第39話 証拠のない告発
王都法院の広々とした査問会室。
一段高い席には、本件を裁く裁定官がいる。バルタザールは右手の和解確認席に座り、法院長として確認手続きだけを担当していた。
「ノア。あなたが提出したこの和解確認書について、最終の確認を行う」
バルタザールの声は、どこまでも平坦で儀礼的だった。
「あなたは、慈育院に対する一切の訴えを取り下げることに同意した。これは、誰に強制されたものでもなく、あなた自身の完全な自由意思に基づく選択であるか」
ノアは、傍らに立つリツをちらりと見上げ、それから真っ直ぐにバルタザールを見据えた。
「俺は、慈育院の院長がやってきたことを許したわけじゃありません」
少年は、震えを押し殺した声で、はっきりと告げた。
「でも、弟たちを安全な寄宿舎で暮らさせるために、俺が、俺の意思でこの条件を選びました。この名前に嘘はありません」
ノアの力強い言葉が、法廷に響き渡った。
リツは一つ息を吐き、代訴人として口を開いた。
「バルタザール法院長。当方は、依頼人本人が署名した和解書の内容を追認します。しかし同時に、この和解が『家族の鉱山移送』という重大な不利益を背景にして提示された事実を、公式な異議として申し立てます。本日の正確な日時、この場所、ノアさんの証言と当方の異議を、すべて記録してください」
バルタザールはリツの厳しい眼差しを受け止め、表情を変えることなく頷いた。
「記録することに異論はない」
裁定官が書記へ頷き、異議の記載を命じた。
彼は手元の書類に視線を落とした。
「完全な無菌状態での選択など、この現実には存在しない。だが彼は、与えられた選択肢から家族の命を守る道を選んだ。本件の自由意思確認は有効と判断する」
バルタザールが、和解書の末尾に確認署名を入れた。
裁定官が署名と異議記録を確かめ、木槌を鳴らす。
「確認手続きは有効。本件訴えの取り下げを受理する」
――取り下げを、受理する。
その言葉が法廷に響いた瞬間、リツの視界が唐突に暗転した。
目の前の光景が歪み、前世の記憶が濁流のように脳裏へ流れ込んでくる。
薄暗い会議室。巨大企業の圧力に屈し、涙を流しながら取り下げ書に判を押す依頼人の手。どれだけ事実を集めても、明日の生活という人質を取られれば、弱者は理不尽な和解を強要され、その声は永遠に書類の波間に沈んでいく。
あの時も、彼女は依頼人を救えなかった。そして今世でも、ノアに完全な自由を与えることはできず、結果として『和解』という名の口封じを許してしまった。
目の前で、平然と取り下げ書をまとめているバルタザールの姿が、前世で依頼人を踏みにじった権力者たちの顔と重なった。
「待ってください」
気がつけば、リツは証言台の前に進み出ていた。
「代訴人、手続きは終了したはずだが」
怪訝な顔をする裁定官の制止も耳に入らない。リツは、バルタザールを真っ直ぐに指差し、激しい怒りと焦燥に身を任せて叫んでいた。
「この和解だけではありません! 法院長、あなたが署名した過去八年間の、慈育院に関する四十七件の和解記録! あれはすべて、あなたが原告本人と直接面会などせずに作り上げた虚偽の記録のはずだ!」
法廷が、水を打ったように静まり返った。
バルタザールの手がピタリと止まる。
「代訴人。それは、公務員に対する重大な偽証と虚偽記録作成の告発と受け取ってよいのだな」
「ええ、そうです! 王都の東西南北で、同じ日の同じ『第九鐘』に、あなたが四人の原告と同時に面会できるはずがない! あなたは白紙の確認書を施設に渡し、後から偽の時刻と偽の署名を書き込ませたに決まっている! 和解という制度を悪用し、子どもたちの声を闇に葬ってきたのはあなただ!」
決定的な物証もないまま、状況証拠からの推測を、絶対の事実であるかのように言い切ってしまった。
「代訴人、ただちに発言を撤回しなさい!」
傍聴席の最前列から、セドリックの鋭い怒声が飛んだ。
彼は血相を変えて立ち上がり、リツに向かって強い語調で警告した。
「今のあなたには、彼が白紙の確認書を渡したという客観的な物証がない! 推測だけで王都法院長を告発すれば、あなた自身が懲戒の対象になる! 法廷で証拠のない断言をしてはならない、直ちに撤回を!」
だが、前世の光景に呑まれたリツには届かなかった。
「撤回は……しません!」
リツはセドリックの制止を振り切り、バルタザールを睨みつけた。
「彼が、子どもたちの自由意思を確認していないのは事実です!」
バルタザールは小さくため息をつき、ひどく冷ややかな目でリツを見下ろした。
「極めて遺憾だ。有能な代訴人だと思っていたが、個人的な妄想で神聖な法廷を愚弄するとは」
裁定官が自ら木槌を鳴らした。
「代訴人リツ。証拠なき公務員への偽証告発、および著しい審理妨害により、懲戒申立てを行う。審査が終わるまで、新規事件を代理人名義で受任すること、代訴人章を用いて申立書または証人召喚請求を提出することを禁ずる」
裁定官は、制限の範囲を続けて読み上げた。
当事者本人への相談と書面作成の補助はできる。本人が法廷に立つ事件で、裁定官の許可を得た範囲なら尋問も補佐できる。だが、リツ一人では事件を始められず、一人では法廷に立てない。
バルタザール側はさらに、名を公にされた四十七件の記録を当事者保護のため封印保管するよう求めた。正式な申立人が現れない限り、新たな閲覧は認められない。
木槌が鳴る。リツが証拠より先に叫んだせいで、確かめるための扉まで閉じた。
法廷での手続きが終わり、重い扉の外へ出た瞬間だった。
リツの足から力が抜け、冷たい大理石の床に膝をついた。
「はっ……、あ……っ」
喉がひくつき、空気が肺に入ってこない。
頭の中で『取り下げ書』という言葉が何度も反響し、前世の依頼人の泣き顔と、先ほどノアが署名した書類の光景がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
感情に引きずられ、物証を持たないまま敵を断罪しようとした。その結果、バルタザールに傷一つ負わせることもできず、ただ自分の代訴人としての首を絞めただけだった。
「リツ……!」
ノアが慌てて駆け寄ってくる。
だが、リツは過呼吸の発作に襲われ、胸を掻き毟りながら、ただ石の床にうずくまって喘ぐことしかできなかった。




