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古代AI少女と始める異世界救済旅 〜知識は神話級なのに、常識だけが致命的に足りない〜  作者: 磯辺


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18/30

地下礼拝堂に出るのは効率的すぎる

 白い光の向こうから、祈りの声が聞こえていた。


 低く、長く、重なっている。


 ひとりの声ではない。


 大勢の声だ。


 男も、女も、老人も、子どもも。


 声の高さは違うのに、同じ言葉だけが何度も繰り返されている。


 神よ、清き祈りを。


 聖女様に、導きを。


 神託に、救いを。


 石の通路の奥で、その声は水のように響いていた。


 俺たちは足を止めた。


 アイリスの瞳が、細かく明滅(めいめつ)している。


浄化儀式(じょうかぎしき)、準備段階進行中」


「もう始まってるのか?」


「本儀式ではありません。予備祈祷(よびきとう)と推定」


「予備でこの人数かよ」


 エリシアが壁に手を当てた。


 冷たい石壁の向こうから、祈りの声が震えとして伝わってくる。


「ミストリアでは、儀式の前日から巡礼者が祈り続けると聞いたことがあるわ」


「王族知識?」


「ええ。教会都市は王国とも関係が深いから」


「なら、地下礼拝堂も知ってるのか?」


「名前だけは」


 エリシアは通路の奥を見た。


「大聖堂の下に、聖職者しか入れない古い礼拝堂があると聞いたわ。重要な儀式の前に、聖女がそこで身を清めると」


「そこに俺たちが出るかもしれないわけだ」


「ええ」


「効率的すぎるな」


「毒されるから、その言い方はやめて」


 アイリスが振り返る。


「効率は重要です」


「お前は黙ってろ」


「不満です」


 通路は少しずつ広くなっていた。


 壁の古代文字は薄くなり、代わりに教会の紋章が増えていく。


 古い保守道(ほしゅどう)の壁を、後から教会が塗り固めたように見えた。


 白い漆喰。


 金色の細い線。


 女神の翼。


 神託碑に似た青白い石。


 古いものの上に、新しい信仰が重ねられている。


 俺は壁の継ぎ目に指を当てた。


 表面の白い石は新しい。


 でも、その奥の魔導線は古い。


 かなり古い。


 水路の中で見たものと似ている。


「ここも、後から作り直してるな」


「分かるの?」


 エリシアが聞く。


「壁の表面だけ新しい。中の線は古いままだ」


「あなた、本当にそういうのはよく分かるのね」


「褒めてる?」


「たぶん」


「便利に使うな」


 アイリスが壁を見た。


「アーデルの構造把握能力こうぞうはあくのうりょくは一定の有用性を示しています」


「一定かよ」


「最高ではありません」


「誰も最高とは言ってない」


「私は最高です」


「今それ関係ある!?」


 エリシアが小さく息を吐いた。


「声を落として。近いわ」


 俺は口を閉じた。


 祈りの声が、はっきりしてきた。


 通路の先に、鉄の格子扉(こうしとびら)がある。


 扉の向こうは、小さな(ひか)えの間になっているようだった。


 床は白い石。


 壁にはろうそく。


 その奥に、さらに大きな空間がある。


 白い光はそこから漏れていた。


「鍵は?」


 俺が小声で聞くと、アイリスが扉に近づいた。


「旧式魔導錠(まどうじょう)です」


「開くのか?」


「開きます」


「静かに開けろよ」


「静音開錠を実行します」


 アイリスが扉に指を当てる。


 青い光が、鉄の錠前(じょうまえ)に薄く走った。


 かちん。


 小さな音。


 俺たちは固まった。


 祈りの声は止まらない。


 誰も気づいていない。


「静音?」


「通常より静かです」


「音はしたぞ」


「絶対無音とは言っていません」


「そういうところだぞ」


 扉が少し開いた。


 俺たちは一人ずつ中へ入る。


 まずアイリス。


 次にエリシア。


 最後に俺。


 右足を引きずったせいで、靴底が床を擦った。


 きゅ、と小さく鳴る。


 エリシアが振り返って睨む。


 俺は手を上げた。


 わざとじゃない。


 控えの間には、白い布が積まれていた。


 燭台(しょくだい)


 水差し。


 香油の瓶。


 聖職者用らしい外套。


 壁には、祈りの言葉が刻まれている。


 清き者は、神託を受ける。


 捧げる者は、救いとなる。


 その下に、小さな文字があった。


 出力準備。


 俺は眉を寄せた。


「おい」


 アイリスも見ていた。


「表層文の下に、裏層語が混在しています」


「混ざってるのか」


「はい」


 エリシアが低く言った。


「教会の中にまで」


 彼女の声には怒りが混じっていた。


 まだ小さい。


 でも、確かにあった。


 控えの間の奥には、薄い(すだれ)のような布が垂れていた。


 その向こうに、大きな地下礼拝堂が見える。


 俺たちは布の隙間から中を見た。


 息が止まった。


 広い。


 地下とは思えないほど広い空間だった。


 天井は高く、白い柱が何本も並んでいる。


 床には円形の儀式陣。


 中央に、白い壇。


 周囲には、巡礼者たちが膝をついて祈っていた。


 百人はいる。


 いや、もっとかもしれない。


 白い巡礼服の背中が並び、ろうそくの火が揺れている。


 その奥に、大きな神託碑があった。


 王都で見たものより細く、教会らしい装飾が施されている。


 青白い光が、薄く脈打っていた。


「地下に、こんな場所が……」


 エリシアが呟いた。


 その時、祈りの声が少し小さくなった。


 礼拝堂の奥の扉が開いた。


 白い衣を着た聖職者たちが入ってくる。


 その中央に、ひとりの少女がいた。


 薄い金色の髪。


 白い祭服(さいふく)


 年は、エリシアより少し幼いくらいに見える。


 胸元には、透明な石の首飾り。


 顔色は白い。


 歩き方は静かで、どこか頼りない。


 でも、巡礼者たちは彼女を見た瞬間、一斉に頭を下げた。


「聖女様……」


「セラ様……」


「どうか、救いを……」


 少女は、困ったように微笑んだ。


 優しい笑みだった。


 疲れているようにも見えた。


 エリシアが息を呑む。


「あの子が、聖女セラ……」


 俺も目を離せなかった。


 神託碑には名前が出なかった。


 聖女個体。


 出力準備。


 でも、目の前にいるのは、ただの少女だった。


 巡礼者たちに向かって、彼女は小さく頭を下げた。


「皆さんの祈りが、どうか届きますように」


 声は細い。


 けれど、礼拝堂の奥までよく通った。


 巡礼者たちが泣きそうな顔をする。


 誰かが言った。


「聖女様のおかげで、娘が歩けるようになりました」


「聖女様、東の村をお願いします」


「瘴気で倒れた者たちを、どうか」


 セラは一人ひとりを見るように頷いた。


 その度に、神託碑が薄く光る。


 アイリスの瞳も明滅した。


「反応があります」


「何の」


「巡礼者の祈りと、聖女個体の魔力波形が同期しています」


「また同期か」


 王家更新の儀を思い出す。


 対象個体。


 認証位置。


 出力同期。


 嫌な言葉が、頭の奥で重なった。


 セラは壇の前へ進んだ。


 神官が横に立つ。


 細身の男だ。


 白い法衣に、金の刺繍。


 穏やかな顔をしている。


 だが、声はどこか硬かった。


「聖女セラ。神託は告げました。東方の瘴気を鎮めるため、明日の大規模浄化儀式に備え、今日より予備出力(よびしゅつりょく)を開始します」


 エリシアの指が、俺の袖を掴んだ。


「今、出力って言ったわ」


「ああ」


 神官は巡礼者たちへ向き直る。


「皆も祈りを捧げなさい。祈りは聖女様を支え、神託はその祈りを救いへと変えてくださる」


 巡礼者たちは頭を下げた。


 祈りの声が、再び大きくなる。


 神託碑が光る。


 セラの胸元の透明な石が、同じ色に光った。


 アイリスが小声で言った。


「中継石」


「何だそれ」


「聖女個体と神託碑を接続する媒介具(ばいかいぐ)です」


「エリシアのペンダントみたいなものか?」


「類似のプロトコルを確認。ただし、そちらの魔力波形は『消費ログ』に固定されています」


 エリシアの表情が強張った。


「……消費、ログ」


 セラは壇の前で目を閉じた。


 祈りの声が重なる。


 神託碑の光が強くなる。


 白い光が、礼拝堂全体に広がっていく。


 その瞬間、巡礼者たちの顔に安堵が浮かんだ。


 年老いた女が、胸を押さえて泣いた。


 杖をついていた男が、震える足で立ち上がった。


 子どもの咳が止まった。


 本当に効いている。


 救いは、嘘ではなかった。


 セラの体が、わずかに揺れた。


 神官がすぐに支える。


「聖女様」


 セラは微笑んだ。


「大丈夫です」


 大丈夫には見えなかった。


 アイリスの声が低くなる。


「聖女個体の出力低下を確認」


 神託碑の表面に、白い文字が浮かんだ。


 祈りは満ちた。


 浄化は進む。


 神託は救いを与える。


 その下で、一瞬だけ青い文字が乱れた。


 出力不足。


 巡礼者接続、継続。


 聖女個体、負荷上昇。


 セラの膝が、小さく折れた。


 巡礼者たちは、祈りに夢中で気づかない。


 神官は気づいている。


 それでも、手を離さない。


 むしろ、セラを壇の中央へ留めるように支えていた。


 エリシアが動こうとした。


 俺は腕を掴んで止める。


「まだだ」


「でも」


「今出たら終わる」


「分かっているわ」


 分かっている顔ではなかった。


 でも、足は止めた。


 アイリスが神託碑を見ている。


 瞳の奥で、青い光が走った。


「予備出力は本儀式の前段階です」


「明日まで続くのか」


「可能性があります」


「セラは持つのか?」


 アイリスは答えない。


 答えない。


 それだけで十分だった。


 セラは壇の中央で、かすかに息を整えている。


 それでも、巡礼者たちに向けて笑う。


「皆さんの祈りは、届いています」


 白い光がまた広がった。


 巡礼者たちが涙を流す。


 救われている。


 誰かは、本当に救われている。


 そのために、誰かが削られている。


 俺は歯を食いしばった。


 エリシアが低く言う。


「ルカ」


「何だ」


「私は、あの子を壇から引きずり下ろしたくなっているわ」


「奇遇だな」


「でも、今やれば」


「ただの聖女誘拐犯が増える」


「あなたと同じね」


「嬉しくない」


 アイリスが言った。


「初手誘拐は禁止されています」


「覚えてたか」


「強い制約です」


「常識だ」


「ただし、緊急時は再評価します」


「保留するな」


 エリシアが小さく息を吐いた。


 少しだけ、笑っているようにも見えた。


 こんな場所で笑う状況ではない。


 でも、何かを保つためには必要だったのかもしれない。


 神官が手を上げる。


「本日の予備祈祷はここまで。巡礼者は順に上の礼拝堂へ戻り、明日の浄化儀式へ備えなさい」


 祈りの声が少しずつ止む。


 巡礼者たちが立ち上がる。


 誰もが、救われたような顔をしていた。


 セラは神官に支えられて、奥の扉へ向かう。


 足取りが少しふらついている。


 神官は周囲に微笑みながら言った。


「聖女様は、神託のために身を清められる。心配はいりません」


 心配はいらない。


 その言葉を、巡礼者たちは信じた。


 俺たちは信じられなかった。


「追うか?」


 俺は小声で聞いた。


 アイリスが頷く。


「聖女個体の状態確認を推奨」


「接近経路は?」


「奥の控え室へ続く側廊(そくろう)があります」


「見つからずに行けるか?」


「難易度は高いです」


「無理じゃないんだな」


「はい」


 エリシアが外套のフードを深く被った。


「行きましょう」


「王女が教会の地下で聖女を尾行か」


「言い方を選びなさい」


 アイリスが言う。


「聖女救済のための隠密追跡(おんみつついせき)です」


「お前も選べてない」


 巡礼者たちが礼拝堂から出ていく。


 俺たちは控えの間の影に身を縮め、流れが途切れるのを待った。


 その時、ひとりの子どもがこちらへ走ってきた。


 巡礼服の小さな男の子。


 手には、木製の小さな聖女像を持っている。


 落としたらしい。


 控えの間の入り口近くに転がった像を拾いに来た。


 まずい。


 男の子が布の隙間からこちらを覗き込もうとする。


 俺は息を止めた。


 エリシアも動かない。


 アイリスが一歩前へ出ようとした。


 俺は慌てて袖を掴む。


「何する気だ」


「記憶処理」


「絶対やめろ」


「では威嚇」


「もっとやめろ」


 男の子が布を少し持ち上げた。


 目が合う。


 終わった。


 そう思った。


 だが、男の子は俺たちを見て固まっただけだった。


 泥だらけの男。


 フードを被った少女。


 銀髪の無表情な少女。


 どう見ても怪しい。


 男の子は小さく口を開いた。


「……天使様?」


 俺は固まった。


 アイリスが胸を張りかける。


 俺は即座にその肩を押さえた。


 最高傑作と言うな。


 絶対に言うな。


 エリシアが、静かに男の子へ指を唇に当てた。


「しー」


 男の子は目を丸くする。


 エリシアはフードの奥で、柔らかく微笑んだ。


「聖女様の邪魔をしてはいけないわ。落とし物を拾ったら、すぐ戻りなさい」


 その声は、王女の命令ではなかった。


 でも、子どもが素直に従いたくなる声だった。


 男の子はこくこく頷いた。


 聖女像を拾い、走って戻っていく。


「今の、すごいな」


 俺が小声で言うと、エリシアは小さく肩をすくめた。


「子どもに命令するのは、王族教育の基本ではないわ」


「じゃあ何だ」


「ただの逃亡者の機転よ。あなたたちといて、少しは知恵がついたみたいね」


 アイリスが真顔で言った。


「私を天使と誤認しました」


「黙れ」


「分類修正の必要があります」


「黙れ」


 巡礼者の流れが切れた。


 神官たちは奥へ向かっている。


 セラの姿はすでに見えない。


「今だ」


 俺たちは控えの間から出た。


 礼拝堂の端を、柱の影に沿って進む。


 白い床に泥の跡が残りそうで怖い。


 エリシアが俺の右腕を支え、アイリスが先頭で道を示す。


 大聖堂の中に潜入しているというより、完全に泥棒だった。


「アーデル」


 アイリスが小声で言う。


「何だ」


「足音が大きいです」


「右足が痛いんだよ」


「では浮いてください」


「できるか!」


 エリシアが俺の腕を強く引いた。


「声」


「悪い」


 俺たちは奥の側廊へ入った。


 白い壁が続いている。


 ろうそくの火が一定間隔で揺れている。


 奥から、神官の声が聞こえた。


「聖女様、明日の本儀式では、今日より大きな祈りが集まります。どうかご安心を」


 別の声。


 細く、柔らかい。


 セラだ。


「はい。皆さんが救われるなら」


「神託は、あなたを選ばれたのです」


「……はい」


 短い間があった。


 俺たちは壁際に身を寄せた。


 神官の声が少し低くなる。


「ただし、本日の出力は予定値を下回りました。明日は、より深く接続していただく必要があります」


「深く……」


「神託に身を委ねるのです。聖女様」


 沈黙。


 セラの声が、さらに小さくなる。


「少し、怖いです」


 神官は優しく笑った。


「恐れることはありません。あなたの祈りが、民を救うのです」


「でも、最近……祈りの後のことを、よく覚えていないんです」


 エリシアの手が、俺の腕を強く掴んだ。


 アイリスの瞳が青く明滅する。


「……記憶、欠落」


 アイリスが小さく呟いた。


 俺は息を止めた。


 神官は沈黙した。


 それから、穏やかに言った。


「それは、神に近づいている証です」


「そう、なのでしょうか」


「ええ。あなたは聖女なのですから」


 足音が近づく。


 俺たちは慌てて横の物置(ものおき)に身を滑り込ませた。


 扉を少しだけ閉める。


 隙間から、セラと神官が通っていくのが見えた。


 セラは近くで見ると、ますます幼く見えた。


 目の下に薄い影。


 唇の色も薄い。


 それでも、神官に向かって微笑もうとしていた。


 胸元の透明な石だけが、青白く光っている。


 通り過ぎる直前、セラがふと足を止めた。


 物置の方を見た。


 俺たちは動けない。


 見つかったか。


 セラの目が、アイリスの方を見た気がした。


 いや、俺たち全員をではない。


 アイリスだけを。


 透明な石が、かすかに震える。


 アイリスの瞳も、一瞬だけ揺れた。


「……?」


 セラが小さく首を傾げる。


「聖女様?」


 神官が呼ぶ。


 セラははっとして、首を振った。


「いえ。何でもありません」


 二人は奥へ歩いていった。


 足音が遠ざかる。


 俺はようやく息を吐いた。


「今の、気づかれたか?」


「不明です」


 アイリスの声が少しだけ低い。


「ただし、聖女個体の中継石(ちゅうけいせき)が私の波形(はけい)に反応しました」


「つまり?」


「セラは、私を見た可能性があります」


「最悪だな」


 エリシアが物置の壁に背を預けた。


「でも、叫ばなかった」


「ああ」


「敵ではないかもしれない」


「まだ分からない」


「分かっているわ」


 物置には、香油の瓶と白い布、それから古い木箱が積まれていた。


 俺は木箱に寄りかかろうとして、違和感に気づいた。


 箱の側面に、青い線がある。


 教会の紋章で隠されているが、その下に古代文字が刻まれている。


「アイリス」


「はい」


「これ、見ろ」


 アイリスが近づく。


 瞳が細かく光る。


「旧式記録箱」


「開けられるか?」


「可能です」


「静かに」


「努力します」


「またそれか」


 アイリスが箱に触れた。


 小さな青い線が走る。


 箱の蓋が、音もなく少し浮いた。


 今度は静かだった。


 俺は素直に驚いた。


「できるじゃないか」


「私は学習します」


「偉いぞ」


「もっと敬ってください」


「それは嫌だ」


 箱の中には、古い記録板が入っていた。


 何枚も。


 白い布に包まれ、教会の記録として保管されているように見える。


 でも、その縁には古代文字がある。


 アイリスが一枚を取り出す。


「読むなよ」


「接続ではありません。表層読み取りです」


「その違いが分からない」


「安全度が違います」


「本当だな?」


「たぶん」


「俺の口癖を返すな」


 アイリスの瞳が明滅する。


 古い記録板に、青い文字が浮かぶ。


 欠けている。


 読める部分は少ない。


 聖女個体、出力適合。


 記憶負荷、許容範囲内。


 祈祷後、短期記憶欠落。


 処理継続。


 エリシアが唇を噛んだ。


「やっぱり……」


 俺は記録板から目を離せなかった。


 短期記憶欠落。


 処理継続。


 セラが言っていた。


 祈りの後のことを、よく覚えていない。


 それは神に近づいている証だと、神官は言った。


 記録板は違う言葉を吐いた。


 負荷。


 欠落。


 処理。


 アイリスが次の記録板に触れる。


 文字が浮かぶ。


 過去聖女個体、出力不能。


 記録消失。


 代替個体、選定済。


 エリシアが低く言った。


「代替個体……」


「前の聖女がいたのか。……おい、アイリス。この『出力不能』ってのは、その前の聖女はどうなったんだ」


 アイリスの瞳の奥で、無機質な文字列が高速で流れた。


「エラーコード四〇二。生体磨耗による術式維持不可。または、個体消滅。現在のデータベース上、該当個体の生存反応はロストしています」


 間はなかった。


 だが、その答えは軽くなかった。


 エリシアが目を伏せた。


「セラも、そうなるかもしれない」


「明日の儀式でな」


 俺は記録板を箱に戻そうとした。


 その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 複数。


 神官ではない。


 鎧の音だ。


 エリシアが顔を上げる。


「兵士?」


 アイリスが耳を澄ます。


「教会警備兵。数、三」


「まずい」


 足音が近づく。


 誰かが言った。


「地下礼拝堂に不審な泥跡がある。確認しろ」


 俺は自分の足元を見た。


 泥。


 完全に俺たちだ。


「足跡、残ってたか」


「右足を引きずった跡が明確です」


「先に言え!」


「今、言いました」


「もういい!」


 エリシアが物置の奥を見た。


 小さな換気口がある。


 人が通れる大きさではない。


 いや、アイリスなら通れるかもしれない。


 だが俺とエリシアは無理だ。


 アイリスが言った。


「選択肢を提示します」


「爆破は禁止」


「まだ言っていません」


「先に言う」


「では、香油を床に撒き、滑倒させる」


「教会でやるな」


「物理的には有効です」


「倫理的には最悪だ」


 エリシアが木箱を見た。


「この箱、動かせる?」


「重いぞ」


「隠れる壁にするのよ」


「なるほど」


 俺たちは木箱を押した。


 重い。


 かなり重い。


 右足が痛む。


 歯を食いしばり、床を蹴る。


 エリシアも泥に汚れたドレスの裾を膝で押さえ、全力で肩をぶつけていた。


 だが、二人が冷や汗を流して踏ん張る横で、アイリスが真顔のまま、片手だけで木箱の底を小突いた。


 ず、と重苦しい石の音が鳴る。


「床への摩擦係数の計測を終了。最大出力を固定します」


 驚愕で目を見開く俺たちの前で、アイリスは音もなく、巨大な木箱を扉の影へと押し退けてみせた。


 最初から本気を出せ、と俺が小声で睨むと、古代AIは平然と胸を張った。


 三人がその裏に身を潜めた直後、物置の扉が開いた。


 光が差し込む。


 教会警備兵が覗き込む。


「誰かいるか?」


 俺は息を止めた。


 エリシアの肩が俺の腕に触れている。


 アイリスは無表情。


 近い。


 警備兵の足が一歩入る。


 床の泥跡を見ている。


「奥か?」


 まずい。


 もう一歩入られたら見える。


 その時、廊下の奥から声がした。


「そちらではありません」


 セラの声だった。


 警備兵が振り返る。


「聖女様?」


「泥跡なら、先ほど巡礼者の子が転んだものです。私が見ました」


「しかし」


「大丈夫です。こちらは私が片付けます」


 警備兵は少し戸惑った。


 だが、聖女の言葉には逆らえないらしい。


「承知しました」


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 俺たちはしばらく動けなかった。


「今の……」


 エリシアが小さく言う。


「あの子、気づいてたな」


「はい」


 アイリスが答えた。


「聖女セラは、私たちを認識しています」


「それで、助けた」


「その可能性があります」


 俺は物置の扉を見た。


 向こう側に、聖女がいる。


 神託に選ばれた少女。


 民を救っている少女。


 記憶を削られているかもしれない少女。


 そして今、俺たちを見逃した少女。


 扉の向こうから、小さな声がした。


「……そこに、いるんですよね」


 俺たちは顔を見合わせた。


 エリシアが一歩前に出る。


 俺が止めようとしたが、彼女は首を振った。


 扉の向こうの声は、震えていた。


「あなたたちは、神託の人ですか?」


 アイリスの瞳が、青く明滅した。


 暗闇の中で、誰も言葉を発することができなかった。


 その沈黙に答えるように、セラの手が、扉の木肌に触れる微かな音がした。


「それとも」


 短い沈黙。


「神託から、逃げている人ですか?」


 エリシアが扉に手を置いた。


 その手は震えていない。


 彼女は低く答えた。


「後者よ」


 扉の向こうで、セラが息を呑んだ。


 そして、遠くで教会の鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 神託碑の光が、地下の白い壁を青く染める。


 アイリスが小さく言った。


「聖女個体との接触が成立しました」


「対象をつけるな」


 エリシアが言った。


 アイリスは少し黙った。


「聖女セラとの接触が成立しました」


 扉の向こうで、セラが小さく笑った気がした。


 俺たちはまだ、扉を開けられない。


 でも、もう始まっていた。


 聖女救済は、たぶん。


 今、この瞬間から。

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