三分後に崖がありました
「三分後に崖があります」
アイリスが、何でもないことのように言った。
俺は足を止めた。
エリシアも止まった。
巡礼道の上で、朝の風だけが通り抜ける。
「……崖?」
「はい」
「巡礼道だよな?」
「はい」
「人が歩く道だよな?」
「人間用に整備された道です」
「じゃあ何で崖があるんだよ」
「崩落しています」
「先に言え!」
「今、言いました」
「遅い!」
アイリスは不思議そうに首を傾げた。
「三分前の告知です。十分な猶予があります」
「俺の右足を見ろ。三分は十分じゃない」
「確認済みです。アーデルの移動性能は低下しています」
「だからだよ!」
エリシアが額に手を当てた。
「この巡礼道、本当にミストリアへ続いているの?」
「続いています」
「ただし崖がある」
「はい」
「あなたの道案内、毎回そういうのが付くわね」
「正確性を重視しています」
「正確なら最初から崖を主情報に入れなさい」
「今後の参考にします」
「今すぐ参考にして」
俺たちはしばらく巡礼道を進んだ。
道は、最初こそ穏やかだった。
古い石畳が、草の間に埋もれている。
右手には低い森。
左手には畑の跡らしき平地。
遠くでは鳥が鳴いている。
王都の鐘はもう聞こえない。
宿場町の人の声も、少しずつ遠ざかっていた。
それだけなら、普通の旅に見えたかもしれない。
ただし、俺たちは王女誘拐犯で、王家儀式妨害者で、神託冒涜者で、次は聖女の儀式を妨害する予定だった。
普通の旅ではない。
足も痛い。
「アーデル」
アイリスが前方を指した。
「崖です」
「本当に三分だったな」
「誤差二秒です」
「誇るな」
巡礼道の先は、見事に崩れていた。
石畳が途中で途切れている。
その先は、土がえぐれ、木の根がむき出しになり、斜面ごと下へ落ち込んでいた。
崖というより、道が丸ごと崩れた跡だ。
崩落した向こう側には、また巡礼道が続いている。
距離はそこまで遠くない。
だが、足元の谷は深い。
下には細い川が流れていて、水音だけが聞こえた。
俺は崖の縁から一歩下がった。
「無理だな」
「断定が早いです」
「見れば分かる」
「迂回すれば到達可能です」
「どのくらい?」
「森を北へ直進し、岩場を下り、川を渡り、崩落地の下を通って反対側へ登れば、二時間二十三分で復帰できます」
「それを人間は迂回とは言わない」
「では?」
「遭難だ」
エリシアが崩れた道を覗き込んだ。
外套の裾が風で揺れる。
「元は橋か何かがあったのね」
「おそらく簡易石橋です」
アイリスが答えた。
「崩落率八十七パーセント。残存構造、不安定。通行非推奨」
「非推奨なら通らない」
「ただし、向こう側へ渡ることは可能です」
「非推奨の意味を考えろ」
アイリスは崖の縁へ近づいた。
俺は反射的にその襟首を掴む。
「近づくな」
「落下予定はありません」
「予定外に落ちるのが怖いんだよ」
「私の重心制御は優秀です」
「この会話で信じられる要素がない」
エリシアが周囲を見回した。
「追手は?」
アイリスが少しだけ目を細める。
「背後から複数の足音。距離、推定五百二十メートル。宿場町の住民と推定。武装反応は弱いです」
「追いつかれるのか」
「この場で停止すれば、数分以内に視認されます」
「最悪だ」
「はい」
「はいじゃない」
俺は崖の周囲を見る。
残った石畳。
折れた木柵。
崩れた橋の柱。
古い巡礼者用の標識。
右側の斜面に生えた太い木。
何か使えるものはないか。
工具袋の中はほぼ空だ。
自分のヤスリはもう使い物にならない。
針金もないに等しい。
小さな釘は王都の屋根で落とした。
あるのは、エリシアの髪飾り。
拾った細い魔導導線の切れ端。
それから、雑貨屋でもらった水袋と外套。
頼りない。
かなり頼りない。
俺はため息をついた。
「橋を作るのは無理だな」
「はい。現有資材では橋梁構築不可」
「言われなくても分かる」
「ただし、残存構造を一時的に補強し、渡ることは可能です」
「それを橋を作るって言うんじゃないのか」
「厳密には、落下する前に通過する、です」
「最悪の言い換えだな」
エリシアが低く言った。
「渡るしかないの?」
「追手に見つかれば、町へ戻される可能性がある」
「王都へ通報されるわね」
「その前に神託碑が光る」
「でしょうね」
アイリスが言った。
「神託網がこの位置を取得した場合、ミストリア方面への移動が困難になります」
「じゃあ、急ぐしかない」
「同意します」
「ただし落ちない方法でな」
「難しい制約です」
「常識だ!」
崖の脇には、半分折れた標識が立っていた。
文字はかすれている。
巡礼者へ。
雨季の通行注意。
崩落時は、北の迂回路を。
俺はその下を見た。
標識の支柱は、地面の中で金具に固定されている。
古いが、まだ抜けていない。
近くには折れた木柵が三本。
石橋の残骸が崖の縁に引っかかっている。
完全な橋は無理だ。
でも、足場なら作れるかもしれない。
「アイリス」
「はい」
「向こう側までの距離」
「最短四メートル弱。ただし崩落部分の端は脆く、実質安全距離は五メートル以上です」
「五メートルか」
「跳躍しますか」
「しない」
「エリシアの跳躍性能は不明です」
「調べなくていいわ」
「アーデルの跳躍性能は低下しています」
「分かってる」
俺は崖の縁の地面を足で軽く踏んだ。
崩れる。
表面だけではない。
下まで柔らかい。
ここに体重をかければ、たぶん落ちる。
「残ってる木柵を渡す」
俺は言った。
エリシアが木柵を見る。
「あれで?」
「普通なら無理」
「普通じゃないなら?」
「一人ずつ、重心を低くして、崩れる前に渡る」
「それ、さっきアイリスが言っていたことと同じではなくて?」
「言い方が違う」
「便利ね」
「使うな、それ」
俺は崖脇の木柵へ向かった。
右足が痛む。
しゃがもうとして、息が詰まった。
エリシアがすぐ横に立つ。
「支える?」
「……頼む」
「素直ね」
「もう意地を張る余裕がない」
「よろしい」
エリシアが俺の腕を支えた。
彼女の手は、まだ少し冷たい。
朝の風のせいか。
それとも、この状況のせいか。
俺は木柵の固定部を見た。
古い金具。
錆。
曲がった釘。
半分腐った木。
使えないようで、まだ芯は残っている。
「これなら一本は使える」
「一本だけ?」
「あと二本は添え木にする」
アイリスが覗き込む。
「強度不足です」
「分かってる」
「渡橋中に破断する確率」
「言うな」
「では黙ります」
「本当に黙れよ」
「……」
「逆に怖いな」
エリシアが低く笑った。
「黙っても不安にさせるのね」
「存在が不穏なんだよ」
「不満です」
「黙れてない」
俺はエリシアの髪飾りを取り出した。
細い金属の先端を、錆びた金具の隙間に差し込む。
きし、と音がした。
髪飾りが曲がりそうになる。
エリシアが一瞬だけ見る。
「壊れるかもしれない」
「前にも聞いたわ」
「いいのか」
「役に立ったということにするわ」
俺は頷き、力を入れた。
金具が少し浮く。
そこへ、雑貨屋で拾っておいた魔導導線の切れ端を差し込み、ねじる。
固定ではない。
締めるだけだ。
でも一時的には保つ。
「アイリス、木の内部の腐り具合は見えるか」
「可能です」
「使える部分だけ教えろ」
「中央部。右端三十センチ。左端は非推奨」
「非推奨じゃなくて、使えるかどうかで言え」
「左端は使うと折れます」
「それでいい」
エリシアが眉を寄せる。
「よくないわ」
「分かりやすいだろ」
「そういう問題ではないわ」
俺は使える木柵を一本、崖の向こう側へ渡すように倒した。
ぎし、と音がする。
反対側の石畳の縁に届く。
届いた。
だが、それだけだ。
足場としては細すぎる。
横にもう一本、折れた木材を並べる。
固定部がない。
だから、導線の残りを裂いて、二本を簡単に束ねる。
かなり雑だ。
自分で見ても雑だ。
「アーデル」
アイリスが言う。
「何だ」
「今の固定は雑です」
「知ってる」
「私の発言を先取りしないでください」
「見れば分かる」
エリシアがしゃがんだ。
「私も押さえるわ」
「危ない」
「支えが必要でしょう」
「そうだけど」
「今は王女とか言っている場合ではないのでしょう?」
俺は黙った。
言われた。
俺が言った言葉を、返された。
「そうだな」
エリシアは外套の裾を膝で押さえ、木材の根元に手をかけた。
白かった指が、土と木くずで汚れる。
やはり気にしない。
アイリスは崖の縁に立ち、向こう側を見ていた。
「順番を提示します」
「聞こう」
「最初に私が渡ります。向こう側で固定補助を行います」
「落ちるなよ」
「落下確率は」
「言うな」
「では、落ちません」
「最初からそう言え」
アイリスは木材の上に足を乗せた。
軽い。
人間とは違うのか、重心がぶれない。
白い外套の裾が風で揺れる。
彼女はすたすたと歩いていく。
細い木材の上を、平らな床でも歩くように。
途中で一度だけ、木が軋んだ。
俺とエリシアの手に力が入る。
アイリスは振り向かずに言った。
「問題ありません」
「今の軋みを問題と言うんだよ」
「破断していません」
「基準がおかしい」
アイリスは向こう側へ渡りきった。
反対側でしゃがみ、木材の先端を押さえる。
「固定補助を開始します」
「次はエリシア」
俺が言うと、エリシアがこちらを見た。
「あなたは?」
「最後」
「足が悪いのに?」
「向こうで二人が押さえてくれた方がいい」
「合理的ね」
「珍しくな」
エリシアは木材を見る。
深い谷。
細い足場。
向こう側で待つアイリス。
少しだけ息を吸った。
「怖いのか?」
聞いてから、余計だったと思った。
エリシアは俺を見た。
「怖いわ」
はっきり言った。
「でも、止まらない」
彼女は木材の上に足を乗せた。
ドレスを裂いて動きやすくしているとはいえ、足元は悪い。
王城の廊下とは違う。
礼拝堂の階段とも違う。
泥と木くずと、崩れた巡礼道。
エリシアは両手を少し広げ、ゆっくり進んだ。
風が吹く。
木材が鳴る。
「足元だけ見ろ」
俺は言った。
「分かっているわ」
「下は見るな」
「見るわけないでしょう」
「見てるぞ」
「見ていないわ」
「声が固い」
「黙りなさい、誘拐犯」
「こういう時だけ戻すな」
エリシアは半分まで進んだ。
その時、背後から声がした。
「いたぞ!」
宿場町の男たちだ。
数人。
まだ距離はあるが、こちらを見つけた。
「まずい」
俺は振り返る。
男たちの一人が叫んだ。
「王女誘拐犯だ!」
「いや、たぶん違うぞ!」
「でも女の子が二人いる!」
「あの銀髪、怪しすぎる!」
「神託碑に知らせろ!」
最悪の会話が聞こえた。
「アーデル」
アイリスの声が飛ぶ。
「エリシアを急がせてください」
「分かってる!」
エリシアは足を止めていない。
だが、木材が軋んだ。
俺は思わず息を止める。
彼女は最後の一歩を踏み出し、アイリスの手を取った。
向こう側へ渡りきる。
アイリスが小さく頷いた。
「エリシア、到達」
「対象をつけなかったな」
「学習しています」
「今は褒める余裕ない!」
俺は木材の前に立った。
背後の男たちが近づく。
この場で捕まれば終わりだ。
いや、捕まらなくても、神託碑に伝われば終わりに近い。
俺は右足を見た。
痛い。
でも行くしかない。
「アーデル」
アイリスが向こう側から言う。
「低姿勢で進んでください。右足への荷重を避けるため、左側へ重心を」
「細かい指示は渡ってからにしてくれ」
「渡ってからでは遅いです」
「そうだけど!」
エリシアが木材の先端を押さえた。
「こっちは支えるわ」
「頼む」
「落ちたら怒るわよ」
「最近そればっかりだな」
「落ちなければいいのよ」
俺は木材に足を乗せた。
ぎし、と音。
心臓に悪い。
左足を前に出す。
右足を引きずるように乗せる。
体を低くする。
下は見ない。
見ないようにする。
見えた。
「うわ」
「下を見ましたね」
アイリスが即座に言った。
「見てない」
「嘘です」
「今それ言うな!」
背後から男たちの声が近づく。
「待て!」
「逃げるな!」
「王女殿下を離せ!」
エリシアが向こう側から叫んだ。
「私は自分の意思でここにいます!」
男たちは一瞬止まった。
その声は、布と外套で隠していても、ただの旅娘の声ではなかった。
「え……?」
「今の声、まさか」
「王女殿下?」
まずい。
逆にまずい。
「エリシア、今のは」
「分かっているわ!」
木材が大きく鳴った。
俺の右足が滑る。
「っ!」
体が傾く。
左手を伸ばして、木材にしがみつく。
導線がぎりぎりと音を立てた。
「アーデル!」
アイリスの声。
エリシアが手を伸ばす。
まだ遠い。
あと二歩。
いや、右足では無理だ。
俺は腰の外套を外した。
雑貨屋でもらった古い外套。
それを丸めて、向こう側へ投げる。
「アイリス!」
「用途は?」
「引っ張れ!」
アイリスが外套の端を掴んだ。
エリシアも掴む。
俺は反対側の端を腕に巻く。
「引け!」
二人が引いた。
俺は木材の上を、ほとんど転がるように進んだ。
右足が木にぶつかる。
痛みで息が止まる。
でも落ちない。
最後の一歩で、木材が折れた。
ばき、と乾いた音。
俺の体が落ちかける。
エリシアが腕を掴んだ。
アイリスが外套を強く引いた。
俺は崖の向こう側へ転がり込んだ。
背中から石畳に落ちる。
「痛っ……!」
「到達」
アイリスが言った。
「生存しています」
「見れば分かる……!」
エリシアが俺の腕を離さないまま、息を吐いた。
「落ちたら怒ると言ったでしょう」
「落ちてない」
「半分落ちたわ」
「半分なら怒るのも半分で」
「全部怒るわ」
「理不尽だ」
背後で、折れた木材が崖下へ落ちていく音がした。
がらがら。
どん。
水音。
男たちは向こう側で立ち止まっている。
もう渡れない。
「待て!」
「そっちは巡礼道だぞ!」
「ミストリアへ行く気か!」
俺は立ち上がろうとして、右足の痛みに顔をしかめた。
エリシアが支える。
「もう無理に立たないで」
「ここに座ってる方がまずい」
アイリスが崖の向こうを見た。
「追跡者は通行不能。迂回には最低二時間以上必要です」
「助かった……のか?」
「はい」
俺は息を吐いた。
その瞬間、向こう側の男が叫んだ。
「神託碑に知らせろ! 王女誘拐犯はミストリア方面へ逃げた!」
「助かってない!」
アイリスが平然と言う。
「情報伝達まで猶予があります」
「どのくらい」
「宿場町まで戻り、神託碑へ報告するまで、徒歩でおよそ七分」
「短い!」
「走れば五分」
「言うな!」
エリシアが崖の向こうを見つめた。
男たちはこちらを睨んでいる。
ただ、渡れない。
神託碑へ向かう者が二人、走り出した。
「行くわよ」
エリシアが言った。
「こっちの位置が伝わる前に」
「王女なのに逃げ慣れてきたな」
「嫌な成長ね」
「さっき俺も言われた」
「ならお互い様よ」
俺は外套を拾った。
土と木くずだらけで、端が裂けている。
もう防寒具というより、ただの布だ。
「これも壊れたな」
「役に立ったなら、道具です」
アイリスが言った。
俺は少しだけ笑った。
「それ、俺の台詞っぽいな」
「学習しました」
「便利な言葉だ」
エリシアが俺の右腕を自分の肩に回した。
「歩ける?」
「歩く」
「答えになっていないわ」
「じゃあ、歩くしかない」
「それなら分かるわ」
俺たちは巡礼道を進み始めた。
崖を越えた先の道は、さっきよりも細い。
石畳はところどころ剥がれ、草に埋もれている。
人が通らなくなって久しいのかもしれない。
それでも、道は続いている。
教会都市ミストリアへ。
しばらく進むと、小さな祠が見えてきた。
白い石で作られた、巡礼者用の祠だ。
屋根は半分崩れ、正面の女神像は顔が欠けている。
その横に、小さな神託碑が立っていた。
俺たちは足を止めた。
「またか」
「巡礼道ですから」
エリシアが低く言う。
「教会都市へ向かう道なら、神託碑があって当然ね」
「当然が一番嫌だな」
小さな神託碑は、まだ光っていない。
ただ、表面には古い文字が刻まれていた。
祈る者に、神の導きを。
捧げる者に、清き救いを。
俺は眉を寄せた。
「捧げる者?」
エリシアも見た。
アイリスはしばらく黙っていた。
それから言う。
「表層文です」
「裏は?」
「接続しなければ不明です」
「接続するなよ」
「なぜですか」
「光ったら位置がバレるかもしれない」
「合理的懸念です」
「珍しく素直だな」
「学習しています」
祠の奥から、物音がした。
俺たちは同時に身構えた。
アイリスが前に出る。
エリシアが俺を支える手に力を入れる。
祠の裏から出てきたのは、ひとりの老人だった。
白い巡礼服を着ている。
背中には荷物。
手には杖。
老人は俺たちを見ると、驚いたように目を丸くした。
「おや」
声は穏やかだった。
「若い巡礼者とは珍しい」
「巡礼者では」
俺が言いかける前に、エリシアが俺の腕を軽くつねった。
痛い。
俺は黙った。
エリシアが外套のフードを深く被る。
「ミストリアへ向かう途中です」
「ほう」
老人はアイリスを見た。
銀髪。
無表情。
外套を被っていても、やっぱり目立つ。
「そちらのお嬢さんは、ずいぶんと……神秘的な」
「私は古代文――」
俺はアイリスの口を塞いだ。
「無口なんです」
老人はにこにこした。
「それはそれは」
アイリスが俺の手の下で不満そうにする。
俺は小声で言った。
「最高傑作禁止」
アイリスが小さく頷く。
俺は手を離した。
「私は無口です」
「喋るな」
「不満です」
老人は笑った。
「仲がよろしいな」
「どこがですか」
エリシアが低く言った。
老人は祠の横に腰を下ろした。
「ミストリアへ行くなら、急がれるといい。浄化儀式が近い」
俺たち三人の空気が、一瞬で変わった。
老人は気づいていないように続ける。
「神託が出たそうだ。聖女様が大きな祈りを捧げてくださる。これで東の瘴気も収まるだろう」
エリシアが静かに聞いた。
「聖女様とは、セラ様のことですか」
「もちろん」
老人は嬉しそうに頷いた。
「聖女セラ様。あの方の祈りは、本当にお優しい。数年前、孫が病に倒れた時も、聖女様の祈りで助かった」
「祈りで?」
「ああ。教会の鐘が鳴り、白い光が街を包む。そうすると、苦しんでいた者たちの熱が引くのだ」
老人は胸元で手を組む。
「神託と聖女様は、民の救いだよ」
俺は何も言えなかった。
エリシアも黙っている。
アイリスだけが、老人をじっと見ていた。
その目には、いつもの得意げな光がない。
老人はふと、俺の足元を見た。
「怪我をしているのかね」
「ああ、少し」
「少しには見えんが」
「よく言われる」
老人は荷物から小さな布袋を取り出した。
「薬草だ。大したものではないが、腫れには効く」
「いや、そんな」
「巡礼者同士は助け合いだ」
「だから巡礼者では」
エリシアがまた俺の腕をつねった。
痛い。
「ありがとうございます」
エリシアが言った。
老人は微笑んだ。
「ミストリアへ向かう者なら、神の道を歩く者だ。理由はそれで十分だよ」
俺は薬草の袋を受け取った。
軽い。
だが、妙に重かった。
老人が立ち上がる。
「わしは少し休んでから向かう。若い者は先に行きなさい」
「お気をつけて」
エリシアが言う。
老人は頷いた。
「そちらこそ。近ごろ、王都の方では物騒な話もある。王女様が誘拐されたとか」
俺たちは固まった。
老人は首を振る。
「罰当たりな者もいたものだ。神託に背くなど、ろくなことにならん」
俺は視線を逸らした。
エリシアはフードの奥で、何も言わない。
アイリスも黙っていた。
老人は気づかず、祠の方へ歩いていった。
俺たちは巡礼道へ戻る。
少し離れてから、エリシアが低く言った。
「悪い人ではなかったわ」
「ああ」
「聖女セラを、本気で信じていた」
「ああ」
「神託も」
「ああ」
俺は薬草の袋を握った。
「完全な嘘だったら、もっと楽だったんだけどな」
誰も否定しなかった。
巡礼道の先に、また小さな神託碑が見えた。
今度の碑は、青白く光っていた。
俺たちは足を止める。
文字が浮かび上がる。
聖女個体。
浄化儀式、準備段階へ移行。
巡礼者、ミストリアへ集結せよ。
祈りを捧げよ。
その下に、一瞬だけ別の文字が揺れた。
白い光が乱れる。
古い石の奥で、青い線が走った。
アイリスの瞳が細かく明滅する。
「アイリス?」
俺が呼ぶと、彼女は神託碑を見たまま言った。
「裏層反応」
「読めるのか」
「断片のみ」
アイリスの声が、少し低くなる。
「供給……不足……」
「追加……巡礼者……」
「聖女個体……出力……調整……」
エリシアが、短く息を呑んだ。
「……あのおじいさん達を、集めて……?」
アイリスは答えない。
神託碑の光は、すぐに普通の白へ戻った。
表面には、清らかな文字だけが残る。
祈りを捧げよ。
「行くぞ」
俺は言った。
エリシアが頷く。
アイリスも頷いた。
「目的地、教会都市ミストリア」
「分かってる」
「途中で危険があります」
「今さらだ」
「追加情報です」
「何だ」
アイリスは前方を指した。
「この先、巡礼道は二手に分かれます。右は神託碑が過密設置されており、発見確率が九十四パーセントに上昇します」
「左は?」
「神託碑はゼロですが、古竜の巣を直進します」
「どっちも詰んでるだろ!」
エリシアが深くため息をついた。
「あなたたち、いつもこうなの?」
「今日はまだ始まったばかりだぞ」
「恐ろしいことを言わないで」
アイリスは胸を張った。
「私は古代文明の最高傑作です」
「今それ関係ある!?」
朝日は高くなり始めていた。
王都は遠ざかる。
宿場町も遠ざかる。
けれど神託碑の光だけは、道の先で待っている。
俺たちは、巡礼者たちが信じる聖なる道を進み始めた。
聖女セラが祈る都市へ。
そして、たぶん。
誰かが祈りの裏で、消費される場所へ。




