指名手配、始まる
旧街道は、思ったより細かった。
道と呼ぶには頼りなく、獣道と呼ぶには踏み固められている。
両脇には背の高い草が伸び、ところどころに古い石畳の欠片が見えた。
朝日は、木々の隙間から斜めに差し込んでいる。
王都の鐘は、もう遠い。
けれど、完全には消えていなかった。
風に混じって、かすかに聞こえる。
追跡の鐘。
俺は右足を引きずりながら歩いた。
エリシアが巻いてくれた布のおかげで、なんとか進めている。
ただ、痛いものは痛い。
足首の奥で、鈍い熱がずっと残っていた。
「アーデル」
先頭のアイリスが言った。
「何だ」
「歩行速度が低下しています」
「知ってる」
「追跡者との距離を広げるには、速度向上が必要です」
「知ってる」
「背負いましょうか」
「誰が誰を」
「私がアーデルを」
「できるのか?」
「理論上は可能です」
「その理論、信用していいやつか?」
「落下時の損傷確率は」
「言うな」
エリシアが横から言った。
「やめなさい。今の彼を落としたら本当に動けなくなるわ」
「では、エリシア・レーヴェンが背負いますか」
「なぜそうなるの」
「体格差と筋力差を考慮しなければ不可能ではありません」
「考慮しなさい」
「不満です」
俺はため息をついた。
「背負われるくらいなら歩く」
「意地ね」
エリシアが言う。
「必要な意地だ」
「倒れたら怒るわよ」
「倒れた後に怒れるなら、まだましだ」
「その言い方、嫌いよ」
「前にも聞いたな」
「何度でも言うわ」
アイリスが旧街道の先を見た。
「前方に集落反応」
「集落?」
「煙、車輪跡、人の足跡。宿場町の可能性があります」
「助かった」
「助かったの?」
エリシアが少し眉を寄せた。
「指名手配されているのよ」
「でも水と食料がない」
「それはそうだけど」
「あと、俺の足もそろそろ限界だ」
エリシアは俺の足元を見た。
「そうね」
「認めるの早いな」
「見れば分かるわ」
「じゃあ、町に入るしかない」
アイリスが言う。
「変装案を再提示します」
「泥塗装は却下」
「では、枝葉による迷彩」
「森の魔物かよ」
「有効です」
「町でそれやったら余計目立つ」
「では、アーデルを老人に」
「さっき却下しただろ」
エリシアが低く言う。
「問題は私ね」
「まあな」
俺とアイリスは、エリシアを見た。
泥だらけ。
裂けたドレス。
髪は乱れている。
だが、顔立ちと立ち姿は隠しきれない。
どれだけ汚れていても、王女は王女だった。
「その視線、腹立たしいわね」
「目立つんだよ」
「目立ちます」
「二人で言わないで」
エリシアは自分の髪を軽くまとめた。
「頭巾か何かが必要ね」
「持ってない」
「布は?」
「保存食を包んでた布ならある」
「出して」
俺は濡れた袋の中から、古い布を引っ張り出した。
水と泥で汚れている。
エリシアはそれを見て、一瞬だけ黙った。
「……これを被るの?」
「嫌なら」
「被るわ」
彼女は布を受け取り、髪を隠すように巻いた。
王女らしさは少し薄れた。
少しだけ。
「どう?」
「村娘には見えない」
「正直ね」
「泥だらけの貴族の娘、くらいだな」
「もっと悪いわ」
アイリスが首を傾げる。
「私はどう偽装すればいいですか」
「黙ってろ」
「偽装方法ですか」
「存在感の偽装だ」
「高度です」
「とにかく、町では『最高傑作』って言うな」
「なぜですか」
「目立つから」
「事実です」
「事実でも言うな」
エリシアも頷いた。
「それと、私を正式名で呼ばないこと」
「エリシア・レーヴェンを?」
「それをやめなさい」
「では、エリシア」
「……それでいいわ」
「登録を更新します」
「登録はしなくていい」
「不満です」
旧街道の先に、宿場町が見えてきた。
大きな町ではない。
古い街道沿いに、数軒の宿と店が並んでいる。
荷馬車が二台。
井戸。
木の看板。
そして、広場の中央には神託碑。
俺は足を止めた。
「あるな」
「あるわね」
「あります」
三人で同じものを見ていた。
青白く光ってはいない。
ただの古い石碑に見える。
でも、俺たちは知っている。
あれは、ただの石ではない。
「迂回するか?」
エリシアが聞く。
「水と食料が必要だ」
「足もね」
「言うな」
「事実よ」
アイリスが町を観察する。
「人員数、少。警備兵、確認できず。商人、旅人、宿場管理者。神託碑前に人だかりなし」
「なら、今のうちに」
俺たちは町の端から入った。
なるべく目立たないように。
ただ、目立たないように歩くのは難しかった。
俺は足を引きずっている。
エリシアは泥だらけの布を被っている。
アイリスは銀髪で、黙っていても神秘的すぎる。
通りの老人が、ちらりとこちらを見た。
荷馬車の男も見た。
宿屋の前で桶を洗っていた女将も見た。
全員が、一瞬見て、二度見した。
「目立ってるな」
「ええ」
「目立っています」
「お前は反省しろ」
「私だけの問題ではありません」
「それはそう」
宿場の雑貨屋に入る。
狭い店内には、乾いたパン、干し肉、包帯、安い外套、火打ち石、針、糸、簡単な薬草が置かれていた。
俺は棚を見て、財布を思い出した。
少ない。
かなり少ない。
「まずいな」
「金銭不足ですか」
「そうだ」
「では、商品を最適配分で取得し、後日支払い」
「万引きだ」
「では、交渉」
「それはいい」
エリシアが小声で言う。
「私の装飾品を売れば」
「駄目だ」
俺は即答した。
エリシアが少し目を見開く。
「なぜ」
「今のあんたに残ってるものが少なすぎる」
「でも必要でしょう」
「必要なら、俺の道具を売る」
「あなたの道具も少ないわ」
「分かってる」
アイリスが淡々と言った。
「アーデルの道具は機能価値が高いです。売却非推奨」
「じゃあどうする」
「労働対価を得ます」
「何の労働だよ」
その時、店の奥から怒鳴り声がした。
「また止まったのか!」
店主らしき男が、奥の部屋で何かを叩いている。
かん、かん、と金属音。
俺はその音に反応した。
壊れた魔導ポンプの音だ。
「……あれ」
アイリスが俺を見る。
「修理対象です」
「言われなくても分かる」
俺は店主に声をかけた。
「あの、奥のやつ、見てもいいですか」
店主が振り返る。
太った中年の男だった。
俺たちを上から下まで見て、眉を寄せる。
「旅人か? 冷やかしなら帰ってくれ。こっちは井戸水のくみ上げ機が止まって困ってるんだ」
「直せるかもしれない」
「お前が?」
「たぶん」
エリシアが小さく言った。
「また、たぶん」
「今は信じろ」
店主は疑わしそうに俺を見た。
「直せたら、パンと包帯と外套をもらえますか」
「直せたらな」
「あと、干し肉も」
「図々しいな」
「こっちは三人分なので」
店主はアイリスとエリシアを見た。
そして、ため息をついた。
「直せたら考える」
「考えるじゃなくて、約束で」
エリシアが言った。
布で髪を隠していても、その声は妙に通る。
店主が思わず姿勢を正した。
「……分かった。直せたら、パン、包帯、外套、干し肉を渡す」
「水袋も」
アイリスが追加した。
「お前ら本当に図々しいな!」
「必要物資です」
「黙ってろ」
奥の部屋には、小型の魔導ポンプがあった。
井戸から水をくみ上げ、店と隣の宿へ流す装置らしい。
古い型だ。
王都製ではない。
辺境でもよく見る、安い量産品。
ただし、修理されすぎて原型が分からなくなっている。
足元には、店主が投げ出したらしい工具や金属片が転がっていた。
錆びたヤスリ。
曲がった細い金具。
切れた魔導導線。
欠けた留め具。
どれも、普通なら捨てるものだ。
「ひどいな」
「分かるのか」
店主が聞く。
「分かる」
俺は膝をつこうとして、足の痛みに顔をしかめた。
エリシアが無言で椅子を差し出した。
「座って直しなさい」
「助かる」
「貸しよ」
「ここでもか」
アイリスが装置を覗き込む。
「魔力弁の詰まり。伝達管の歪み。応急補修の重複により流路効率が低下」
「つまり?」
店主が聞く。
「歴代の修理が雑です」
「悪かったな!」
「私は事実を」
「お前は黙ってろ」
俺は工具袋から、エリシアの髪飾りを取り出した。
エリシアが一瞬だけ見た。
何も言わなかった。
俺は髪飾りの先で、魔力弁の奥に詰まった錆をこじる。
床に転がっていた店主の錆びたヤスリを拾い、そのまだ使える角を管の縁に当てた。
ぎり、と嫌な音がする。
削れているのは、管なのか、ヤスリなのか分からない。
でも、少しだけ縁が整った。
さらに、ゴミ箱に捨てられていた魔導導線の切れ端を引っ張り出し、歪んだ部品を針金代わりに仮止めした。
魔力の流れが、少しずつ戻っていく。
井戸から水が上がろうとしている。
でも、途中で詰まっている。
「アイリス、弱く流せるか」
「可能です」
「本当に弱く」
「暫定定義は更新済みです」
「信じるぞ」
「はい」
青い光が、ほんの少しだけ装置に流れた。
ぽこん、と音がした。
それから、水の音。
管の奥を、水が走る。
店主が目を見開いた。
「動いた……」
「まだだ」
俺は最後に、歪んだ伝達管を押さえた。
「エリシア、そこ、押さえて」
「ここ?」
「そう。動いたら水が漏れる」
「分かったわ」
エリシアは迷わず手を伸ばした。
白かった指は、もう泥と錆で汚れていた。
彼女はそれを気にしなかった。
「今」
俺は魔導導線を締めた。
魔導ポンプが低く唸る。
次の瞬間、壁際の蛇口から水が出た。
店主が叫ぶ。
「出た!」
隣の部屋から女将らしき人が顔を出す。
「本当かい!」
水が桶に落ちる音がした。
何でもない音なのに、今の俺にはかなりありがたく聞こえた。
店主は俺たちを見た。
「お前、本当に直したのか」
「だから言っただろ」
アイリスが胸を張る。
「私の補助も有効でした」
「はいはい」
「雑です」
「今はそれでいい」
店主は約束通り、パン、干し肉、包帯、水袋、そして古い外套を三枚出してくれた。
「外套は中古だ。文句言うなよ」
「言わない」
エリシアが外套を受け取る。
茶色の地味な外套。
彼女が羽織ると、少しだけ目立たなくなった。
少しだけ。
「どう?」
「泥だらけの貴族の娘から、訳ありの旅人になった」
「進歩ね」
「たぶん」
「またそれ」
アイリスは外套を羽織った。
銀髪がまだ目立つ。
彼女は布を深くかぶる。
無表情のまま、少し得意そうにした。
「隠密性が向上しました」
「いや、怪しい」
「不満です」
俺も外套を羽織る。
足首に新しい包帯を巻き直した。
エリシアはそれを黙って見ていた。
「何だ」
「雑」
「自分でやるとこうなる」
「貸しが増えるけど?」
「頼む」
「素直ね」
エリシアは俺の包帯を巻き直した。
店主がそれを見て、不思議そうな顔をした。
「お前ら、兄妹か?」
「違う」
「違います」
「違うわ」
三人の声が重なった。
店主はさらに不思議そうな顔をした。
「じゃあ何なんだ」
俺は答えに困った。
誘拐犯と王女です、とは言えない。
最高傑作と同行者です、もたぶん駄目だ。
アイリスが口を開きかけた。
俺はその口を手で塞いだ。
「旅の連れです」
エリシアが言った。
店主は俺たちを見比べた。
「変な連れだな」
「それは否定できない」
俺はアイリスの口から手を離した。
「私は古代文――」
「黙れ」
「不満です」
店を出る頃には、宿場町の広場が少し騒がしくなっていた。
人が神託碑の前に集まっている。
俺たちは足を止めた。
さっきまでは光っていなかった神託碑が、青白く光っていた。
「まずい」
小さく呟いた。
エリシアが外套のフードを深くかぶる。
アイリスも神託碑を見る。
文字が浮かび上がっていく。
王女誘拐犯、捕縛せよ。
王家儀式妨害。
神託冒涜。
妨害因子、三名。
王都西外縁より逃走中。
宿場町の人々がざわついた。
「王女誘拐犯だってよ」
「王家の儀式を妨害?」
「神託冒涜なんて、終わりだな」
「でも王家更新の儀で何があったんだ?」
「儀式場が焦げたって話もあるぞ」
「嘘だろ」
「神託にそんなこと出てない」
「でも、王都から来た商人が見たって」
噂が混じる。
神託の文字は冷たい。
でも、人の声は揺れていた。
信じている者。
怖がっている者。
面白がっている者。
何かに引っかかっている者。
全部が同じ場所でざわざわしている。
俺は外套の中で顔を伏せた。
「俺、すごい罪状だな」
「知名度向上です」
アイリスが言った。
「悪名だよ!」
「分類上、広域認知度は上昇しています」
「だから悪名だって!」
エリシアが神託碑を見ていた。
そこには、第二王女の名前はない。
ただ、緊急保護対象という文字が出ている。
彼女は何も言わなかった。
外套の下で、胸元のペンダントを握る手だけが動いた。
神託碑の文字が切り替わる。
新しい告知が出た。
教会都市ミストリア。
大規模浄化儀式、実行予定。
聖女個体、出力準備。
周囲の人々の声が変わった。
「聖女様の浄化儀式だ」
「ありがたい」
「最近、東の森で瘴気が濃いって聞いたしな」
「教会都市なら安心だ」
「神託が出たなら、もう大丈夫だろ」
アイリスが止まった。
完全に。
さっきまで外套の端を直していた手も止まる。
青い瞳が、神託碑の文字だけを見ている。
「アイリス」
俺が呼ぶ。
返事がない。
「アイリス」
もう一度呼ぶ。
彼女は低く言った。
「聖女個体」
エリシアが神託碑を見る。
「個体……」
その声は冷えていた。
アイリスの瞳が細かく明滅する。
「出力準備」
「それ、危ないのか」
俺が聞くと、アイリスはすぐには答えなかった。
間があった。
ほんの少し。
エリシアがそれを見た。
アイリスは言う。
「不明です」
「不明?」
「ただし、王家更新の儀における出力語と類似しています」
「とりあえず町を出るぞ」
俺は言った。
「ここで止まってるとまずい」
「同意します」
アイリスは神託碑を見たまま言った。
「でも、後で説明しろ」
「はい」
エリシアが低く言う。
「私も聞くわ」
アイリスは頷いた。
俺たちは人混みから離れ、宿場町の端へ向かって一斉に走り出した。




