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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第33話 法院長はパンを食べない

「王都法院長、バルタザール・オルグレン卿」


 リツの言葉に、ホノカの厨房の奥で震えていたミナとノアの顔が、さらに強張った。


 王都法院で争いを裁くのは、事件ごとに選ばれる裁定官だ。バルタザールはその席には座らない。彼が統括するのは和解確認官と記録行政――取り下げを本人の選択として公的記録へ載せる部門だった。


 しかし、バルタザールの態度は、かつてリツが相手にしてきた傲慢な貴族や商人たちとは異なっていた。


「驚かせてしまって申し訳ない。ただの使いを出すこともできたが、直接話した方が良い事案だと思いましてね」


 彼は店の設備やパンを見下すような言葉を一切吐かず、ミナたちに対しても、ひどく丁寧で静かな視線を向けた。その礼儀正しさは、かえって得体の知れない圧迫感を生んでいた。


「わざわざのご足労、痛み入ります」


 リツは警戒を解かず、手近にあったトレイから、今日焼き上がったばかりの白パンを一つ取り出し、バルタザールへ差し出した。


「どうぞ。本来ならもう閉店の時間ですが、お話の前に少しばかりの――」


「お心遣い、感謝します」


 バルタザールは、差し出されたパンを手に取ることはせず、しかし無下に払い落とすこともなく、首を横に振った。


「ですが、代訴人殿。私は公的な立場にあり、かつ、現在あなたが扱っている事案の利害関係者となり得る身です。そのような立場で、あなたから『物』を受け取るわけにはいきません。それがたとえ、善意のパン一つであっても」


 リツは差し出した手を戻した。まだ温かい白パンが、掌へ残った。


「それで、法院長自ら、どのようなご用件でしょうか」


「慈育院の件についてです」


 バルタザールは、少しも感情を交えずに本題に入った。


「あなたが、あの子どもたちを過酷な契約から救い出そうとしていることは知っています。しかし、もしあなたが法廷で慈育院の違法性を完全に立証し、あの施設を『潰す』ことになった場合……その後に何が起こるか、想像したことはありますか?」


「それは……」


「現在、あの慈育院には百人以上の子どもたちが収容されています」


 バルタザールの声が、低く、重くなった。


「彼らの多くは、働く場所も、帰る家もない孤児です。もし施設が閉鎖されれば、百人以上の子どもたちが明日から路上に放り出され、飢えと寒さに直面することになる。彼ら全員の生活を、あなたが保証できるのですか?」


 数字は脅しではなかった。リツの喉が詰まる。


「そこで、和解の提案です」


 バルタザールは、懐から一枚の書類を取り出してカウンターに置いた。


「慈育院を潰すことはしません。その代わり、この少年――ノアとその弟妹たちについては、王立の安全な寄宿舎へ住居を移し、真っ当な賃金の支払われる新しい奉公先を私が直接斡旋しましょう。これなら、院の他の子どもたちを路頭に迷わせることなく、彼らの生活も保証できます」


 ノアたちは明日にも助かる。だが、『和解』の一語にリツの身体が強張った。


「つまり、他の子どもたちは過酷な契約の下に置いたまま、ノアさんたちだけを特別扱いして『口封じ』をするということですね。私は、そのような――」


「そして、もう一つ」


 バルタザールはリツの言葉を遮り、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。


「代訴人リツ。あなたの有能さは評価しています。この件から手を引き、和解に協力していただけるのであれば、あなたを王都法院の『顧問職』として迎え入れましょう。そうすれば、あなたはもっと多くの人々を、合法的に救うことができるはずです」


「お断りします」


 リツは、即座に冷たく言い放った。


「私は、依頼人が自分で選ぶ権利を奪うような和解には同意しません。ましてや、自分の立身のために彼らの声を売るつもりなど毛頭ありません」


 リツの即答に、バルタザールは小さく息を吐いた。


「代訴人殿。あなたは本当に、『彼らの救済』を求めているのですか? それとも、自分の理想を通し、法廷で勝つという『自分自身の勝利』を求めているのではないですか?」


 痛いところを突かれたような言葉に、リツの肩が微かに揺れた。


「待ってくれ……」


 その時、重苦しい空気を破るように、背後から掠れた声が響いた。


 顔を上げると、ノアが長椅子から立ち上がり、震える足で二人の間に歩み寄ってきていた。


「ノアさん……」


 リツが止めようとするのを手で制し、ノアはバルタザールを真っ直ぐに見つめた。


「あんたの提案なら、弟たちは鉱山に行かなくて済むんだな? 本当に、安全な場所で暮らせるようになるんだな?」


「ああ。私が保証しよう」


 ノアは、唇を強く噛み締めた。


 リツは「和解は口封じだ」と拒絶した。だが、今、弟たちの命がタイムリミットの一週間後に迫っているノアにとって、代訴人の掲げる倫理や正義よりも、目の前の『確実な安全』の方が何百倍も価値があるように見えた。


「リツ」


 ノアは、リツの方へ顔を向け、すがるような、そしてどこか恨むような瞳で言った。


「俺にも、その話を聞かせてくれよ。選ばせてくれよ」

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