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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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19/30

聖女は、神託から逃げたい

「後者よ」


 エリシアの声は、低かった。


 扉の向こうで、セラが息を呑む。


 遠くで教会の鐘が鳴っていた。


 一度。


 二度。


 三度。


 神託碑の光が、地下の白い壁を青く染める。


 アイリスが小さく言った。


「聖女個体との接触が成立しました」


「対象をつけるな」


 エリシアが言った。


 アイリスは少し黙った。


「聖女セラとの接触が成立しました」


 扉の向こうで、セラが小さく笑った気がした。


 俺たちはまだ、扉を開けられない。


 でも、もう始まっていた。


 聖女救済は、たぶん。


 今、この瞬間から。


 扉の向こうで、布が擦れる音がした。


 セラがすぐそこにいる。


 俺たちは物置の薄暗い中で身を潜めたまま、息を殺していた。


 木箱の陰。


 香油の瓶。


 白い布。


 古い記録板。


 床には俺たちの泥跡が残っている。


 外には教会警備兵。


 遠くには神官。


 そして、扉一枚向こうに、聖女セラがいる。


「……開けても、いいですか」


 セラの声は震えていた。


 エリシアは俺を見た。


 俺はアイリスを見る。


 アイリスは扉を見たまま言う。


「周辺足音、現在なし。開扉可能時間、推定十二秒」


「短いな」


「はい」


 エリシアが小さく頷いた。


 俺は扉の横へ下がる。


 セラが外から扉を開けた。


 薄い白い光が物置に差し込む。


 そこに立っていたのは、さっき壇の上にいた聖女だった。


 薄い金色の髪。


 白い祭服。


 胸元の透明な石。


 近くで見ると、顔色はさらに悪い。


 それでも、彼女は俺たちを見て逃げなかった。


 叫びもしなかった。


 ただ、目を大きくした。


 泥だらけの男。


 フードを被った王女。


 銀髪の少女。


 どう見ても、聖なる地下礼拝堂にいていい組み合わせではない。


 セラは俺を見た。


 次にエリシアを見た。


 最後に、アイリスを見る。


 その瞬間、胸元の石がかすかに震えた。


 アイリスの瞳も、同じように一瞬だけ明滅する。


「……あなた」


 セラが言った。


「さっき、見えました。白い光の中に、少しだけ」


 アイリスは無表情で答える。


「聖女セラの中継石が、私の波形を誤検出した可能性があります」


「ごけんしゅつ……?」


「誤って検出することです」


「説明がそのままだな」


 俺が小声で言うと、エリシアに肘で軽く突かれた。


 声を落とせ、という合図だ。


 セラはアイリスから目を離さない。


「あなたは、神託の声ではないんですね」


「違います」


 アイリスは即答した。


「私は古代文明の最高傑作です」


 俺とエリシアは同時にアイリスの口を押さえた。


 セラが目を丸くする。


「……最高?」


「今のは忘れてくれ」


 俺が小声で言う。


 エリシアも言った。


「忘れた方がいいわ」


 アイリスは口を塞がれたまま、不満そうに眉を寄せた。


 セラは少しだけ笑った。


 ほんの少しだけ。


 けれど、さっき壇の上で見せた笑顔より、ずっと年相応に見えた。


 廊下の奥から、足音が聞こえた。


 全員が止まる。


 セラは反射的に扉を閉めかけた。


 俺たちは木箱の陰へ身を引く。


 足音は近づいて、横を通り過ぎ、遠ざかっていった。


 セラは扉の隙間から廊下を確認し、小さく息を吐いた。


「長くは話せません。神官長が、すぐ戻ってきます」


 彼女は胸元の透明な石を、まるで痛みを堪えるように強く握り締めた。


 その指先が、かすかに震えている。


「あなたたちは、私のことを知っているんですか」


「名前は知ってる」


 俺は答えた。


「聖女セラ。神託碑に出ていた」


 セラの顔が少し暗くなる。


「神託碑には、私の名前が出ましたか?」


 俺は言葉に詰まった。


 出ていない。


 出ていたのは、聖女個体。


 出力準備。


 その言葉だけだ。


 セラは俺の表情だけで分かったらしい。


 静かに笑った。


「そうですか」


 その笑いは、さっきよりずっと薄かった。


 エリシアがフードを少しだけ上げた。


 セラの目が、大きく見開かれる。


「あなた……」


「大きな声を出さないで」


 エリシアが静かに言う。


 セラは両手で口を押さえた。


 それでも、驚きは隠せない。


「第二王女、エリシア様……?」


「今は王女ではないわ」


「でも、神託では……王女誘拐犯に連れ去られたと」


「誘拐はされたわ」


「おい」


「でも、私は自分の意思でここにいる」


 エリシアはまっすぐにセラを見た。


「神託から逃げている。それは嘘じゃない」


 セラは黙った。


 胸元の石が、かすかに光る。


「王女様も、神託から……」


「ええ」


「どうして」


 エリシアは少しだけ目を伏せた。


 そして、余計な説明はしなかった。


「壇の上に立たされたからよ」


 それだけだった。


 セラの指が、首飾りを握る。


 それだけで伝わったらしい。


 セラは自分の足元を見た。


「私も、明日、壇の上に立ちます」


 誰もすぐには答えなかった。


 物置の中に、白いろうそくの匂いと、香油の甘い匂いが混じっている。


 遠くの礼拝堂では、まだ巡礼者たちの祈りが残っていた。


 セラは言った。


「皆さんは、本当に救われています」


「ああ」


 俺は答えた。


「見た」


「足が動かなかった人が立てるようになって、子どもの咳が止まって、瘴気で苦しんでいた人が楽になるんです」


「ああ」


「だから、私は祈らないといけません」


 セラの声は震えていた。


「でも」


 彼女は胸元の石を握った。


「祈った後のことを、思い出せないんです」


 アイリスの瞳が明滅する。


 セラは続けた。


「最初は、少し疲れるだけでした。でも最近は、朝起きると、昨日誰と話したのか分からなくて。お礼を言われても、その人の顔を覚えていなくて」


 彼女は笑おうとした。


 失敗した。


「私は、聖女なのに」


 エリシアが一歩近づく。


「聖女だから、怖がってはいけないわけではないわ」


 セラは顔を上げた。


 エリシアの声は、静かだった。


「私も王女だった。だから壇に立つのが当然だと思っていた」


 短い沈黙。


「でも、当然だと思わされていたことと、自分で選んだことは違う」


 セラは息を呑んだ。


「自分で、選ぶ……」


「あなたは、明日の儀式に立ちたいの?」


 セラはすぐには答えなかった。


 祈りの声が遠くで揺れる。


 廊下の向こうから、誰かが扉を閉める音がした。


 セラの指が、首飾りの石に食い込む。


「立たなければ、救われない人がいます」


「質問に答えていないわ」


 エリシアの声は厳しかった。


 けれど、冷たくはない。


 セラは唇を噛んだ。


「……怖いです」


 それだけだった。


 その一言だけで、十分だった。


 アイリスが言った。


「恐怖反応を確認。聖女セラの儀式参加意思は不安定です」


「それを本人の前で言うな」


「事実です」


「事実でも言い方がある」


「では言い換えます」


 アイリスはセラを見た。


「あなたは、逃走を検討しています」


 セラが小さく震えた。


 俺はアイリスを見た。


 雑だ。


 でも、外してはいない。


 セラは俯いたまま、かすかに頷いた。


「一度だけ、考えました」


「一度?」


「何度も」


 声が小さくなる。


「でも、逃げたら、みんなが困るから」


 俺は口を開きかけた。


 その前に、アイリスが言った。


「逃走経路はあります」


「早い」


 俺は小声で突っ込む。


 アイリスは真顔だった。


「地下旧式保守道を使用すれば、神託碑の監視を部分的に回避できます。古竜の腹部付近を通過する必要がありますが」


 セラが固まった。


「こりゅう……?」


「説明するな」


 俺はアイリスの肩を掴んだ。


「いきなり古竜の腹の話をされたら、普通は逃げる気も折れる」


「安全です」


「さっき心臓止まりかけたんだが」


「停止していません」


「そういう問題じゃない」


 エリシアが軽く息を吐いた。


「今は逃走経路より、明日の儀式をどうするかよ」


 セラは首を振った。


「無理です。明日の儀式は、大聖堂全体で行われます。神官長も、巡礼者も、王国からの使者もいます」


「王国から?」


 エリシアの目が鋭くなる。


「はい。王都から、儀式確認のために人が来ると聞いています」


 嫌な予感がした。


 王都。


 儀式確認。


 王女誘拐犯。


 どれも、ろくな組み合わせではない。


「誰が来るか知ってるか」


 俺が聞く。


 セラは首を横に振る。


「名前までは。ただ、近衛騎士が含まれると」


 エリシアが俺を見る。


 俺もエリシアを見る。


 ラインハルト。


 可能性はある。


 あいつなら、儀式を確認しに来てもおかしくない。


 敵か味方かは、まだ分からない。


 少なくとも、見つかれば面倒だ。


 アイリスの瞳が明滅する。


「王都追跡網との接続可能性が上昇」


「最悪だな」


「はい」


「そこは否定しろ」


「否定材料がありません」


 セラが不安そうに俺たちを見る。


「あなたたちは、どうするつもりなんですか」


「それを今から考える」


 俺が答えると、セラは少しだけ目を丸くした。


「今から?」


「だいたい、いつもそうだ」


 エリシアが横から言う。


「そして、だいたいこの人が頭を抱えるわ」


「言い方」


「事実よ」


 アイリスが胸を張る。


「私は最適解を提示します」


「犯罪寄りのな」


「現在、初手誘拐は禁止されています」


 セラが小さく呟いた。


「誘拐……?」


 俺とエリシアは同時にアイリスを見た。


 アイリスは平然としている。


「聖女救済における初手誘拐案は、現時点では保留されています」


「言うな!」


「保留じゃなくて禁止よ」


 エリシアが低く言った。


「強い制約です」


 セラは一瞬だけぽかんとした。


 それから、ほんの少し笑った。


 震える笑いだった。


 でも、笑いだった。


「あなたたち、本当に神託の人ではないんですね」


「ああ」


 俺は答えた。


「神託の人間なら、たぶんもっと静かで偉そうだ」


「あなたたちも、十分怪しいです」


「否定できない」


 廊下の奥から、また足音が聞こえた。


 今度はひとり。


 ゆっくり近づいてくる。


 セラの顔が強張った。


「神官長です」


 全員が動きを止めた。


 セラが扉の方を向く。


「私は戻らないと」


「待て」


 俺は小声で言った。


「明日の儀式の前に、もう一度話せるか」


 セラは迷った。


 足音が近づく。


 時間がない。


 エリシアが短く言う。


「選びなさい、セラ」


 セラは顔を上げた。


「何を」


「神託に従うか、自分の怖いという声を信じるか」


 セラの目が揺れた。


 廊下の足音が近い。


 もう数歩で扉の前だ。


 セラは首飾りを握った。


「夜明け前」


 小さな声。


「地下礼拝堂の西側に、祈りの水を運ぶ小さな廊下があります。そこなら、少しだけ人が少ないです」


「分かった」


「でも、長くは無理です」


「ああ」


「私は……」


 セラは一瞬、言葉を探した。


「私は、まだ逃げるとは言えません」


 エリシアは頷いた。


「今はそれでいいわ」


 セラは扉を開けた。


 外に出る直前、振り返る。


「でも、明日の儀式が怖いのは、本当です」


 それだけ言って、扉を閉めた。


 俺たちは物置の中に残された。


 足音が扉の前で止まる。


 神官長の声がした。


「聖女様。こちらにおられましたか」


「はい。物置の確認をしていました」


「そのようなことは下働きに任せればよいのです。あなたは明日に備え、身を休めなければ」


「……はい」


「本日は、少しお疲れのようですね」


「大丈夫です」


「大丈夫でなければなりません。神託はあなたを選んだのですから」


 セラは答えなかった。


 足音が遠ざかる。


 神官長とセラが去っていく。


 俺たちはしばらく、何も言わなかった。


 エリシアが壁に背を預ける。


「大丈夫でなければならない、か」


 低い声だった。


 王女だった彼女には、聞き覚えのある言葉なのかもしれない。


 俺は記録箱を見る。


 過去聖女個体。


 出力不能。


 記録消失。


 代替個体、選定済。


 明日の儀式。


 夜明け前の廊下。


 王都からの使者。


 問題は山ほどある。


 道具はほとんどない。


 俺の右足はまともに動かない。


 見つかれば、教会と王国の両方に捕まる。


 アイリスは古い記録板を見つめていた。


「アーデル」


「何だ」


「明日の本儀式における聖女セラの安全率は、現時点で算出不能です」


 いつもなら、ふざけた確率を真顔で吐き出す奴が、静かに瞳の明滅を止めていた。


「……お前が計算を諦めるくらい、詰んでるってことか」


「必要情報が不足しています。ただし」


 アイリスは記録板を箱に戻した。


「放置非推奨です」


 それで十分だった。


 エリシアがフードを深く被り直す。


「なら、夜明け前までに考えましょう」


「何を」


「聖女を誘拐せずに、儀式を止める方法」


 俺は思わず笑いそうになった。


 笑える状況ではない。


 でも、言葉の並びがひどい。


「普通の人間は、そんなこと考えないんだけどな」


「普通ではないでしょう、私たちは」


「王女が言うと重いな」


「元王女よ。今は、ただの逃亡者の機転を学習中」


 アイリスが真顔で言った。


「逃亡者エリシアの知性向上を確認」


「対象をつけていないから許すわ」


「学習しています」


「調子に乗るなよ」


 俺は扉の隙間から廊下を見た。


 青白い光が、遠くで揺れている。


 神託碑の光だ。


 礼拝堂では、祈りの残響がまだ薄く残っていた。


 その祈りは、誰かを本当に救っている。


 だからこそ、たちが悪い。


 完全な嘘だったら、もっと楽だった。


 俺は右足に力を入れる。


 痛い。


 かなり痛い。


 でも、歩けないほどじゃない。


 まだ。


「行くぞ」


 俺は言った。


「ここにいると、次は本当に見つかる」


「経路を提示します」


 アイリスが扉の方へ向かう。


「神託碑を避け、地下礼拝堂西側へ移動可能な保守通路があります」


「安全か?」


「通路幅が狭く、床面が一部崩落しています」


「安全かって聞いたんだよ」


「神託碑はありません」


「答えになってない」


 エリシアが小さく笑った。


「でも、今の私たちには十分でしょう」


 俺はため息を吐いた。


「本当に毒されてるな」


「誰のせいかしら」


 アイリスが胸を張る。


「私の影響です」


「お前は黙って道を示せ」


「不満です」


 物置の扉を、ゆっくり開ける。


 廊下に人影はない。


 遠くで鐘が鳴る。


 夜明け前まで、時間は少ない。


 俺たちは白い教会の地下で、神託碑の光を避けるように歩き出した。


 聖女セラは、まだ逃げるとは言わなかった。


 でも、怖いと言った。


 それだけで、たぶん。


 俺たちが動く理由には、十分だった。

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