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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第35話 同じ第九鐘

ミナが指差したのは、セドリックが持参した四十七件の和解確認記録のリストの一部だった。


 彼女は、自分がようやく読めるようになったばかりの『数字』を、まるで間違い探しでもするように目で追っていた。


「リツ、これ……同じだね」


「同じ……何がですか?」


 リツが尋ねると、ミナはリストの四箇所を交互に指差した。


「ここと、ここ。あと、これとこれも。日にちの数字が同じ。それから、その横にある鐘の時間の数字も、『九』で全部同じだよ」


 ミナの言葉に、リツとセドリックは弾かれたようにリストを覗き込んだ。


 確かに、ミナが指摘した四つの事件の取り下げ記録は、すべて『同じ年の、同じ日の、第九鐘』に行われたと記載されていた。


「同じ日の、第九鐘……」


 リツは背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 和解確認法における第六原則では、確認官は原告本人と『直接面会』し、自由意思を確認しなければならない。


 リツは、その四件の事件がどこで発生したものかを、リストの住所欄で確認した。


「王都の東地区、西の商業区、南の港、それに北の農村部……。王都の東西南北、まったく違う四つの場所で起きた事件です。それなのに、取り下げの本人確認が行われた時刻が、すべて『同日の第九鐘』になっている」


 一人の男が、王都の東西南北で同じ鐘を聞くことはできない。


「これは、決定的な矛盾です」


 リツの声が微かに震えた。


「バルタザール卿は、この四人全員とは会っていない。少なくとも三人は、本人確認を怠った虚偽の記録ということになります」


 ミナは大人たちの深刻な顔を見比べ、首を傾げた。


「同じ数字だと、ダメなの?」


 彼女には、この物理的な矛盾が持つ『法的な意味』までは分かっていない。ただ、読めるようになった数字の並びが偶然重なっているのを見つけ、それを事実として伝えただけだった。


「いいえ、ミナ。ダメじゃありません。あなたが見つけた同じ数字が、また大きな力になります」


 リツはミナの頭を優しく撫でた。子どもに大人の法理や、事の重大さをこれ以上背負わせる必要はない。


「ですが、代訴人」


 セドリックが冷静な声で、リツの希望に釘を刺した。


「この矛盾だけを法廷に持ち込んでも、バルタザール卿を偽証で追い詰めることはできませんよ。彼は極めて慎重な男です。ただの間抜けなミスで、こんな分かりやすい矛盾を残すはずがない」


 セドリックはリストの時刻欄を指でなぞった。


「おそらく、この『第九鐘』というのは、実際に面会した時刻ではありません」


 その言葉の意味を確かめるため、翌朝、リツとセドリックは王都法院の古い記録庫を管理している、退職間近の元書記のもとを訪ねた。


 元書記は、過去の取り下げ記録の束を見せられると、気まずそうに目を逸らした。


「ああ、この時刻欄ね。これ、私たちが書いたんだよ」


「書記官が、ですか?」


「ええ。ほら、昔の法院長は忙しくてね。取り下げ書の束が回ってくると、結論の署名欄だけを見て、バンバン判子を押してたんだ。で、私たち書記は、形式を整えるために、時刻欄には決まって『事務が始まる第九鐘』って、既定値として書き込んでいたのさ。いちいち本当の時刻なんか、確認して書いちゃいなかったよ」


 元書記の証言は、バルタザールのずさんな実務態勢を明らかにするものだった。


 誰が、何時、どこで確認したか。本来なら自由意思を担保するための最も重要な『形式』を、バルタザールはただの手続きの飾りだと軽視し、書記に定型で書き込ませていたのだ。


 だが、それは同時に、リツたちにとって絶望的な事実でもあった。


「つまり」


 リツは重い足取りで記録庫を出ながら、セドリックに向かって呟いた。


「時刻が『第九鐘』で重なっているのは、単に書記が適当な既定値を書き込んだからであって……バルタザール卿が『別々の時間に四人と面会した』と主張すれば、それまでということですね」


「そういうことです」


 セドリックも苦々しげに頷いた。


「彼が四人と直接会わなかったという証明にはならない。時刻の記録がずさんだという行政指導は受けるかもしれませんが、第七原則の『虚偽記録による処罰』には至らない。あの男の思想の痕跡は確かにある。だが、今の段階では、彼を偽証者として引きずり下ろす決定的な武器にはならないのです」


 決定的な矛盾を見つけたはずなのに、法という壁がそれをすり抜けさせてしまう。


 リツは悔しさに唇を噛み締めながらも、先ほど元書記から借り受けた数枚の『第九鐘の取り下げ記録』の写しを、大切に革の鞄にしまい込んだ。今はまだ決め手にならなくても、この記録は絶対に手放してはならない。


 ホノカに戻ると、重い空気が店を包んでいた。


 ノアの弟妹たちが鉱山へ移送されるまで、あと三日。


 刻一刻とタイムリミットが迫る中、彼らを安全に救う手段は、バルタザールが提示した『他の百人を見捨てる和解案』しかないように思えた。


 その時、表の扉が開き、一人の配達人が封書を届けに来た。


 宛名は、ノア。


 封筒の中には、二枚の書類が入っていた。


 一枚は、慈育院からの『三日後の朝、弟妹三人を鉱山へ移送する』という最終通知。


 そしてもう一枚は、王都法院から正式に送られてきた、バルタザールによる『特別和解案』の同意書だった。

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