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啖呵と名前と滲んだ血。 上

 波留日らが突然現れた思わぬ来客の対応に追われていたその頃。雷蔵は文句を垂れながら、仕方なしに野良猫の尻尾を追っていた。


 あの小童は自分に一体何てことをさせるんだと思った。荒療治だの何だの宣いつつ、揶揄っているのではないか、と。最初はそんなふうに思っていたのだ。


 だがしかし、その尻尾の先を追って行くうち、彼の中に立ち込めていた複雑な負の感情は徐々に消え失せて行くこととなる。


 小さな訪問者を喜んで迎える老夫婦。職業に似合わず破顔して手招きをし、上官に揶揄われる若い陸軍士官。自分を養うにも大変だろうに、何か食うかと笑い掛ける日雇いの男達。興味本位で尻尾を掴んで威嚇され、自分を棚に上げて泣き出す幼い子供……。


 雷蔵はあの野良猫を通して、一人一人の小さな一日の一頁を垣間見た。今までずっと部屋に籠り、自分のことしか考えられなかった雷蔵の曇った心に吹き抜ける一陣の柔らかい風。


(波留日はこれを計算に入れていたのか……?)


 走りながら書いたためにぐちゃぐちゃになった筆跡の手帳を握り、雷蔵は苦笑いをした。


 荒療治など口先だけ、意味があるとは思えない。しかし、価値があるように思えてしまったのだから、こちらの負けだ。


(いろはの書きつけよか数百倍、数千倍マシだな。これはちゃんと、意味があって俺に言い渡したんだ)


 いつの間にか空が橙色になりはじめている。雷蔵は少しばかり上がった息を整えるために大きく息をついた。


「わっ……! お、お前……」


 いつの間にやら前方を闊歩していた毛玉が、雷蔵の足元に擦り寄ってくる。雷蔵はふわふわとした冬毛の野良猫の頭におずおずと手を伸ばし、恐る恐るそっと撫でた。


 ほわほわとした柔らかい毛並みと、その奥で息づく命の温もり。雷蔵は目を細めて喉元をくすぐってやる。


「今日はありがとうな。色々と煩かったろう」


 猫はニャン、と小さな返事をして、ゴロゴロと喉を鳴らすと、満足したのか人が入り込めない生け垣へと入っていった。残された雷蔵は、寒さで悴んだ手にほぅと息を吐く。


「帰るか」


 暗くなり始めた空を見上げ、カラコロと下駄を鳴らした。猫の尻尾を追って見慣れない町並みまで来てしまった風景が、徐々に見知った下町になっていく。


 長屋や民家からは、夕餉の支度をしているのか、白い煙と出汁の柔らかい香りが立ち上っていた。それに誘われ、くぅと情けない音で腹の虫が鳴く。雷蔵は足を止め、襟元に手帳を仕舞った。早く帰ろうと思えば足取りが急いて、下駄の音の感覚が短くなる。


 住宅街の角を曲がり、古ぼけた朝星新聞社の社屋が見えたその時。


「雷蔵さんっ!」


 通りの先、女学生が一人。夕暮れの空によく似合う臙脂色の袴が、彼女の上品な足取りに合わせてユラユラと揺れている。


「え、ミチさん……?!」


 雷蔵は、ずれた眼鏡を掛け直して目を擦った。雷蔵に名前を呼ばれ、ミチは花が咲くように顔を綻ばせる。


「雷蔵さん! あぁ……御元気そうで本当に良かった……!」


 雷蔵は、一日中歩きまわった疲労や、空腹もすっぽりと忘れて駆け出した。社屋の目の前で二人は向かい合い、雷蔵は眉を下げて視線をずらし、ミチは頬を染めてそんな雷蔵を見上げる。


「どうして、貴女様が此処に……?」


「だって、雷蔵さんが……!」


 道端でそのまま立ち話を始めてしまいそうな二人を遮るように、門扉の先、門扉の向こうでガラリと引き戸の開く音が響いた。その音に顔を上げれば、玄関先に腕を組んだ波留日が立っている。


「女学生が外で男と話すのはよろしくないのだろう? 御帰り、雷蔵。ミチも入りなよ。君についての話も聞かなくちゃいけないからね」


 波留日は二人の顔を交互に見やり、顎をしゃくって社屋の中へと促した。



 ***



 ヒサの淹れた緑茶が湯気を上げる。ミチは茶と菓子を揃えてくれたヒサへ深々と一礼し、慎ましく湯呑みに口をつけた。指先を揃え、音のない所作で茶を啜る様子から、育ちの良さがにじみ出ている。


 応接間には、二人掛けのソファが座卓を挟んで向かい合う形で並んでいた。雷蔵とミチはそれぞれに腰を下ろし、向かい合う形で座っている。


 茶を出し終えたヒサが部屋を去ってしまえば、この部屋に残されるのは、居心地悪そうに落ち着きがない雷蔵と、落ち着き払ったミチの二人だけだ。


 窓からは、橙色の鮮やかな夕焼けがお裾分けと言わんばかりの温かな光が差し込んでいた。


 あと少し待てば、徹夜明けで寝こける陣佐を編集部に呼びに行った波留日が来る。雷蔵はそれを心待ちにしながら、場を持たせるために口を開いた。


「ミチさん、そ、その……こんな所にいらっしゃると、旦那様や奥様が心配されるのでは……?」


 おずおずと伺う雷蔵に、ミチははっきりと首を振る。滑らかな黒髪が揺らめき、それを結わえる大きなリボンがひらひらと宙を踊った。


「そんなこと御座いませんわ。わたくしが雷蔵さんを見つけたと申し上げれば、父は大層喜ぶことでしょう。父は雷蔵さんの事を最後まで心配していましたもの」


 その言葉に、雷蔵はきまり悪そうに呻き声を上げる。片やミチは出された緑茶が美味しいと目を輝かせ、どこのお茶かしら、駿河かしら、伊勢かしら、と頬に手を当て首を傾げた。この話題がころころと変わる忙しなさ。女学生の日常を見ているようで、どこか微笑ましい気持ちになった雷蔵は強張っていた表情筋を少し緩める。


「悪いな、寝坊しちまった」


 そんな折、ようやく襖を開けて寝癖塗れの陣佐と、相変わらず胡乱な目の波留日が姿を現した。陣佐は欠伸を噛み殺しながら雷蔵の隣にどっかりと腰を下ろし、雷蔵の隣を取られた波留日は、雷蔵の座るソファの肘掛に小さな尻を引っ掛ける。


 狭苦しく古臭い一室にて、三人の男が女学生と対峙するという奇妙な光景が広がる。


「改めて、日々是好日の編集長の半間陣佐だ。悪いな、結局草臥れた格好で出迎えちまって」


 陣佐は懐から名刺を取り出し、軽く頭を下げながらミチに差し出した。


「いいえ。こちらこそ突然伺ってしまって申し訳ありません」


 ミチは両手で丁寧に名刺を受け取り、深く頭を垂れる。その仕草は可憐で洗練されており、陣佐と波留日は彼女が受けてきた教育の豊かさを改めて垣間見た。


「ねぇ、ミチと雷蔵は知り合いなの?」


 相変わらず言葉遣いを子供っぽくして無邪気を装う慇懃な波留日に、こら、と陣佐小言を言って肩を小突く。


「えぇと……、ミチさんは、俺が大学予科と大学に通っていた時に下宿させてもらっていた屋敷の娘さんです」


 雷蔵が陣佐と波留日のやり取りを前にして困惑しながら答えた。一方のミチは、背筋を真っ直ぐに伸ばし、柔らかな笑みを浮かべている。その毅然とした姿を前に、雷蔵はどうにも落ち着かず、視線を畳の目に落とした。


「ミチさん、どうしてこんな所に……」


「此処に貴方の名前で小説が載っていたからですわ。立派な文士になると我が家を飛び出して二年半程。ようやく、ですわ。居ても立ってもいられないでしょう?」


 ミチは鞄から取り出した日々是好日の十一月号を雷蔵の眼前に掲げてみせる。雷蔵は一瞬大きく目を見開くと、次には気恥ずかしそうに鼻をすすった。伸ばしっぱなしの髪から覗く耳が少し赤くなっている。


「で、ですが、何でこんな烏合の衆の寄せ集めの誌をミチさんが……」


「そのようなことを仰らないで。わたくし、雷蔵さんのお陰で本が大好きになりましたの。学校では本の虫なんて呼ばれてしまっているのですよ? それに、この日々是好日は、創刊された当初から、わたくしの趣味でずっと読んでいましたわ。わたくしも、いつかわたくしの文を寄せられたら、なんて」


 照れ臭さから自らを卑下するような言葉を吐いた雷蔵を制止させ、ミチはそっと文芸誌を抱き締めて柔らかく微笑んだ。


 陣佐はそんなミチの言葉に思わず身を乗り出し、すかさず勧誘の言葉を投げかける。陣佐の長い足が収まり切らずに座卓とぶつかった。丁度膝か脛の辺りなのだが、痛みよりも高揚が勝っているらしい。


「いつかなんて言わず今出してくれ! 俺達は稚拙かなんて関係ない。文を書いてその魂を曝け出したことを評価して文を載せてるんだからな!」


「いいのですか……? だって、日々是好日の作品はどれも素敵で……わたくし、怖くて……」


「応! 俺としても日々是好日の女流作家が増えるのは嬉しいぜ」


 ミチはその勢いに気圧されて仰け反るも、陣佐の言葉に勇気づけられたのか、頬を染めて顔を綻ばせた。春のひだまりのようなミチの笑顔を見て、雷蔵も目を細めて穏やかな表情を浮かべる。


 いけいけどんどんな陣佐の様子を横目に、波留日はフン、と鼻を鳴らした。


「成程……只のフアンじゃないってことか」


 波留日は腕を組み、上から目線でじっとミチを見下ろす。黒い深淵の瞳が、まるで値踏みをするようにミチを覗いた。


「雷蔵さん、この子は……」


 ミチは以前の雷蔵と同じくその視線に落ち着かなさを覚えたのか、雷蔵に助けを求めるように声を上げる。


 そのような目で見られ、雷蔵は困ったように陣佐を仰ぎ見た。


 回されたたらいを受け取った陣佐は、眉間に皺を寄せて腕を組み、唸り声を上げる。


 無理もない。波留日は表向きは正体不明の小説家。雷蔵は波留日自ら会いに来て自己紹介を受けたが、本来一般人の前に姿を現すというようなことはあってはならない筈なのだ。


 しかしすっかり波留日の存在に慣れきってしまった二人は、今になって波留日をこの席へ同席させていることの違和感に気づいた。


「……嬢ちゃんには言ってもいいか。雷蔵のよしみだ。……コイツは橘波留日。ウチの誌の愛読者なら知ってると思うが、日々是好日の主宰だ。こんな見た目なくせして中身はいっちょ前に小生意気だから色々無礼を働いちまって悪いな」


 陣佐は腹を括ったように頷くと、波留日の頭を引っ掴んで下げさせる。その突然のことに、ぐえっ、と汚い声を上げた波留日。


 その言葉を受け取ったミチは、ぽかんと目を真ん丸にして固まったあと、ようやくその意味を理解したのか、あんぐりと開いてしまう口を隠すために手を当てた。


「え……。半間様、ご、御冗談を……」


「半間様なんて他人行儀な。陣とでも好きに呼んでくれ」


 陣佐は長い足を組んだ。ミチは狼狽えたまま助けを求めるように雷蔵に目配せをする。


「……俺は、『陣さん』って呼んでます」


「そうではなくて! ……雷蔵さんは御信じになられるの? この子、子供なのに!」


 ミチは思わず立ち上がり、眉をひそめて雷蔵を見下ろした。カチャン、と鋭い音を立てて湯吞みに入った緑茶が揺れる。


「……俺は信じました。ミチさんだって、この僅かな時間で波留日がただの子供じゃない事はお分かりになられたのでは?」


「雷蔵……! 僕を信じてくれるんだね! 嬉しいよ!」


 静かに言い聞かせるような雷蔵の声に、ミチは頬を膨らませ、波留日はキラキラと目を輝かせた。そっと波留日に目配せをして微笑む雷蔵に、ミチは下を向いて口を開く。


わたくし、……雷蔵さんの書く御話が大好きでしたの。雷蔵さんが作家の門下に入られて、文士を目指すと申されたから、松栄家は貴方を送り出したのに、二年半も音沙汰が無くて……! やっと文を出した日々是好日の主宰は子供ですって……? そんなのあんまりだわ!」


 ミチは拳を握り締めて声を荒らげた。


「もし、雷蔵さんを弄ぶつもりなら、わたくしが許さなくってよ!」


 綺麗に結わえた髪が乱れる。育ちのいい丸く穏やかな瞳が必死に波留日を睨みつけていた。


「いい啖呵じゃないか」


 波留日は睨まれても怯むどころかニヤリと笑ってみせる。


「奇遇だね。僕も雷蔵が大好きなんだ。弄ぶつもりなんてない。僕はこの日々是好日を通して雷蔵を稀代の文豪にする」


 その目は矢張り暗く闇に沈む色。しかしその奥では轟轟と音を立てて燃え盛る炎を湛えている。ミチはそれを目の当たりにしてハッと息を呑み、気圧されたようにゆらりと脱力してソファに腰を下ろした。目線の高さが逆転し、波留日がミチを見下ろす形になる。


「……僕の命を賭けて誓っても構わない」


 ミチは波留日の言葉を受け、意を決したように息を吐いてそのまま小さく膝に手を置いた。 細い指先がほんのわずかに震えている。


「……本当に、貴方は、あの橘波留日なのですね?」


「そうだよ。信じられないとは思うけどね」


 波留日の返答にミチは目を閉じ、大きく息を吸って吐いた。そしてゆっくりと顔を上げ、彼女はそっと控えめに首を傾げて微笑む。


「分かりましたわ。雷蔵さんも、貴方を信じているのですから、わたくしも、貴方を信じますわ。……波留日先生と、お呼びしても?」


「苦しゅうないね、ミチ」


 波留日はその言葉に白い歯を見せ笑ってみせた。雷蔵は自分を巡ってぶつかった二人が何とか落ち着いたのを見て、ほっと胸を撫でおろす。


 しかし、ようやく緩んだ応接間の空気の中、未だ険しい表情を浮かべる男が一人。


「……で、嬢ちゃん。一段落したところ悪いが、ひとつだけアンタの言った中で気になることがあったんだ」


 陣佐が沈黙を破った。眉間に皺を寄せ、少し考え込むように口を開く。


「何でしょう、陣さん」


 先程まで波留日に凄まじい剣幕で怒気をぶつけていたミチは、あの気迫をどこへやったのか、嘘のようにこてんと可愛らしく首を傾げてみせた。

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