第38話 自分の名前
王都の空に薄明るい朝の光が差し込む頃。王立寄宿舎の堅牢な鉄門の前に、一台の飾り気のない馬車が到着した。
通りを挟んだ物陰から、リツとノアはその様子をじっと見守っていた。
馬車の扉が開き、中からボロボロの衣服を着た三人の幼い子どもたちが、怯えたように身を寄せ合って降りてくる。出迎えた寄宿舎の職員が彼らに温かい毛布を掛け、優しい手つきで安全な建物の中へと誘導していった。
「よかった」
ノアの口から、絞り出すような声が漏れた。彼の目には、堪えきれない安堵の涙が光っている。
昨夜、リツがバルタザール法院長に突きつけた第一の条件――『和解書への署名より前に、弟妹三人全員を慈育院から解放し、安全な場所へ移送すること』。それが今、間違いなく実行されたのだ。
過酷な鉱山送りの恐怖は去り、一番の足枷となっていた人質はなくなった。
「さあ、店に戻りましょう。最後の手続きが残っています」
リツの言葉に、ノアは涙を乱暴に袖で拭い、力強く頷いた。
ホノカの厨房に戻ると、リツは作業台の上に一枚の石板と石筆を用意した。
「ノアさん。和解を正式に成立させるためには、あなた自身の手で、和解確認書に自筆の署名をする必要があります」
ノアはこくりと頷き、石筆を手に取った。だが、石板に向かった彼の手は、小刻みに震え始めていた。
これまで、彼にとって「契約」や「署名」とは、文字の読めない自分を縛り付け、借金漬けにして搾取するための恐ろしい道具でしかなかった。大人の都合でペンを握らされ、訳も分からないまま指印を押させられた過去の記憶が、彼の身体を強張らせる。
「俺、ちゃんと書けるかな」
「書けます。書けるようになるまで、私が何度でも待ちますから」
リツの静かで、しかし決して見下すことのない真摯な声に、ノアは息を吸い込んだ。
不格好な線を何度も引き、消しては書き直す。文字の形をなぞるたびに、また何かに支配されるのではないかという恐怖がよぎり、額に汗が浮かぶ。
厨房の隅では、以前「文字なんて覚えたくない」と学習を拒絶したミナが、息を潜めてその様子を見守っていた。
何度目かの失敗の後、ノアは石筆を強く握り直した。
「これは、院長に言われて書くんじゃない」
ノアは自分に言い聞かせるように、震える声で呟いた。
「俺が、弟たちを守るために、自分で選んだ条件だ。誰かに強制されたんじゃなくて、俺自身が納得して、俺の家族のために決めたことなんだ……!」
石筆が、力強い音を立てて石板の上を走る。
歪ではあるが、間違いなく彼自身の意思が込められた文字が、そこに刻まれた。
「書けましたね。立派な、あなたの名前です」
リツが微笑むと、ノアは顔をくしゃくしゃにして笑い、そして声を上げて泣いた。
ミナは布で隠していた自分の石板を手元へ引き寄せた。消したはずの名をもう一度書き、石筆を握り直した。
「リツ」
ミナは、石板に線を弾きながら言った。
「私、また文字の練習、するね」
リツは目を細め、深く頷いた。
そこへ、店の裏で作業を手伝っていたテレサが、洗い立ての布巾を抱えて入ってきた。彼女はノアの頭を優しく撫でると、リツに向き直って真剣な顔を見せた。
「リツさん。私の八年前の取り下げ記録……あれは絶対に捨てないで。いつか、あの嘘の記録に、私自身の言葉で異議を申し立てる日のために。私がちゃんと、持っておくわ」
午後、和解の最終手続きを行うため、リツとノアは王都法院の控室へと足を運んだ。
薄暗い室内には、慈育院長のモーリスが先に来ており、長机に何枚もの書類を乱暴に並べていた。その傍らには、慈育院の年長児であるフィンをはじめ、近いうちに移送される予定の子どもたちが、怯えた様子で壁際に立たされている。どうやらモーリスは、彼らの手続きもついでに済ませようと準備をしているらしい。
モーリスが束の表紙を直した拍子に、一枚がずれた。本人欄も条件欄も白い。その下端にだけ、バルタザールの署名が見えた。
リツが手を伸ばすより早く、モーリスは紙を束へ戻した。
「移送予定者の定型書式だ。部外者が触るな」
一瞬しか見ていない。写しも取れない。リツは追及を飲み込み、紙が置かれていた位置だけを覚えた。
ノアも同じものを見ていた。自分の名前を練習したばかりだからこそ、空白より先に置かれた署名が目についたのだ。
モーリスが書類へ背を向けた隙に、ノアは壁際のフィンへ歩み寄った。
「おい、フィン」
ノアは、誰にも聞こえないほどの小声で、しかしはっきりとした口調で囁いた。
「あの束を覚えておけ。名前を書く前から、下に署名がある」
フィンは目を見開き、モーリスの背後にある束を見た。
「さあ、とっとと署名しろ。人質のガキ共は解放してやったんだからな」
モーリスが、ノアの分の和解書を苛立たしげに突き出した。こちらの書類には、リツが夜通しで作った『選べる条件』が正確に記載されている。
「ノアさん」
リツが場所を空けると、ノアはペンを手に取った。
もう、彼の手は震えていなかった。これは誰かに書かされるものではない。自分が選び取った、家族の明日を守るための約束だ。
ノアは、不格好だが力強い文字で、自らの名前をしっかりと書き記した。
「行きましょう。これを提出すれば、終わります」
自らの手で署名した和解書を携え、ノアは胸を張り、最終的な手続きが行われる査問会室の扉へと真っ直ぐに向かっていった。




