第41話 今度は、読める人が残っています
「八年前、私は慈育院を訴えました」
テレサが古びた羊皮紙をカウンターへ置いた。
「でも、弟の住居を奪うと言われて、取り下げたんです。私が覚えているのは、内容も分からない紙へ親指の印を押したことだけ」
確認記録には、彼女の名が流麗な筆跡で記されている。
その下には、バルタザール・オルグレンが本人と直接面会し、全文を読み聞かせ、自由意思を確認したという記載と署名があった。
「こんな字は書けなかった。法院長にも会っていません」
テレサは親指を見た。八年前に朱肉へ押しつけられた指だ。
「あの時は、弟に屋根が残るなら、それでいいと思おうとしました。でも、私が説明を受けて納得したなんて、そんな記録まで残っているとは知らなかった」
リツは紙へ手を伸ばし、触れる直前で止まった。
前世の取り下げ書が、羊皮紙へ重なる。
小さなパン屋の穂乃には、勝てる証拠があった。裁判が長引き、嫌がらせが続き、店を開ける力まで削られた末、彼女は取り下げを選んだ。律は法的に正しい説明を重ねながら、その手からペンを取り上げられなかった。
半年後、穂乃は死んだ。
ノアが自分で書いた名前まで、同じ結末へ続く印のように見えた。
「私には、この書類を――」
小さな手が、握り締めた拳を包んだ。
「前と今は違うよ」
ミナだった。
「前の人のことは分からない。でもノアは、自分で名前を書いた。弟たちは助かった。リツの文句も、紙に残った」
ミナは空白の確認書を収めた証拠袋と、同じ第九鐘が記された四件の写しを指す。
「ノアがフィンに紙を覚えろって言った。フィンが持ってきた。私も数字を読めた」
ひと息に言ってから、リツの手を強く握った。
「今度は、読める人が残っています」
前世には残せなかったものが、今はノアからフィンへ、フィンからミナへ渡っている。リツ一人の手の中にはない。
リツは拳をほどき、ミナの手を握り返した。
「テレサさん」
顔を上げても、すぐに受任は告げなかった。
「この記録を使えば、法院長が会っていない相手と会ったことにしたと争えます。ただし、あなたが受けた圧力も、弟さんのことも、公開の場で話すことになります」
テレサの唇が引き結ばれる。
「勝てますか」
「勝てるとは約束できません。私自身も資格停止の審査中です」
「それでも、あなたなら戦う?」
「私が決めることではありません」
リツは羊皮紙から手を離したまま答えた。
「あなたの記録です。直すのか、このままにするのか、決めるのはあなたです。私はもう、自分のやり直しのために誰かを法廷へ連れていきません」
テレサは長い間、自分の名を見つめた。
やがて確認記録を裏返し、何も書かれていない面を上にする。
「弟は今、自分で部屋を借りて働いています。もう、あの人たちに取られるものはありません」
それでも声は震えていた。怖くなくなったのではない。
「私の名前で訴えます。私が会っていない人に、会ったことにされた。その嘘を直したい」
テレサは紙をリツの方へ押した。
「これは、私が選びます」
リツはそこで初めて、確認記録を受け取った。
「ただし、今の私はあなたの代理人にはなれません。新しい事件を私の名で受けることも、私の章で申立書を出すことも禁じられています」
テレサの手が、紙の上で止まる。
「あなたご自身が申立人として立つなら、私は書類を一緒に読み、当事者補佐として許された範囲で支えられます。提出は監察院の送達記録を通し、セドリックさんに取り次いでもらうことになります」
「つまり、リツさんの事件ではないのね」
「はい。最初から最後まで、あなたの事件です」
リツは代訴人章を箱から出さなかった。
代わりに白紙の申立書を、テレサの前へ置いた。




