第36話 勝つまで待てない
木製のテーブルの上に置かれた二枚の書類が、ホノカの厨房に重苦しい空気を落としていた。
一つは、慈育院から届いた『三日後の朝、ノアの弟妹三人を鉱山へ移送する』という冷酷な最終通知。
そしてもう一つは、王都法院長バルタザール・オルグレンの名で作成された、正式な『特別和解案』の同意書だった。
リツはその同意書の文面を、冷え切った声で読み上げた。
「『ノア及び弟妹三人の即時解放。これまでの養育費名目の負債の完全帳消し。王立寄宿舎における安全な住居の提供。ならびに、正当な賃金が支払われる新規奉公先の斡旋』……これらが、法院の保証のもとで与えられる和解の条件です」
ノアの目が、希望に揺れた。鉱山行きという絶望の淵に立たされていた彼にとって、それは夢のような条件の羅列だった。
「ただし」
リツは書類の末尾を指差し、言葉を硬くした。
「対価として『慈育院に対するすべての不当労働の訴えを放棄し、直ちに申し立てを取り下げること』と明記されています」
その一文を見た瞬間、リツの胸の奥底で、暗く冷たい感情が渦巻いた。
取り下げ。和解という名の口封じ。これを受け入れれば、ノアの一家は助かるかもしれない。だが、慈育院の違法な搾取構造は不問に付され、施設に残されている他の百人の子どもたちは、明日からも絶望の中で働き続けることになる。
「こんな和解、絶対に受けるべきではありません」
リツは反射的に、嫌悪感を露わにして言い放った。
「これはただの隠蔽です。ここで取り下げれば、院の不正は闇に葬られます。私たちが証拠を揃えて法廷で戦い、慈育院の契約そのものが違法だと認めさせれば、あなたたちだけでなく、すべての子どもたちを助けることができるはずです。こんな条件に屈してはいけない」
「戦うって……じゃあ、いつまで待てばいいんだよ!」
ドンッ、とノアが両手でテーブルを叩きつけた。
顔を上げた少年の目には、怒りと、どうしようもない恐怖の涙が浮かんでいた。
「証拠を揃える? 法廷で勝つ? それがいつになるんだよ! 明日か? 明後日か? 三日後には、弟たちは真っ暗な鉱山に送られて、二度と帰ってこられないかもしれないんだぞ!」
「それは……保全の申し立てを急いで……」
「あんたは代訴人だから、安全な場所で『いつか勝てる日』を待っていられるかもしれない。自分の明日食べるパンの心配もしなくていいし、家族が売られる恐怖もないからな! でも、俺には待てる時間なんてないんだよ!」
ノアの悲痛な叫びが、狭い厨房に反響した。
「俺だって……院に残ってるあいつらを見捨てるのは嫌だ。あいつらの顔が何度も頭に浮かぶ。一緒に逃げたかった。でも、俺には自分の弟たちを守るだけで精一杯なんだ……! 自分の命も、明日生きる場所も賭けてないあんたの綺麗な正義を、俺たちに押し付けないでくれ!」
リツは、息を呑んで立ち尽くした。
ノアは何も分かっていない短慮な子どもではない。他の百人の子どもを見捨てることへの罪悪感に苛まれながらも、それでも目の前の弟妹の命を守るために、泥を被って和解を選ぶしかないのだ。
自分はどうだ。
前世で『取り下げ書』によって依頼人を救えなかったトラウマ。和解という言葉に対する極端な嫌悪感。それらに囚われるあまり、依頼人の今日明日の生活の危機よりも、自分自身が過去を乗り越えるための『完全な勝利』を、彼に押し付けていたのではないか。
「彼の言う通りです、代訴人」
壁際にいたセドリックが口を開いた。
「和解を選ぶ決定権は、あくまで当事者である彼にあります。彼が、自分の家族の安全と明日の生活を望むのであれば、あなたが個人的な信条や正義感のためにそれを止める権利はない」
セドリックはリツを慰めも庇いもしなかった。実務家として、代訴人が踏み越えてはならない一線を最も痛烈な言葉で指摘した。
それでも彼は扉へ向かわず、リツの隣に立った。
リツはノアの前まで歩き、膝をついた。少年を見上げる高さまで身を落とし、和解書を彼の手元へ押し戻す。
「私は、あなたの今日を見ていませんでした。ノアさんは、どうしたいですか」
ノアの肩から力が抜け、彼は長椅子に座り直した。
「俺は、和解したい」
ノアは震える両手を強く握り締め、膝の上でうつむいた。
「弟たちを助けられるなら、何でもする。どんな紙にだってサインしてやる。でも、怖いんだ。院長や法院長が、本当に約束を守るのか。紙にサインした途端に『やっぱり鉱山へ行け』って言われたら、俺にはもう抵抗できない。また騙されて、結局弟たちが奪われるんじゃないかって……」
安全な場所と引き換えに、すべての反撃の権利を手放すことへの、根源的な恐怖。
リツはノアの前に歩み寄り、その震える手に、そっと自分の手を重ねた。
「ええ、その恐怖は正しい。相手の言いなりになって、言われた通りの書類に署名するだけの和解なら、必ず隙を突かれます」
リツの瞳に、再び法廷へ向かう代訴人の静かな炎が宿った。
「ノアさん。あなたが和解を望むのなら、私はそれに全力で従います。ですが、ただ屈服して取り下げるのではありません」
リツはテーブルの上の『特別和解案』を手に取った。
「この和解を、相手が用意した『選ばされる和解』から、私たちが主導権を握る『選べる和解』へと作り変えます。約束を破れば相手が破滅するような厳重な条件を、こちらから突きつけるのです」




