廊下側からは出られない。


 奥の排水管にはアイリス。


 大聖堂にはセラ。


 俺たちは、ここで待つしかない。


 そう思った瞬間、水槽の底が、ド、とまた震えた。


 水面が跳ねる。


 青い光が天井に揺れ、女神の翼の彫刻(ちょうこく)を歪ませた。


 俺は歯を食いしばる。


 何もできない。


 それが一番まずい。


「ルカ」


 エリシアが俺を見る。


 その目は、まだ諦めていなかった。


「水槽の流れ、今も分かる?」


「少しは」


「なら、ここからでも何かできる?」


「無茶を言うな」


「無茶しか残っていないわ」


 それはそうだった。


 反論できないのが腹立たしい。


 俺は水槽の底へ手を入れた。


 さっき曲げた流れが、今は強い圧力に押されている。


 神託碑が本気で動き出したせいだ。


 細い(べん)を少しずらした程度では、すぐ押し戻される。


 けれど、完全には戻っていない。


 まだ少しだけ曲がっている。


 ほんの少し。


 爪の先ほど。


 でも、そのわずかなズレが、水の奥で震えていた。


「まだ残ってる」


「何が」


「ズレだ」


 俺は水面を睨む。


「潰されかけてるけど、まだ消えてない」


 エリシアが息を吸った。


「なら、守りなさい」


「簡単に言うな」


「あなた、壊れたものを直す人なのでしょう」


 その言い方は、ずるい。


 俺は右足の痛みを無視して、水槽の底へ腕を突っ込んだ。


 指先が痺れる。


 熱い。


 冷たい。


 どちらでもある。


 魔力の流れが荒れているせいで、指の感覚が壊れかけていた。


「アイリス、聞こえるか」


 俺は水槽に向かって、小声で言った。


 返事はすぐには来ない。


 代わりに、水槽の奥から、細い雑音が走った。


 ざ、ざざ。


 壊れた神託盤みたいな音。


 その奥で、アイリスの声が揺れた。


「通信状態、不安定。アーデル、音量を下げてください」


「これ以上下げたら口を動かしてるだけになる」


「推奨します」


「無理だ」


 エリシアが扉を見た。


 外の騎士は動いていない。


 今のところ、聞かれてはいない。


 俺は水槽に顔を近づける。


「そっちはどうだ」


「祭壇下の同期(そう)に到達。視界、不良。水質、低品質。衣類、返却困難」


「服の報告はいらない」


「記録は必要です」


 アイリスの声は細い。


 遠い。


 でも、いつも通りだった。


 少しだけ息が楽になる。


「セラは?」


「聖女セラ、壇上へ移動中」


 水槽の底の光が、さらに強まった。


 アイリスの声が重なる。


「中継石、反応開始」


 大聖堂の祈りが、壁の奥から押し寄せてきた。


 何百。


 いや、何千かもしれない。


 人の声が、一つの波になっている。


 神よ、清き祈りを。


 聖女様に、導きを。


 神託に、救いを。


 白い言葉のはずなのに、石壁を通ってくると、獣の(うな)り声みたいに聞こえた。


 エリシアが胸元を押さえる。


 彼女のペンダントが、フードの中でかすかに光っていた。


「エリシア」


「大丈夫」


「その大丈夫、禁止されてるやつじゃないのか」


「私はセラではないわ」


「便利な逃げ方だな」


「逃亡者の機転よ」


 そう言って、エリシアはペンダントを握った。


 だが、指先は白い。


 やせ我慢なのは分かった。


 でも、今はそのやせ我慢に頼るしかない。


 場面が、変わるように。


 水槽の光の奥に、壇の影が揺れた。


 見えているわけじゃない。


 でも、水と魔導線と神託碑が繋がっているせいで、断片だけが水面に浮かぶ。


 白い壇。


 青い石。


 聖女の白い祭服。


 セラがそこに立っている。


 顔は見えない。


 けれど、胸元の中継石だけが、強く光っていた。


「聖女様」


 神官長の声が響く。


「祈りの水へ、中継石を」


 水槽の底が、震えた。


 セラが水面に石を映す。


 その瞬間。


 水室の水槽にも、同じ光が走った。


 俺の腕を、熱いものが噛んだ。


「ぐっ……!」


「ルカ!」


 エリシアが俺の肩を掴む。


「抜きなさい!」


「まだだ」


「腕が焼けるわ!」


「まだ、ズレが残ってる」


 俺は指先を水槽の底に押しつけた。


 さっき動かした弁が、神託の圧力で戻されかけている。


 戻れば、同期は安定する。


 安定すれば、セラが吸われる。


 そんな気がした。


 証拠はない。


 でも、指先の震えがそう言っていた。


「アイリス!」


「受信中」


「こっちのズレ、押し戻されてる」


「祭壇下でも同様。同期補助水が自己補正(ほせい)を開始」


「どうすればいい」


「不明」


「最高傑作!」


「必要情報が不足しています」


「いつものやつ!」


「はい」


 エリシアが水槽を覗き込む。


「ルカ、あなたが曲げた流れを戻されないようにすればいいのね?」


「たぶん」


「なら、固定できないの?」


「道具がない」


「体で押さえるのは?」


「今やってる」


「なら、もっと強く」


「王女って乱暴だな!」


「逃亡者よ」


 俺は奥歯を噛み締めた。


 弁の位置を指で押さえる。


 痛みが腕に走る。


 右足とは別の痛み。


 熱い。


 刺さる。


 水の中なのに、焼ける。


 エリシアが横から手を伸ばした。


「私も」


「触るな、焼ける!」


「あなた一人で押さえられないでしょう」


「王女の手だろ」


「今は、逃亡者の手よ」


 エリシアの指が、水に沈む。


 次の瞬間、彼女の顔が歪んだ。


「っ……」


「ほら見ろ!」


「黙りなさい」


 エリシアは、水槽の底の石縁に手をかけた。


 直接魔導線には触れていない。


 だが、俺の腕が震えないよう、横から支えている。


 白い指が水の中で震えていた。


 王女の手。


 逃亡者の手。


 どちらでもいい。


 今は、その手がなければ俺の腕が弾かれていた。


 水面に、セラの姿がぼんやり映る。


 彼女は壇の前に立っていた。


 周囲には神官たち。


 白い祭服の列。


 大聖堂の奥には神託碑。


 その前に、王都近衛騎士団の鎧。


 ラインハルトがいる。


 彼は壇を見ていた。


 聖女ではなく。


 壇の床を。


「……あいつ」


 俺は思わず呟いた。


「何?」


「ラインハルト、床を見てる」


 エリシアが水面を見る。


 表情が変わった。


「気づくかもしれない」


「何に」


「儀式が、聖女を中心にしていないことに」


 水面の中で、ラインハルトが神官長へ何かを言っている。


 声は聞こえない。


 いや。


 次の瞬間、石壁を通して低い声が響いた。


「聖女様の立ち位置が、祈祷陣の中心からずれている」


 神官長の声が返る。


「浄化儀式における正規配置です」


「中心は神託碑側に寄っている。聖女様は、出力点に立たされているように見える」


 水室の空気が凍った。


 エリシアが息を止める。


 俺も同じだった。


 ラインハルト。


 見ている。


 まだ味方ではない。


 でも、見ている。


 神官長の声が少し硬くなった。


「近衛騎士殿。これは教会の神聖なる儀式です」


「だから確認している」


 短い。


 冷たい。


 あいつらしい声だった。


 水槽の底がまた震える。


 神託碑の光が強くなる。


 神官長の声が、大聖堂全体へ響いた。


「祈りを」


 数千の声が、揃った。


 神よ。


 清き祈りを。


 聖女様に。


 導きを。


 神託に。


 救いを。


 水槽が、今までで一番強く脈打った。


 俺の腕が弾かれそうになる。


「っ……!」


 エリシアが俺の肘を押さえ込む。


 水面の向こうで、セラが唇を開いた。


 最初の祈りの言葉。


 決められた言葉。


 教会に与えられた言葉。


 神のための言葉。


 彼女の喉が震える。


 大聖堂の祈りが、一瞬だけ静まった。


 セラの声が響いた。


「神よ、清き祈りを」


 胸元の中継石が光る。


 水槽の底の弁が、戻されかける。


 俺は歯を食いしばった。


「聖女に、導きを」


 まだ、普通の言葉。


 決まった祈り。


 神官長が満足そうに頷く気配がした。


 アイリスの声が、水槽の奥から走る。


「同期角、安定方向へ移行」


「まずいのか」


「はい」


 青い光が太くなる。


 水が重くなる。


 腕が動かない。


 エリシアの手も震えている。


 水面の中で、セラが目を伏せた。


 その唇が、もう一度動く。


「神託に、救いを」


 石壁が鳴った。


 水槽の底から、何かが吸い上げられる感覚がした。


 胸の奥が冷える。


 俺は腕を押さえながら叫びそうになるのを堪えた。


 まだだ。


 まだ、終わってない。


 セラ。


 言え。


 自分の名前を。


 水面の中で、セラの指が胸元の石に触れた。


 細い指。


 震えている。


 神官長が近づく。


「聖女様。続けなさい」


 ラインハルトが少し動いた。


 それを、神官たちが警戒する。


 大聖堂の空気が張る。


 セラが、息を吸った。


「どうか」


 声が震えていた。


「どうか、神よ」


 決められた祈りではない。


 神官長の表情が変わったのが、水面越しにも分かった。


 セラは続ける。


「聖女ではなく」


 水槽の底の光が、一瞬だけ乱れた。


 アイリスの声。


「同期ズレ、拡大」


 俺は弁を押さえ込む。


 エリシアも支える。


 セラの声が、さらに震えた。


「セラの祈りを」


 その名前が出た瞬間。


 水槽の底の青い線が、ばきん、と音を立てたように見えた。


 実際に音がしたのかは分からない。


 でも、俺の指先に走っていた魔力の流れが、明らかに乱れた。


 神託碑の光がぶれた。


 大聖堂の祈りが、ざわ、と揺れた。


「何を――」


 神官長の声が途切れる。


 アイリスの声が重なった。


「個体名混入。同期文に未登録変数を確認。神託碑側、再計算開始」


「効いてるのか!」


「効いています」


 アイリスの声は平坦だった。


 だが、その平坦さが、今は何より頼もしかった。


 セラは壇の上で、震えながら立っている。


 彼女は逃げていない。


 でも、従ってもいない。


 神官長が一歩近づく。


「聖女様、定型句へ戻りなさい。祈りが乱れます」


 セラは顔を上げた。


 水面の中で、彼女の表情が初めてはっきり見えた。


 青白い顔。


 震える唇。


 それでも、目だけは開いていた。


「乱したいんです」


 大聖堂が静まり返った。


 俺も、エリシアも息を呑んだ。


 その言葉は、小さかった。


 でも、神託碑の光より強く響いた。


 セラは続ける。


「私は、祈ります。救われる人たちのために」


 胸元の石が強く光る。


「でも、私は」


 声が揺れる。


 それでも折れない。


「私は、消えたくありません」


 水槽の底が暴れた。


 魔導線が青く明滅する。


 俺の腕が弾かれる。


「ぐっ!」


「ルカ!」


 エリシアが体ごと俺の腕を押さえた。


 水が跳ね、彼女の顔にかかる。


 それでも、離さない。


 アイリスの声が走る。


「神託碑側、出力上昇。同期補助水、自己補正を強化。アーデル、弁位置を維持してください」


「やってる!」


「精度が低下しています」


「足と腕がそろそろ他人のものなんだよ!」


「他人のものではありません。登録上、アーデルの四肢です」


「分かってるわ!」


 エリシアが叫びかけて、声を殺した。


 扉の向こうで、騎士が動く気配がした。


 まずい。


 外の騎士に聞かれる。


 だが、今は水槽の音の方が大きい。


 重低音。


 祈り。


 神託碑の震え。


 すべてが水室を揺らしている。


 扉の向こうの騎士も、異変に気づいたらしい。


「中で何が起きている」


 低い声。


 扉の取っ手が動いた。


 エリシアが顔を上げる。


 俺は腕を水槽に突っ込んだまま、動けない。


 扉が細く開きかけた。


 その時。


 大聖堂側から、ラインハルトの声が響いた。


「持ち場を離れるな。封鎖を維持しろ」


 扉の動きが止まる。


 騎士が答える。


「しかし、内部から音が」


「儀式開始に伴う配管反応だ。許可なく開けるな」


 扉の取っ手から、カチリと手が離れる音がした。


 俺は息を吐きかけて、吐けなかった。


 隣のエリシアを見れば、フードの奥の青い瞳が、水面に映る銀色の鎧の影をじっと睨みつけている。


 ラインハルト・クロウ。


 あいつが今、俺たちの存在を看破した上で隠蔽したのか、あるいはただの職務判断か――。


 その答えを出す暇すら、神託の支配は与えてくれなかった。


 水面の中で、神官長がセラの腕を掴もうとしていた。


 ラインハルトがその間に入る。


 大聖堂の映像は揺れていて、細部までは見えない。


 だが、鎧の銀色が白い祭服の前に立ったのは分かった。


「聖女様に触れるな」


 ラインハルトの声。


 神官長が言う。


「儀式進行の妨げです」


「聖女様の安全確認が最優先だ」


「神託よりも?」


 その問いに、大聖堂の空気が凍った。


 ラインハルトは少し黙った。


 俺は水槽の底を押さえながら、息を止める。


 ラインハルトが答える。


「王都近衛騎士団は、王国の民を守るためにいる」


 神官長の声が低くなる。


「聖女様は民を救うために祈っておられます」


「なら、救われる民の前で、聖女様が何を失うのか説明しろ」


 水室の中で、エリシアが目を見開いた。


 俺も、同じだった。


 大聖堂の祈りが乱れる。


 巡礼者たちのざわめきが、壁の奥から押し寄せる。


 説明しろ。


 その一言は、神託にとって一番嫌な言葉かもしれない。


 神官長が沈黙する。


 神託碑の光が、さらに強くなった。


 答える代わりに、機械みたいな音が響く。


 石の奥から、文字が流れるような感覚。


 水槽の底に、青い光が走った。


 アイリスの声が鋭くなる。


「神託碑、強制出力へ移行。定型祈祷文による表層ログの上書き、および個体ボリュームの『強制ミュート』コマンドが送信されました」


「何だそれ、声を奪う気か!」


「システムは個体の意思(へんすう)を許可しません。処理を継続します」


 水槽の奥で、青い光が走った。


 アイリスが何かをしている。


 排水管の先。


 祭壇下の同期槽。


 見えない場所で、最高傑作が泥水の中にいる。


 たぶん、白い服はもう見る影もない。


 後で村人に土下座だ。


 もし後があるなら。


 セラが壇の上で、胸元の石を握った。


 神託碑の光が彼女の喉元へ伸びる。


 青い線。


 糸みたいなもの。


 それが彼女の口を縫い止めようとしているように見えた。


「セラ!」


 俺は思わず声を出しかけた。


 エリシアが俺の口を押さえる。


 その目が言う。


 ここから叫んでも届かない。


 分かっている。


 分かっているが、体が勝手に動きそうになる。


 水面の中で、セラが唇を震わせた。


 声が出ていない。


 神託碑の光が強くなる。


 アイリスの声。


「発話遮断、進行。同期ズレ、縮小」


「戻されるぞ!」


「認識しています」


「止めろ!」


「処理中」


 平坦な声。


 冷たい声。


 でも、管の奥からかすかに金属が軋む音が聞こえた。


 アイリスが何かをこじ開けている。


 無理やり。


 かなり無茶に。


「アイリス、蜂蜜菓子」


 俺は水槽に向かって言った。


「ロストしかけたら戻れって言っただろ」


「現在、蜂蜜菓子の将来的摂取可能性(せっしゅかのうせい)は維持されています」


「本当か」


「現時点では」


「嘘つくなよ」


「虚偽報告は非推奨です」


 言葉が返ってくる。


 だから、まだ大丈夫だ。


 たぶん。


 そう思い込むしかない。


 水面の中で、セラの指が中継石を握り締めた。


 喉元の青い線が、彼女の声を奪おうとしている。


 だが、セラは口を開いた。


 声は出ない。


 それでも、口の形だけが動いた。


 セ。


 ラ。


 自分の名前。


 音にならない名前。


 その瞬間、エリシアが俺の腕を支えながら、水槽へ身を乗り出した。


「アイリス!」


「受信中」


「今の口の動き、拾える?」


「視覚情報、部分取得」


「名前よ」


「はい」


「音にしなさい」


 水槽の底が震えた。


 俺はエリシアを見る。


「何を――」


「セラが声を奪われたなら、代わりに出すのよ」


「そんなことできるのか!」


「知らないわよ!」


 アイリスの声が重なる。


「可能性、低」


「低くてもやりなさい!」


「命令権限を確認できません」


「私はエリシア・レーヴェン。王女よ」


 エリシアは歯を食いしばった。


「今だけ、それを使いなさい」


 水槽の青い光が、一瞬だけエリシアのペンダントに反射した。


 その青が、いつもの神託碑の光と少し違って見えた。


 アイリスの瞳が、これまでにない速度で青く明滅する。


「王家認証波形をジャック。音声供給プロトコル――強制割込みを実行」


 間はなかった。


 次の瞬間、大聖堂の神託碑が大きく震えた。


 セラの声ではない。


 アイリスの声でもない。


 神託碑の青い石そのものから、かすれた少女の声が響いた。


「……セラ」


 大聖堂が凍りついた。


 神官長が振り返る。


 ラインハルトも神託碑を見る。


 巡礼者たちが息を呑む。


 もう一度。


 今度は、少しだけはっきり。


「セラの祈りを、聞いてください」


 水室の中で、エリシアが息を止めた。


 俺も、腕の痛みを忘れた。


 セラは壇の上で、目を見開いていた。


 自分の声が、神託碑から返ってきたのだ。


 神託碑が、初めて。


 個体ではなく、彼女の名前を吐いた。


 アイリスの声が、水槽の奥から低く響く。


「定型祈祷文、破損(はそん)。同期文、個体名へ遷移(せんい)


「それって」


「神託碑側の処理に矛盾が発生しています」


「効いてるんだな」


「はい」


 セラは胸元の石を握った。


 青い線はまだ彼女の喉元にある。


 でも、さっきより弱い。


 セラは声を振り絞る。


「私は、聖女です」


 今度は、自分の口から声が出た。


「でも、私は、セラです」


 水槽の底の青い線が激しく揺れた。


「救いたいです」


 彼女は泣いていなかった。


 震えている。


 怖がっている。


 それでも、言った。


「でも、消えたくありません」


 巡礼者たちのざわめきが広がる。


 神官長が叫ぶ。


「儀式を続けなさい!」


 神託碑が光る。


 だが、光はまっすぐ伸びない。


 水槽の底で、ズレた流れが暴れている。


 アイリスが下から食い止めている。


 エリシアのペンダントが震えている。


 俺の指先が弁を押さえている。


 全部が、ぎりぎりで噛み合っている。


 たぶん一つでも外れたら終わる。


 ラインハルトの声が響いた。


「儀式を中断する」


 神官長が怒鳴る。


「近衛騎士に、その権限はない!」


「なら、王族の許可を取る」


 水面の中で、ラインハルトが振り返った。


 彼の目が、神託碑ではなく、大聖堂の側廊を見る。


 いや。


 その視線は、たぶん。


 俺たちがいる方角を見ていた。


 エリシアが小さく息を吸った。


 俺は彼女を見た。


「まさか」


 エリシアの手が、フードへ伸びる。


 今度は迷っていない。


 水室の扉の向こうには近衛騎士。


 廊下へ出れば捕まる。


 大聖堂へ出れば見つかる。


 それでも。


 エリシアは、顎を上げた。


「ルカ」


「何だ」


「扉を開けるわ」


「正気か」


「今さらでしょう」


 その目は、もう王女のものだった。


 でも、壇に立たされるだけの王女ではない。


 自分の足で、檻の外へ出る王女だった。


 俺は水槽の底から腕を抜けない。


 右足も使えない。


 動けない。


 だから、言った。


「行け」


 エリシアが一瞬だけ俺を見る。


「あなたは?」


「ここを押さえる」


「一人で?」


「職人だからな」


「便利な言葉ね」


「逃亡者の機転よりはマシだろ」


 エリシアが、ほんの少しだけ笑った。


 その笑みはすぐに消える。


 彼女は濡れた手でフードを掴み、深く息を吸った。


 水槽の底が、また大きく脈打つ。


 セラの声が遠くで響く。


「私は、ここにいます」


 神託碑の光が乱れる。


 扉の向こうの近衛騎士が動く。


 エリシアは扉へ歩いた。


 裂けたドレスの裾が、床の水を引いた。


 手が取っ手にかかる。


 俺は水槽の底を睨み、弁を押さえ続けた。


 指先がもう、自分のものではない。


 でも離さない。


 エリシアが扉を開けた。


 外の近衛騎士が剣に手をかける。


「何者――」


 言葉が止まった。


 フードの奥から、青い瞳が現れる。


 泥だらけで。


 髪は乱れ。


 ドレスは裂け。


 それでも、騎士が膝をつきかけるほど、その声はまっすぐだった。


「第二王女エリシア・レーヴェンの名において命じます」


 水室の奥で、俺は息を止めた。


 エリシアの声が、石廊下に響く。


「この扉を開けなさい。聖女セラの安全を確認します」


 遠くで、神託碑が悲鳴のように鳴った。


 そして、管の奥からアイリスの声がした。


「王女個体、認証反応」


 短い雑音。


 それから。


「訂正。エリシア、認証反応」


 俺は水槽の底を押さえたまま、口元だけで笑った。


 対象じゃない。


 個体じゃない。


 名前だ。


 大聖堂の奥で、神託碑の光が割れるように揺れた。


 儀式はまだ止まっていない。


 セラもまだ壇の上だ。


 アイリスは管の奥。


 俺は密室の水槽に腕を突っ込んだまま。


 エリシアは、扉の向こう。


 全部、まだ途中だった。


 でも、確かに一つだけ変わった。


 聖女は、自分の名前を祈った。


 王女は、自分の名前で命じた。


 そして古代AIは、初めて。


 エリシアを、名前で呼んだ。

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