第32話 文字を覚えたくない
「和解……ですか」
リツは、セドリックが持ち込んだ過去の記録に記されたその単語を、ひどく苦いものを噛み潰すように呟いた。
和解。それは表向きには、争う双方が互いに譲り合い、円満な解決を見るという美しい言葉だ。だが、圧倒的な権力や資金力を持つ者と、明日のパンすら買えない弱者が争った場合、その和解はしばしば『口封じのための不当な圧力』へと変貌する。
「ええ。過去に慈育院の過酷な労働を訴え出た子どもたちの記録は、すべて途中で『原告本人の自由意思による訴えの取り下げ』という形で処理され、和解が成立しています」
セドリックは、そのうちの一枚の書類を指差した。
「例えば、この八年前の記録。原告の名前は……テレサ」
「テレサ……?」
その名前に、リツは聞き覚えがあった。エレノアの件で受取帳を提供した洗濯女だ。彼女はあの時、自分の署名をひどく恐れていた。
「テレサさんも、昔はあの慈育院にいて……不当な労働を訴え出たのですね」
「はい。ですが、彼女の訴えも、申し立てのわずか数日後に『取り下げ』となっています。記録によれば、慈育院側から『もし訴えを取り下げなければ、院に残っている弟を追い出し、住居を奪う』と示されたようです」
弟の住居。それは、今のノアが突きつけられている『弟妹の鉱山行き』とまったく同じ、生活の根幹を人質に取るという卑劣な手口だった。
「第六原則の、和解確認法ですね」
リツは厳しい顔で、王国法に定められた規定を口にした。
「和解や訴えの取り下げが、家族や住居などを人質にした不当な圧力によるものではないか。それを防ぐため、法院の確認官は原告本人と『直接面会』し、自由意思であるかどうかを厳密に確認する義務があるはずです」
「その通りです。そして、このテレサの取り下げ記録には、当時の確認官であったバルタザール・オルグレン……現在の王都法院長が、『本人と直接面会し、自由意思であることを確認した』という署名が残されています」
その言葉に、リツは息を呑んだ。
バルタザールが直接確認した。それなのにテレサは以前、「法院の偉い人なんて見たこともない」と話していた。
それはつまり、テレサの取り下げ記録が、本人確認の要件を満たしていない『虚偽の記録』である可能性を示唆していた。
「さらに不自然なのは、この署名です」
セドリックは、テレサの取り下げ記録の末尾にある、本人署名欄を指差した。
「八年前、慈育院にいた彼女は文字の読み書きができなかったはずです。それなのに、この取り下げ書には、あまりにも流麗で大人びた『テレサ』という署名が記されています。当の彼女自身は、後日の調査で『自分はただ、大人に言われるがまま、インクをつけた親指の印を押した紙のことしか覚えていない』と証言しています」
本人が書いた覚えのない、流麗な偽署名。
そして、面会していないにも関わらず『直接確認した』と記された、法院長の署名。
それらの事実が示すのは、法という制度そのものが、権力者たちの手によって都合よく歪められ、弱者を沈黙させるための道具として使われているという、背筋の凍るような現実だった。
その時、ガシャン、と大きな音がした。
驚いて振り返ると、店の隅のテーブルで、先ほどまで石筆を使って文字を書く練習をしていたミナが、手元の石板と筆を床に叩き落としていた。
「ミナ?」
リツが駆け寄ると、ミナは自分の両腕を固く抱きしめ、真っ青な顔で激しく震えていた。彼女の視線は、リツたちの机の上に広げられた、過去の取り下げ書の『偽署名』に釘付けになっていた。
「私……もう、文字なんて覚えたくない」
ミナは震える声で、絞り出すように言った。
「文字なんて読めるようになったって、大人は平気で嘘の紙を作る。私たちが読めない時は、勝手に偽のサインを書いて、私たちの意見を奪う。もし……もし私が文字を書けるようになったら、今度はその手を無理やり動かされて、私が一番望まない契約書に、自分の名前を書かされるんでしょ……!」
字を覚えれば、今度は読んだ上で署名させられる。ミナには、白墨の線まで新しい鎖に見えていた。
リツは、ミナの足元に落ちた石筆を拾い上げる手を止めた。
「文字は自分を守るための力になる」。少し前、リツはミナにそう教えた。だが、それはあくまで「法が正しく機能している」という前提があってこその綺麗事だ。
現実は違う。法を司るべき法院長自らが、本人確認を怠った虚偽の和解記録に署名しているような世界で、いくら子どもが文字を覚えたところで、圧倒的な権力と暴力の前には無力かもしれない。
リツは、正論でミナを説得することをやめた。
「分かりました。ミナがそう思うのなら、今は無理に文字を覚えなくていいです」
リツは床の石板を拾い上げ、布で覆った。
「でも、これだけは約束してください。あなたがいつか、本当に自分の意思で『自分の名前を書きたい』と思った時……その時は、誰にも邪魔されないように、私が全力であなたを守ります」
ミナはまだ震えていたが、リツの目を見て、小さく、本当に小さく頷いた。
その夜、ホノカの閉店作業を終えようとしていたリツの前に、一人の客が姿を現した。
質の良い、しかし派手さのない仕立ての外套。初老の、どこか静謐な空気を漂わせた紳士。
彼がこの粉挽き横丁に足を踏み入れることなど、本来であればあり得ないことだった。
「王都法院長、バルタザール・オルグレン卿」
リツがその名を呼ぶと、バルタザールはかすかに目を細め、丁寧な、しかし一切の温度を感じさせない声で口を開いた。
「夜分に失礼する、代訴人リツ。少し、お時間をいただけますかな」




