近衛騎士は泥跡を見逃さない
引きずられる右足が、石床を叩く。
一歩。
また一歩。
そのたびに、衝撃が足首から膝へ、膝から腰へ、背骨の奥まで突き抜けた。
「っ、ぐ……」
「声を殺して」
エリシアが低く言った。
俺の右腕を自分の肩へ回したまま、彼女は前を見ている。
王女だった頃の綺麗な歩き方なんて、もうどこにもない。
泥に汚れた裾を蹴り、肩で俺の体重を受け、狭い廊下を無理やり進んでいた。
反対側では、アイリスが俺の脇を抱えている。
支える、というより固定だ。
逃げる荷物の扱いに近い。
「アイリス、もう少し人間を運ぶ感じにしてくれ」
「現在、人間を運搬中です」
「荷物扱いじゃなくて」
「荷物より破損確率が高いため、出力を抑制しています」
「その言い方やめろ」
「声」
エリシアの一言で、俺は黙った。
水室へ戻る廊下は、さっきより長く感じた。
遠くでは、鎧の音が増えている。
王都式の硬い足音。
教会警備兵の軽い靴音とは違う。
整っている。
乱れがない。
だからこそ、怖い。
ラインハルトが来た。
あいつなら、泥跡を拾う。
焦げ跡も見る。
神託碑の光も、祭壇の線も、俺たちが見落としたものまで見るかもしれない。
敵か味方かは分からない。
でも、有能な追手が来たという事実だけは、足元の石より硬かった。
「右」
アイリスが短く言った。
エリシアが俺の体を引く。
曲がり角の手前で、俺たちは壁際に押し込まれた。
直後、廊下の向こうを修道女が走っていく。
手に白い布。
腕に銀の小瓶。
「祭壇の準備を急いで。近衛騎士団が到着したわ」
「神官長様は?」
「大聖堂にいらっしゃる。聖女様もすぐに」
足音が遠ざかる。
俺は息を吐く。
エリシアがすぐに歩き出した。
「止まらないで」
「分かってる」
分かっている。
でも、右足は分かってくれない。
引きずるたび、石床に靴底が擦れた。
音が大きい。
自分の足音だけが、やけに耳につく。
エリシアが目を細めた。
「その足音、まずいわ」
「俺もそう思ってる」
「アイリス」
「了解」
アイリスが俺の脇を持ち上げた。
右足が床から少し浮く。
その瞬間だけ痛みが消えた。
次の瞬間、脇腹が圧迫されて息が詰まった。
「ぐっ」
「歩行音を低減しました」
「呼吸も低減してる!」
「調整します」
「早く」
エリシアが小さく息を吐いた。
「あなたたち、本当に緊迫感を壊す才能だけは一流ね」
「壊したくて壊してるわけじゃない」
「私は最高傑作です」
「褒めてないわ」
そう言いながらも、エリシアの肩は俺の腕を放さない。
水室の扉が見えた。
白い女神の翼。
その下の小さな文字。
祈りの水、保管所。
扉の前には誰もいない。
だが、遠くの大聖堂側から、男の声が響いた。
「儀式場の床を確認する。神官長、壇の周囲に近づく許可を」
ラインハルトの声だった。
俺たちは止まった。
声は遠い。
でも、よく通る。
教会の地下構造に反響して、石壁の奥から響いてくるようだった。
「近いな」
俺が呟く。
エリシアの瞳が鋭くなる。
「遠くないわ。あの人は、必要なら大聖堂の裏側まで見る」
「泥跡もか」
「ええ」
アイリスが水室の扉に触れる。
「開錠します」
「静かに」
「前回比でさらに静音化を試みます」
「試みじゃなくて成功してくれ」
青い光が細く走った。
錠前が鳴る。
……ほとんど聞こえなかった。
俺はアイリスを見る。
アイリスは胸を張った。
「改善完了」
「今は胸張るな。入るぞ」
水室へ滑り込む。
湿った冷気。
石棚。
水槽。
薄く光る水。
さっき修道女が三本の瓶を持っていったせいで、棚には空いた場所がある。
その空白が、やけに大きく見えた。
エリシアが扉を細く閉める。
完全には閉めない。
音を立てないためだ。
廊下の青白い光が、細い線になって床に落ちた。
「時間は?」
俺が聞く。
アイリスが水槽の底に手をかざす。
「本儀式開始まで、推定二十二分」
「短くなりすぎだろ」
「王国使者団の到着により、式次第が前倒しされています」
「最悪だな」
「はい」
アイリスが即答した。
エリシアは水槽を見た。
「何をすればいい?」
「まず、水槽の底の線を見たい」
俺は壁に手をつきながら、水槽の前に膝をついた。
右足が悲鳴を上げる。
それでも、膝を落とすしかなかった。
立ったままじゃ細工できない。
水槽の底には、青白い魔導線が何本も走っている。
線は三つに分かれていた。
一つは水を引く管へ。
一つは床下へ。
一つは、壁の奥へ消えている。
俺は指先を水に沈めた。
冷たい。
指が痺れる。
けれど、水の奥にある魔力の流れは、妙に熱い。
押し込まれている。
流されている。
いや。
吸われている。
「……気持ち悪い流れだな」
俺は呟いた。
「どんな?」
エリシアが聞く。
「水が魔力を運んでるんじゃない。水を使って、どこかから魔力を引っ張ってる」
アイリスの瞳が明滅した。
「感覚値を記録。吸引系統の可能性」
「言い方が嫌すぎる」
「表現精度は高いです」
「高いから嫌なんだよ」
エリシアが水面を見る。
「その吸われる先が、セラ?」
「分からない」
俺は水面から手を引いた。
指先が少し震えている。
「でも、セラの石を水面に映すと、たぶん繋がる」
アイリスが言う。
「中継石と同期補助水の接続により、本儀式の出力経路が安定化します」
「つまり、この水がきれいに働くほど、セラが壇から逃げにくくなる?」
「推定、はい」
エリシアの表情が険しくなった。
「なら、壊す?」
「壊すと代替供給が動く」
俺は水槽の底を指で示した。
「たぶん、この太い線が代替だ。普段は眠ってる。でも水が止まったら動く」
「じゃあ、どうするの」
「止めない。詰まらせない。壊さない」
「何もしないように聞こえるわ」
「流れの向きを、少しだけズラす」
俺は工具袋から曲がった針金を取り出した。
細い。
錆びている。
頼りない。
これで儀式を止めるなんて、まともな人間なら考えない。
でも、まともな道具は王都の屋根に置いてきた。
「これで?」
エリシアが言った。
「これで」
「本当に?」
「俺も聞きたい」
アイリスが針金を見つめる。
「成功率、算出不能」
「言うと思った」
「ただし、アーデルの過去修理ログにおいて、規格外工具による機能回復例が複数存在します」
「褒めてるのか?」
「事実です」
「なら、今は褒め言葉として受け取る」
俺は針金を曲げ直した。
指先に力が入らない。
右足の痛みが、集中を削る。
息を吸う。
水槽の底にある小さな隙間。
魔導線の交差点。
そこに針金を差し込む。
水が指の間を流れた。
冷たい。
けれど、魔力の熱だけが針金を伝ってくる。
「……熱っ」
「火傷?」
エリシアが身を乗り出す。
「いや、魔力の逆流」
「危ないの?」
「たぶん危ない」
「あなた、危ないことを始める前に言いなさい」
「言ったら止めるだろ」
「止めるわよ」
「だから言わなかった」
「最低ね」
「今は褒め言葉として受け取る」
「褒めてない」
針金の先が、何か硬いものに触れた。
水槽の底に埋まった小さな弁。
見た目はただの石の突起だ。
でも、魔力の流れがそこを境に分かれている。
俺は針金を引っかける。
少しだけ回す。
動かない。
もう一度。
痛みで額に汗が浮く。
右足が勝手に震え、水面が揺れた。
「ルカ」
エリシアが俺の肩を押さえる。
「足、震えてる」
「知ってる」
「休む?」
「休んだら間に合わない」
アイリスが無表情で言った。
「右足を切除すれば振動源を除去できます」
「物騒すぎる!」
「冗談です」
俺は思わずアイリスを見た。
「お前、今、冗談って言ったか?」
「はい。場の緊張を緩和しました」
「悪化したわよ」
エリシアが低く言った。
アイリスは少し首を傾げる。
「学習失敗を記録」
「後で反省しろ」
「後で実行します」
その一瞬だけ、呼吸が戻った。
俺は針金を握り直す。
もう一度、弁に引っかけた。
今度は、水の流れを見ない。
魔力の詰まりだけを見る。
石。
線。
水。
流れ。
押し込まれている場所。
逃げたがっている場所。
父の声が遠くで響く。
構造を見れば分かる。
分かるなら、直せ。
「……ここだ」
針金をひねった。
かすかに、底の弁が動いた。
水槽の青白い光が揺れる。
エリシアが息を呑んだ。
アイリスの瞳が一気に明滅する。
「同期補助水の流量、〇・二パーセントの減速を確認」
「気づかれるか?」
「現時点では、システム側の許容エラー値の内側です」
なら、もう少し――と指先に力を込めかけた瞬間、針金から伝わる魔力の振動が、ピき、と嫌な鋭さに変わった。
俺の職人としての直感が、これ以上は破綻すると告げていた。
俺はそれ以上深追いせず、針金をゆっくり抜いた。
指先が痺れている。
水面はもう静かだった。
見た目は何も変わらない。
濁ってもいない。
光も同じ。
だが、水の奥の流れだけが、ほんの少し曲がっている。
たぶん。
俺にしか分からない程度に。
「これで、何が起こる?」
エリシアが聞いた。
アイリスが答える。
「聖女セラの中継石が水面に投影された際、同期角にズレが発生します」
「それで?」
「儀式出力が一瞬、不安定化する可能性があります」
「一瞬だけ?」
「はい」
エリシアは黙った。
俺も黙った。
一瞬。
それだけ。
それだけのために、俺たちはここまで来た。
「十分だ」
俺は言った。
「本当に?」
「十分にする」
エリシアが俺を見た。
それから、小さく頷いた。
「なら、次は私ね」
「何をする気だ」
「儀式場で動ける隙を作るのでしょう」
「お前、見つかったら終わりだぞ」
「もう終わっているようなものよ」
「開き直るな」
「逃亡者の機転よ」
「便利すぎるだろ、それ」
アイリスが扉の方を見る。
「接近音」
全員が止まった。
廊下から足音が聞こえる。
軽い靴音ではない。
重い。
鎧の音。
近い。
俺たちは水室の中で固まった。
扉は細く閉まっている。
外の青白い光が、床に一本の線を作っている。
その線が、足音に合わせてわずかに揺れた。
「王都式装備音」
アイリスが小声で言った。
「近衛騎士?」
「可能性、高」
エリシアが俺の腕を掴んだ。
今度は支えるためじゃない。
動くな、という合図だ。
足音が扉の前で止まった。
心臓が、嫌な音を立てる。
扉の向こうで、男の声がした。
「この先は?」
ラインハルトではない。
別の騎士だ。
教会側の男が答える。
「祈りの水の保管所です。すでに確認済みです」
「泥跡がある」
俺の喉が詰まった。
エリシアの指に力が入る。
アイリスの瞳が、音もなく青く光った。
騎士の声が続く。
「ここで途切れているように見える」
教会の男が焦った声を出す。
「下働きの者が水を運びましたので、その跡では」
「下働きは鎧を引きずらない。これは革靴だ。片足をかばっている」
俺は息を止めた。
見られている。
まだ扉は開いていない。
でも、足跡だけでそこまで読まれている。
エリシアの目が鋭く細められた。
ラインハルト本人じゃない。
それでも近衛騎士だ。
雑な追跡ではない。
扉の向こうで、別の声がした。
「クロウ卿を呼ぶか」
まずい。
それはまずい。
ラインハルトが来たら、扉を開けられる。
泥跡も、扉の擦過痕も、水槽の微細な変化も、見逃すとは思えない。
アイリスが俺を見る。
声は出せない。
だが、青い瞳が明滅する。
選択肢を要求している。
俺は水槽の下を見た。
隠れる場所はない。
棚の奥は浅い。
扉を突破すれば、廊下で騎士とぶつかる。
終わりだ。
エリシアが、ゆっくりとフードに手をかけた。
俺は目を見開いた。
まさか。
彼女は、王女として出る気だ。
それは危険すぎる。
だが、エリシアの目は揺れていなかった。
その時、遠くで鐘が鳴った。
一度。
続いて、大聖堂側から声が響く。
「聖女様、ご入場です」
扉の前の騎士たちがわずかに動いた。
教会の男が言う。
「儀式が始まります。確認は後ほど」
「待て。まだ――」
別の足音が近づいてきた。
今度は、分かる。
ラインハルトだ。
迷いのない歩幅。
硬い靴音。
扉の向こうで、騎士たちの気配が整う。
「報告を」
ラインハルトの声。
近い。
扉一枚の向こうだ。
俺たちは動けない。
エリシアの手がフードを握る。
アイリスの指先が、かすかに青く光る。
俺は水槽の縁を掴んだ。
ラインハルトが言った。
「片足をかばう革靴の跡。泥は乾き切っていない。侵入者はまだ近い」
詰んだ。
そう思った。
だが、次の瞬間、ラインハルトは続けた。
「だが、今は聖女様の安全確認が先だ。この部屋は封鎖しろ。儀式後に改める」
封鎖。
俺は目を見開く。
扉の前に立たれる。
逃げられない。
けれど、今すぐ開けられるわけでもない。
ほんの少しだけ、生き延びた。
騎士が答える。
「はっ」
足音が動く。
一人、扉の前に残る。
他は遠ざかっていく。
ラインハルトの足音も、大聖堂側へ戻っていく。
エリシアが、ゆっくりとフードから手を離した。
俺はようやく息を吸った。
「封鎖されたぞ」
小声で言う。
「ええ」
「どうする」
エリシアは扉を見た。
その向こうには近衛騎士が一人。
廊下側からは出られない。
水室の奥には狭い排水口。
人は通れない。
水槽。
管。
床下。
俺は嫌な予感がした。
アイリスが水槽の奥を見ている。
「別経路があります」
「言うと思った」
「排水管です」
「人は通れないって言っただろ」
「人間は通れません」
「じゃあ駄目だろ」
「最高傑作は通過可能です」
俺はアイリスを見た。
エリシアも見た。
アイリスは平然としている。
「何をする気だ」
「排水管を通り、祭壇下の同期槽へ先行します」
「待て。お前一人で行く気か?」
「はい」
「駄目だ」
俺は即答した。
声が少し大きくなりかける。
エリシアが扉を見る。
外の騎士は反応していない。
ぎりぎりだった。
アイリスは俺を見た。
「アーデルとエリシアは、現在の身体条件および身分条件により通過不能です」
「だからってお前だけ行かせるか」
「第三案の成功には、祭壇下での同期ズレ監視が必要です」
「危ないだろ」
「危険度、算出不能」
「そういう時はだいたい危ないんだよ」
「同意します」
「同意するな!」
エリシアがアイリスの前に立った。
「一人で行って、戻れるの?」
「未確定です」
「そこは嘘でも戻れると言いなさい」
「虚偽報告は非推奨です」
エリシアは唇を噛んだ。
アイリスは続ける。
「ただし、私は古代文明の最高傑作です。排水管程度の移動は、規格外環境対応訓練の範囲内です」
「そんな訓練、絶対に存在しないだろ」
「今作成しました」
「作るな」
こんな時にまで、いつもの調子だった。
だが、アイリスの瞳は青く明滅している。
ふざけているわけじゃない。
たぶん、本気で最適解を選んでいる。
俺は水槽の奥の管を見た。
細い。
暗い。
水が流れている。
人間なら腕を入れるのがやっとだ。
でも、アイリスなら体を無理やり通せるのかもしれない。
そういう存在だ。
人間ではない。
でも。
「アイリス」
「はい」
「行くなら、勝手に全部決めるな」
アイリスの瞳が止まる。
「指示内容が不明確です」
「見たものを、全部こっちに伝えろ。分からないものを分かったみたいに言うな。これ以上進めば完全な機能停止――ロストに陥ると判断したら戻れ」
「私の演算上、ロストによるタスク未達成の損失よりも、第三案の成功確率を優先するプログラムが稼働しています」
「なら、お前のデータベースから蜂蜜菓子が永久にロストすると判断したら戻れ。お前にとって、それはタスクより重い損失だろ」
アイリスの表情が、わずかに変わった。
本当にわずかだ。
眉が一ミリだけ動いた。
「それは重大な損失です」
「だろ」
「了解しました。蜂蜜菓子の将来的摂取可能性を基準に、撤退判断を行います」
エリシアが小さく息を吐いた。
「それで通じるのが悔しいわね」
「俺もだ」
アイリスは即座に水槽の縁へ手をかけた。
村で借りた白い服が濡れることなど一ミリも気にとめない速度で、音もなく水の中へと身を沈める。
後で村人に平謝りだな、と俺が顔をしかめると、水槽の奥の排水管に身を滑り込ませかけた古代AIが、最後に顔だけをこちらに向けた。
瞳が青く明滅する。
「作戦名の更新を提案します。聖女を誘拐しない作戦、排水管経由。登録を完了しました」
「削除しろ」
俺が小声で吐き捨てた瞬間、彼女の顔は暗い管の奥へ消えた。
水音だけが残る。
扉の向こうには、こちらの呼吸すら窺う近衛騎士。
右足が潰れた俺と、ドレスを裂いた王女。
二人だけで、この密室に完璧に閉じ込められた。
最悪だな、と俺がエリシアと視線を交わした、その瞬間。
ド、と水室の床底から、心臓を直接揺さぶるような重低音が響いた。
水槽の底の魔導線が、見たこともない禍々しい青色に脈打つ。
管の奥から、アイリスの声がかすかに響いた。
「同期ズレ、確認」
壁の奥を通って、大聖堂の数千人の祈りの残響が、怒号のように押し寄せてくる。
神官長の声が、石壁を震わせた。
「大規模浄化儀式、開始」
俺は水槽の底を睨んだ。
始まった。
誘拐しない作戦が。
たぶん、俺たちが今までやった中で、一番まともで、一番無茶な作戦が。




