地下礼拝堂に出るのは効率的すぎる
白い光の向こうから、祈りの声が聞こえていた。
低く、長く、重なっている。
ひとりの声ではない。
大勢の声だ。
男も、女も、老人も、子どもも。
声の高さは違うのに、同じ言葉だけが何度も繰り返されている。
神よ、清き祈りを。
聖女様に、導きを。
神託に、救いを。
石の通路の奥で、その声は水のように響いていた。
俺たちは足を止めた。
アイリスの瞳が、細かく明滅している。
「浄化儀式、準備段階進行中」
「もう始まってるのか?」
「本儀式ではありません。予備祈祷と推定」
「予備でこの人数かよ」
エリシアが壁に手を当てた。
冷たい石壁の向こうから、祈りの声が震えとして伝わってくる。
「ミストリアでは、儀式の前日から巡礼者が祈り続けると聞いたことがあるわ」
「王族知識?」
「ええ。教会都市は王国とも関係が深いから」
「なら、地下礼拝堂も知ってるのか?」
「名前だけは」
エリシアは通路の奥を見た。
「大聖堂の下に、聖職者しか入れない古い礼拝堂があると聞いたわ。重要な儀式の前に、聖女がそこで身を清めると」
「そこに俺たちが出るかもしれないわけだ」
「ええ」
「効率的すぎるな」
「毒されるから、その言い方はやめて」
アイリスが振り返る。
「効率は重要です」
「お前は黙ってろ」
「不満です」
通路は少しずつ広くなっていた。
壁の古代文字は薄くなり、代わりに教会の紋章が増えていく。
古い保守道の壁を、後から教会が塗り固めたように見えた。
白い漆喰。
金色の細い線。
女神の翼。
神託碑に似た青白い石。
古いものの上に、新しい信仰が重ねられている。
俺は壁の継ぎ目に指を当てた。
表面の白い石は新しい。
でも、その奥の魔導線は古い。
かなり古い。
水路の中で見たものと似ている。
「ここも、後から作り直してるな」
「分かるの?」
エリシアが聞く。
「壁の表面だけ新しい。中の線は古いままだ」
「あなた、本当にそういうのはよく分かるのね」
「褒めてる?」
「たぶん」
「便利に使うな」
アイリスが壁を見た。
「アーデルの構造把握能力は一定の有用性を示しています」
「一定かよ」
「最高ではありません」
「誰も最高とは言ってない」
「私は最高です」
「今それ関係ある!?」
エリシアが小さく息を吐いた。
「声を落として。近いわ」
俺は口を閉じた。
祈りの声が、はっきりしてきた。
通路の先に、鉄の格子扉がある。
扉の向こうは、小さな控えの間になっているようだった。
床は白い石。
壁にはろうそく。
その奥に、さらに大きな空間がある。
白い光はそこから漏れていた。
「鍵は?」
俺が小声で聞くと、アイリスが扉に近づいた。
「旧式魔導錠です」
「開くのか?」
「開きます」
「静かに開けろよ」
「静音開錠を実行します」
アイリスが扉に指を当てる。
青い光が、鉄の錠前に薄く走った。
かちん。
小さな音。
俺たちは固まった。
祈りの声は止まらない。
誰も気づいていない。
「静音?」
「通常より静かです」
「音はしたぞ」
「絶対無音とは言っていません」
「そういうところだぞ」
扉が少し開いた。
俺たちは一人ずつ中へ入る。
まずアイリス。
次にエリシア。
最後に俺。
右足を引きずったせいで、靴底が床を擦った。
きゅ、と小さく鳴る。
エリシアが振り返って睨む。
俺は手を上げた。
わざとじゃない。
控えの間には、白い布が積まれていた。
燭台。
水差し。
香油の瓶。
聖職者用らしい外套。
壁には、祈りの言葉が刻まれている。
清き者は、神託を受ける。
捧げる者は、救いとなる。
その下に、小さな文字があった。
出力準備。
俺は眉を寄せた。
「おい」
アイリスも見ていた。
「表層文の下に、裏層語が混在しています」
「混ざってるのか」
「はい」
エリシアが低く言った。
「教会の中にまで」
彼女の声には怒りが混じっていた。
まだ小さい。
でも、確かにあった。
控えの間の奥には、薄い簾のような布が垂れていた。
その向こうに、大きな地下礼拝堂が見える。
俺たちは布の隙間から中を見た。
息が止まった。
広い。
地下とは思えないほど広い空間だった。
天井は高く、白い柱が何本も並んでいる。
床には円形の儀式陣。
中央に、白い壇。
周囲には、巡礼者たちが膝をついて祈っていた。
百人はいる。
いや、もっとかもしれない。
白い巡礼服の背中が並び、ろうそくの火が揺れている。
その奥に、大きな神託碑があった。
王都で見たものより細く、教会らしい装飾が施されている。
青白い光が、薄く脈打っていた。
「地下に、こんな場所が……」
エリシアが呟いた。
その時、祈りの声が少し小さくなった。
礼拝堂の奥の扉が開いた。
白い衣を着た聖職者たちが入ってくる。
その中央に、ひとりの少女がいた。
薄い金色の髪。
白い祭服。
年は、エリシアより少し幼いくらいに見える。
胸元には、透明な石の首飾り。
顔色は白い。
歩き方は静かで、どこか頼りない。
でも、巡礼者たちは彼女を見た瞬間、一斉に頭を下げた。
「聖女様……」
「セラ様……」
「どうか、救いを……」
少女は、困ったように微笑んだ。
優しい笑みだった。
疲れているようにも見えた。
エリシアが息を呑む。
「あの子が、聖女セラ……」
俺も目を離せなかった。
神託碑には名前が出なかった。
聖女個体。
出力準備。
でも、目の前にいるのは、ただの少女だった。
巡礼者たちに向かって、彼女は小さく頭を下げた。
「皆さんの祈りが、どうか届きますように」
声は細い。
けれど、礼拝堂の奥までよく通った。
巡礼者たちが泣きそうな顔をする。
誰かが言った。
「聖女様のおかげで、娘が歩けるようになりました」
「聖女様、東の村をお願いします」
「瘴気で倒れた者たちを、どうか」
セラは一人ひとりを見るように頷いた。
その度に、神託碑が薄く光る。
アイリスの瞳も明滅した。
「反応があります」
「何の」
「巡礼者の祈りと、聖女個体の魔力波形が同期しています」
「また同期か」
王家更新の儀を思い出す。
対象個体。
認証位置。
出力同期。
嫌な言葉が、頭の奥で重なった。
セラは壇の前へ進んだ。
神官が横に立つ。
細身の男だ。
白い法衣に、金の刺繍。
穏やかな顔をしている。
だが、声はどこか硬かった。
「聖女セラ。神託は告げました。東方の瘴気を鎮めるため、明日の大規模浄化儀式に備え、今日より予備出力を開始します」
エリシアの指が、俺の袖を掴んだ。
「今、出力って言ったわ」
「ああ」
神官は巡礼者たちへ向き直る。
「皆も祈りを捧げなさい。祈りは聖女様を支え、神託はその祈りを救いへと変えてくださる」
巡礼者たちは頭を下げた。
祈りの声が、再び大きくなる。
神託碑が光る。
セラの胸元の透明な石が、同じ色に光った。
アイリスが小声で言った。
「中継石」
「何だそれ」
「聖女個体と神託碑を接続する媒介具です」
「エリシアのペンダントみたいなものか?」
「類似のプロトコルを確認。ただし、そちらの魔力波形は『消費ログ』に固定されています」
エリシアの表情が強張った。
「……消費、ログ」
セラは壇の前で目を閉じた。
祈りの声が重なる。
神託碑の光が強くなる。
白い光が、礼拝堂全体に広がっていく。
その瞬間、巡礼者たちの顔に安堵が浮かんだ。
年老いた女が、胸を押さえて泣いた。
杖をついていた男が、震える足で立ち上がった。
子どもの咳が止まった。
本当に効いている。
救いは、嘘ではなかった。
セラの体が、わずかに揺れた。
神官がすぐに支える。
「聖女様」
セラは微笑んだ。
「大丈夫です」
大丈夫には見えなかった。
アイリスの声が低くなる。
「聖女個体の出力低下を確認」
神託碑の表面に、白い文字が浮かんだ。
祈りは満ちた。
浄化は進む。
神託は救いを与える。
その下で、一瞬だけ青い文字が乱れた。
出力不足。
巡礼者接続、継続。
聖女個体、負荷上昇。
セラの膝が、小さく折れた。
巡礼者たちは、祈りに夢中で気づかない。
神官は気づいている。
それでも、手を離さない。
むしろ、セラを壇の中央へ留めるように支えていた。
エリシアが動こうとした。
俺は腕を掴んで止める。
「まだだ」
「でも」
「今出たら終わる」
「分かっているわ」
分かっている顔ではなかった。
でも、足は止めた。
アイリスが神託碑を見ている。
瞳の奥で、青い光が走った。
「予備出力は本儀式の前段階です」
「明日まで続くのか」
「可能性があります」
「セラは持つのか?」
アイリスは答えない。
答えない。
それだけで十分だった。
セラは壇の中央で、かすかに息を整えている。
それでも、巡礼者たちに向けて笑う。
「皆さんの祈りは、届いています」
白い光がまた広がった。
巡礼者たちが涙を流す。
救われている。
誰かは、本当に救われている。
そのために、誰かが削られている。
俺は歯を食いしばった。
エリシアが低く言う。
「ルカ」
「何だ」
「私は、あの子を壇から引きずり下ろしたくなっているわ」
「奇遇だな」
「でも、今やれば」
「ただの聖女誘拐犯が増える」
「あなたと同じね」
「嬉しくない」
アイリスが言った。
「初手誘拐は禁止されています」
「覚えてたか」
「強い制約です」
「常識だ」
「ただし、緊急時は再評価します」
「保留するな」
エリシアが小さく息を吐いた。
少しだけ、笑っているようにも見えた。
こんな場所で笑う状況ではない。
でも、何かを保つためには必要だったのかもしれない。
神官が手を上げる。
「本日の予備祈祷はここまで。巡礼者は順に上の礼拝堂へ戻り、明日の浄化儀式へ備えなさい」
祈りの声が少しずつ止む。
巡礼者たちが立ち上がる。
誰もが、救われたような顔をしていた。
セラは神官に支えられて、奥の扉へ向かう。
足取りが少しふらついている。
神官は周囲に微笑みながら言った。
「聖女様は、神託のために身を清められる。心配はいりません」
心配はいらない。
その言葉を、巡礼者たちは信じた。
俺たちは信じられなかった。
「追うか?」
俺は小声で聞いた。
アイリスが頷く。
「聖女個体の状態確認を推奨」
「接近経路は?」
「奥の控え室へ続く側廊があります」
「見つからずに行けるか?」
「難易度は高いです」
「無理じゃないんだな」
「はい」
エリシアが外套のフードを深く被った。
「行きましょう」
「王女が教会の地下で聖女を尾行か」
「言い方を選びなさい」
アイリスが言う。
「聖女救済のための隠密追跡です」
「お前も選べてない」
巡礼者たちが礼拝堂から出ていく。
俺たちは控えの間の影に身を縮め、流れが途切れるのを待った。
その時、ひとりの子どもがこちらへ走ってきた。
巡礼服の小さな男の子。
手には、木製の小さな聖女像を持っている。
落としたらしい。
控えの間の入り口近くに転がった像を拾いに来た。
まずい。
男の子が布の隙間からこちらを覗き込もうとする。
俺は息を止めた。
エリシアも動かない。
アイリスが一歩前へ出ようとした。
俺は慌てて袖を掴む。
「何する気だ」
「記憶処理」
「絶対やめろ」
「では威嚇」
「もっとやめろ」
男の子が布を少し持ち上げた。
目が合う。
終わった。
そう思った。
だが、男の子は俺たちを見て固まっただけだった。
泥だらけの男。
フードを被った少女。
銀髪の無表情な少女。
どう見ても怪しい。
男の子は小さく口を開いた。
「……天使様?」
俺は固まった。
アイリスが胸を張りかける。
俺は即座にその肩を押さえた。
最高傑作と言うな。
絶対に言うな。
エリシアが、静かに男の子へ指を唇に当てた。
「しー」
男の子は目を丸くする。
エリシアはフードの奥で、柔らかく微笑んだ。
「聖女様の邪魔をしてはいけないわ。落とし物を拾ったら、すぐ戻りなさい」
その声は、王女の命令ではなかった。
でも、子どもが素直に従いたくなる声だった。
男の子はこくこく頷いた。
聖女像を拾い、走って戻っていく。
「今の、すごいな」
俺が小声で言うと、エリシアは小さく肩をすくめた。
「子どもに命令するのは、王族教育の基本ではないわ」
「じゃあ何だ」
「ただの逃亡者の機転よ。あなたたちといて、少しは知恵がついたみたいね」
アイリスが真顔で言った。
「私を天使と誤認しました」
「黙れ」
「分類修正の必要があります」
「黙れ」
巡礼者の流れが切れた。
神官たちは奥へ向かっている。
セラの姿はすでに見えない。
「今だ」
俺たちは控えの間から出た。
礼拝堂の端を、柱の影に沿って進む。
白い床に泥の跡が残りそうで怖い。
エリシアが俺の右腕を支え、アイリスが先頭で道を示す。
大聖堂の中に潜入しているというより、完全に泥棒だった。
「アーデル」
アイリスが小声で言う。
「何だ」
「足音が大きいです」
「右足が痛いんだよ」
「では浮いてください」
「できるか!」
エリシアが俺の腕を強く引いた。
「声」
「悪い」
俺たちは奥の側廊へ入った。
白い壁が続いている。
ろうそくの火が一定間隔で揺れている。
奥から、神官の声が聞こえた。
「聖女様、明日の本儀式では、今日より大きな祈りが集まります。どうかご安心を」
別の声。
細く、柔らかい。
セラだ。
「はい。皆さんが救われるなら」
「神託は、あなたを選ばれたのです」
「……はい」
短い間があった。
俺たちは壁際に身を寄せた。
神官の声が少し低くなる。
「ただし、本日の出力は予定値を下回りました。明日は、より深く接続していただく必要があります」
「深く……」
「神託に身を委ねるのです。聖女様」
沈黙。
セラの声が、さらに小さくなる。
「少し、怖いです」
神官は優しく笑った。
「恐れることはありません。あなたの祈りが、民を救うのです」
「でも、最近……祈りの後のことを、よく覚えていないんです」
エリシアの手が、俺の腕を強く掴んだ。
アイリスの瞳が青く明滅する。
「……記憶、欠落」
アイリスが小さく呟いた。
俺は息を止めた。
神官は沈黙した。
それから、穏やかに言った。
「それは、神に近づいている証です」
「そう、なのでしょうか」
「ええ。あなたは聖女なのですから」
足音が近づく。
俺たちは慌てて横の物置に身を滑り込ませた。
扉を少しだけ閉める。
隙間から、セラと神官が通っていくのが見えた。
セラは近くで見ると、ますます幼く見えた。
目の下に薄い影。
唇の色も薄い。
それでも、神官に向かって微笑もうとしていた。
胸元の透明な石だけが、青白く光っている。
通り過ぎる直前、セラがふと足を止めた。
物置の方を見た。
俺たちは動けない。
見つかったか。
セラの目が、アイリスの方を見た気がした。
いや、俺たち全員をではない。
アイリスだけを。
透明な石が、かすかに震える。
アイリスの瞳も、一瞬だけ揺れた。
「……?」
セラが小さく首を傾げる。
「聖女様?」
神官が呼ぶ。
セラははっとして、首を振った。
「いえ。何でもありません」
二人は奥へ歩いていった。
足音が遠ざかる。
俺はようやく息を吐いた。
「今の、気づかれたか?」
「不明です」
アイリスの声が少しだけ低い。
「ただし、聖女個体の中継石が私の波形に反応しました」
「つまり?」
「セラは、私を見た可能性があります」
「最悪だな」
エリシアが物置の壁に背を預けた。
「でも、叫ばなかった」
「ああ」
「敵ではないかもしれない」
「まだ分からない」
「分かっているわ」
物置には、香油の瓶と白い布、それから古い木箱が積まれていた。
俺は木箱に寄りかかろうとして、違和感に気づいた。
箱の側面に、青い線がある。
教会の紋章で隠されているが、その下に古代文字が刻まれている。
「アイリス」
「はい」
「これ、見ろ」
アイリスが近づく。
瞳が細かく光る。
「旧式記録箱」
「開けられるか?」
「可能です」
「静かに」
「努力します」
「またそれか」
アイリスが箱に触れた。
小さな青い線が走る。
箱の蓋が、音もなく少し浮いた。
今度は静かだった。
俺は素直に驚いた。
「できるじゃないか」
「私は学習します」
「偉いぞ」
「もっと敬ってください」
「それは嫌だ」
箱の中には、古い記録板が入っていた。
何枚も。
白い布に包まれ、教会の記録として保管されているように見える。
でも、その縁には古代文字がある。
アイリスが一枚を取り出す。
「読むなよ」
「接続ではありません。表層読み取りです」
「その違いが分からない」
「安全度が違います」
「本当だな?」
「たぶん」
「俺の口癖を返すな」
アイリスの瞳が明滅する。
古い記録板に、青い文字が浮かぶ。
欠けている。
読める部分は少ない。
聖女個体、出力適合。
記憶負荷、許容範囲内。
祈祷後、短期記憶欠落。
処理継続。
エリシアが唇を噛んだ。
「やっぱり……」
俺は記録板から目を離せなかった。
短期記憶欠落。
処理継続。
セラが言っていた。
祈りの後のことを、よく覚えていない。
それは神に近づいている証だと、神官は言った。
記録板は違う言葉を吐いた。
負荷。
欠落。
処理。
アイリスが次の記録板に触れる。
文字が浮かぶ。
過去聖女個体、出力不能。
記録消失。
代替個体、選定済。
エリシアが低く言った。
「代替個体……」
「前の聖女がいたのか。……おい、アイリス。この『出力不能』ってのは、その前の聖女はどうなったんだ」
アイリスの瞳の奥で、無機質な文字列が高速で流れた。
「エラーコード四〇二。生体磨耗による術式維持不可。または、個体消滅。現在のデータベース上、該当個体の生存反応はロストしています」
間はなかった。
だが、その答えは軽くなかった。
エリシアが目を伏せた。
「セラも、そうなるかもしれない」
「明日の儀式でな」
俺は記録板を箱に戻そうとした。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
複数。
神官ではない。
鎧の音だ。
エリシアが顔を上げる。
「兵士?」
アイリスが耳を澄ます。
「教会警備兵。数、三」
「まずい」
足音が近づく。
誰かが言った。
「地下礼拝堂に不審な泥跡がある。確認しろ」
俺は自分の足元を見た。
泥。
完全に俺たちだ。
「足跡、残ってたか」
「右足を引きずった跡が明確です」
「先に言え!」
「今、言いました」
「もういい!」
エリシアが物置の奥を見た。
小さな換気口がある。
人が通れる大きさではない。
いや、アイリスなら通れるかもしれない。
だが俺とエリシアは無理だ。
アイリスが言った。
「選択肢を提示します」
「爆破は禁止」
「まだ言っていません」
「先に言う」
「では、香油を床に撒き、滑倒させる」
「教会でやるな」
「物理的には有効です」
「倫理的には最悪だ」
エリシアが木箱を見た。
「この箱、動かせる?」
「重いぞ」
「隠れる壁にするのよ」
「なるほど」
俺たちは木箱を押した。
重い。
かなり重い。
右足が痛む。
歯を食いしばり、床を蹴る。
エリシアも泥に汚れたドレスの裾を膝で押さえ、全力で肩をぶつけていた。
だが、二人が冷や汗を流して踏ん張る横で、アイリスが真顔のまま、片手だけで木箱の底を小突いた。
ず、と重苦しい石の音が鳴る。
「床への摩擦係数の計測を終了。最大出力を固定します」
驚愕で目を見開く俺たちの前で、アイリスは音もなく、巨大な木箱を扉の影へと押し退けてみせた。
最初から本気を出せ、と俺が小声で睨むと、古代AIは平然と胸を張った。
三人がその裏に身を潜めた直後、物置の扉が開いた。
光が差し込む。
教会警備兵が覗き込む。
「誰かいるか?」
俺は息を止めた。
エリシアの肩が俺の腕に触れている。
アイリスは無表情。
近い。
警備兵の足が一歩入る。
床の泥跡を見ている。
「奥か?」
まずい。
もう一歩入られたら見える。
その時、廊下の奥から声がした。
「そちらではありません」
セラの声だった。
警備兵が振り返る。
「聖女様?」
「泥跡なら、先ほど巡礼者の子が転んだものです。私が見ました」
「しかし」
「大丈夫です。こちらは私が片付けます」
警備兵は少し戸惑った。
だが、聖女の言葉には逆らえないらしい。
「承知しました」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
俺たちはしばらく動けなかった。
「今の……」
エリシアが小さく言う。
「あの子、気づいてたな」
「はい」
アイリスが答えた。
「聖女セラは、私たちを認識しています」
「それで、助けた」
「その可能性があります」
俺は物置の扉を見た。
向こう側に、聖女がいる。
神託に選ばれた少女。
民を救っている少女。
記憶を削られているかもしれない少女。
そして今、俺たちを見逃した少女。
扉の向こうから、小さな声がした。
「……そこに、いるんですよね」
俺たちは顔を見合わせた。
エリシアが一歩前に出る。
俺が止めようとしたが、彼女は首を振った。
扉の向こうの声は、震えていた。
「あなたたちは、神託の人ですか?」
アイリスの瞳が、青く明滅した。
暗闇の中で、誰も言葉を発することができなかった。
その沈黙に答えるように、セラの手が、扉の木肌に触れる微かな音がした。
「それとも」
短い沈黙。
「神託から、逃げている人ですか?」
エリシアが扉に手を置いた。
その手は震えていない。
彼女は低く答えた。
「後者よ」
扉の向こうで、セラが息を呑んだ。
そして、遠くで教会の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
神託碑の光が、地下の白い壁を青く染める。
アイリスが小さく言った。
「聖女個体との接触が成立しました」
「対象をつけるな」
エリシアが言った。
アイリスは少し黙った。
「聖女セラとの接触が成立しました」
扉の向こうで、セラが小さく笑った気がした。
俺たちはまだ、扉を開けられない。
でも、もう始まっていた。
聖女救済は、たぶん。
今、この瞬間から。




