次は聖女を妨害します
宿場町の端へ向かって走り出したところで、俺の右足が限界を迎えた。
「っ……!」
膝が折れかける。
倒れる前に、エリシアが腕を掴んだ。
「無理に走らないで」
「走らないと目立つだろ」
「もう十分目立っているわ」
「嫌な事実だな」
アイリスが先頭で振り返る。
「速度低下。追跡者確認なし。ただし、宿場町滞在時間が増えるほど発見確率が上昇します」
「じゃあ急ぐしかないだろ」
「はい。ですが、アーデルの脚部状態は移動継続に不適切です」
「歩ける」
「歩ける、の定義が広すぎます」
「お前に言われたくない」
エリシアが俺の腕を引いた。
「町の外まで歩くわよ。走るのはその後」
「その後も走りたくはない」
「同感ね」
俺たちは宿場町の端へ向かった。
広場の方では、まだ神託碑の前に人が集まっている。
誰かが大きな声で言った。
「王女誘拐犯は西へ逃げたらしいぞ!」
俺たちは三人そろって、東寄りの細い道へ曲がった。
アイリスが言う。
「西へ逃げるのが合理的です」
「だから東へ行く」
「非合理的です」
「追手もそう思ってくれる」
「なるほど。非合理的行動による追跡攪乱」
「そう言われると嫌だな」
エリシアが低く言った。
「あなたたち、逃げ慣れているの?」
「慣れてない」
「では、なぜこんなに自然に逃げているの」
「今日だけで経験値が増えすぎた」
「嫌な成長ね」
宿場町の外れには、小さな分岐路があった。
片方は西の旧街道。
もう片方は東南へ伸びる巡礼道。
古びた道標が立っている。
文字は薄れているが、辛うじて読めた。
西、旧王都街道。
東南、教会都市ミストリア。
俺は道標の前で足を止めた。
風が吹く。
宿場町のざわめきが、少し遠ざかる。
背後では、まだ神託碑の青白い光が見えていた。
エリシアも、道標を見ていた。
アイリスはその横で、じっと黙っている。
珍しく、何も言わない。
「で」
俺はアイリスを見た。
「説明」
「はい」
アイリスは頷いた。
「神託碑に表示された文言は、王家更新の儀における裏記録と類似しています」
「どこが」
「個体。出力。準備」
エリシアの指が、外套の上からペンダントに触れた。
「王家更新の儀でも、そういう言葉があったのね」
「はい」
アイリスの声は平らだった。
「対象個体。認証位置。出力同期。更新処理。消去許容」
風が止まったように感じた。
誰もすぐには喋らなかった。
エリシアが神託碑の方を振り返る。
ここからは文字までは見えない。
ただ、青白い光だけが見えた。
「聖女個体」
彼女は低く言った。
「その聖女にも、名前はあるはずよ」
アイリスは一瞬、目を伏せた。
すぐに戻る。
「表示上は確認できませんでした」
「名前が出ていない」
「はい」
俺は頭をかいた。
「個体、か……」
エリシアは道標の「ミストリア」という文字を見たままだった。
「教会都市ミストリア。聖女が神託を受け、民のために祈る場所……そう教えられてきたわ」
エリシアは視線を動かさない。
「アイリス。それが表向きの常識なら、裏の構造は何?」
「情報が不足しています」
「でも危険だと思っているのね」
「はい」
即答だった。
エリシアは黙った。
アイリスが続ける。
「王家更新の儀と同じ構造であれば、聖女は祈る者ではなく、出力源として扱われている可能性があります」
「出力源って何だ」
俺が聞くと、アイリスは少しだけ首を傾げた。
「生体パーツです。供給対象の術式規模に応じ、相応の人間個体が変換・消費されます」
「人間を装置みたいに言うな」
「神託文がその表現を採用しています」
「お前じゃなくて、神託に言ってる」
「了解しました。神託は失礼です」
「軽いな」
エリシアの声が冷えた。
「つまり、聖女は利用されるかもしれない」
「可能性があります」
「死ぬの?」
「不明です」
アイリスは答えた。
間はなかった。
だが、その答えは軽くなかった。
「ただし、王家更新の儀では、消去術式が確認されました」
俺は道標を見上げた。
教会都市ミストリア。
遠い。
たぶん、徒歩なら何日もかかる。
しかも俺たちは指名手配中だ。
金はない。
道具もない。
足も痛い。
王女を連れている。
アイリスは油断すると犯罪寄りの最適解を出す。
最悪だ。
「無理だな」
俺は言った。
エリシアがこちらを見た。
アイリスも見た。
「王女誘拐犯になったばかりだぞ。王都から逃げて、宿場町で指名手配を見て、今度は教会都市に行く? しかも聖女の儀式を調べる? 無理だろ」
「合理的判断です」
アイリスが言った。
「現在の優先事項は、追跡回避、傷病対応、物資確保、行動拠点の確保です」
「珍しくまともだな」
「私は常にまともです」
「それは違う」
エリシアが道標から目を離さないまま言った。
「逃げるなら、西ね」
「そうだな」
「王都から遠ざかる。神託碑の少ない旧道を選ぶ。どこかで身を隠す」
「ああ」
「それが安全ね」
「たぶん」
「たぶん、ね」
エリシアは短く息を吐いた。
「でも、私はその言葉をもう信じすぎないことにしたわ」
「俺の口癖を責めるな」
「違うわ」
エリシアは東南の道を見た。
「安全という言葉の方よ」
俺は何も言えなかった。
彼女は王城に戻れば安全だと言われる立場だった。
王女だから。
神託が守るから。
王家更新の儀は正しいから。
その安全の中心で、彼女は消されかけた。
エリシアは外套の前を掴む。
「聖女の名前は?」
アイリスが答える。
「神託碑上では不明です」
「教会では、聖女セラという名が知られています」
エリシアが言った。
俺は彼女を見た。
「知ってるのか」
「王族として、主要教会都市の聖職者名は習うわ。会ったことはないけれど」
「聖女セラ」
アイリスが繰り返す。
その言い方は、さっきより少しだけ違った。
個体でも対象でもない。
ただの名前だった。
「登録します」
「だから登録しなくていい」
俺が言うと、アイリスは真顔で返した。
「重要です」
エリシアは何も言わなかった。
ただ、道標の文字を見ている。
ミストリア。
教会都市。
聖女セラ。
俺は右足を軽く動かした。
痛い。
当然だ。
今の俺たちに、人を助けに行く余裕なんてない。
「なあ」
俺は言った。
「今ならまだ逃げられる」
エリシアが俺を見る。
アイリスも見る。
「王都からも、教会都市からも離れる。西へ行けば、たぶん神託碑も少ない。山道に入れば追手も鈍る。俺は遺跡拾いだから、隠れられそうな場所も少しは分かる」
「そう」
「だから、今は」
言いながら、自分で嫌になった。
何を言っているのか、分かってしまった。
俺はまた、後回しにしようとしている。
確定していないから。
まだ危険とは限らないから。
自分たちの方が大変だから。
理由はいくらでも出せる。
正しい理由もある。
たぶん、かなり正しい。
アイリスが静かに言った。
「アーデル」
「何だ」
「王家更新の儀の三日前、あなたは私の予測を信頼していませんでした」
「そうだな」
「それでも、王都へ向かいました」
「お前がうるさかったからな」
「はい。私は非常に有用でした」
「そこは否定してほしかった」
アイリスは道標を見る。
「今回、危険性は不明です」
「そうだな」
「ただし、用語の類似は無視できません」
「それも分かってる」
「では」
アイリスが少しだけ胸を張った。
「次は聖女を妨害します」
俺は頭を抱えた。
ほぼ同時に、エリシアも頭を抱えた。
「言い方!」
「なぜですか」
「またそれか!」
「聖女を救済します、の方が適切ですか」
「そっちを先に出せ!」
「ですが、実際には儀式妨害を行う可能性が高いです」
「正直に言えばいいわけじゃない!」
エリシアも深く息を吐いた。
「あなた、本当に危険物ね」
「危険物ではありません。最高傑作です」
「最高に危険なのよ」
「不満です」
俺は手を下ろした。
頭を抱えていても、何も変わらない。
道は二つ。
西へ逃げる道。
東南へ向かう道。
安全なのは、たぶん西だ。
面倒なのは、間違いなく東南だ。
俺は東南の道標を見た。
「アイリス」
「はい」
「聖女セラが危ないって、どのくらい本気で思ってる」
「現在の情報では確定不能です」
「予測でいい」
「王家更新の儀との類似性から、危険度は高いと判断します」
「どのくらい」
「数値化には追加情報が必要です」
「雑でいい」
アイリスは少し黙った。
「放置非推奨です」
それだけだった。
俺は息を吐いた。
十分だった。
「エリシア」
「何」
「行ってもいいのか」
「なぜ私に聞くの」
「同行者だから」
エリシアは少しだけ目を細めた。
「都合のいい時だけ、まともな言葉を選ぶのね」
「悪い」
「悪いとは言っていないわ」
彼女は道標に触れた。
指先が、ミストリアの古い文字をなぞる。
「私は、神託が私をどう扱ったのかを知りたい」
「ああ」
「そのために、あなたたちと来た」
「ああ」
「なら、別の誰かが同じように扱われるかもしれないと知って、背を向けるのは違うわ」
風が吹いた。
彼女の外套が揺れる。
「ただし」
エリシアが俺を見る。
「今度は誘拐から入らないこと」
「俺に言うな」
「あなたたち二人に言っているの」
アイリスが頷く。
「了解しました。聖女救済において、初手誘拐は保留します」
「保留するな。禁止だ」
「状況次第では」
「禁止だ」
「強い制約です」
「常識だ!」
エリシアが俺を見る。
「あなた、本当にこの子の管理役なのね」
「なりたくてなったわけじゃない」
「でも、向いているわ」
「褒めてるのか?」
「たぶん」
「便利に使うな」
アイリスが小さく手を上げる。
「目的地設定。教会都市ミストリア」
「まだ決めたとは」
「決めたでしょう」
エリシアが言った。
「あなた、もう逃げる顔ではなかったわ」
「顔に出るか?」
「出ていたわ」
「最悪だ」
アイリスが俺の顔を覗き込む。
「表情解析。諦め六十二パーセント、責任感二十一パーセント、足の痛み十七パーセント」
「最後いるか?」
「重要です」
「たぶん合ってるのが嫌だな」
エリシアが少しだけ笑った。
すぐに真顔へ戻る。
「まずは、移動手段ね。あなたの足でミストリアまで歩くのは無理よ」
「分かってる」
「荷馬車を探す?」
「指名手配中の三人を乗せてくれる親切な商人がいればな」
アイリスが言う。
「親切な商人を生成しますか」
「どうやって」
「軽度の危険を演出し、救助と引き換えに」
「マッチポンプ禁止!」
「まだ説明していません」
「分かるんだよ!」
エリシアがこめかみを押さえた。
「本当に、次から次へと……」
「王女なのに逃亡生活、大変だな」
「誰のせいかしら」
「神託」
「そこは否定しにくいわね」
俺は道標の根元に腰を下ろし、足首の包帯を締め直した。
エリシアが無言で手を伸ばす。
「自分で」
「雑だから」
「はい」
俺は素直に足を出した。
エリシアは包帯を結び直す。
その間、アイリスは道標の文字をじっと見ていた。
「どうした」
「ミストリア方面の神託碑設置密度を推定しています」
「多いのか」
「教会都市周辺は高密度と推定」
「最悪だな」
「はい」
「はいじゃない」
エリシアが包帯を結び終える。
「これで少しは歩けるでしょう」
「貸しが増えた?」
「数えるのをやめたわ」
「助かる」
「返してもらう時が大変ね」
「怖いな」
その時、宿場町の方から人の声が聞こえた。
「こっちに足跡があるぞ!」
俺たちは同時に顔を上げた。
追手ではない。
たぶん宿場の男たちだ。
でも、十分まずい。
「移動再開を推奨」
アイリスが言った。
「どっちへ」
俺は聞いた。
答えは分かっている。
それでも、聞いた。
アイリスは東南の道を指した。
「教会都市ミストリア方面」
エリシアが立ち上がる。
「行きましょう」
俺も立ち上がった。
右足は痛い。
荷物は少ない。
悪名は広がっている。
神託碑はどこにでもある。
その上、次は教会都市だ。
どう考えても、まともじゃない。
「なあ、アイリス」
「はい」
「俺たちは王女誘拐犯で、儀式妨害者で、神託冒涜者なんだよな」
「はい」
「その状態で、次は教会都市に行くんだよな」
「はい」
「で、何をするんだ」
アイリスは胸を張った。
「聖女救済です」
「具体的には」
「必要に応じて、浄化儀式を妨害します」
俺とエリシアは同時に頭を抱えた。
「だから言い方!」
「だから初手でそれを言わないで!」
アイリスは不思議そうに首を傾げる。
「事前共有は重要です」
「共有する内容を選べ!」
宿場町の方から声が近づく。
もう迷っている時間はない。
俺たちは東南の道へ踏み出した。
古い巡礼道は、朝の光の中へ続いている。
王都から遠ざかる道。
そして、教会都市へ近づく道。
アイリスが先頭を歩く。
エリシアが外套を押さえて続く。
俺は痛む右足を引きずりながら、その後を追った。
背後で、宿場町の神託碑がまた青白く光った気がした。
振り返らなかった。
前を見る。
道標の文字が、朝日に薄く浮かんでいる。
教会都市ミストリア。
そこに、聖女セラがいる。
たぶん。
いや。
今は、その言葉に頼らない方がいい。
「アーデル」
アイリスが前を向いたまま言った。
「何だ」
「この先の巡礼道ですが、極めて順調に進行可能です」
「本当だな?」
「はい。地図データとの同期は良好です。ほっとしてください」
「お前がそう言うと不穏なんだよ」
アイリスが平然と続ける。
「ただし、三分後に崖があります」
「やっぱりか!」
エリシアが深く息を吐いた。
「あなたたち、いつもこうなの?」
「今日だけで何回目だ、その質問」
「答えは?」
「だいたい、こいつのせいだ」
アイリスは胸を張った。
「私は古代文明の最高傑作です」
「今それ関係ある!?」
朝の巡礼道に、俺の声が響いた。
王女救済の旅は、終わった。
たぶん。
そして俺たちは、聖女のいる教会都市へ向かって歩き出した。




