無茶振りと猫と女学生。上
雷蔵が波留日の万年筆を受け取って幾日かが過ぎた。
狭苦しい『日々是好日』の編集部で、雷蔵は真っ青な顔で真っ白な原稿用紙を睨みつけていた。数分おきに何かを思いついたように万年筆を手に取って机にかじりつくが、勢いはすぐに萎み、ペン先は空しく宙を彷徨う。
波留日はソファに悠々と腰かけて腕を組み、背中を丸めて正座をする雷蔵の様子を黙って見下ろした。
「……して、僕は君に連載小説を書いて欲しいと言ったのだけれど」
「は、はぁ……」
「君は僕の世話係になったのにも関わらず、なんにもできやしないんだねぇ」
波留日は悪戯に口角を吊り上げて雷蔵の顔を覗き込む。その「なんにも」には、この僅か数日の「前科」が含まれていた。
波留日と飲むための茶を淹れれば湯呑みを倒し、波留日が持ち切れない分の紙を運ばせれば階段から転げ落ち、果ては波留日の原稿を窓から飛ばして隣の空き家の屋根に引っ掛ける始末。尚、雷蔵はその原稿取りに行く際に屋根を踏み抜いて落下している。意外にも色白な肌の頬には、その時に引っ掛けた赤い切り傷が走っていた。
「そ、そんな事は……」
「じゃあ何で書きもしないのさ」
「そ、それは……」
雷蔵は気まずそうに波留日から視線を逸らす。眼鏡が日光を反射して光が弾けた。
波留日は言い逃れも何もさせまいと言わんばかりにずいと身を乗り出し、鼻先が触れそうなほどに顔を近づける。雷蔵は反対にぐぐ……と喉を詰まらせて仰け反った。しかし波留日は無言の追求を止めない。
「……波留日が、波留日が俺に凄まじい期待を掛けるから、何を書いていいか分からなくなっちまったんだ!」
遂に耐え切れないと言わんばかりに雷蔵は声を絞り出した。その情けない告白に目を見開いた波留日。次には肩を落として大きくため息をついた。
「そうやって勿体振るなと言ったのに。拙くてもいいと言っただろう。大体、中退したとはいえ大学にまで行っているんだから教養は十分ある筈……。何をそんなに恐れているのやら」
「うぅ……」
雷蔵は正座から膝を抱えて座り込み、背を丸めて縮こまる。括られた伸ばしっ放しの長い髪の隙間、冷や汗で湿る項が覗いた。肌は相変わらず青白く不健康な色をしている。波留日はそれをちらと見下ろし、机の上に転がった万年筆を握らせた。
「書かなければ始まらないよ。駄目なら、そのヘタレた精神を叩き直そうじゃないか。そうだな……」
波留日は腕を組み、紙と本だらけの部屋をぐるりと見渡す。
波留日が綴る書きかけの小説、気の早い市井の物好きが寄せた原稿、陣佐が放った煙草の吸殻、鉛筆、インク瓶、火鉢、洗濯していない汚れた浴衣。
そして波留日に何を言い渡されるか分からず、怯えてビクビクする雷蔵も転がっている。
「うーん。何が良いかなぁ」
波留日が唸ったそのとき、ニャンという声がして辺りを見渡せば、いつの間に上ってきたのか、窓際で日向ぼっこをしていた野良猫が欠伸をしていた。
この三毛模様は、銭湯に忍び込み、七輪の魚を盗み、図々しくこの界隈を我が物顔で歩く毛玉だ。
波留日はその猫をじっと見つめ、何かを思いついたように口角を上げた。桃色の淡い唇から白い歯がちらりと覗く。
「そうだ、雷蔵。今日一日あの子を追い掛けて御覧よ。どこに行ったのか、何を食べたのか、誰に撫でてもらったのか……。夕刻に戻ってきた後、僕に報告して」
波留日は窓辺にそっと歩み寄ると、手を伸ばして猫のほわほわとした毛を撫でた。ぽかんと口を開ける雷蔵に、波留日は手帳を放り投げ、にやりと目配せをする。
「雷蔵、この子は今、僕に撫でられた」
促されるがまま雷蔵は万年筆を取り、「猫、波留日ニ撫デラレシ」と書きつけた。その調子。と波留日は上機嫌に頷くやいなや雷蔵の着物の襟首を掴み、ずるずると外へ引き摺っていく。
「え……?」
状況が飲み込めずポカンとする雷蔵にすかさず羽織を手渡して、波留日は満面の笑みでひらりと掌を振った。
「じゃ、行ってらっしゃい!」
「い、今さっきの……本気だったのかよ!」
「当然さ。決まっているだろう? あ、ほらほら、あの子動いた」
当然抗議の声を上げた雷蔵だったが、波留日の有無を言わせぬ気迫に圧され、ぐぅと喉を鳴らして後退る。
そして波留日が急かすように社屋の二階を指させば、あの毛玉は日向ぼっこを終え、大きく伸びをして隣家の屋根へ飛び移ろうとしていた。
早く早くと急かす波留日を前に、雷蔵は臓腑が零れ出るかと思う程に深いため息をつく。こうなってしまったら、きっと波留日は梃子でも動かないだろう。
雷蔵はもう一度大きなため息をついて、意を決したように手帳とペンを握り締めた。
「波留日ィ……覚えてろよ!」
そう捨て台詞を残して地面を蹴れば、カッコカッコと寒空に下駄の音が響く。
「行ってらっしゃい!」
波留日は上機嫌にひらひらと掌を振り、背伸びをしても見えなくなるまで、雷蔵の駆ける後ろ姿を見送った。




