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眩い夜にたおやかな月は笑った

⚠本章は、戦争とそれに付随する被害について取り扱います

「結局、見つからず仕舞いですか……。社にも来ませんでした」


 ひたすらそれらしき影を探し回った夕暮れ。結果は得られず、泥のように重い足を擦って帰ってきた俺に、雷蔵は井戸で汲みたての水を出した。どっかりとちゃぶ台の近くに腰掛け、それを一気に飲み干す。井戸の冷たい水が、すうと動き回って火照った身体を冷やしていく。


「……よくよく考えると、顔も知らねえってのが良くなかったな。大人しく御遣いだけして帰ったか、あるいは電話や電報の傍受で坊ちゃんの不正がバレて捕まってるか……。あとは、ただ単純に迷っているかのどれかだな」


 幾ら旅行に何時間もかかるとはいえ、もう千晴も帝都の地を踏んでいる頃だろう。それでも此方に来ないというのは、安堵以上に、胸を掻き毟るような不安があった。少なくとも彼は、雷蔵の未発表作品の原稿という「お宝」を抱えているのだ。それが原因で坊ちゃんに何かあるかもしれないし、その逆で原稿に何かが起こるかもしれない。溜息交じりに、雷蔵と暗くなり始めた空を睨む。


「夜は動けねぇ。今宵は何も無い事を願うか」


 雷蔵も眉を下げて頷いた。仕方なしに布団へ横になったが、目が冴えてしまって寝付けない。点けっぱなしのラヂオは放送を終了し、微かな雑音だけを漏らしている。そうして静かに息をしていると、けたたましいサイレンが鳴り響きはじめた。


「不味いな……」


 こんな時に警報とは間が悪い。身を起こした雷蔵の表情は、青白い電灯の光に照らされ、まるで幽霊のように蒼白だ。俺たちは言葉少なに仕度をしながら、歯ぎしりをして空を睨んだ。そうして息を潜めること一時間程。ラヂオから緊張の糸を切る解除の報せが流れた。


「よかった、今回も杞憂みたいだ」


 片付けながら安堵を吐露し、再び身体を横たえる。とはいっても簡単に寝付けるわけもなく。仰向けで天井の木目を眺めていた雷蔵が、ぽつりと小さく口を開いた。


「陣さん、俺、確かにこの件で困ってるし、千晴君が心配でもあるけど……何処か嬉しい自分も居るんです」


 俺は思わぬ言葉に思わず身を起こす。俺が動いた衣擦れの音に、雷蔵も首を動かして微笑むと、起き上がって枕元の眼鏡に手を伸ばした。


「この御時世に、俺の文を読んで誰かを動かせたことが。まだ文字の力も捨てたものではないなと思えるんです」


 雷蔵が思うような言葉を紡げなくなってから久しい。穏やかな笑みを湛えていたその裏には、ずっと、泥を呑むような歯痒さやもどかしさを抱えていたのだろう。雷蔵は立ち上がって、窓際にゆっくりと歩みを進めた。


「……そうだな」


 俺は布団の上で胡座を掻き、雷蔵の後ろ姿を目で追う。暗闇に揺蕩う背中は華奢で小さいながらも、やはりどこか頼もしく、広さを感じた。


「え……陣さん、あれ……」


 ゆったりと外を眺めていた雷蔵が強張った声を上げる。震える指先が差すのは、遠く市街を包み込む凄まじい轟炎。夜の闇を食い破り、まるで灼熱の昼が無理やり押し寄せてくるような、おぞましい赤。


「おいおいおい……。警報は解除されただろうが!」


 巨大な翼を広げる鉄の怪物の大群が空を覆い、サラサラと燃え盛る細長い筒をその腹から無数に落としていく。


「不味い……! 奴ら、ここら一帯焼き払うつもりだ!」


 俺は防空頭巾を引っ掴んで雷蔵に投げ、袋に貴重な原稿やら貴重品やらを詰め込んだ。雷蔵も足をもつれさせながら本棚に飛びつき、暗闇の中で指先を迷わせる。


「何してんだ、逃げるぞ!」


 思わず荒げた俺の怒声に弾かれるようにして、雷蔵は数冊の本をひったくって懐へねじ込んだ。


「さようなら。本当に……ありがとう」


 家を飛び出す直前、雷蔵は静かに佇む本棚と社屋に向かい、絞り出すような声で深々と頭を下げた。己の半生を共にした居場所への、精一杯の謝罪と感謝の気持ち。それを目の当たりにした俺も堪らず、柄じゃあないのに敬礼を送り、黄昏社へ背を向けた。


 一歩外へ出れば、そこは阿鼻叫喚の地獄だった。油を注がれ燃え盛る家屋に、鉄の塊が雨のように降り注ぐ。背丈より高い炎を前にして、律儀に貯水槽で水汲みをする人々。その間をすり抜け、俺達は当ても無いまま、ただがむしゃらに駆けた。


「こんなのが恐れるに足らんなんて嘘っぱちだ畜生!」


 消火活動なんてしていたら、逃げ遅れてお陀仏だ。しかし、皆は報道を信じて立ち向かっていく。言葉が思考を繋ぎ、人を引っ張っていく。その進む先が奈落だとしても。雷蔵も歯を食い縛り、地獄から目を逸らすようにして人混みを縫う。俺達は強く吹く風を読み、死に物狂いで風上へと逃げた。


「あっ!」


 雷蔵が人混みに押されて転ぶ。雷蔵だけではない。人々が逃げ惑い犇めきあう中、将棋倒しの連鎖が起きた。間一髪無事だった俺は、折り重なる人に潰されそうな雷蔵に手を伸ばす。


「陣さん! 俺はいいので陣さんだけでも……!」


 呼吸も満足にできないのか、雷蔵は掠れた声で叫んだ。無理矢理出した左手には、雷蔵が初めて書籍化された短編集が握られている。俺はそれを無視して雷蔵の手首を掴んだ。


「馬鹿野郎。そう言われても聞かずに、逃げ遅れて右手を潰した奴が同じことを言うな」


 霞み掛かった記憶の中で、倒壊した朝星新聞社の社屋に囚われた誰かが笑う。俺はあの時、キミさんと千晴の坊ちゃんの命を優先した。あの選択は間違えちゃなかったと思っている。それでも、救えなかったと憔悴して泣く雷蔵の傍に居てやれなかった事が、消えない後悔として俺の中にずっと横たわっているのだ。


 腕が外れちまうかもという心配をしている余裕もなく、俺は無理矢理に雷蔵を人混みから引っ張り出した。


「お前だって、本当はこうしたかったんだろう? ……逃げるぞ」


 目を丸くした雷蔵は、眼鏡を外してゴシゴシと目元を擦った。そして、その胸に確りと己の短編集を抱えて眉を下げて微笑み、ゆっくりと頷いてみせる。


 風を読むために空を見上げた。丑三つ時が嘘のように空が赤く染まっている。鉄の怪物は逃げ惑う俺達を嗤うかのように低空を舐め、巻き上がる炎の昇り龍が空で唸り声を上げていた。もう、俺達が積み上げてきた黄昏社は火に呑まれただろう。しかし嘆いている暇はない。風を見極め、雷蔵と共に地獄を進んだ。


「……ここまで来れば何とかなるだろ。取り敢えず今日は此処で様子見だな。日向端の坊ちゃんは、無事に生きてるかねぇ……」


「祈るしかない、ですね」


 火の手が迫らぬ広場まで逃げ遂せ、漸く息を吐いた。広場には次々と人が押し寄せ、悲鳴や怒号が、昼と見紛う明るい空にこだまする。肌を焼く灼熱と疾風に、噴き出る汗を拭った。


 坊ちゃんは高校、大学を帝都で過ごしている。土地勘はある筈だ。その上御利巧。逃げる術も心得ているはずだ。だとしても、俺達が一縷の願いを託した「宝物」がきっかけで、彼をこの惨劇に巻き込んでしまったという事実に胃がひっくり返りそうだ。


「雷蔵、転んで押しつぶされた時の傷は大事無いか」


「……はい。傷自体は……。でも、嫌なものを沢山見た。あの時のような地獄をまた見るだなんて。……頭が痛い」


 蒼白になっている雷蔵は、こめかみを押さえて目を瞑った。目元が神経質に痙攣している。道中の惨状が脳裏に焼き付いて離れないのだろう。熱さに耐えかね防火槽や川へ身を投げる人々、逃げ場を失い悲鳴を上げる人々。生きたかったはずの命が、無念にも燃え尽きていく。


 俺達は自分が生き延びるためにそれを見殺しにした。優しい雷蔵は、かつて目の前で大切な「あの人」を失った記憶と今の光景が重なり、精神を削られているのだろう。


「っ……!」


「雷蔵?」


 雷蔵は眉間に皺を寄せ、耐えきれないというように蹲った。俺は慌てて丸まった背に手を添える。荒い呼吸で上下する背中が小刻みに震えていた。


「おい、どうした!」


 雷蔵は俺の問いかけには応えず、血管と筋が浮き出るほど力んだ両手できつく頭を抱える。見開かれた瞳は焦点を失い、小刻みに揺れていた。


「っ……頭がッ。……水の音が聞こえる」


「はぁ? 水の音……? 川か……?」


 俺は思わず立ち上がり、辺りを見渡す。広場の中心に川など見えやしない。音だって、聞こえてくるのは阿鼻叫喚と、市街を燃え尽くさんとする轟音だ。代わりに俺の脳裏をよぎったのは、此処まで逃げる道中に見てきた、熱さのあまり川に身を投げた人々の地獄絵図だった。


 その足元で、雷蔵が堪らず嘔吐した。口を覆う指の隙間から胃液が零れ出し、地面に歪な染みを作る。


「おい、しっかりしろ、雷蔵」


 背中を撫で擦る指先から、サァと血の気が引いていった。医療の心得も何も無い俺は、ただひたすら名を呼ぶことしかできない。雷蔵は震える手で口元と頭を押さえ、眉間に皺を寄せて苦痛に顔を歪めていた。


 折角命からがら逃げ遂せたというのに、医者も何処にいるか分からぬ状況に歯軋りをする。だがその時、雷蔵が愕然と目を見開いた。


「陣さん……思い出した」


「はぁ? 思い出したって、何を」


「波留日だ。波留日。橘、波留日」


 こんな時に何を言い出すのかと眉を寄せる。遂に頭の捩子が外れちまったか、と。そして雷蔵が口にした名は、馴染みのないものだ。合点がいっていない俺を見透かしたのか、雷蔵は口元を拭ってゆっくりと立ち上がると、俺を真っ直ぐに見据えた。


「陣さん、思い出してくれよ。俺達を救った『かみさま』の名前は、橘波留日だ」


 口の中で、その綺麗な響きの名前を転がす。何だか口馴染みが良くて、思わず声に出してしまいたい感じがした。どこか懐かしいような、胸がくすぐったいような、そんな得体の知れない感覚に包まれる。それを逃さないように、俺は何度もその名を声に出した。


「波留日、波留日……」


 雷蔵が文豪としての軌跡を歩み始めたあの夜から、ずっと靄が掛かっていた記憶。それが名を呼ぶ度に晴れていく感覚がある。俺は重くなっていく頭に、堪らずこめかみを押さえた。


 何故俺が、若かりし頃志していた報道の道ではなく、文芸の世界にいるのか。それは、正義と利益の板挟みで絶望していた俺の前に、計り知れない熱を抱えた少年が現れたからだ。才と度胸に溢れた、生意気で無邪気な少年が。


「波留……。あぁ……波留日だ」


 どうして今まで忘れていられたのか、それが不思議でならなかった。俺は天を仰ぎ、腹の底から大声で笑った。真っ赤な空が陽炎のようにゆらゆらと滲む。それは熱気のせいではなく、瞳に溜まった水の膜のせいだろう。


「はは、ははははっ!」


 俺の奇行に釣られたのか、雷蔵もらしくない大声を上げて笑い出した。その頬を、ボロボロと大粒の涙が伝い落ちる。


 無数の命が散りゆく赤い暗雲の下、男二人の場違いな笑い声が高く響き渡った。

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