団扇とペンと池の鯉。下
そよそよと心地の良い風が前髪を揺らして、雷蔵は瞼を上げた。
「あ、起きたか」
雷蔵が身を起こすと、自分は風呂屋の長椅子に寝かされていたことに気付く。頭の方には陣佐が腰かけ、右手に煙草、左手に団扇を持って雷蔵の顔を扇いでいた。
「ほら、水だ。飲め」
陣佐が湯呑みを渡せば、雷蔵はゴクゴクと喉仏を上下させて息をつく。
「……ありがとうございます。逆上せて倒れるなんて、情けない。それに、浴衣も」
雷蔵が身に纏っていたのは、ボロボロの着物ではなく陣佐のものだった。当然陣佐にはぴったりの丈であったが、雷蔵には袖や裾が長い。
「気にするな。これから世界を変える御仲間になるんだ。綺麗なべべくらい来て貰わなきゃな」
陣佐が笑えば、雷蔵は申し訳なさそうに眉を下げて目を伏せる。
「……仲間、ですか。世話人ではなく、仲間と言って下さるのは嬉しいのですが、やっぱり、俺には波留日が分かりません。……陣さんが、あの子供を信じ、つき従う理由も」
「あぁ。確かにな。あんな小僧が文を書いて世界を変えたいと宣うなんて、信じろっていう方が馬鹿げているさ」
陣佐は長椅子から立ち上がると火鉢で温められた空気から逃れるように外へ出て、ゆっくりと縁側に腰掛けた。雷蔵も長い浴衣の裾を踏まないよう慎重に歩みを進めながら、ゆっくりと陣佐の隣に座る。
雷蔵はよく手入れされた庭や鯉の泳ぐ池を、レンズ越しの瞳でじっと見つめた。どこからか忍び込んだ野良猫が、生け垣の影から悠々と泳ぐ魚影を狙っている。
「でもな、俺はアイツが嘘を言っているようには見えなかったんだ。そんで俺自身も、俺が書くものや持っていた信念が揺らいでいた時期だった。新聞記者辞めて、突然現れた小童に全部賭けてもいって思う位にはな」
陣佐の声音は明るかったが、どこかほの暗い雰囲気を帯びていた。
「きっと俺は、あの時、アイツの中の『魂』の熱を垣間見たんだ。そしてアイツも、俺の『魂』を見たんだろうな」
「『魂』……。俺の魂は、そんな大層なものなのだろうか……」
雷蔵は小さく呟き、日の暮れかけた冬の寒空に涼みながら、陣佐に風呂屋に連れて行かれる前の波留日との会話を思い出していた。
***
「か、書いていいとして、俺はアンタみたいに人の心を動かすようなものは書けやしない!」
雷蔵は波留日が差し出した原稿用紙の束へ手を伸ばしそうになり、ハッとして咄嗟に手で払いのける。紙の束は波留日の手を離れ、ばさばさと乾いた音を立てて床に舞い散らばった。
波留日はそれを見ても眉一つ動かさず、膝を折ってゆっくりと紙を拾い集める。一枚一枚、慈しむように。
「俺の文は駄文だ。波留日、アンタの足元にも到底及ばない。散々アンタらの誌を貶したが、俺はそれに文を載せる自信すらも消え失せているんだ!」
雷蔵はボサボサの髪を掻きむしるようにして頭を垂れる。そんな雷蔵を前にして、波留日は拾い終えた原稿用紙の束を脇に置いた。正座する雷蔵の膝元に落ちた一枚だけを残して。そして再びどっかりとソファに腰を降ろして胡坐を掻く。子供用の短い洋袴から艶めかしい白い肌が覗いた。雷蔵は乱れた髪の隙間からそれを見てしまい、慌てて目を逸らす。
「そんな事は無いよ。現に、僕は昨日直々に足を運んで君に会いに行ったし、陣佐を使って君を此処へ招いた。それは君の文が僕を動かしたからだ」
雷蔵は波留日の言葉にぴくりと肩を震わせた。波留日は座卓の上に置かれた日々是好日に手を伸ばし、ページを開く。「介錯」と名のついた短編のページが見開かれ、それを前にした雷蔵のこめかみから汗が垂れた。雷蔵の耳元で、自らの心臓の鼓動がいやに大きく響く。
「死にゆく者の言葉を代筆することを生業とする男の話……。僕は好きだ」
「だが、読み返せば読み返す程、文の稚拙さに死にたくなる」
「確かに未熟で拙いかもしれない。しかし、それは技術の話だ。磨けばいい。もし君が僕の文の技術を真似たいというのなら、その伝授に対し僕は努力を惜しまない」
波留日は言いながら、ふいに立ち上がり身を乗り出した。そして迷いなくその細く華奢な人差し指で、雷蔵の左胸――心臓のあたりを軽く突いた。
「問題は、魂、だよ」
雷蔵は驚いたように顔を上げる。真っ直ぐ自分を見据える波留日の黒い瞳と視線が絡み合った。
あの目だ。
最初に出会った時怖くて堪らなかったその眼差しが、尻尾を巻いて逃げ出したくなるような瞳が、今では不思議と力強く、頼もしくさえ思えた。
「魂は人の生き方を支えるものだ。心根や根性とも言うべきか。それはそう簡単に変えられるものじゃないし育つものじゃない」
波留日は言葉を選ぶように、静かに語る。ゆっくりと紡ぎ出される言葉のひとつひとつが、雷蔵の内側に深く深く沈んでいった。
「世の表現者達は、その内に眠る、他人に見えない魂を外に出すために生きるんだ。それが文字だろうと、絵画だろうと、音楽だろうと、それは手段に過ぎない。その根源は自らの魂だ」
雷蔵は静かに息を呑んだ。その間、波留日の指は、つぅと雷蔵の左胸から上下する喉仏を通り過ぎて、こけた頬へ滑るように移動していく。
「それが、体内で燻ってどうしようもないから吐き出すのか、皆に知って欲しくて見せつけるのは人それぞれだけれども」
そして、ゆっくりと両の掌で雷蔵の顔を包み込んだ。相変わらず、波留日の指はひんやりと冷たく、どこか心地よさがあった。
「僕は君の魂を評価した。是非、君の内で渦巻く魂を曝け出して欲しい。拙くても、愚かでもいい。僕は君の、魂からの言葉が欲しい」
雷蔵は呆然と、その言葉を受け止めた。自分の中の、誰にも触れられたくなかった何かが、自分の中の大切な柔らかい部分が、優しく崩され拓かれていく音がする。
「……初めてだ、そんな事を言われたのは。……アンタは俺の中に何を見たっていうんだ」
「君の魂は、これからの世界に、いや、少なくとも僕には、必要なんだ」
――雷蔵、君は書くな。私の傍で私を見ていればいい――
――後ろ盾も無い野良作家の書くものなぞ、たかが知れているわ――
――最終選考まで残したのは我々の失態だ。よく読めば大したことなど無いではないか――
――貴様の言葉など、誰にも届かん――
ここに至るまでに、雷蔵に向けて放たれ、突き刺さり、ずっと痛みを訴えてきた言葉達が溶けていく。雷蔵は唇を噛みしめた。涙はない。しかし胸が熱い。
込み上げるものを堪えながら、雷蔵は意を決したように膝元へ落ちていた一枚の原稿用紙を拾い上げた。力み過ぎて、不格好に皺が寄る。
「……書いて、良いんだな。俺は何の後ろ盾もない、文壇にも上がれない愚かな作家だぞ……。大学だって中退した。実家とも絶縁済みだ。俺には何もない、何もないんだ」
「何を今更。君も知っているだろう? 日々是好日は、魂を曝け出そうとする人間を受け入れるために創った外道な文芸誌さ。君に、いや、君こそ相応しい」
波留日は雷蔵の警告の言葉を笑い飛ばした。その笑顔は陽光のように明るく、そして信頼に満ちていた。そして窓際の影がゆらりと揺れたかと思えば、背後から威勢のいい声が飛んでくる。
「最近の文壇は保守的で敵わん。それは雷蔵、お前も感じていた事だろ?」
その正体はポイと窓際から吸い殻を捨てた陣佐だ。床に積まれた原稿や書物の海を掻き分けると、雷蔵の肩に大きな手を乗せる。
「っ、それは……」
雷蔵は眉間に皺を寄せた。否定しない姿勢が全てを物語る。
「世界を変えよう、雷蔵。僕と一緒に」
波留日は机の引き出しから万年筆を取り出し、雷蔵の眼前に突き出した。雷蔵はぐっと息を呑んで、暫し黒光りするそれを見つめる。
(甘言だ。俺はそうやって騙されたんじゃねぇのか)
これからの選択を咎める自分の声がして、ひび割れた唇を噛み締めた。そしてじっと縋るように、試すように波留日の目を覗き込む。
少年の瞳は、こちらが身じろぎをしたくなる程真っ直ぐで、そして、もう、怖くは無かった。
(俺は……コイツの、『魂』を……)
雷蔵は大きく深呼吸を繰り返した後、拳を突き上げるように勢いよく、差し出された万年筆を掴み取ったのだった。
「……雷蔵、絶望の先に日々是好日を選んでくれてありがとう」
波留日の笑顔は花のように咲き誇り、雷蔵の心を震わせていく。
「……で、雷蔵。お前何日風呂に入っていないんだ、臭うぞ」
二人だけの世界に、突如現実へ引き戻すような陣佐の一言が投げ込まれた。雷蔵は脂汗や砂ぼこりにまみれてすっかり薄汚れている自分に気付き、白い頬を真っ赤に染める。波留日は半洋袴のポケットから小銭を何枚か取り出すと、陣佐に投げて寄越した。
「直ぐ側に風呂屋がある。陣佐、連れてっておやり」
「はいはい、言われずとも」
そうして陣佐に首根っこを掴まれ、雷蔵は銭湯へ引き摺られて行った。銭湯で雷蔵が赤っ恥を掻くという事は、この時は誰も知る由も無かった。
***
馬車が忙しなく行き来し、人々も足早に歩みを進める大都市・東京の更に中心部。下駄を鳴らし、一人の書生が慌ただしくとある屋敷に飛び込んだ。その手には、小さな新聞社で創られ、安い紙で印刷された市井文芸誌が握られている。
「先生! 『日々是好日』の最新刊、十一月号に橘波留日が新作を載せています! それに、寄稿者の中に、達川雷蔵の名が……!」
屋敷の奥、一人座卓に向かい、葉巻をくゆらせていた初老の男性が顔を上げた。整えられた白髪交じりの髪が、はらりと一束崩れて彼の鼻先を掠める。
「雷蔵……。あの下賤誌に魂を売ったか……。痴れ者が」
男は渡された雑誌の表紙を胡乱な目で見下すと、黒子で飾られた口元を歪めてそう吐き捨て、誌を庭の池へ投げ入れる。警戒心の薄れた鯉が、鼻先でそれを突いた。




