暗く長い道を歩く半生となりて
⚠本章は、戦争とそれに付随する被害について取り扱います
偕成出版の手助けを借りながら設立された『黄昏社』。文芸界の権威である池田川賞を冠した作家、達川雷蔵と、元大手新聞社および朝星新聞社勤務の敏腕編集者であるこの俺、半間陣佐の二人が長らく代表を務める小さな出版社だ。
黄昏社が擁するのは、市井文芸誌と銘打たれた、誰もが文を寄稿できる「日々是好日」。そして主宰の達川雷蔵が紡ぐ珠玉の小説や、日々是好日に長く寄稿し、その才能を花開かせた作家達の作品だ。
ぽっかりと空いた心の穴を埋めるように、名も姿も、何もかもを忘れてしまった「あの人」を求めて物語を紡ぎ続けた雷蔵は、いつしか「黎明の三連星」に続く、次世代の文芸界を継ぐ旗手として知られるようになっていた。たおやかな顔に儚い雰囲気を湛える文人。そんな彼が書く美しい物語に、惹かれない者などいるはずがないものな。
文芸の文化が百花繚乱のごとく花開く中、俺たちは間違いなくその一翼を担っていたわけだ。
しかし、その心地よい風が吹いたのは一瞬。俺達を取り巻く空気はどんどん暗く淀んで重たくなっていった。魂を綴ることも、口に出すことも、あまつさえ思うことさえも憚られ、挙句紙やインクも手に入らない、氷河の時代が到来した。
報道機関の統合に伴い、黄昏社は強制的に偕成に吸収され、「日々是好日」も休刊。出版の自由は奪われ、誰もがその名を知る文士となっていた雷蔵は、国民の士気を高めるために、表に立つことを求められた。
名が売れたが故の苦悩に雷蔵は苛まれていた。
「右手は言わずもがな、左手も腱鞘炎で使えない……なんて言い訳、いつまで通じますかね。俺の作風は、今求められているものには合わない。趣味じゃないどころか、もう物理的に書けないんですよ。努力はしました。何作かは形にしました。けれど……もう、限界だ」
冬が終わりを告げ、春の気配が微かに足音を忍ばせる頃。夕方の強い風に吹かれながら、俺たちは作家が集まる懇親会からの帰路を辿っていた。雷蔵は力なく肩を丸め、愚痴をこぼす。眼鏡を外し、眉間に皺を寄った鼻梁を指で強く押さえた。
「のらりくらりとかわせるのも、そろそろ限界だろうな。口述筆記を求められたら御仕舞いだぞ」
冗談交じりに言えば、雷蔵は困ったように口を噤む。愚痴話と世間話をしていたら、いつしか木造二階建ての借家の前に行き着いていた。黄昏社の看板を掲げる編纂室と住居を一緒くたにした、俺たちの牙城だ。雷蔵は、今はもう碌に活動していない看板を右手でそっと撫でて微笑む。どれだけ周りから後ろ指を指されようと、どれだけ変わることを求められても、彼は自らの毅然とした信条を、決して曲げようとはしなかった。
靴を脱ぎ、床を軋ませながら廊下を歩く。居間に入るなり、雷蔵は黒布で覆われた電灯をつけた。暗がりに浮かび上がるちゃぶ台に向かって、彼はゆっくりと膝を揃える。俺は棚の上のラヂオの電源を入れた。
心もとない明かりの下で、雷蔵が鉛筆を走らせる音と、ラヂオから流れる勇ましい報道の声、そして繰り返される軍歌だけが響く。雷蔵が今綴っているのは、ラヂオの内容とは真逆の、優しくて、繊細で、どこまでも美しい物語だ。これが再び日の目を見る日は来るのだろうか。手持ち無沙汰を煙草で解消しようとしたが、箱は空だった。俺は窓際に寄り掛かり、冷えた空気の中に溜息を吐き出す。
夜も更けた頃、静寂を切り裂くように不安を煽る警報が鳴り響き始めた。ラヂオがけたたましく詳細を報せ始める。
「……雷蔵、明かり消すぞ」
電灯に手を伸ばせば、雷蔵はなおも鉛筆を握る力を強め、原稿用紙に齧りついた。
「あと少しだけ……」
「馬鹿、俺らのせいで標的になったら目も当てられねぇよ。あと暗闇で書くな。既に老眼で弱ってる目を酷使するなよ」
俺は、少し寂しくなり始めた彼の旋毛を人差し指で突いて念を押した。
「うぅ……」
脳天を押さえて唇を尖らせながら、雷蔵は渋々防空頭巾と持出袋に手を伸ばした。
***
警報が杞憂に終わった翌朝。相も変わらず強く吹き抜ける季節外れの寒風に、俺は凝り固まった身体を伸ばした。朝に弱い雷蔵は、未だに布団の中で芋虫のように丸まって唸り声を上げている。俺は手際よく自分の布団を片付け、部屋の隅に追いやっていたちゃぶ台を居間の真ん中へ引きずり出し、どっかりと胡坐を掻いた。
「ごめんくださーい、電報です」
そうして落ち着いた矢先、静寂を裂くように冷え切った玄関を叩く声がして、俺は重い腰を上げる。そのついでに寝ぼけている雷蔵の布団を力任せに引き剥がし、欠伸を噛み殺しながら玄関を開けた。
「おう、御苦労さん」
電報配達員から一枚の紙片を受け取る。電報なんてこの御時世珍しい。緊急時にしか使われないはずの連絡手段に首を傾げながら、その紙に目を通した。
『ムスコ ソチヘ イッタカ ツキシダイ レンラク コフ ヒナバタ』
「……はぁ?!」
思わず上擦った絶叫に、何事かと眠い目を擦る雷蔵が奥から顔を出す。青褪めて仰天する俺を見て電報の内容が気になったのか、雷蔵は俺の背後から背伸びをして紙面を覗き込んだ。そしてじっくりと意味を咀嚼するや否や、雷蔵もまた大声を上げて飛び上がった。
「え……? 甲府からこっちに?! 息子さん……千晴君って、帝大から疎開移転した研究所で研究生やってるんですよね? 何でこっちに?! 連絡をくれって、……俺達、あの子の顔も分からないですよ!」
脳裏に二十年程前の地獄が鮮明に蘇る。あの未曽有の大災害の中、俺達が必死に取り上げた日向端夫妻の息子、千晴。あの子は大層優秀に育ち、帝大の農学部に進んだと聞いている。現在は出征という形ではなく、父・明彦と同じ研究所でお国のための研究に勤しんでいるはずだった。数ヶ月前、年賀状代わりの近況報告でそれを知ったばかりだ。その彼がなぜ。
「ちょっ……! 電話だ! 電話借りに偕成行くぞ!」
電報の情報だけでは少なすぎる。直接話を聞かなければ事態が理解できない。俺は居ても立ってもいられず、寝巻を脱いで手早く着替えた。目指すはこの時世でも電話を設置している親会社の偕成出版だ。数年前ならば我が社にもあったが、生憎こんな状態だ。引き払ってしまったことが悔やまれる。
「繋がるんですか?! 幾ら偕成って言ったって……!」
雷蔵も浴衣を脱ぎ散らし、泣きそうな顔で眉を下げる。軍が最優先の通信網を、出版社がどこまで使えるか。庶民の連絡に時間を割いている暇なんて無いのかもしれない。だが、迷っている暇はない。こっちだって譲れない緊急事態だ。
「繋がるかじゃねぇ、繋がるまで回し続けるんだよ! 明彦が勤務している研究所なら行けるんじゃないのか?!」
家の鍵を閉める暇も惜しみ、 俺達は転がるように家を飛び出した。
そうして息を切らしながら行き着いた偕成出版の文芸部。順当に出世して一番偉くなっている鎌田に頭を下げ、壁に掛かった黒い受話器に飛びつく。
「駄目だ、繋がらない!」
雷蔵と交代で何度も何度も呼び出しを乞うが、交換手の声は無情にも「取り次ぐことができない」という言葉を繰り返す。苛立ちが最高潮に達し、俺は雷蔵に電話番を任せて椅子に座った。歳を取ると穏やかになるなどと言われるが、どうやら俺は例外らしい。子供が居れば雷親父にでもなっていただろう。
余計なことを考え始めた頭に喝を入れるために、両手で頬を叩く。一体全体、何故に日向端の坊ちゃんがわざわざ危ない東京の街に来るのだろうか。疎開と研究のために帝都を離れたんじゃなかったのか。
今は都市の流入を抑えているから、此方に来るのだって一苦労な筈だ。それでも来るということは、何か俺達に大切な用でもあるのだろうか。胸がざわつき、無意識に煙草を欲する。しかし、この物資不足の時世、そんな娯楽品は生憎手に入らない。手持ち無沙汰に爪を噛んでいたその時。祈るように何度も交換手と交渉していた雷蔵の顔色が一変した。
「もしもし! あ、お願いします! 甲府の……。あぁ日向端さん! 陣さん、繋がった!」
明るくなった雷蔵の声音。俺は弾かれたように立ち上がり、彼から受話器をひったくって送話器に食らいついた。
「明彦! 俺だ、陣佐だ! あの電報はどういうことだ! 手短に頼む!」
『あぁ……陣さん! すいませんこんな時に!』
思わず強くなった語気にしまったと思ったが、明彦もそれを気にする余裕が無いのか、雑音混じりの酷く狼狽えた声を返して来た。
『今朝、千晴が「大学に残してきた実験記録を回収しに行く」と言ってうちを出たんです。ですがあの子、別の人を無理に説得してまで強引に出張を捥ぎ取ったらしく……。不審に思ってあの子の部屋を見たら、御二方が預けてくれて、蔵に家宝として保管していた原稿の封筒が中身が無い状態で転がっていて……!』
一瞬、目の前が白ける。雷蔵が再起の証に日向端家に託した魂だ。池田川賞作家の未発表原稿としても価値が高いそれが持ち出されたという事実に、冷や汗が背中を伝う。
『もしかしたらあの子、記録の回収なんて建前で、貴方たちの所へ向かったかもしれないです! 大切なものを勝手に持ち出して、あまつさえこんな空襲の激しい帝都へ……。妻のキミも、もう気が気ではなく……!』
矢継ぎ早に投げかけられる明彦の悲鳴のような訴えに、俺は思わず目を閉じて額を押さえた。若者らしい鉄砲玉のような行動力と機会が上手く合致してしまったが故の騒動だろう。一体誰に似たんだか。
「あい分かった。十中八九俺達の所にくるだろうな……」
「本当に申し訳ありません……! よろしくお願いします」
消え入りそうな明彦の声を聞いて、親の心子知らずとはこのことだなァと、場違いな笑みが零れた。
受話器を置いて、固唾を飲んで俺の顔を覗き込んでいた雷蔵に向き直る。
「やっぱりこっちに向かっているらしい。今朝出たならまだ到着はしていないな」
「でも、最近の列車はどのくらいの時間が掛かるかなんて分かったものではありませんよ」
雷蔵が蒼白になって考え込む。昨今、物資不足や警報で列車のダイヤは滅茶苦茶だ。そんな不確かな雑踏の中から、顔も分からぬ青年を見つけろなど、どだい無理な話だろう。
「雷蔵、お前は社で待機してろ。ひょっこり家を訪ねてくるかもしれねぇからな。俺は駅を当たってくる」
「……はい。陣さん、気をつけてくださいね」
俺達は鎌田に短く礼を言い、足早に偕成出版を後にした。社屋の前で雷蔵とも別れ、中央本線が乗り入れる駅を目指す。




