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ありふれたローファンタジーの端っこで  作者: 3番目の純情


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第1話 猛毒スライムの黄金出汁うどんと、荷物持ちの涙


 冷たい雨が、黒いアスファルトを打ち据えている。

 水たまりには、遥か彼方で天を衝くようにそびえ立つ『巨塔』の放つ、極彩色のネオンが乱反射していた。


 現代日本に突如として未知の巨大構造物――通称『巨塔ダンジョン』が出現し、世界が不可逆の変貌を遂げてから数十年。

 人類は、巨塔から溢れ出す魔物という脅威と引き換えに、魔石という無尽蔵の新エネルギーを手に入れた。それに伴い、極一部の人間たちは超常的な力を持つ『覚醒者』として目覚め、巨塔を探索し資源を持ち帰る「探索者シーカー」という新たな職業が社会の頂点に君臨するようになった。

 彼らは強さによってSからFまでの厳格な『ランク』で階級分けされ、上位の者は巨大企業に匹敵するギルドに所属し、富と名声のすべてを独占している。巨塔の周囲には、そんなトップ探索者たちを顧客とするきらびやかな最新商業エリアが形成され、不夜城のような輝きを放っていた。


 しかし、光が強ければ、その足元には必ず濃い影が落ちる。

 巨塔の恩恵で潤う中央区から電車で数駅離れた場所にある、古く廃れたアーケード商店街。かつては地元民で賑わっていたであろうその通りは、再開発の波に取り残され、今や大半の店舗が錆びついたシャッターを下ろす「シャッター通り」と化していた。


 その暗く冷たい路地を、二十歳前後の青年・トールは、泥水を跳ね上げながらあてもなく彷徨っていた。


「……痛ぇな」


 雨に濡れた頬を拭うと、指先にべっとりと血が滲んだ。数時間前、所属していた大手ギルドの探索部隊で、リーダーであるAランク探索者から理不尽な暴力を受けた痕だった。


 トールの職業は、探索者のヒエラルキーにおいて最底辺に位置する『荷物持ち(ポーター)』だ。戦闘スキルを持たず、ただ筋力を少しだけ強化されただけのEランク覚醒者。

 強者たちが魔物を狩る後ろで、数十キロにも及ぶ魔石や解体部位を背負い、罠の探知から野営の準備まで、あらゆる雑用を命がけでこなす。それでも報酬は雀の涙で、少しでもミスをすれば「代わりはいくらでもいるゴミ」と罵られ、蹴り飛ばされるのが日常だった。


 そして今日、トールはついに限界を迎え、重い荷物を落としてしまった。結果は、一方的な暴行と、その場でのギルド解雇通知だった。


(もう、終わった……。荷物持ちの職すら失ったら、どうやって生きていけばいいんだ)


 度重なる過酷なダンジョン探索による過労と、安物の粗悪な回復薬ポーションを飲み続けた副作用で、胃はひどく荒れ、手足は鉛のように重い。雨の冷たさが、文字通り骨の髄まで浸み込んでいくようだった。

 明日を生きる気力すら擦り切れ、倒れ込むようにして雨宿りに入った路地裏の軒先。

 そこでふと、トールの鼻腔を、信じられないほど暴力的な『匂い』が掠めた。


「……出汁の、匂い?」


 それは、五臓六腑のすべてを鷲掴みにするような、とてつもなく深く、甘く、それでいて洗練された芳醇な香りだった。荒れ果てて機能を停止していたはずのトールの胃袋が、その匂いを嗅いだ瞬間、痙攣するように激しく鳴った。

 顔を上げると、色あせた赤提灯が雨の中でぼんやりと揺れている。

 錆びついたトタン屋根の下にある看板の文字は擦れ、『お食事処 えんど』と辛うじて読めた。


 引き戸の曇りガラス越しに、店内で一人、タバコをふかす大柄な男の背中が見える。

 トールは震える手でポケットの中の小銭を握りしめた。大手ギルドの寮も追い出され、全財産は数百円しかない。それでも、どうしてもその匂いに抗うことができなかった。

 吸い寄せられるように、トールはガラガラと音を立てて引き戸を開けた。


「……あの」


 カウンター席が数席あるだけの、ひどく古びた昭和の香りが残る店内。そこに、ひび割れたトールの声が響く。

 振り返った店主を見て、トールは思わず息を呑み、本能的に後ずさりしそうになった。


 でかい。身長185センチはあるだろうか。Tシャツの上からでもわかる分厚い胸板と、丸太のように太い腕。グレーに黒が混じったような無造作な短髪の下から、鋭く冷たい双眸がトールを見下ろしている。

 ただの定食屋のオヤジではない。歴戦のAランク探索者ですら持ち得ないような、濃密で絶対的な「死線」を潜り抜けてきた者だけが放つ、静かな威圧感がそこにはあった。


 何よりトールの目を釘付けにしたのは、男の腕だった。

 肘のあたりまで無造作にまくられた両腕には、無数の白濁した『傷跡』がびっしりと刻み込まれていた。鋭利な刃物で肉の奥深くまで抉られたような痕、規格外の高熱魔法で広範囲を焼き爛れさせたようなケロイド。

 探索者は治癒魔法やポーションで傷を治すため、よほどの致命傷でなければ痕は残らない。つまり、この男の腕に刻まれた無数の傷は、すべて「治癒の限界を超えた致命傷」の連続であったことを意味している。どれほどの地獄を這いずり回れば、人体にこれほどの傷が残るのか。想像するだけでもトールの背筋は凍りついた。


「……これだけで、何か、温かいものを……出してもらえませんか」


 恐怖に震える手で、トールは泥に汚れた硬貨を数枚、カウンターに置いた。

 怒鳴られて追い出される。そう覚悟して目をきつく閉じたトールだったが、巨漢の店主は何も言わず、咥えていたタバコを灰皿で静かに揉み消した。

 そして無言のまま厨房に立ち、冷蔵庫から「それ」を取り出したのだ。


(嘘、だろ……っ!?)


 まな板の上に乗せられたものを見て、トールは悲鳴を上げそうになった。

 青白く発光する、半透明のゼリー状の肉塊。巨塔の深層にのみ生息し、触れるだけで人間の皮膚をドロドロに溶かす猛毒を持つ『クリスタルスライム』の核膜だ。

 荷物持ちの知識として知っている。あれは一流の解体業者が専用の防護服と機材を使い、何時間もかけて慎重に処理しなければならない、超危険な劇物であるはずだ。


「ま、待って! それは猛毒が――!」


 トールの制止の声は、店主の信じられない動きの前にかき消された。

 店主が安物の文化包丁を握った瞬間、厨房の空気が一変した。男の太い腕から放たれた刃先が、トールの動体視力では全く追えない『神速のブレ』となって、スライムの被膜をミクロン単位で削ぎ落としていく。

 素手であるにもかかわらず、毒液の一滴たりとも男の肌には触れていない。まるで目に見えない不可視のベールが刃と手元を覆い、空間そのものを精密に支配しているかのようだった。

 圧倒的な包丁捌きは、猛毒の部位だけを完璧に分離し、極上の旨味の塊だけを正確に切り出していた。


 同時に、コンロに火がかけられた鍋の湯が、不自然なほど一瞬で、出汁を取るのに最も適した完璧な温度へと沸き立つ。そこへ、切り出されたスライムの肉塊が放り込まれた。


 ジュワッ、という心地よい音と共に、店内を暴力的なまでの「旨味の香り」が満たした。

 透き通っていた湯は、一瞬にして黄金色に輝く液体へと姿を変える。そこへ現代の醤油やみりん、そしていくつかの調味料が絶妙な配分で加えられ、茹で上がったうどんの上にたっぷりと注ぎ込まれた。


 やがて、トールの目の前に一つのどんぶりがドンと置かれた。


「食え」


 低く、かすれた声だった。

 それは、黄金色に輝く出汁が張られ、柔らかく煮込まれた厚切りの豚肉が乗った『特製肉うどん』だった。

 トールはゴクリと唾を飲み込み、震える手で割り箸を割る。そして恐る恐る、黄金色の汁をすすった。


「――っ!?」


 脳が、真っ白になった。

 舌の上で爆発する、かつて経験したことのない濃厚な旨味。スライム特有の臭みやえぐみなど一切なく、むしろ極限まで洗練された上質な甘みと、深いコクが、喉の奥へと滑り落ちていく。

 美味い。ただその一言しか思考に浮かばない。

 だが、それだけではなかった。温かい汁が胃の腑に落ちた途端、信じられない現象が起きた。


 安物ポーションの副作用でボロボロだった内臓の痛みが、嘘のようにスッと消え去ったのだ。それどころか、手足の先までカッと熱を帯び、摩耗しきっていた生命力が、底なしの泉から湧き上がるように回復していく。

 まるで、最高位の支援魔法バフを全身に浴びているかのような、圧倒的な万能感。身体の芯から、生きるための活力がとめどなく溢れ出してくる。


「美味しい……なんだこれ、すげぇ、うまい……っ!」


 ズズッ、ズズズッ!

 トールは火傷も気にせず、夢中でうどんを掻き込んだ。

 太くコシのある麺に、黄金の出汁がしっかりと絡みつく。噛み締めるほどに豚肉から溢れ出す肉汁が、出汁の旨味と完璧なハーモニーを奏でていた。

 一口食べるごとに、凍え切っていた心が解けていく。大手ギルドで「ゴミ」と罵られ、生きる希望を失って雨の街を彷徨っていた惨めな記憶が、この温かく、圧倒的な優しさに満ちた味によって洗い流されていく。


 気づけば、トールの頬を大粒の涙がボロボロと伝い落ちていた。

 どんぶりに顔を突っ伏すようにして、嗚咽を漏らしながらうどんを啜る。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも箸を止めることができなかった。自分がまだ「温かい食事を美味しいと感じられる人間」であったことが、何よりも嬉しかった。


 店主は何も言わない。

 ただカウンターの奥で、再び新しく火を点けたタバコを静かにふかしながら、泣きながらうどんを啜る青年の丸まった背中を、静かな瞳で眺めているだけだった。


「……ごちそうさまでした。本当に、ごちそうさまでした」


 最後の一滴まで汁を飲み干し、空になったどんぶりを前にして、トールは憑き物が落ちたような晴れやかな顔で深く頭を下げた。


「俺、もう一度、一番下のランクからやり直してみます。今日、このうどんを食べられて……本当に良かったです」


 数百円の小銭を残し、トールは店を出た。

 引き戸を開けると、不思議と雨の冷たさはもう感じなかった。体の奥底から燃えるような活力が漲り、足取りは羽のように軽い。明日からまた、泥臭く荷物を担いでやろう。そんな前向きな闘志すら湧き上がっていた。


 トールがふと振り返り、あの信じられない料理を出した店の看板をもう一度見上げようとした、その時だった。


 ドサッ――。


 店の勝手口がある暗い路地裏で、重いものが崩れ落ちる鈍い音が響いた。

 トールが驚いて視線を向けると、不法投棄されたゴミの山の横に、血まみれになった人影が倒れ込んでいた。


「え……亜人、なのか……?」


 トールは目を疑った。泥水の中に倒れ伏しているのは、狐の耳とふさふさの尻尾を持つ少女だった。

 亜人。巨塔の出現と共に生まれたとされる突然変異の新人類。法的には人間として扱われているものの、世間からの見えない差別と迫害により、社会の底辺で生きることを余儀なくされている存在だ。

 少女は粗末な装備を身につけていたが、全身にはひどい裂傷を負い、浅い呼吸を繰り返しながら、今にも命の灯火が消えようとしていた。


 トールが駆け寄ろうと一歩を踏み出した瞬間、勝手口の古びた扉がギィと開いた。

 タバコを咥えた巨漢の店主が、雨の路地裏に姿を現したのだ。


(あ……)


 関われば面倒なことになる。それがこの冷酷なダンジョン社会の常識だ。ましてや相手は、迫害対象である亜人。舌打ちでもして見捨てるのではないか。トールはそう思った。


 しかし店主は、泥水の中で血を流す亜人の少女を静かに見下ろすと、咥えていたタバコを携帯灰皿に落とし、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……明日の仕込み、少し多めに作っておくか」


 誰に言うでもなくそう低く呟くと、男はその傷だらけの太い腕で、少女の小さな体を泥水の中からひょいと抱き上げた。まるで、雨に濡れた捨て猫を拾うかのような、ひどく自然で、無骨な優しさに満ちた動作だった。


 あの恐ろしくも優しい男は、一体何者なのか。

 トールはただ降りしきる冷たい雨の中で、静かに閉ざされた勝手口の扉を、いつまでも呆然と見つめ続けていた。


 世界の端っこの、廃れた商店街の片隅。

 そこには確かに、傷ついた者たちを極上の飯で癒やす、規格外の定食屋が存在していた。

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