第40話 勝たせられなかった事件
ノアの取り下げが受理されてから、数日が過ぎた。
ノアと三人の弟妹たちは、バルタザールが手配した王立寄宿舎へと無事に居を移した。彼ら四人の安全と明日の食事は確保され、鉱山送りの恐怖は去った。
慈育院の搾取構造は残り、施設にはまだ百人近い子どもがいる。リツは資格停止審査に入り、新しい依頼を自分の名では受けられない。申立書も証人召喚も、代訴人章を使って提出できなくなった。
深夜。休業中のホノカの店舗で、リツは一人、暗い厨房の椅子に座り込んでいた。
その時、表通りからガシャンという鋭い音が響いた。
店の窓ガラスが割られる音。誰かの嫌がらせか。リツが慌てて立ち上がると、店の奥の部屋で残務をしていたセドリックが、既に剣の柄に手をかけて土間へと飛び出していた。
割れた窓ガラスの散乱する床に、小柄な影がうずくまっていた。
「フィン?」
ランプの灯りが照らし出したのは、暴漢ではなく、泥と血にまみれた慈育院の年長児、フィンの姿だった。
彼は荒い息を吐きながら、懐からくしゃくしゃになった一枚の羊皮紙を取り出し、震える手でリツに向かって差し出した。
「ノアが、あの紙は覚えておけって言ったんだ」
フィンは、かすれそうな声で必死に言葉を紡いだ。
「移送される子の分を、院長が先にまとめてた。これだけ抜いて、逃げた」
セドリックは差し出された紙へ触れようとしたリツを止めた。携行していた薄手の手袋をはめ、フィンの手から慎重に受け取る。
原告の氏名も、和解条件も、何も書かれていない。だが、最下部の確認官署名欄にだけ、『バルタザール・オルグレン』という名がある。
物音で起きてきたミナは紙に触れず、同じ第九鐘が並ぶ四件の写しをその横へ置いた。
セドリックは紙端の管理番号、光に浮く法院用紙の透かし、綴じ穴に残った封緘蝋の破片を順に確かめた。番号は慈育院へ交付された確認書式の連番に含まれ、破れた封緘は束から一枚だけ抜き取られたというフィンの説明とも合う。確認官署名の筆致も、四件の写しにあるものと一致した。
受領した時刻と場所、持ち出した経緯をフィン本人の言葉で記録すると、紙を証拠袋へ収め、その場で封をした。
「本人名と条件が空白の段階で、確認だけが済んでいる」
「後から誰の名でも、どの条件でも入れられる」
リツはようやく、控室で一瞬見た紙の意味を声にした。推測しかなかった告発に、初めて形のある裏付けができた。
だが。
「あっ……」
その紙を握りしめた瞬間、リツの足から唐突に力が抜け、冷たい床に崩れ落ちた。
息ができない。喉がひくつき、激しい過呼吸が彼女を襲った。
証拠を手にした喜びよりも、前世で依頼人を救えなかった無力感と、前日の法廷で感情に任せて自滅した己の惨めさが、濁流のように押し寄せてきたのだ。
セドリックは、剣から手を離し、リツのそばに歩み寄った。だが彼は「しっかりしろ」と励ますことも、無理に立たせることもしなかった。ただ、彼女と同じように冷たい床に腰を下ろし、無言で隣に寄り添った。
「私、以前にも」
リツは、震える両手で顔を覆い、断片的な言葉を漏らした。
「以前にも、取り下げの書類の前で、依頼人を救えなかったことがあるんです。勝てるはずだった事件なのに、巨大な圧力の前で、依頼人が泣きながら条件を飲むのを、ただ見ていることしかできなかった……」
前世の記憶。取り下げ書という言葉に対する異常なまでの恐怖の根源。
「私は、有能なんかじゃない。過去の失敗に囚われて、感情に振り回されて、確認を怠って……挙げ句の果てに、資格停止の審査まで受けて……」
ボロボロと、止めどなく涙が溢れ落ちた。
ふと、隣に座るセドリックの姿が視界に入る。
「セドリックさん。あの手紙を、焼かなかったでしょう」
父から届いた、関係を断てという命令書。彼は従うとも、捨てるとも言わず、記録として懐へ入れた。
「だから怖いんです。あなたが証拠を選ぶたび、いつか私のそばからいなくなる気がする」
涙で息が切れた。それでも、一度こぼれた言葉は戻らなかった。
「好きなんです。あなたまで失いたくない」
セドリックは答えを急がなかった。冷たい床へ膝をつき、リツの肩を抱いた。外套に残った夜気の向こうから、ゆっくり体温が伝わってきた。
翌朝。
まだ冷たい空気が残るホノカの店舗に、カランと扉を開けて一人の女性が入ってきた。
洗濯女のテレサだった。彼女はまっすぐにリツの前に歩み寄ると、その手の中に、古びた一枚の羊皮紙――八年前に偽造された、彼女自身の和解確認記録を、しっかりと握りしめていた。




