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啖呵と名前と滲んだ血。 下

「雷蔵は誰かの門下生だったことがあるのか? 俺達は雷蔵が大学を中退して、実家とも絶縁して下宿先を飛び出したところまでは聞いているんだが、その後はずっと素寒貧生活だと思っていたんだ。悪いな、雷蔵の面倒を見るって言った矢先、俺達は雷蔵のことを何も知らない」


 陣佐の問いを聞いた瞬間、雷蔵はヒュッと息を呑んだ。目は虚ろに泳ぎ、顔面からはサァと血の気が引いていく。膝の上に置かれていた白い手の指先も微かに震え始めていた。


「確かに、門下生だったら名前や記録が残っていてもいい筈じゃないか。僕はそんなもの見た事が無い」


 波留日は姿勢を正して肘掛に座り直すと、腕を組んで雷蔵の肩へ身体を寄せる。体重を掛けられ、雷蔵の身体はそのまま大きく傾いた。


「誰の門下に入っていたのさ? 何があってあの長屋に住むことになっていたの?」


 波留日と陣佐の鋭い眼差し、ミチの心配そうな視線が雷蔵に集中して刺さる。雷蔵は止してくれと言わんばかりに肩を丸めて小さくなった。冷や汗がつぅと彼の項を伝い落ちてゆく。


 雷蔵は視線という針の筵の上で浅い呼吸を何度も繰り返した。時折、痩せているためによく目立つ喉仏が上下する。拒否感を示す雷蔵を逃がすものかと言わんばかりに、六つの眼が雷蔵を捉えて放さない。


 やがて観念したように雷蔵は目を閉じた。そして大きく息を吸い、目を瞑って噛み締めるような声を絞り出す。


「……誰かなんて言いたくない。名も口に出したくない。あれは俺の恥ずべき過去だ」


 しんと静まり返る応接間。壁掛けの時計が時を刻む音だけが響き、雷蔵の浅く不規則な呼吸と混ざり合った。


「……ミチさんの言う事は正しい。学生時代に出した懸賞であの人の目に留まり、弟子入りしないかという打診を受けた。文士になれると浮かれた俺は意気揚々と大学を辞めてあの人の門下に入った。……でも、待っていたのは筆舌に尽くし難い程の酷遇だ。あまりのことに、俺は一年も持たずに根を上げてあの人の元を逃げた」


 まるで自分自身を痛めつけるかの如く矢継ぎ早に吐き出されて行く言葉。雷蔵の瞼は重く落ち、膝の上で握られた両の拳は白くなる程に固く握り締められていた。


「あとは波留日と陣さんの知る通りだ。金が無いからあの古い長屋に身を寄せて、日雇いで何とか食い繋いで、あの人との過去に怯えながら文字を書く生活だ。何作か書き上げて名前を変えて賞に出したが、……何も変えられ無かった」


 応接間の空気が、深い海の底のように沈み、淀む。いつの間にか空はとっぷりと日が暮れ、暗い帳が覆い被さっていた。それに倣って薄暗くなった部屋の中。俯いたままの雷蔵を見下ろし、波留日はその美しい顔を歪めて唇を噛む。プツリと音を立てて唇から血が滲んだ。


「……だからお前、波留日に世話係だの弟子だのになれと言われて嫌がったのか」


 陣佐は納得したかのように頷くと、何本目かの煙草に手を伸ばして火を点け、紫煙を吐く。雷蔵はまるで陣佐の言葉を肯定するかのように、肩を竦めて苦笑いを浮かべた。


「日々是好日に本名で原稿を寄せたのは、最後の賭けだったんだ。それなのに俺の文は、一緒に載っていた波留日の文の前ではただの石ころに見えて、自尊心も何もかもが打ち砕かれて、それで……あの時、死のうとした」


 その最後の一言にミチは絶句し目を見開く。震えて開く唇を、慌てて掌で覆った。陣佐もソファにその身体を預けて天井を仰ぎ、無言で煙草を呑み続ける。壁掛け時計が時を刻む音だけがやけに大きく聞こえた。


「……ねぇ雷蔵」


 その沈黙を破ったのは波留日だった。名を呼ぶ声に俯いていた顔を上げ、声の主の方を見やれば、鼻先が触れそうな程にまで波留日が雷蔵に詰め寄っている。


「君のもう一つの名前を教えて!」


 まるで親に玩具を買ってくれとせがむ子供のように無邪気な声。その突飛な要求に雷蔵は目を丸くした。


「雷蔵が言いたくないのなら、師の名前も君の過去も追求しない、言わなくてもいい。ただ、君がどんな名前で絶望の時を物書きとして足掻いてきたのか、それは知りたいんだ。ねぇ雷蔵、僕に教えて?」


 雷蔵はその顔に影を落とし、ふっと顔を逸らす。ほの暗い過去により閉ざされた口は固かった。


「……何も残せなかった、不憫な名だぞ」


「だとしても、だよ。良くも悪くも、それが君だった事実は変わらない。僕はその全てを知りたい。忌まわしいとする名前すら、僕は雷蔵として受け入れたいんだよ」


 波留日は項垂れる雷蔵の頭に手を伸ばし、するりと抱き寄せる。その腕は細く華奢で、それでも力強く雷蔵を抱き留めた。


「……僕は君を見捨てない。君を陥れない。それだけは信じて」


 雷蔵は唇を震わせながら、自らを包み込む腕へ縋るように手を重ねた。しばしの沈黙の後、小さく、震える声が応接間に落ちる。


「……高岩鬱空たかいわうっくう。もう使う事はない」


「うっくうって鬱屈とした空って書くの?」


 雷蔵が頷くと、ようやく陣佐が煙草を口から離して指に挟み、会話に割り込んだ。


「確かに聞かない名前だな。絶望の淵に立っていたお前に相応しい、陰気だけど綺麗な名前だ」


 そのまま灰皿に煙草を押し当て、眉を下げて笑みを浮かべる。快活で竹を割ったような性格の陣佐だが、雷蔵の過去は少々堪えたらしい。何とか雷蔵を元気づけようという気遣いが見える。


 いや、そんな考えて決めたわけでは……と謙遜する雷蔵の隣で、腕を組んだ波留日が何やらぽつぽつと呟き始めた。


「たかいわうっくう……たかいわうつぞら……あ、たつかわらいぞうを並び替えた名前だね。ふふ、面白い」


 陣佐はその『種明かし』に呆れ顔で吹き出した。雷蔵は揶揄われていると気付き、先程までの顔面蒼白が嘘のように顔面へ血液を集めて赤くなる。


「名前を並び替えるなんて安直過ぎる! ははっ、捻りも何にも無いな。前言撤回だ、何かもっとマシなやつ無かったのかよ!」


 新しい煙草に火を点けながら肩を揺らす陣佐。その一言で、凍てついて重苦しかった応接間の空気がふわりと緩んだ。


「揶揄わないであげてよ! 並べ替えに加えて読みも変えてある、十分捻ってるじゃないか!」


 波留日はすっかり茹蛸のようになった雷蔵を後ろ手に庇い、まるで我が事のように頬を膨らませて陣佐へ抗議する。陣佐は波留日の白くまん丸い額を指で弾いた。


「いてっ!」


「全く、相変わらずお前は雷蔵には甘いなァ!」


「波留日の何処が俺に甘いって……?」


 波留日は若干赤くなった額を押さえ、口をへの字にして恨めしそうに陣佐を見上げる。その視線を一蹴して白い歯を見せてにんまりと笑う陣佐。そしてそんな陣佐から飛び出した言葉に、信じられないと目を見開く雷蔵。


 軽口を叩き合い、やいのやいのと騒ぐ三人のやり取りを眺め、ミチはくすりと小さく微笑んだ。あたたかく、柔らかい微笑みが春の陽だまりのように三人を見守る。しかし、次の瞬間、ミチはその表情はみるみるうちに歪ませ、ぽろぽろと大粒の涙を流しはじめてしまった。肩を小さく震わせ、嗚咽を噛み殺しながら、それでも堪えきれないというように。


 突然泣き出した少女に、男たちは面食らったように口論をやめ、一斉にオロオロと慌てふためいた。


「ミチさん……? あぁ、可愛らしい御顔が台無しです! 一体何が悲しくて……」


 雷蔵は慌てて袂からくしゃくしゃの手ぬぐいを取り出し、いつ洗濯したかもわからないこれはでは駄目だと、あたふたと後ろに放り投げる。陣佐も先程零れた茶を拭いた布巾を渡しそうになって慌ててその手を引っ込めた。


「違います! 違うのです……」


 ミチは頭を振り、両手で顔を覆ったまま、必死に声を絞り出す。


わたくし、ずっと不安でしたの。雷蔵さんが我が家を出て行かれたときから、ずっと。文士の世界は、生半可な気持と覚悟では生き抜けない茨の道と言われていましたから……。ひょっとしたら、何処かで、一人で苦しんでおられるのではと……」


 ミチの口から、胸の奥に隠していた想いが堰を切ったように止め処なく溢れ出した。


「実際に、雷蔵さんが死を選びそうな程に追い詰められていたと知って、わたくし、本当に、何をしていたのだろうって……」


 しゃくり上げながらも懸命に自分の思いを吐き出すミチを、雷蔵はじっと見守る。彼女の紡ぐ言葉を、その身でしっかりと受け止めるために。


「でも、その地獄を乗り越え、今は、陣さんや、先生のような温かい方と共に歩んでいるのを見て、わたくしは心の底から、本当に、本当に安心しましたの」


 そう言って顔を上げた彼女の頬を伝う涙は、安堵と喜びの証だった。雷蔵と再会できたこと、彼が前に進んでいることに胸がいっぱいだといわんばかりに零れる感情の結晶が溢れ出る。


 雷蔵はミチの言葉を受けてその目に後悔と感謝の色が浮かべ、やがて、彼は静かに頭を下げた。


「ミチさん、手紙も何も寄越さず、心配を掛けさせてしまって申し訳ありませんでした。旦那様と奥様にも、どうか、雷蔵は元気にやっておりますと御伝え下さい」


「えぇ……! 勿論ですわ」


 ミチは涙を拭いながら、にこりと微笑んだ。先ほどまでの曇りはすっかり晴れ、彼女の表情はまるで冬の空のように澄み渡っている。


 陣佐と波留日は、その一部始終を見届けてほっと顔を見合わせた。そしてそんな二人を目に留めたミチは徐に立ち上がり、襟元を直して姿勢を正す。


「……陣さん、先生、そろそろ御暇させて頂きますわ。本日は貴重な御時間を頂き、有難う御座いました」


 ミチはお手本のように深々と一礼したあと、雷蔵のほうへ向き直り、きっぱりと言葉を続けた。


「雷蔵さん、わたくしも書きますわ。技術不足など関係ありませんことよ。必ずや一編完成させて、貴方の作品と共に、日々是好日にわたくしの文を載せてみせますわ」


 そう言うミチの丸い瞳には、爛々と情熱の炎が灯っている。泣き顔を拭った少女は、既に一人の表現者へと変わろうとしていた。雷蔵は気恥ずかしそうに頭を掻くと、穏やかな笑みを浮かべて口を開く。


「あんなに勉強嫌いだった貴女様が、こんなにも文学に情熱を注ぐようになっているとは、家庭教師紛いのことをしていた身として感慨深いものがありますね。……ミチさん、私も、貴女様の文を楽しみにしています。貴女様の魂を是非とも見せて下さい。」


「はい……! では、雷蔵さん、陣さん、波留日先生、御機嫌よう」


 ミチは雷蔵の言葉に顔を綻ばせると優雅に会釈し、凛とした足取りで部屋を出る。三人は玄関先まで彼女を見送り、ひらひらと掌を振った。


「今どきのハイカラ娘だな」


 陣佐は良いものを見つけたと言わんばかりに笑い、手で寝癖を押さえつけた。


「俺は夜、鎌田と呑む用がある。雷蔵も来るか? 俺の大学予科の同級生でな、今は偕成かいせい出版に勤めてる」


「偕成出版?!」


 雷蔵は声をひっくり返し驚いた。この文芸の世界において文明開化を担ってきた偉大なる文芸誌といえば、文藝礼讃ぶんげいらいさん、すてら、そして杜若かきつばた。これら三大文芸誌は、今は亡き若き鬼才、池田川朔時いけだがわさくじと共に明治の近代文学の黎明期を切り開いた重鎮達がそれぞれ主宰を勤めている。偕成出版は、そのうちの1つ文藝礼讃を創る大出版社だ。


「そういえば、波留日がデビュウしたのも、偕成だった気が……」


「あぁ、あれは、『コネ』だ。別の会社ではあるが、新聞記者をやっていたの俺の実績を知っている鎌田に少し力を貸してもらったまでよ」


 陣佐が悪戯っ子のように笑い白い歯を見せる。コネだって重要な伝手だぞぉ、と外套を羽織りながら歌うように身支度をして急かすような陣佐の隣で、雷蔵も羽織に手を伸ばそうとした。しかし、その手は波留日に掴まれてしまう。


「駄目、今日の報告が終わってないよ。ねぇ陣佐、鎌田氏に宜しく頼むね」


「ったく、雷蔵を売り込む絶好の機会だぞ」


「それでも今日は駄目。僕が先約。それに今日は猫にミチに、雷蔵はきっと疲れているよ」


 波留日は目を白黒させる雷蔵の手をぎゅっと握り、ぐいぐいと引っ張った。陣佐は相変わらずだなと肩を竦めると、帽子をそっと目深に被る。


「あい分かった。雷蔵、我儘坊ちゃんを頼んだぞ」


 雷蔵は陣佐の言葉に戸惑いながらもゆっくりと頷いた。波留日は陣佐を見送ると雷蔵を導きながらトントンと階段を上り、編集部への廊下を歩く。


「……僕は君に酷いことを言ったようだね。君の過去を知っていれば、もっと早く、君を傷付けずに此処へ連れて来れただろうか」


 ぽつりと波留日が呟いた。その声音には珍しく、自責の色が滲んでくぐもっている。雷蔵は驚いたように目を見開いた。後ろを歩く雷蔵には、そんな波留日の表情が見えない。


「……いや、お前の強引さが俺を此処に連れてきたんだ。何も間違えちゃない」


 雷蔵は真っ直ぐ前を向いたまま応えた。その言葉には、今ようやく腹の底から湧き上がってきた納得と感謝が微かに滲んでいる。雷蔵の表情は、酷く穏やかだった。


 二人の足音が廊下の床板を軋ませていく中、波留日は雷蔵の言葉にふと立ち止まる。雷蔵もそれにならって足を止めた。静寂が二人を包む。もう空は星が瞬きはじめている。


「……よかった。君がその命を絶っていなくて」


 波留日は振り向いて、心底安心したというように微笑んでみせた。窓から差し込む街燈の光が、波留日の美しい笑顔を彩る。雷蔵は浮世離れしたその光景に思わず息を呑み、吸い込まれるように釘付けになった。そうして初めて気づく。微笑む波留日の口元には、乾いて茶色くなった血液がこびりついていた。


「波留日、血が……」


 雷蔵が声を絞り出すと、波留日はどこか誇らしげな表情で、揶揄うように言った。


「雷蔵が拭って。君の為に流した血だ」


 冗談のようでいて、それ以上に真剣な仕草で、波留日は背伸びをして目を閉じる。雷蔵は驚き、戸惑いながらも、促されるがまま波留日の頬に手を添えた。親指でそっと唇をなぞる。乾いてしまったそれは、擦るだけでは簡単に取れなかった。


 指先にぬるい吐息が掠める。薄桃色の割れた唇。その隙間からちらりと覗く赤い舌。目を閉じて顔をこちらに向ける波留日。まるで接吻を待っているみたいだ。そう思考が行きついた途端、雷蔵の顔にはぶわりと血液が集まり、呼吸が浅くなる。


 波留日がまるでそれを見透かしたように瞼を上げた。黒く大きな瞳が露わになり、雷蔵を映し出す。


「……しないの?」


 波留日はちろりと舌なめずりをした。唇に掛かっていた親指が赤い舌に触れる。艶めかしい感触が全身を駆け巡り、雷蔵は慌てて手を引っ込めた。


「ばっ、馬鹿野郎! ほ、報告を聞くんだろ! 一日潰させやがって、その責任は取って貰うからな! 大人を揶揄うのも大概にしてくれ!」


 雷蔵は大股で波留日を追い抜き、編集部へと逃げ込んでいく。廊下に一人残された波留日は、固まった血を舐め取ると小さく笑って指先で自分の唇をなぞった。そのまま静かに足を進め、雷蔵の待つ編集部の襖を開ける。


「じゃあ聞かせてよ、あの猫が今日一日何をしていたのか」


 紙とインクの香りに満ちた空気を吸い込み、後ろ手にぴしゃりと閉めた。

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