誘拐犯と王女の共犯関係
森の中は、思ったより暗かった。
夜明け前の空は白み始めているのに、木々の枝が光を遮っている。
湿った土。
濡れた葉。
冷たい風。
王都の石畳の上では聞こえなかった音が、あちこちからした。
小さな虫の羽音。
枝が擦れる音。
遠くで鳥が鳴く声。
その全部が、追手の足音に聞こえてくる。
「このまま西へ進みます」
先頭のアイリスが言った。
「街道は?」
「非推奨です。神託碑の設置密度が高く、捕捉される可能性が上昇します」
「つまり、森を突っ切るしかないってことか」
「はい」
「まともな道は?」
「ありません」
「だよな」
俺は痛む右足を引きずりながら、木の根をまたいだ。
さっきから足元が悪い。
泥に沈む。
根に引っかかる。
草で滑る。
右足がまともなら、まだましだった。
でも今は、一歩ごとに足首から鈍い痛みが上がってくる。
エリシアも、隣で息を切らしていた。
ドレスは短く裂かれている。
髪飾りはもうない。
王城の儀式場にいた時の姿とは、まるで違う。
けれど、彼女は文句を言わなかった。
いや、文句は言っている。
「最悪の道ね」
言っていた。
「でも歩いてるだろ」
「歩くしかないからよ」
「王女ってもっと文句を言うものかと思ってた」
「言ってほしいなら言うわよ」
「やめてくれ」
「では黙って歩きなさい、誘拐犯」
「まだそれ言うのか」
「事実でしょう」
「助けたんだよ」
「助けた後、私を抱えて逃げたわ」
「状況が状況だった」
「それを誘拐と言うのよ」
アイリスが振り返る。
「分類上、王女誘拐は成功しています」
「お前は黙ってろ」
「不満です」
エリシアが俺を見る。
「ほら、本人も認めているわ」
「本人って誰だよ」
「最高傑作よ」
「そこだけ採用するな」
森の奥で、また犬の吠える声がした。
さっきより近い。
俺たちは同時に足を止めた。
アイリスが目を細める。
「追跡獣の可能性があります」
「犬か?」
「王都警備用の魔導猟犬である可能性が高いです。嗅覚と魔力反応の両方で追跡します」
「最悪だな」
「良い点もあります」
「言ってみろ」
「足は四本です」
「それは犬なら普通だ!」
エリシアが短く言う。
「魔導猟犬なら、王族の匂いにも反応するはずよ」
「王族って匂いで分かるのか?」
「服や護符に使われる香料があるの。式典用のものは特に」
「今も残ってるのか」
エリシアは自分の泥だらけの服を見下ろした。
「たぶん、少しは」
「じゃあ追いつかれるな」
「でしょうね」
「冷静に言うな」
アイリスが近くの小川を指した。
「匂いを薄めるため、水路沿いを進みます」
「水か……」
「嫌そうね」
エリシアが言う。
「今日、水に関わりすぎてる」
「同感よ」
小川は浅かった。
足首ほどの深さしかない。
ただ、冷たい。
靴の中に水が入った瞬間、俺は顔をしかめた。
右足の傷に冷たさが刺さる。
「痛いの?」
エリシアが聞く。
「まあな」
「座りなさい」
「いや、止まると追いつかれる」
「見せなさい」
「いや、王女に足を見せる趣味は」
「命令よ」
「今それ使うのずるくないか」
「便利だから使うわ」
俺は少し迷った。
だが、足がずきずきしているのは事実だ。
このまま歩いて、いきなり動けなくなる方がまずい。
近くの倒木に腰を下ろす。
エリシアはしゃがみ、俺の足元を見た。
裂いたドレスの裾が、濡れた土につく。
「ひどいわね」
エリシアは自分の裂いたドレスの端をさらに細く裂いた。
「おい、それ以上短くなるぞ」
「走れればいいのよ」
「王女判断、今日何回目だ」
「数えないで」
彼女は小川の水で布を濡らし、俺の足首の泥を拭った。
思ったより痛くて、俺は息を詰めた。
「痛むなら言いなさい」
「痛い」
「よろしい」
「よろしいのか」
「黙って我慢されるよりましよ」
アイリスが隣にしゃがむ。
「損傷確認。右足首周辺に打撲、擦過傷、筋損傷の可能性。歩行継続は非推奨です」
「じゃあどうする」
「アーデルを廃棄して進行します」
「救済用!」
「冗談です」
「今の冗談だったのか!?」
「高度な人間社会適応訓練です」
「下手すぎる」
エリシアが布を巻きながら、冷たく言った。
「あなた、冗談を言う時は顔を変えなさい」
「表情変更は非効率です」
「冗談そのものが非効率でしょう」
「では、やめます」
「極端なのよ」
布が足首に巻かれる。
きつすぎず、緩すぎない。
意外に手際がいい。
「慣れてるのか?」
「式典の護衛が怪我をした時に、応急処置を見たことがあるだけよ」
「見ただけでできるのか」
「できなければ王女を名乗れないわ」
「王女ってすごいんだな」
「今さら?」
エリシアは立ち上がった。
「これで少しは歩けるでしょう」
「助かる」
「貸しにしておくわ」
「また増えた」
「あなた、私を誘拐したのよ。貸しの一つや二つで済むと思わないことね」
「助けた分は差し引いてくれ」
「検討します」
アイリスが顔を上げた。
「追跡音、接近」
遠くで、枝が折れる音がした。
犬の吠える声。
人の声も混じっている。
「行くぞ」
俺たちは小川沿いに進み始めた。
足首はまだ痛い。
だが、布で固定された分、少し歩きやすい。
エリシアは俺の横を歩いている。
アイリスは先頭で、枝を避けながら進む。
ときどき、彼女は枝を避けずに顔へぶつけている。
「痛くないのか?」
「衝撃は軽微です」
「見た目が痛い」
「枝が進路上にあります」
「避けろ」
「非効率です」
「顔で押し通る方が非効率だろ!」
エリシアが呆れたように言った。
「本当に最高傑作なの?」
「はい」
「森歩きは最低ね」
「森は古代文明の主要活動環境ではありません」
「言い訳が下手ね」
「回答選択に遅延はありません」
「そういう問題ではないわ」
俺は少しだけ笑った。
笑うと、身体のあちこちが痛い。
それでも、少しだけ息が楽になった。
しばらく進むと、小川の脇に古い石橋が見えた。
小さな橋だ。
橋というより、半分崩れた石の板が川にかかっているだけ。
その向こうに、草に埋もれた細い道がある。
「これは?」
俺が聞くと、エリシアが目を細めた。
「王都外縁の古い巡礼路かもしれないわ」
「巡礼路?」
「昔、王家の儀式前に森の祠へ向かう道があったと聞いたことがあるの。今は使われていないはずだけど」
アイリスが石橋に触れる。
「人工構造物。古代基礎の上に後世の石材が追加されています」
「使えるか?」
「部分的に」
「またそれか」
石橋を渡る。
途中で一枚、石が沈んだ。
俺は足を取られかけ、エリシアに腕を掴まれた。
「何度転びかけるの」
「足が悪いんだよ」
「誘拐犯としても雑ね」
「誘拐犯に技術点を求めるな」
アイリスが橋の向こうを指した。
「この先に空間があります」
「出口か?」
「森の開けた場所です。人為的構造物を含みます」
「祠かしら」
エリシアの声が少し低くなった。
俺たちは草に埋もれた道を進んだ。
やがて、木々が開ける。
そこに小さな祠があった。
石造りの古い祠。
半分は苔に覆われ、屋根の一部は崩れている。
正面には、王家の紋章らしきものが刻まれていた。
ただし、その下には古代文字がある。
王家のものではない。
もっと古い。
アイリスが動きを止めた。
「認証痕跡」
エリシアが胸元のペンダントを握る。
青い石が、かすかに光った。
「ここも?」
「はい」
祠の中は狭かった。
人が三人入ればいっぱいだ。
奥に小さな石台がある。
石台の中央には、丸いくぼみ。
エリシアのペンダントが収まりそうな形だった。
「また、これね」
エリシアが小さく言った。
アイリスが石台を覗き込む。
「簡易認証端末。現在は休眠状態です」
「使わない」
俺が言うと、エリシアは何も言わずに、石台から一歩下がった。
胸元のペンダントを、服の上から強く握りしめている。
アイリスは石台を見た。
それから、エリシアのペンダントへ視線を移す。
その時だった。
森の奥で、犬が吠えた。
近い。
「いたぞ!」
人の声もした。
俺たちは一斉に祠の外を見る。
木々の間に、兵士の影が見えた。
まだ距離はある。
だが、魔導猟犬らしき黒い影が、こちらへ鼻を向けている。
「まずい」
俺は言った。
「小川で匂いは消えたんじゃないのか」
「完全ではありません」
アイリスが淡々と言う。
「王女の香料、魔力反応、血液、泥、複数経路から追跡可能です」
「血液?」
エリシアが俺を見る。
「俺か」
「あなたね」
「悪い」
「謝る暇があるなら動きなさい」
アイリスが祠の石台を指した。
「祠の認証端末を使用すれば八十六パーセント」
「使わない!」
エリシアが即座に言った。
アイリスは平然とペンダントへ手を伸ばそうとした。
俺は後ろから、その襟首を強く引っ張る。
「伸ばすな。行くぞ」
「不満です。生存確率が低下します」
「四十一パーセントあれば十分だ。お前が先頭だろ、走れ」
「了解しました。では四十一パーセントで進行します」
「なぜ少し偉そうなの」
エリシアが低く言った。
「最高傑作だからです」
「今それ関係ある!?」
祠の背後に獣道があった。
人が通るには狭いが、進めないほどではない。
エリシアが先に入ろうとする。
俺は止めた。
「待て。俺が先に行く」
「足が悪いでしょう」
「だからだよ。俺が詰まったらすぐ分かる」
「それ、先に行く理由として正しいの?」
「たぶん」
「あなたたち、本当にその言葉が好きね」
アイリスが割り込む。
「私が先頭です。枝、段差、落下、獣、兵士、全て検知します」
「頼む」
「ただし、森歩きは最低です」
「自覚したか」
「はい」
アイリスが獣道へ入る。
その後ろにエリシア。
最後に俺。
追手の声がさらに近づく。
「祠だ!」
「王女殿下がいるかもしれない!」
魔導猟犬の吠え声が響いた。
アイリスが急に止まる。
「何だ?」
「前方に崖です」
「崖!?」
「小規模です」
「高さは?」
「三メートル」
「小規模か?」
「古代基準では小規模です」
「また古代基準!」
エリシアが前を覗き込む。
確かに崖だった。
土が崩れ、斜面のようになっている。
降りられないことはない。
でも、滑れば転ぶ。
俺の右足では、かなりきつい。
背後から枝を踏む音が近づく。
迷っている時間はない。
「降りるぞ」
俺は言った。
「あなたの足では危険よ」
「でも追いつかれる」
「私が先に降りるわ」
「またか」
「王女を甘く見ないことね」
「本当に何回目だよ」
エリシアは崖の縁に手をかけ、先に下り始めた。
泥で滑る。
だが、木の根を掴みながら、少しずつ下りていく。
彼女の裂けたドレスが土に擦れた。
白かった布が、もうほとんど灰色だ。
「大丈夫か」
「大丈夫ではないわ」
「正直だな」
「でも止まらない」
エリシアはそう言って、下まで降りた。
次にアイリスが降りる。
彼女は足場を確認するでもなく、すとんと落ちた。
「おい!」
アイリスは普通に着地した。
「問題ありません」
「人間は問題あるんだよ!」
「学習します」
「今かよ!」
俺は崖の縁に手をかけた。
右足が痛む。
手首も痛い。
下ではエリシアが両腕を広げている。
「来なさい」
「受け止める気か?」
「足を支えるだけよ。重かったら落とすわ」
「正直すぎる」
「早く」
背後で声がした。
「いたぞ!」
俺は息を吸った。
そして、崖を滑るように降りた。
途中で右足が崩れる。
視界が傾く。
「っ!」
下でエリシアが俺の腕を掴んだ。
アイリスも反対側から支える。
三人まとめて少しよろけた。
だが、倒れなかった。
「危なかったわね」
エリシアが息を切らす。
「落とすって言ってなかったか」
「落とす暇がなかったわ」
「助かった」
「貸しよ」
「また増えた」
崖の上に兵士の影が現れた。
魔導猟犬が吠える。
だが、すぐには降りてこられない。
「走れ!」
俺たちはまた森の奥へ走った。
足は痛い。
息は苦しい。
でも、止まれない。
やがて、木々の密度が薄くなった。
前方に細い道が見える。
街道ではない。
古い林道だ。
荷車一台がぎりぎり通れるくらい。
アイリスが言う。
「この道を南西へ進めば、王都の主要街道を回避できます」
「どこへ出る」
「不明です」
「不明かよ」
「地図情報が古いです」
「何年前?」
「千年以上前です」
「古すぎる!」
エリシアが肩で息をしながら言った。
「でも、王都から離れられるならいいわ」
「本当にいいのか」
俺は立ち止まった。
エリシアも足を止める。
アイリスだけが数歩先で振り返った。
森の向こうからは、まだ追手の声が聞こえている。
時間はない。
それでも、ここで言わなければいけないと思った。
「エリシア」
「何」
「この先へ行けば、たぶん戻りにくくなる」
「今さらね」
「いや、そうじゃない」
俺は息を整えた。
「王都の外に出た。追手もいる。神託碑にも出た。俺はもう誘拐犯だ。でも、あんたは王女だ」
「知っているわ」
「だから、俺たちと一緒にいる必要はない」
エリシアの表情が少し固まった。
「どういう意味?」
「どこか安全な場所に逃げる。王都から離れた村とか、貴族の別邸とか、王族として頼れる場所とか。そこまでなら送る」
「あなたが?」
「俺とアイリスで」
「誘拐犯が王女を安全な場所へ送るの?」
「ややこしいな」
「ややこしくしたのはあなたよ」
「否定はしない」
俺は続けた。
「俺たちと一緒にいれば、たぶんもっと危ないことになる。神託を調べるなら、王城や教会や、そういう場所とぶつかるかもしれない」
「かもしれない、ではなく、確実でしょうね」
「だから」
「私を置いていくつもり?」
エリシアの声が低くなった。
「置いていくんじゃない。逃がすんだ」
「同じよ」
「違う」
「同じ」
エリシアは一歩、俺に近づいた。
泥だらけのドレス。
濡れた髪。
傷だらけの手。
それでも、彼女の目は王女のままだった。
「私の命が狙われた理由を、私が知らないままでいると思う?」
俺は何も言えなかった。
「私は、王家更新の儀に立たされた。神託は私を対象と呼んだ。地下の記録は、私を鍵と呼んだ。私の名前は、表の神託には出なかった」
エリシアは胸元のペンダントを握る。
「それなのに、どこか安全な場所で隠れていろと言うの?」
「安全な方がいいだろ」
「安全だけなら、王城に戻ればいいわ」
「それは」
「でも戻らない」
エリシアは言い切った。
「だから、私は行く」
「どこへ」
「真実のある場所へ」
「場所が分からないだろ」
「だからあなたたちと行くのよ」
俺は困った。
本当に困った。
「俺たちを信用するのか?」
「していないわ」
「おい」
「あなたは誘拐犯だし、そこの最高傑作は危険物だもの」
「危険物ではありません」
アイリスが抗議する。
「あなたは初手から誘拐を提案したでしょう」
「救済行動です」
「危険物ね」
「不満です」
エリシアは俺を見た。
「信用はしていない。でも、あなたたちは私を壇から引きずり下ろした」
「言い方」
「事実よ」
「助けた」
「その点だけは認めるわ」
「だけか」
「今はそれで十分でしょう」
エリシアは俺に背を向け、林道の先を見た。
「私は同行する。これは、私の意思よ」
誰かに抱えられて逃げた王女の声ではない。
自分の足で立っている人間の声だった。
アイリスが一歩近づく。
「では、エリシア・レーヴェンを同行対象として登録します」
「対象ではなく名前で呼びなさい」
「エリシア・レーヴェン同行対象」
「混ぜないで」
「では、同行者」
エリシアが少しだけ目を細めた。
「それなら許すわ」
「登録しました」
「勝手に登録するな」
俺が言うと、アイリスは胸を張った。
「旅には管理が必要です」
「管理する側が一番不安なんだよ」
「不満です」
遠くで、また犬が吠えた。
近くはない。
でも、消えてもいない。
エリシアが林道を指す。
「進むわよ」
「王女が仕切るのか」
「同行者でしょう?」
「まだ決まったばかりだろ」
「だから最初に主導権を取るの」
「政治が始まった」
アイリスが言う。
「主導権争いは非効率です。役割分担を提案します」
「言ってみろ」
「私は解析。アーデルは修理と肉体労働。エリシア・レーヴェンは王族知識と交渉を担当」
「肉体労働の比重が重くないか」
「現在、アーデルの保有技能から判断しました」
「怪我人だぞ」
「では、怪我をした肉体労働担当」
「悪化してる!」
エリシアが少しだけ笑った。
今度は隠しきれなかった。
すぐに顔を引き締めたが、俺は見た。
「何?」
「いや」
「今、何か言いたそうだったわね」
「言ってない」
「間があったわ」
「それ便利に使いすぎだろ」
アイリスが林道の先を見た。
「追跡者が崖を迂回中。移動再開を推奨します」
「行くぞ」
俺たちは林道を進んだ。
森の枝の向こうから、朝の光が少しずつ差してくる。
王都は背後にある。
まだ近い。
けれど、石壁はもう見えない。
その代わり、遠くで鐘が鳴っている。
追跡の鐘。
指名手配の始まりの音。
俺はふと、腰の工具袋に手をやった。
中身はだいぶ減っている。
ヤスリはほとんど使い物にならない。
針金も少ない。
小さな釘は、屋根で落とした。
エリシアの髪飾りだけが、泥の中で鈍く光っている。
「その髪飾り」
エリシアが言った。
「まだ持っているのね」
「返すって言っただろ」
「壊れているかもしれないのでしょう」
「まだ使える」
「では、しばらく貸しておくわ」
「いいのか?」
「あなたの道具が壊れたら、私も困るもの」
「王女の飾りを工具扱いか」
「役に立ったということにするわ」
俺は髪飾りを工具袋へしまった。
妙な重みがあった。
金属としては軽いはずなのに。
林道の先で、木々が少し開けた。
小さな丘になっている。
そこから、王都の尖塔が遠くに見えた。
朝日に照らされ、白い壁がほんの少しだけ赤く染まっている。
あの中で、今ごろ俺たちはどう呼ばれているのだろう。
王女誘拐犯。
儀式妨害者。
神託冒涜者。
妨害因子。
たぶん、ろくでもない名前ばかりだ。
エリシアも王都を見ていた。
横顔は静かだった。
「戻りたいか?」
俺は聞いた。
「戻るわ」
「え?」
「いつかね」
エリシアは王都から目を逸らさない。
「でも、今ではないわ」
アイリスが隣で言う。
「現在戻ると捕縛、隔離、再儀式、または消去処理へ移行する可能性があります」
「だから言い方」
「正確です」
「正確すぎるのよ」
エリシアは静かに息を吐いた。
「なら、今は進む」
俺は頷いた。
「分かった」
「あなた、まだ私を逃がそうとしている?」
「少し」
「諦めなさい」
「早いな」
「王女命令よ」
「その使い方、ずるいって」
アイリスが手を上げる。
「王女命令の適用範囲を確認します。同行者登録後、アーデルへの命令権は」
「ない」
俺は即答した。
「ないの?」
エリシアが聞く。
「ない」
「少しくらいあってもよくない?」
「よくない」
「命を助けた貸しは?」
「それは俺の貸しだろ」
「私もあなたの足を手当てしたわ」
「じゃあ相殺」
「誘拐分が残るわ」
「またそこに戻るのか」
アイリスが淡々と言った。
「債務関係が複雑です。記録しますか」
「するな」
「不満です」
遠くで、また鐘が鳴った。
今度は一つではない。
王都の複数の塔から鳴っている。
朝の鐘か。
警戒の鐘か。
どちらにしても、俺たちはもう戻れない。
少なくとも、今は。
「アーデル」
アイリスが俺を呼んだ。
「何だ」
「次の目的地を設定する必要があります」
「そうだな」
「王都から離脱し、神託碑設置密度の低い地域へ向かうことを推奨します」
「どこだ」
「西の旧街道。宿場跡。現在の利用頻度は低いと推定」
「そこへ行けば安全か?」
「安全ではありません」
「だよな」
「比較的ましです」
「今日はそれで十分だ」
エリシアが言う。
「水と食料も必要ね」
「そうだな」
「あなた、持っているの?」
「少しだけ」
俺は保存食の袋を確認した。
ほとんど潰れている。
水に濡れている。
そして、明らかに足りない。
アイリスが言う。
「食料不足です」
「見れば分かる」
「街道沿いの村で調達が必要です」
「指名手配犯が村に入るのか」
「変装を提案します」
「どんな?」
「アーデルを老人に偽装」
「無理がある」
「エリシア・レーヴェンを村娘に偽装」
「その格好で?」
俺とアイリスがエリシアを見る。
泥だらけ。
裂けたドレス。
でも顔立ちと立ち姿は隠しようがない。
エリシアは眉を寄せた。
「何よ」
「目立つ」
「目立ちます」
「二人で言わないで」
アイリスが続ける。
「私を旅芸人に偽装」
「お前が一番無理だ」
「なぜですか」
「銀髪で無表情で最高傑作とか言う旅芸人がいるか」
「新規性があります」
「目立つんだよ!」
エリシアが少しだけ笑った。
今度はすぐには隠さなかった。
それだけで、森の空気が少し変わった気がした。
だが、すぐにアイリスが真顔で言う。
「では、全員を泥で塗装します」
「もうだいたい塗装済みだ」
「追加塗装します」
「するな!」
林道の先に、古い道標が見えた。
苔に覆われた石柱。
文字は半分欠けている。
だが、矢印のような刻みだけは残っていた。
西。
旧街道。
宿場跡。
アイリスの推定と同じ方向だ。
「こっちだな」
俺は言った。
エリシアが頷く。
「行きましょう」
アイリスも頷く。
「進行します」
その時、背後の森の奥で、また魔導猟犬が吠えた。
近い。
思ったより、ずっと近い。
俺たちは同時に振り返る。
木々の奥に、青白い光がちらついた。
神託碑ではない。
兵士の持つ追跡灯だ。
「走れ!」
俺は叫んだ。
三人は旧街道へ向かって走り出した。
俺の右足が痛む。
エリシアの裂けたドレスが泥を跳ねる。
アイリスの銀髪が朝の光を受けて、一瞬だけ青白く見えた。
背後から声が飛ぶ。
「妨害因子を発見!」
「王女殿下を保護せよ!」
エリシアの目が鋭くなる。
「保護ではないわ」
彼女は走りながら、低く言った。
「私は、私の意思でここにいる」
その声は、森の中に消えた。
追手には届かなかったかもしれない。
でも、俺には聞こえた。
アイリスにも聞こえたはずだ。
アイリスは一瞬だけ振り返らずに言った。
「同行者エリシア・レーヴェンの意思を確認」
「対象をつけなかったな」
俺が言うと、アイリスは前を向いたまま答えた。
「学習しました」
エリシアは何も言わなかった。
ただ、少しだけ走る速度を上げた。
朝日が森の向こうから差し込む。
王都の鐘が遠ざかる。
俺たちは旧街道へ飛び出した。




