第34話 窯の火が消えた後で
バルタザールとノアが店を出て行き、ホノカの厨房には深い静寂と、冷え切った窯の残り熱だけが漂っていた。
ミナは店の奥の長椅子で疲れ果てて眠りにつき、土間にはリツとセドリックの二人だけが残されていた。
「バルタザール卿の提案は、極めて現実的で有効なものです」
セドリックが、静かな声で沈黙を破った。
「あの男が『直接斡旋する』と言った以上、ノアと彼の弟妹たちの安全と住居は確実に保証されるでしょう。一週間後に迫った鉱山送りを止めるには、あれ以上の即効性を持つ手段はありません」
「ええ。分かっています」
リツは両手で顔を覆い、絞り出すように答えた。
「でも、あの和解案を受け入れれば、慈育院の根本的な違法契約は不問に付され、施設に残された百人以上の子どもたちは、これからも借金で縛られ搾取され続けます。ノアさんたち『だけ』を救って、他の子どもたちを見捨てるような真似は……」
「代訴人」
セドリックの厳しい声が、リツの言葉を遮った。
「和解を受け入れるかどうか。それを選ぶ権利は、あなたにはありません。決定権は、あくまで依頼人であるノア自身にある。それが、第六原則の大前提でしょう」
正論だった。
リツは、自分がかつて前世で「和解」という言葉によって依頼人を救えなかった後悔を、今のノアの事件に強く投影しているだけではないのか。他の子どもたち百人を救うという大義名分の下で、実は「自分が過去のトラウマに打ち勝つための完全な勝利」を、ノアに押し付けようとしているのではないか。
「私は……」
リツは言葉に詰まり、唇を噛み締めた。
依頼人であるノアの命と生活を守るべきか。それとも、過去の自分をやり直すために、すべての真実を法廷で暴くべきか。その二つの間で、彼女の倫理は激しく引き裂かれていた。
重苦しい沈黙の中、セドリックは懐から一通の分厚い封書を取り出し、テーブルの上に置いた。
封蝋には、王立監察院の紋章ではなく、ヴァレンティア侯爵家の家紋が押されている。
「それは?」
「父からの、命令書です」
セドリックは封を切らず、要点だけを告げた。
「私がこれ以上、平民の代訴人であるあなたに協力し、王都法院長であるバルタザール卿と対立することを禁じる内容です。加えて、先日保留にしていた例の伯爵家との縁談を、正式に受諾せよとの命も記されています」
リツの心臓が、冷たい手で掴まれたように嫌な音を立てた。
侯爵家という巨大な権力が、ついにセドリックの行動を明確に制限しにかかったのだ。彼がこれ以上リツに関われば、彼は侯爵家からの支援や身分はおろか、家族としての縁すら失うかもしれない。
「なぜ、私にそれを見せるのですか」
リツの声が微かに震えた。
「そんな命令書が届いたのなら、すぐに暖炉の火で焼いてしまえばいいのに。見なかったことにして、家に従えばいいのに……」
突き放すようなリツの言葉に、セドリックは首を横に振った。
「私は、この命令書を焼くつもりはありません。これは、侯爵家という権力が、個人の正当な調査や司法手続きに対してどのような『圧力』をかけてきたかを示す、客観的な記録だからです」
セドリックは封書を再び懐へとしまい込んだ。
「私は査察官として、事実を記録し、保存する義務がある。それがたとえ、自分の父親からの不当な圧力であってもです」
リツは少しだけ目を見張った。焼けば消える紙を、彼は自分の不利ごと記録に残した。
「代訴人。これを」
セドリックは、別の薄い書類の束を取り出し、リツの前に広げた。
「王立記録庫で調べてきた、慈育院に関する過去の取り下げ記録のリストです。先日のテレサの分も含め、過去八年間で同様の不可解な和解で閉じられた事件が……全部で、四十七件ありました」
四十七件。
そのすべての確認記録に、バルタザールが「直接面会し、自由意思を確認した」という署名が残されているのだとすれば。
リツとセドリックは、机の上に並べられた四十七という数字の重みに、無言のまま立ち尽くしていた。
ふと、店の奥で寝ていたはずのミナが、目を擦りながら起き上がってきた。
彼女は寝ぼけ眼のまま二人の間に割り込み、机の上に広げられた書類の束を覗き込んだ。そして、そのリストに並んだある数字の羅列を指差して、不思議そうに首を傾げた。




