第2話 狐耳の逃亡者。路地裏の『教育』
古い木材と、かすかな畳の匂い。そして、鼻腔をくすぐる微かな出汁の香りで、リリィは目を覚ました。
琥珀色のふさふさとした狐の耳がピクッと動き、周囲の音を探る。雨音だ。トタン屋根をパラパラと叩く冷たい雨の音が聞こえる。
自分が柔らかく温かい布団の中にいることに気づき、リリィは弾かれたように上体を起こした。
(ここ、は……?)
見覚えのない、古びた和室だった。窓の外はまだ薄暗く、朝靄に包まれている。
毛布をめくると、泥だらけだったはずの自分の身体が、清潔な大きめの男物のシャツに包まれていることに気づいた。全身を覆っていた無数の打撲痕や切り傷は、素人とは思えないほど完璧で丁寧な手当てを受けており、清潔な包帯が巻かれている。
途端に、昨夜の恐怖がフラッシュバックして、リリィの背筋が凍りついた。
リリィは、ダンジョン内で日銭を稼ぐD級冒険者だ。しかし、彼女は人間ではない。巨塔出現の影響で生まれたとされる新人類――世間から『亜人』と呼ばれ、蔑まれる存在だった。法的には人間として扱われていても、現実は違う。魔物の血が混ざっているという偏見から、まともなギルドは彼女を雇わず、宿屋ですら宿泊を拒否されることが日常だった。
昨夜もそうだった。ダンジョン浅層で素材集めをしていたところを、同じ人間の冒険者二人組に目をつけられた。
『亜人なんてどうせ獣だろ? 俺たちが可愛がってやるよ』
『街の自警団も、獣が一匹乱暴されたところでまともに捜査なんかするかよ』
下卑た笑いを浮かべる男たち。一人は顎に傷のあるスキンヘッドの剣士。もう一人は両耳にピアスを開けた、双剣使いの痩せた男だった。
力づくで組み伏せられそうになり、必死の抵抗の末に逃げ出した。泥水をすすり、息がちぎれるほど走って、防壁外の廃れたシャッター通りへと逃げ込んだ。そして、一軒の古びた定食屋の勝手口で力尽き、意識を失ったのだ。
リリィは震える両腕を抱きしめた。
誰かが自分を助け、ここに運んでくれたのだ。だが、亜人である自分を無条件で助ける人間など、この冷酷な世界にいるのだろうか。
階下から、微かにカチャカチャと食器が触れ合う音が聞こえた。
リリィは音を立てないように布団を抜け出すと、軋む木の階段を抜き足差し足で降りていった。
一階は、カウンター席だけの小さな定食屋だった。
薄暗い店内。厨房の奥の換気扇の下で、一人の大男がタバコをふかしていた。
「ひっ……」
その男の背中を見た瞬間、リリィの喉から短い悲鳴が漏れた。
大きすぎる。身長は百八十五センチは優にあるだろう。着古したTシャツの上からでも、丸太のような腕と分厚い胸板がはっきりとわかる。グレーに黒が混じったような無造作な短髪。
そして何よりリリィを恐怖させたのは、男の腕に刻まれた無数の『傷跡』だった。刃物で深く抉られたような痕、肉が焼け焦げたようなケロイド。それは、どれほどの死線を潜り抜ければ出来上がるのか想像もつかないほど、生々しく暴力的な過去の証明だった。
男がゆっくりと振り返る。
鋭く冷たい、深淵のような瞳と目が合った。歴戦の冒険者であるはずの自分を襲った男たちなど児戯に思えるほどの、圧倒的で絶対的な『強者』の気配。
(殺される……っ)
リリィが恐怖で狐耳をペタンと伏せ、その場にへたり込みそうになった時だった。
「……起きたか」
男の声は低く、ひどく掠れていた。
男は吸いかけのタバコを灰皿で揉み消すと、リリィを睨みつけることもなく、ただ淡々と厨房のコンロに火を点けた。
「そこ、座れ。昨日から何も食ってないだろ」
促されるまま、リリィはフラフラとカウンター席の丸椅子に腰を下ろした。
男は冷蔵庫からいくつかの食材を取り出すと、まな板の上に置いた。ダンジョンで採れる巨大な赤猪の骨付き肉と、いくつかの薬草だ。
次の瞬間、リリィは目を疑った。
男が安物の包丁を握った途端、その刃先が視界からブレて消えたのだ。
タタタタタタッ!! という単一の音にしか聞こえないほどの神速の刃捌き。巨大な骨付き肉から、一切の無駄なく極上の髄液と赤身だけが削ぎ落とされ、薬草は細胞の繊維を一切潰すことなくミクロン単位で微塵切りにされていく。
さらに、コンロの火柱が不自然なほど完璧な形を保ち、鍋の底を舐めるように包み込んでいる。ただの料理ではない。まるで目に見えない魔力の糸で、空間そのものの温度や物理法則をミリ単位で支配しているかのような、異常なまでの精密操作だった。
やがて、コトコトと煮込まれた鍋から、暴力的なほどに食欲をそそる香りが立ち昇った。
男がどんぶりをカウンターにドンと置く。
「病人飯だ。熱いうちに食え」
出されたのは、赤猪の髄から取った濃厚な出汁と、薬草、そしてふんわりとした卵で閉じられた『特製・薬膳雑炊』だった。
リリィはゴクリと喉を鳴らし、渡されたレンゲで一口、それを口に運んだ。
「――っ!?」
全身の産毛が逆立った。
美味い。そんな単純な言葉では表現できない。赤猪特有の獣臭さは微塵もなく、極限まで引き出された脂の甘みと、薬草の爽やかな香りが完璧な調和を保って舌の上でとろけていく。
だが、驚愕はそれだけではなかった。
雑炊を飲み込んだ瞬間、胃袋の中心から爆発的な『熱』が生まれ、全身の血管を駆け巡ったのだ。それは、高位の聖職者がかけるような、いや、それよりも遥かに純度が高く強力な治癒の恩恵だった。
ズキズキと痛んでいた身体の芯の痛みが嘘のように消え去り、すり減っていた魔力と体力が、限界を突破して底なしに湧き上がってくる。
「おいしい……。なにこれ、すっごく、おいしい……っ!」
ハフッ、ハフッ、と火傷も気にせず、リリィは夢中で雑炊を掻き込んだ。
迫害され、誰からも助けてもらえず、雨の路地裏で死にかけていた惨めな自分が、こんなにも温かく、優しい味に包まれている。
レンゲを動かすたびに、ポロポロと大粒の涙がどんぶりの中に落ちた。
「あのね、わたし……っ、昨日、人間の冒険者に襲われて……っ」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、リリィは堰を切ったように話し始めた。
自分が亜人であること。顎に傷のあるスキンヘッドと、ピアスの双剣使いに暴行されそうになったこと。誰も助けてくれなかったこと。
大男の店主は何も言わず、ただ静かに新しいタバコに火を点け、紫煙を細く吐き出しながら、泣きじゃくるリリィの話に耳を傾けていた。
「……そうか」
やがて雑炊が空になったのを見届けると、男は短くそう呟き、エプロンを外した。
「残りの茶でも飲んで、二階で少し休んでろ。……ちょっと、買い出しに行ってくる」
「えっ? で、でも外はまだ雨が……」
リリィの制止も聞かず、男は傘もささずに、降りしきる冷たい雨のシャッター通りへと出て行った。
* * *
「クソッ、どこに逃げやがったあの狐のアマ!」
廃れた商店街の裏路地。
顎に傷のあるスキンヘッドの男と、両耳にピアスを開けた痩せぎすの男は、苛立ちながら雨の路地を蹴り上げていた。
「おいおい、そんなムキになんなよ。ただの亜人だろ?」
「だからムカつくんだろうが! 畜生の分際で俺たち人間に逆らいやがって。絶対に見つけ出して、手足の腱を切り裂いてからたっぷり楽しんでやる」
二人がゲラゲラと下劣な笑い声を上げた、その時だった。
「――おい」
路地の入り口から、低く、地を這うような声が響いた。
二人が振り返ると、そこにはグレーに黒の混じった短髪の、巨大な男が立っていた。よれよれのTシャツ姿で、口元には雨に濡れたタバコを咥えている。
ただの定食屋のオヤジのような身なりだ。しかし、その男から放たれる『気配』は異常だった。
雨粒が、男の身体に触れる直前で不自然に弾け飛んでいる。男の周囲だけ、空間の重力が何倍にも跳ね上がっているかのような、息が詰まるほどの濃密な殺気。
「顎に傷のあるハゲと、ピアスの双剣使い……。なるほど、ビンゴか」
男はタバコを指で弾き飛ばすと、ゆっくりと二人に向かって歩みを進めた。
「な、なんだテメェは!?」
「ただの飯屋だ。だが、うちの客を傷つけるゴミは、俺の店にはいらねぇ」
ピアスの男が舌打ちをし、腰から二本の短剣を抜いて男に飛びかかった。
「舐めてんじゃねぇぞ、オッサン!!」
C級冒険者の誇る、目にも止まらぬ連続斬撃。
しかし、大男は武器を抜くどころか、瞬きすらしていなかった。
――グォンッ!!
何が起きたのか、ピアスの男には理解できなかった。
大男が軽く踏み込んだ瞬間、視界のコマが飛び、気づけば男の分厚い手刀が、自分の両手首を『正確に』叩き折っていた。
「ガ、ァ……ッ!?」
短剣が地面に落ちるよりも早く、男の膝がピアスの男の股間をカチ上げた。
それは単なる物理的な打撃ではなかった。接触した瞬間、男の膝から放たれた極めて精緻で暴力的な魔力の波動が、股間の内部組織を細胞レベルで蹂躙したのだ。
「ヒッ、ヒギィィィィィィィィィッ!?」
ピアスの男は白目を剥き、股間を押さえて泡を吹きながら泥水の中に転がった。
「なっ……!?」
スキンヘッドの男が恐怖に顔を引きつらせ、腰の大剣を引き抜こうとする。
だが、すでに大男は彼の懐、わずか数センチの距離に立っていた。深淵のように暗く冷たい瞳が、スキンヘッドの男を見下ろしている。
「ま、待て! 俺たちは何もしてねぇ! ただの亜人だろ!? あんな獣、どう扱おうが――」
ドッ、というくぐもった破裂音が響いた。
大男の二本指が、スキンヘッドの男の下腹部――急所の中枢を寸分違わず突いていた。
外部への傷は一切ない。しかし、その指先から流し込まれた不可視の魔力操作は、男の生殖機能に関わる全ての神経根と海綿体組織を、永久的かつ完全に破壊し尽くしていた。
「ア……ガ、アァァァァァァァァァァァッ!?」
スキンヘッドの男は絶叫すらまともに上げられず、その場に崩れ落ちて嘔吐した。全身の脂汗が止まらず、経験したことのない絶望的な激痛に股間を掻き毟る。
大男は、泥の中で痙攣する二人を見下ろしながら、冷たく言い放った。
「外の世界のルールがどうだろうと知ったことか。だが、うちの敷居を跨いだ客は、俺が守る。……安心しろ、命は取ってねぇ。ただ、機能を完全に潰しただけだ」
男の宣告に、二人の冒険者は絶望に目を見開いた。
「神経の根本から細胞を焼滅させた。どんな高位の治癒魔法をかけようが、ポーションを浴びようが二度と再生しねぇ。テメェらのちんこは、一生、死ぬまで二度と立たねぇよ」
ヒッ、と喉の奥で悲鳴を上げながら、二人は男の放つ圧倒的な恐怖に失禁し、這いつくばるようにして路地裏から逃げ出していった。
大男はそれを追うこともせず、ポケットから新しいタバコを取り出し、静かに火を点けた。
* * *
「……ふぅ」
リリィが温かいお茶を飲み終え、完全に体力が回復したことに感動していると、店の勝手口がカランと開いた。
大男の店主が戻ってきたのだ。
雨に濡れた肩を拭いながら厨房に入ってくる男からは、血の匂いも、争ったような汗の匂いも一切しない。ただ、冷たい雨の匂いと、微かなタバコの香りがするだけだった。
「買い出し、終わったんですか?」
「あぁ。近所に湧いてた不燃ゴミを、ちょっと処理してきただけだ」
男はぶっきらぼうにそう言うと、まな板の上に新しい食材を並べ始めた。
リリィは、男のその広くて分厚い背中を見つめた。
亜人として生まれ、人間に裏切られ、迫害され続けてきた彼女の人生において、この無骨で恐ろしい見た目の男が作ってくれた一杯の雑炊は、何よりも温かく、絶対的な安心感を与えてくれた。
狐の尻尾が、パタパタと勢いよく左右に揺れ始める。
リリィは椅子から飛び降りると、厨房のカウンターから身を乗り出して、男に向かって元気よく宣言した。
「あの! 店主さん!」
「……あ?」
「わたし、お金持ってません! だから、ここで働いて返します!」
「は?」
「掃除でも接客でも、なんでもやります! わたし、リリィって言います! 今日からここの住み込み店員……いえ、押しかけ女房として働かせていただきます! よろしくおねがいしますっ!」
満面の笑みで狐耳をピコピコと動かし、自信満々に言い放つリリィ。
普通なら、ここで絆されたり、照れたりしながらも受け入れてくれるはずだ。これまでの人生、この天性の愛嬌だけでなんとかピンチを乗り切ってきたこともあるのだから。
巨漢の店主は、心底面倒くさそうにタバコの煙を深く吐き出し――そして、一言だけこう言い放った。
「いらん」
「…………え?」
ピタリ、と。
勢いよく揺れていたリリィの狐の尻尾と耳が、完全に硬直した。
「い、いらんって……」
「言葉の通りだ。帰れ」
男はそれ以上リリィを一瞥することもなく、無言で明日の仕込み作業に戻ってしまった。トントンと、冷徹なまでに正確な包丁の音だけが店内に響き渡る。
(う、嘘でしょ!? ここを追い出されたら、わたし行く当てなんてどこにもないのに!)




