第37話 選べる和解にする
深夜のホノカの厨房には、リツの走らせるペン先の音と、羊皮紙をめくる微かな摩擦音だけが響いていた。
ノアの弟妹たちが鉱山へ移送されるまで、あと三日。
彼らの命を救い、かつ慈育院の不当な搾取から完全に切り離すため、リツはセドリックと共に夜通しで『和解条件の修正案』を練り上げていた。
「これで、どうでしょう」
リツは書き上げた分厚い書面を、向かいに座るセドリックへと押しやった。
セドリックは疲労を見せない冷徹な瞳でその文面を追い、一つひとつの条件を吟味していく。
「第一に、和解書への署名より『前』に、弟妹三人全員を慈育院から解放すること。第二に、解放された子どもたちの正確な氏名と、今後の安全な所在を公的記録として残すこと。第三に、彼らに提供される住居および新たな奉公先は、慈育院と一切の資本関係を持たない独立した場所であること……」
セドリックは読み上げながら、小さく頷いた。
「いいでしょう。これなら、後から『別の負債がある』と難癖をつけられて連れ戻される危険を完全に防げます」
「それだけではありません」
リツは、手続きの根幹に関わる後半の条項を指で叩いた。
「第四に、この和解を拒否した場合、家族が鉱山へ移送されるという『不利益』が実際に提示されていた事実を文書化すること。第五に、和解の条件全文を、ノアさんの前で確認官がはっきりと読み聞かせること。そして第六に、ノアさんが自分自身の意思で、自筆の署名ができるようになるまで、和解の成立を待つこと」
読み書きができない状態での指印など、絶対に認めない。自分が何に同意するのかを完全に理解し、自らの手で名前を書けるようになるまでの猶予期間を確保する。
「そして最後に、本人確認が行われた正確な日時と場所の記載。加えて、私からの『異議申立書』を添付します」
リツのその言葉に、セドリックは視線を上げた。
「異議、ですか。和解に同意するのに?」
「はい。条件闘争には勝ちましたが、この和解がノアさんの『完全な自由意思』によるものだと肯定することはできません。家族の命を人質に取られたことによる圧力は、間違いなく存在した。ですから、代訴人として、この手続きの背景にあった不当な圧力の記録だけは、公式な異議として法院の書面に残します」
セドリックは数秒ほどリツを見つめ、やがて息を吐いた。
「見事な手腕です。相手が用意した逃げ道をすべて塞ぎ、和解という名の『降伏』を、対等な『契約』へと作り変えた」
セドリックは立ち上がり、その修正案を丁寧に革の鞄へと収めた。
「夜が明け次第、私が直接、これを法院へ提出してきましょう」
「お願いします」
窓の外が白み始め、粉挽き横丁に朝の気配が漂い始めた頃。
大きな仕事を終えた反動からか、リツは厨房の椅子に深く沈み込み、小さくため息をついた。
そんな彼女の目の前に、小さな紙包みが置かれた。
「これは?」
「少し、食べておきなさい。あなたの店のパンではありませんが」
セドリックが差し出したのは、塩漬けの干し肉と、日持ちのする硬い木の実の携帯食だった。
徹夜の作業で空き切った胃には、甘いパンよりもこうした塩気のある実務的な食べ物の方がありがたかった。
「ありがとうございます……」
リツは干し肉を齧りながら、目の前に座るセドリックを見つめた。
彼は昨夜からずっと、リツの隣で書類の精査に付き合ってくれていた。侯爵家からの圧力を示す、あの命令書を懐に忍ばせたまま。
「セドリックさん」
リツは木の実を飲み込み、意を決して問いかけた。
「お父様からの、ご命令についてです。あなたに持ち込まれているという、伯爵家のご令嬢との縁談……受けるおつもりですか」
セドリックは少しだけ目を見張ったが、すぐに真っ直ぐにリツを見据え返した。
「いいえ」
彼の答えは、ただの一言だった。
「私には、その縁談を受ける意思はありません」
リツの胸の奥で、張り詰めていた糸がほどけた。
「そうですか」
リツは少しだけ口元を綻ばせ、残りの携帯食をゆっくりと咀嚼した。
その日の昼下がり。
ホノカの店舗に、王都法院からの使者が息を切らして駆け込んできた。
差し出されたのは、分厚い公文書の束。
「バルタザール法院長からの、返答です……!」
リツは急いで封を切り、中身を確認した。
そこには、リツが昨夜突きつけた厳しい修正条件の大半を、王都法院として全面的に受け入れる旨が記されていた。多数の生活基盤を守り、表沙汰になることを避けるためであれば、バルタザールは自らの組織に不利な譲歩をしてでも和解を急いだのだ。
そして、その文書の一番上には、待ち望んでいた一枚の『承諾書』が添えられていた。
「ノアさん!」
店の奥で不安そうに待っていた少年に向かって、リツは力強く声を張った。
「弟妹さん三人の、慈育院からの即時解放が認められました。今すぐ、王立寄宿舎への移送が実行されます!」




