団扇とペンと池の鯉。上
並々と熱い湯が張られた湯船に、肩までどっぷりと浸かる。肌に刺すような熱さがじわりと全身を包み、雷蔵は思わず呻き声を漏らした。
「はぁー……」
湯気が立ち込める天井を仰ぎ見ながら、声にならないため息を落とす。両腕を翼を広げるかのように湯の中へ沈めると、緊張していた筋肉が少しずつ解けていくのがわかった。
「強烈だろう? ウチの坊ちゃんは」
そんな雷蔵の隣で、ちゃぷんと湯を揺らして陣佐が肩をすくめる。濡れ髪を撫でつける姿は、男っぷりが一段と上がって色香が立ち上るようだ。
雷蔵は、陣佐に連れ去られた先――日々是好日編集部にて波留日との会話を終えた後、陣佐に「お前何日風呂に入っていないんだ、臭うぞ」と首根っこを掴まれ、風呂屋へと引き摺られていた。
「全くです。強引で、我儘で、乱暴で、自分勝手だ。半間さんが従っているのが不思議なくらいに」
湯面の湯を手ですくっては零しながら、雷蔵はむすっとした顔で呟く。素っ裸で隠すもののない空間のせいか、放つ言葉はどこか素直だ。
「第一! 俺は、アイツの世話係になるなんて一度も了承していなかったんですから。誰かの下につくだなんて御免ですからね。今だってそう思っています」
怒りというよりは困惑でいっぱいだというような声は、天井に反響して消えていく。代わりと言わんばかりに、濡れたタイルの床をヒタヒタと歩く男たちの足音、桶を置く音、湯を流す音……、人々が息づく生活の音が白い湯気に紛れて響いていた。雷蔵は背中を丸め、こめかみの汗を拭う。
「半間さんなんてよしてくれよ、他人行儀な。陣でも何でも、好きなように呼んでくれ」
陣佐は手ぬぐいを湯船の縁に畳んで置いたあと、湿って垂れる前髪をかき上げた。
「まぁ、確かにな。俺もアイツと会って二年半程経つが、毎日毎日振り回されっ放しだよ」
そして雷蔵の不満を抱く気持ちが理解できるのか、苦笑交じりの声が湯気と混じって消えていく。
「特に、お前が原稿を寄越してからの波留日は何だかずっと浮かれていたよ。ほら、波留日が久々に書いた巻頭の短編小説、あるだろ?」
そう問われて、雷蔵は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。あの小説こそ、雷蔵の心を叩き潰した凶器だ。あれに、自分の文章のちっぽけさを嫌というほど思い知らされた。死を選びかけるほどに。
「そんな顔してくれるな。あれは、お前の原稿が届いた後『これを載せる号には僕も書く。この号は話題にしなければならない』って言い出してな。締め切り直前に、無理矢理アイツの文を巻頭に捻じ込んだんだよ」
「え……」
全く予想のつかない裏話に雷蔵は目を丸くした。陣佐は悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべる。しかし雷蔵を揶揄う様子では無く、その目はひたすら真っ直ぐで、優しい。陣佐はもう一度髪をかき上げて天を仰いだ後、独り言のように口を開いた。
「……昨日、波留日はお前の所から帰って来て少し荒れたよ。感情に任せて酷いことを言った。変な方向に焚き付けてしまったかもしれない、どうしよう、ってな。朝一で俺を寄越したのも……」
陣佐は一度口を噤み、顔の汗を手拭いで拭き取ってから雷蔵に向き直る。
「お前が死んでいないか心配だったからだよ」
雷蔵の顎から、ぽたりと湯面に一滴の雫が零れ落ちた。湯の中で脱力していた掌がゆっくりと拳を握り、白くなる。俯く雷蔵を見守っていた陣佐は、暫くして湯船から立ち上がった。波が立ち、微動だにしない雷蔵の肩にぶつかって何度も弾けた。
「出るぞ、お前顔が真っ赤だ。逆上せてる」
陣佐はそう言うと、貧相な雷蔵の腕を掴んで無理やり引き起こす。清められた白く薄い肌が、湯気に当たって真っ赤に燃えていた。立ち上がったことでくらりとしている雷蔵を引きずるようにして、脱衣所に向かいタイルの上を歩く。
「おう兄ちゃん! いいモンぶら下げてるなァ! 今まで何人の女啼かせてきたんだ?!」
その時、禿げ頭を洗っていた爺が通りすがった陣佐を下品な声で呼び止めた。
「まァな! 女郎衆には引っ張りだこだぜ? だが生憎、本命の方では長年御無沙汰でなァ!」
「そりゃあ気の毒だ! ガハハハッ!」
舌をペロリと出して笑う陣佐に、爺もガラガラとした笑い声を上げる。そして爺の目はふと、真っ赤になってよろめく雷蔵へと移った。伸び放題の黒髪に無精ひげ、今は真っ赤だが、血の気が引けばいかにも日焼けとは無縁の白い頬。細腕に薄い胸。骨の浮くような痩せた体躯はどう見たって弱々しい印象しか抱けない。隣に恵体の陣佐がいるおかげで、その貧弱さは一層際立って見える。
「そっちの兄ちゃんは……まぁ頑張んな! ダッハッハ!」
爺は一瞬言い淀んでから、陽気にバシバシと雷蔵の真っ赤な背を叩いた。すると雷蔵はそのままぐらりと体勢を崩し、タイル張りの床に頭から突っ込んで倒れた。カラカラと雷蔵の瓶底眼鏡が床を滑る。響き渡った派手な音に、皆が何事かと顔を覗かせた。
「あちゃー、引き上げるのが遅かったか……」
陣佐は無様に伏せる雷蔵を見下ろし、ポリポリと頭を掻いた。




