誘拐しない作戦は、だいたい難しい
白い教会の地下で、神託碑の光は水のように揺れていた。
遠くの礼拝堂から、祈りの残響がまだ薄く響いている。
声はもうほとんどない。
けれど、壁に染み込んだ祈りだけが、石の奥でまだ震えているようだった。
俺たちは物置を出て、細い側廊へ入った。
先頭はアイリス。
その後ろにエリシア。
最後に俺。
右足に体重を乗せるたび、鈍い痛みが膝の裏まで走る。
大きな音を立てるわけにはいかない。
走ることもできない。
だから、一歩ずつ進むしかなかった。
「アーデル」
アイリスが振り返らずに言った。
「何だ」
「歩行音が不規則です」
「右足が痛いんだよ」
「痛覚遮断を推奨します」
「できるのか?」
「頭部を強打すれば一時的に可能です」
「提案するな」
エリシアが振り返り、俺を見た。
「声」
「悪い」
俺は口を閉じた。
今のは俺が悪い。
ただ、頭部強打を提案された側にも少しは同情してほしい。
側廊は狭かった。
白い壁。
低い天井。
ろうそくは少なく、青白い石の光だけが足元を照らしている。
教会らしい装飾の奥に、古代文字がかすかに残っていた。
壁の下の方を、細い魔導線が走っている。
表面は白い漆喰で隠されているが、俺にはその奥を流れる魔力の癖が少し分かった。
流れが一定じゃない。
時々、詰まる。
それでも、無理に押し出されている。
水路に泥が詰まっているのに、上から力ずくで水を流しているみたいだった。
「ここ、古い線が生きてる」
俺は小声で言った。
アイリスが少しだけ顔を向ける。
「旧式供給路です」
「供給って、何の」
「未確定」
「珍しく言わないな」
「現在、照合に失敗しています」
その声は平坦だった。
でも、エリシアはアイリスの横顔を少し見た。
問い詰めはしなかった。
こういう時のアイリスは、嘘をついているわけではない。
たぶん、本当に読めないのだ。
壁の奥の魔導線が、かすかに震えた。
俺は指先で壁に触れる。
冷たい。
でも、その奥だけが妙に熱い。
エリシアが足を止めた。
「待って」
彼女は右手を上げる。
俺も止まる。
前方から足音が聞こえた。
ひとつではない。
軽い靴音が二つ。
聖職者か、下働きか。
アイリスが壁際に寄る。
エリシアが俺の袖を引き、柱の影に押し込んだ。
俺は右足をかばいながら身を縮める。
痛みで息が漏れそうになる。
奥から、白い布を抱えた若い修道女が二人、歩いてきた。
「西側の祈りの水、今日も運ぶの?」
「神官長様が、夜明け前に準備しなさいって」
「聖女様、大丈夫なのかな」
「そういうこと言わないの。聞かれたら怒られるよ」
「でも、昨日の予備祈祷の後、立っているのもつらそうだった」
「神に近づいている証だって」
「……そうかな」
足音が近づく。
俺たちは動けない。
アイリスの銀髪が、柱の影から少しだけ出ている。
まずい。
エリシアが静かに手を伸ばし、アイリスの髪を自分のフードの中へ押し込んだ。
アイリスが目だけで不満を示す。
今は我慢しろ。
修道女たちは、俺たちのすぐ前を通り過ぎた。
香油と水の匂いがした。
彼女たちは奥の曲がり角へ消えていく。
声だけが残った。
「聖女様、最近、私の名前を間違えたの」
「疲れているだけだよ」
「そう、だよね」
それきり、足音は遠ざかった。
エリシアはフードの中からアイリスの髪を解放した。
アイリスは小声で言う。
「髪部に対する圧迫を確認」
「見つかるよりいいでしょ」
「優先順位を再評価します」
「しなくていい」
俺は壁にもたれ、息を吐いた。
セラは、人の名前を忘れ始めている。
さっき本人が言ったことと、修道女の言葉がつながった。
でも、それを口にすると、何かが決まってしまいそうで嫌だった。
俺たちは修道女たちが消えた方向へ進んだ。
曲がり角の先には、低い扉があった。
表には女神の翼。
その下に、小さな文字。
祈りの水、保管所。
そして、白い塗装の隙間に、古代文字。
同期補助。
エリシアが眉を寄せる。
「祈りの水の保管所ね」
「何だ、それ」
「儀式の前に、壇や聖具を清めるための水よ。聖女の祈りを受ける前に、神託碑と祭壇へ運ばれる」
「清めの水か」
「表向きは」
エリシアの声は冷えていた。
アイリスが扉に触れた。
「内部に微弱な神託碑反応」
「開けられるか?」
「可能です」
「静かに」
「学習済みです」
青い光が走る。
扉の錠が、小さく鳴った。
かちん。
俺とエリシアは同時にアイリスを見た。
アイリスは無表情のまま言った。
「前回比で二十七パーセント静音化」
「音はしたぞ」
「改善傾向です」
「前向きだな、お前」
扉を開けると、湿った冷気が流れてきた。
中は小さな水室だった。
石造りの棚に、透明な瓶が並んでいる。
瓶の中には薄く光る水が入っていた。
奥には浅い水槽。
壁から細い管が伸び、水槽へつながっている。
水槽の底には、青白い線が何本も走っていた。
教会の保管所というより、古代装置の一部に見える。
エリシアが水槽を覗き込む。
「これを儀式で使うのね」
アイリスの瞳が明滅する。
「祈りの水。表層登録。儀式前清浄用」
「裏は?」
「同期補助水。流量制御。神託碑反応あり」
俺は水槽の縁に触れた。
ぞわ、と指先が震えた。
魔力の流れが、さっきの壁より強い。
水は下へ流れようとしている。
でも、底の魔導線がそれを捕まえ、別の方向へ押している。
「この水、ただの水じゃないな」
「見れば分かるわ」
「いや、光ってるからじゃなくて」
俺は水槽の底を指でなぞった。
「流れ方がおかしい。水なのに、魔力が線に引っ張られてる」
アイリスが俺を見た。
「アーデルの感覚値と、私の解析値が一致」
「嫌な一致だな」
「有用です」
「それも嫌だ」
エリシアが水槽から目を離さない。
「これを使えば、儀式を止められる?」
アイリスはすぐには答えなかった。
瞳の奥で文字列が流れる。
水槽。
神託碑。
壇。
聖女セラ。
その名前だけは、俺の頭の中で別の重さを持っていた。
「不明です」
アイリスが言った。
「ただし、同期補助水の供給を停止または変質させた場合、本儀式の同期精度に影響を与える可能性があります」
「つまり?」
「儀式が乱れる可能性があります」
「止まる?」
「可能性はあります」
「セラは助かる?」
「未確定」
エリシアが唇を噛んだ。
俺は水槽の底を見た。
細い魔導線が何本もある。
古い。
腐食もある。
俺なら、触れば流れを変えられるかもしれない。
でも、失敗したらどうなるか分からない。
水槽の隣に、小さな石板があった。
教会文字で使い方が書かれている。
夜明け前、祈りの水を三瓶取り、祭壇へ運ぶこと。
聖女の中継石を水面に映し、神託碑の光を確認すること。
異常な濁りがある場合、神官長へ報告すること。
その下に、かすれた古代文字。
反応不良時、代替供給。
エリシアが声を落とす。
「代替、また出たわね」
「ああ」
アイリスが石板を見ている。
「代替供給系統、存在可能性」
「触るな」
俺は先に言った。
アイリスの指が止まる。
「まだ触っていません」
「触る顔してた」
「顔で判断しないでください」
「お前は顔に出ないから余計に怖いんだよ」
エリシアが水室の奥を見た。
狭い排水口がある。
人は通れない。
でも、工具なら入る。
俺は工具袋に手を入れた。
ない。
ほとんどない。
王都の屋根で失った。
残っているのは、曲がった針金一本と、小さな留め具、刃の欠けた薄いナイフだけ。
俺はため息を吐いた。
「道具が足りない」
エリシアが見る。
「直せないの?」
「壊すだけならできる。でも、壊すと何が起こるか分からない」
「爆発ですか?」
アイリスが言った。
「お前は少し嬉しそうにするな」
「爆発は注意逸らしとして有効です」
「不採用」
「残念です」
エリシアが俺の手元を見た。
「針金で何とかならない?」
「何とかするにも限度がある」
俺は水槽の底を見つめる。
古い魔導線。
流れ。
詰まり。
押し込まれる水。
父の声が、少しだけ頭の奥に戻る。
神託は神の声ではない。
構造を見れば分かる。
俺は息を吐いた。
構造は見える。
でも、答えまでは見えない。
「水を完全に止めるのは危ない」
俺は言った。
「神官長に気づかれる。代替供給ってのも動くかもしれない」
「では?」
「流れを少しだけ狂わせる」
エリシアが目を細める。
「少しだけ?」
「ああ。儀式が始まるまで気づかれない程度に」
「それで止まるの?」
「止まるかは分からない」
俺は水槽を見た。
「でも、アイリスが言った同期精度ってやつは、たぶん狂う」
「危険は?」
「ある」
即答だった。
ないとは言えない。
そういう嘘はつきたくなかった。
エリシアは少し黙った。
それから、言った。
「セラに確認すべきね」
「ああ」
「本人が知らないところで、また壇の上の仕組みを変えるわけにはいかない」
その言葉は重かった。
王女だった彼女が言うから、余計に。
俺は頷いた。
「夜明け前の廊下で話す」
アイリスが水槽を見たまま言った。
「ただし、時間制限があります」
「分かってる」
「本儀式準備開始まで、推定一時間四十六分」
「十分か?」
「通常なら不足です」
「俺たちは?」
「通常ではありません」
エリシアが小さく笑った。
「褒められているのかしら」
「分類不能です」
「便利な言葉ね」
その時、水室の外で声がした。
「祈りの水、確認しましたか?」
修道女の声。
俺たちは一斉に固まった。
足音が近づく。
戻ってきた。
エリシアが棚の陰へ滑り込む。
アイリスは水槽の横へ立ったまま動かない。
動け。
俺はアイリスの袖を引いた。
だが、彼女の視線は水槽の底に固定されている。
「アイリス」
小声で呼ぶ。
アイリスは一拍遅れてこちらを見た。
「照合中でした」
「今は隠れろ」
「了解」
俺たちは棚の奥へ身を縮めた。
水の瓶が並ぶ棚の向こうに、扉が開く。
修道女が一人、入ってきた。
さっき通ったうちの若い方だ。
彼女は手に白い布を持っている。
水槽に近づき、瓶を三本取り出した。
俺たちとの距離は、腕を伸ばせば届くほど近い。
俺は右足を引いた。
痛みで棚に肩が当たりそうになる。
エリシアの手が俺の腕を押さえた。
動くな。
分かってる。
修道女は水槽を覗き込み、小さく呟いた。
「濁りなし」
石板を見る。
「神託碑反応、あり」
それから、胸の前で祈る。
「どうか、聖女様が明日もお立ちになれますように」
俺は息を止めた。
その言葉に悪意はなかった。
たぶん、彼女はセラを心配している。
けれど、その祈りはセラを壇に立たせる。
救いと鎖が、同じ形をしている。
修道女は瓶を抱え、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
俺はようやく息を吐いた。
「今の瓶、持っていかれたぞ」
エリシアが言う。
「あれが儀式に使われる分か」
「はい」
アイリスが答えた。
「三瓶のうち一本に、他より強い神託碑反応を確認」
「どれだ」
「中央の瓶です」
「持っていかれた後に言うな」
「照合に時間が必要でした」
「取り返す?」
エリシアが聞く。
俺は首を振った。
「今追えば見つかる」
「なら、保管所側を触る?」
「まだ触らない。セラに確認してからだ」
アイリスが俺を見る。
「効率は低下します」
「分かってる」
「成功率も低下します」
「それでもだ」
アイリスは少し黙った。
「本人確認を優先」
「そうだ」
「非効率ですが、記録します」
「ありがたくない記録だな」
水室を出る。
廊下はさらに暗くなっていた。
夜明け前の気配が、地下にまで入り込んできている。
外が少しずつ青くなっているのかもしれない。
俺たちは西側の小廊下へ向かった。
途中、何度か足音を避けた。
修道女。
下働き。
警備兵。
声を出せる場面はほとんどない。
アイリスが手で数を示し、エリシアが俺を壁際へ引き寄せる。
俺は右足を引きずらないよう、歯を食いしばって歩いた。
西側の小廊下は、礼拝堂の裏にあった。
天井は低く、壁の片側に細い水路が通っている。
白い石で囲まれた細い流れ。
その水面に、青白い光がちらちら映っていた。
廊下の端には小さな扉。
祈りの水を運ぶためだけの通路らしい。
人は少ない。
その代わり、隠れる場所も少ない。
「ここで待つのか」
俺は小声で言った。
「セラが来れば」
エリシアが答える。
アイリスは壁に触れていた。
「神託碑反応、微弱。監視密度は低いです」
「聞かれてないってことか?」
「保証不能」
「保証しろよ」
「不能です」
「だよな」
俺たちは扉の陰に身を寄せた。
水路の音が小さく響く。
ちょろちょろと流れる水。
遠くで鳴る鐘。
人の足音。
その全部が、いつもより大きく聞こえた。
時間だけが過ぎていく。
セラは来ない。
俺の右足は、立っているだけで痛みを増していた。
エリシアがそれに気づく。
「座りなさい」
「ここで?」
「倒れられる方が困るわ」
「王女命令か?」
「逃亡者の機転よ」
「便利だな、それ」
俺は壁に背を預け、少しだけ腰を落とした。
足が楽になる。
かなり。
エリシアは何も言わない。
アイリスがこちらを見た。
「アーデルの歩行継続可能時間、低下」
「今それ言うな」
「事実です」
「知ってる」
エリシアがアイリスを見る。
「黙って支える、という選択肢はないの?」
アイリスは少し考えた。
「物理支援なら可能です」
次の瞬間、アイリスが俺の腕を掴んだ。
ぎり、と骨が鳴りそうになる。
「痛い痛い痛い」
「支えています」
「握り潰してる!」
「出力を下げます」
エリシアが頭を押さえた。
「あなた、最高傑作なのに加減が壊滅的ね」
「最高傑作にも調整期間は存在します」
「誇らしげに言わないで」
その時、扉の向こうで布が擦れる音がした。
全員が止まる。
小さな扉が、少しだけ開いた。
白い祭服の裾。
薄い金色の髪。
セラだった。
彼女は周囲を確認し、廊下へ滑り込む。
顔色は悪い。
けれど、来た。
本当に来た。
「すみません、遅くなりました」
「大丈夫」
エリシアが答える。
「誰にも見られていない?」
「たぶん」
「たぶんは怖いな」
俺が呟くと、セラが小さく笑った。
すぐに、その笑みは消える。
「話せる時間は少しだけです」
「ああ」
俺は水室で見たことを話した。
祈りの水。
同期補助。
三本の瓶。
中央の瓶。
水槽の底の古い魔導線。
セラは黙って聞いていた。
アイリスは余計な説明をしなかった。
エリシアも急かさなかった。
水路の音だけが、細く続く。
全部聞き終えると、セラは胸元の石を握った。
「それを変えたら、儀式は止まるんですか」
「分からない」
俺は答えた。
「乱せるかもしれない。失敗するかもしれない。悪化するかもしれない」
セラは目を伏せる。
「悪化」
「だから、勝手にはやらない」
俺は言った。
「お前に聞く」
セラが顔を上げた。
「私に?」
「壇に立つのはお前だろ」
エリシアが静かに頷いた。
「あなたが知らないところで、また誰かが決めるのは違うわ」
セラの目が揺れた。
彼女は、そういう言葉を言われ慣れていない顔をしていた。
自分で決めろ。
たぶん、その言葉は救いにもなる。
同時に、ひどく怖い。
セラは唇を震わせた。
「もし、儀式が止まったら」
「ああ」
「救われるはずだった人たちは、どうなりますか」
誰も答えられなかった。
セラは続ける。
「昨日、咳が止まった子がいました。歩けるようになった人がいました。東の村には、瘴気で苦しんでいる人がいます」
その声は弱い。
でも、逃げていなかった。
「私が怖いから止めてください、なんて言ったら、その人たちは」
「セラ」
エリシアが言った。
「自分一人で全員を背負おうとしないで」
「でも、聖女は」
「あなたは、セラよ」
エリシアの声が、細い廊下に静かに響いた。
「聖女である前に、セラ」
セラは目を閉じた。
胸元の石が、青白く光る。
アイリスの瞳も一瞬だけ明滅した。
「聖女セラ」
アイリスが言った。
「質問があります」
セラが目を開ける。
「はい」
「あなたは、明日の儀式において、救済対象者を全員救いたいですか」
「はい」
「自身の記憶を失いたいですか」
「……いいえ」
「自身の生存反応をロストしたいですか」
セラの顔が白くなる。
俺はアイリスを止めようとした。
でも、セラは逃げなかった。
小さく、はっきり首を振った。
「いいえ」
アイリスは頷いた。
「条件を確認しました」
「何の条件だ」
「聖女セラを消費対象から除外した状態で、儀式出力を低下させる方法を探索します」
「できるのか?」
「未確定です」
いつもなら、ふざけた確率を真顔で吐き出す奴が、静かに瞳の明滅を止めていた。
「……お前が計算を諦めるくらい、詰んでるってことか」
「必要情報が不足しています。ただし、方針は確定しました。これより『聖女セラを使わず、儀式だけを失敗させる』という第三案を、データベースの最優先タスクに登録します」
セラが息を呑み、エリシアの目も鋭くなった。
「それができれば……」
「可能性は低いです。ですが、ゼロではありません」
俺は水路の方を見た。
細い水が青白く流れている。
水室の底。
古い魔導線。
中央の瓶。
壇。
神託碑。
全部は分からない。
でも、触れる場所はある。
「俺が、水の流れを少し変える」
俺は言った。
「アイリスが同期のズレを見る。エリシアが儀式場で動ける隙を作る。セラは、壇に立つ前に、自分の石がどう光るか教えてくれ」
エリシアが俺を見る。
「ずいぶん雑ね」
「俺もそう思う」
「でも、初手誘拐よりはいいわ」
「比較対象が最悪なんだよ」
アイリスが真顔で言った。
「初手誘拐案は現在も保留中です」
「捨てろ」
「強い制約です」
セラが、かすかに笑った。
さっきより少しだけ、息が楽になったように見えた。
「私、何をすればいいですか」
その言葉に、エリシアが静かに頷いた。
守られるだけの声ではなかった。
セラは、聞いた。
自分が何をするかを。
「まず、無理に笑うのをやめろ」
俺は言った。
セラが目を丸くする。
「え?」
「大丈夫じゃない時に、大丈夫って言うな。神官長が来たら仕方ない。でも、俺たちの前ではやめろ」
セラは言葉を失った。
エリシアが俺を見た。
少し驚いた顔だった。
アイリスは真顔で言う。
「心理的偽装解除を推奨」
「お前が言うと台無しだな」
「同意内容です」
「分かってる」
セラは胸元の石を握ったまま、深く息を吸った。
そして、小さく言った。
「怖いです」
「ああ」
「逃げたいです」
「ああ」
「でも、逃げたくないです」
「ああ」
「助けたいです」
「ああ」
セラは震えていた。
でも、その目はさっきよりまっすぐだった。
「私は、明日の儀式を止めたいです。でも、救われる人たちを見捨てたくありません」
エリシアが言った。
「それが、あなたの答えね」
「はい」
セラは頷いた。
「わがまま、でしょうか」
「いいえ」
エリシアはすぐに答えた。
「ようやく、あなたの言葉になっただけよ」
その時、遠くで鐘が鳴った。
一度。
低い音。
セラの顔が強張る。
「戻らないと」
「夜明け前の準備か」
「はい。祈りの水を祭壇へ運ぶ時間です」
中央の瓶。
もう運ばれているはずの水。
俺は水路を見た。
「セラ、その瓶に触れるか?」
「儀式前に、聖女が水へ祈りを落とします」
「祈りを落とす?」
「胸の石を水面に映して、祈りの言葉を言います」
エリシアが俺を見る。
アイリスの瞳が明滅する。
「水面反応時、同期調整の介入余地あり」
「今のは言語化していいやつか?」
「材料です」
「そうかよ」
セラが不安そうにする。
「何をすれば」
「祈りの言葉を、少しだけ変えられるか」
俺は聞いた。
セラは目を見開く。
「祈りの言葉を?」
「神官長にバレない程度でいい」
「でも、決まった言葉があります」
「一字一句?」
「……少し、違っても、たぶん気づかれません。みんな、聖女は緊張していると思うから」
エリシアが静かに言う。
「なら、自分の名前を入れなさい」
「私の、名前?」
「祈りの中に。どこか一つでいい。神のためでも、聖女のためでもなく、セラとして」
セラは息を止めた。
胸元の石が、ほんの少し震える。
アイリスがそれを見た。
何か言いかけて、言わなかった。
学習しているのかもしれない。
セラは小さく頷いた。
「やってみます」
「無理はするな」
俺は言った。
「無理です」
セラは答えた。
俺は少し黙った。
彼女は続けた。
「でも、やります」
それは、さっきまでの「大丈夫です」よりずっと頼りなかった。
でも、ずっと強かった。
扉の向こうで足音がした。
今度は近い。
セラが身を引く。
「行きます」
「セラ」
エリシアが呼んだ。
セラは振り返る。
「あなたは、対象ではないわ」
セラの目が揺れた。
「はい」
アイリスが小さく言った。
「聖女セラ、行動選択を記録」
エリシアがアイリスを見る。
「今のは、許すわ」
「承認を確認」
セラは小さく笑った。
そして、扉の向こうへ消えた。
白い祭服の裾が見えなくなる。
足音が遠ざかる。
俺たちはしばらく、その場に残った。
水路の音だけが響く。
「さて」
俺は右足を伸ばした。
痛い。
でも、今は立つしかない。
「こっちはこっちで、儀式を壊さずに壊す方法を考えるか」
エリシアが眉を上げる。
「言葉が矛盾しているわ」
「俺もそう思う」
アイリスが真顔で言った。
「部分破壊による機能不全誘導」
「そう言うと急に犯罪っぽいな」
「犯罪ではありません。儀式妨害です」
「もっと悪い」
エリシアがフードを深く被った。
「行きましょう。水室へ戻るのね」
「ああ」
「王都の使者が来る前に」
その言葉で、空気が少し重くなった。
忘れていたわけじゃない。
王国からの使者。
近衛騎士。
ラインハルトかもしれない誰か。
俺たちは狭い廊下を戻り始めた。
その時だった。
遠くの大聖堂側で、低いざわめきが起きた。
足音が増える。
鎧の音。
教会警備兵とは違う、重い音。
エリシアが立ち止まる。
俺も壁に手をついた。
アイリスの瞳が、青く明滅する。
「王都式装備音。複数」
「もう来たのか」
「推定、王国使者団」
大聖堂の方から、誰かの声が響いた。
「王都近衛騎士団、儀式確認のため到着した」
その声を、俺は知っていた。
冷静で、硬くて、よく通る声。
エリシアも、俺と同時に顔を上げた。
アイリスが無表情で言う。
「近衛騎士ラインハルト・クロウの音声波形と一致」
俺は思わず天井を見た。
「よりによって」
エリシアが小さく息を吐いた。
その瞳が、鋭く細められる。
「あの人が儀式場を検めるなら、誤魔化しは効かないわ。私たちの泥跡を拾われる前に、終わらせるわよ」
「ああ」
敵か味方か。
まだ分からない。
でも、あいつは見た。
王家更新の儀の黒い光を。
焼けた壇を。
神託を疑えと書いた、油染みの包み紙を。
遠くで、ラインハルトの声がもう一度響いた。
「聖女セラ様の安全確認を最優先とする。儀式場の確認を行う」
アイリスが俺を見る。
「アーデル」
「何だ」
「予定外要素が追加されました」
「知ってる」
「作戦の再構築を推奨」
「今からかよ」
「はい」
俺は右足を引きずりながら、壁の奥を流れる古い魔導線に指を当てた。
神託碑の光が、遠くで脈打っている。
祈りの水は、もう祭壇へ運ばれた。
セラは自分の名前を祈りに混ぜる。
ラインハルトが来た。
儀式は始まる。
逃げ道は細く、時間はほとんどない。
それでも、まだ終わっていない。
「作戦名は?」
アイリスが聞いた。
「今それいるか?」
「識別のために必要です」
エリシアが、ほんの少しだけ笑った。
「聖女を誘拐しない作戦、でいいんじゃない?」
俺は頭を抱えた。
「それ、作戦名にするな」
アイリスは真顔で頷く。
「作戦名、聖女を誘拐しない作戦。登録しました」
「登録するな!」
大聖堂の鐘が鳴った。
夜明け前の最後の音だった。
その重い響きが静まるより早く、エリシアが俺の右腕を自分の肩へ引き寄せ、アイリスが問答無用で反対側の脇を抱え上げた。
「っ……!」
引きずられる右足が石床を叩き、鋭い衝撃が背骨を突き抜ける。
痛みで視界が白くなる。
それでも、床を蹴って足を出した。
壇の上に、もう誰かを一人で立たせないために。




