独白 第四の手記
そうして私と陣佐は、文を愛し、時代を紡いで行く素晴らしき人々の魂を受け止める「器」として、日々是好日の運営に心血を注いだ。
その器を主宰として磨き上げる傍ら、朝星新聞社に届く原稿の束、他誌の目次、果ては懸賞小説の応募者名簿に私が渇望してやまない人物の名がないかどうか、血眼になって探す日々。私は常に、焦燥と共に彼を追っていた。
その過程で、まだ若かりし日の文豪たちの初々しい作品に触れ、あるいは大御所の伝説を「新作」として受け取るという稀有な機会にも出会った。この贅沢は、時を逆行して流された私にのみ許される特権だろう。
「吝、類……?」
中には、文豪の下で名声を得て世間を騒がせているにもかかわらず、未来を知る私の記憶には存在しない作家もいた。これも池田川の悪戯か、はたまたその退廃的で耽美な作風ゆえ、文学史から抹消されたのか。彼の名は棘のように引っ掛かりはしたが、追求することは自らの素性を明かす危うさを孕んでいた。その懸念を無視できるほどの余裕は、私には残されていなかった。
運命の歯車が噛み合ったのは、十一月号の刊行に向けて、届いた原稿を整理していた最中のこと。冬を目前にした秋らしい肌寒さと、空っ風が巻き上げる砂埃が窓を叩く午後。インクの匂いと埃が混じる空気の中、沈黙を破ったのは、定位置の窓際で原稿を確認していた陣佐が不意に漏らした苦々しい声だった。
「コイツ、大丈夫か……? 作品自体は一級品だが、それ以外があまりに……」
陣佐の手が、一束の原稿を掴んだまま凍り付いている。ちらりと覗き見たそれは皺だらけで、清書する原稿用紙さえも惜しんだのか、書き損じたところはペンでぐちゃぐちゃと執拗に塗り潰されていた。荒れ狂うような筆致は、書き手の精神が崖っぷちにあることをまざまざと伝えている。
だが、目の肥えた陣佐が一級品と褒めるような野良の作家なんて、今まで殆どいなかった。故に、この寄稿者は、相当な実力者だ。
まさか。
心臓が喉元まで跳ね上がる。
「陣佐! 貸して!」
私はソファを蹴るようにして立ち上がり、陣佐の手からその原稿をひったくった。
作者は、達川雷蔵。
「――っ!」
打ち震えるような感動と歓喜が全身を駆け抜ける。漸く会えた。漸く、彼の綴る生きた言葉に触れられた。封筒に記された住所を今すぐ追いたい衝動を必死に飲み込み、私は原稿用紙とペンを引っ掴んで文机へ向かった。
「これを載せる号には僕も書く。この号は話題にしなければならない」
そのために、私はこの生においても筆を取り、全てを賭けて死に物狂いでこの道を作ってきたのだ。
そして運命の、日々是好日十一月号の発売日。私は紙切れに達川雷蔵の住所をしたため、東京の路地へと繰り出した。安い貸間が軒を連ね、日雇いの男たちが肩を寄せ合う街。似たような長屋が続く薄暗い通りを進み、角を曲がった刹那、誰かと正面からぶつかった。
「っ……痛てえな……! 何処見て歩いてるんだ!」
地面に尻餅をつき、大きく舌打ちをした男。彼の転んだ足元には、手に持っていたであろう『日々是好日』の最新号と、首を吊るのにうってつけな太さの、物騒な縄が転がっていた。分厚い眼鏡にこけた頬。ボサボサの長い髪と着古されて薄汚れた書生服という出で立ち。隈に縁取られて曇った瞳と視線が絡まる。
私は遂に、達川雷蔵に出会った。
初対面の荒んだ姿に隠されていたのは、どこまでも繊細で優しい、私が惚れ込むに相応しい心根。生きることに怯えながらも執着し、名を残すことを渇望する、毅然とした精神を持った美しい人。そしてその実、誰かの助けを求めて静かに泣いていた、天涯孤独で泣き虫な寂しい人。
知れば知るほど、私は彼の底なしの魅力に傾倒していった。
彼を雁字搦めにしていた因縁や確執を一つずつ取り除き、曇っていた瞳に光を宿す。私の持つ全てを彼に注ぎ込み、雷蔵と共に歩んだ数年は、人生の何処よりも満ち足りたものだった。
今までに味わった苦しみや痛み、絶望は全てこの夢のためだったと思えるほどに。
しかし、その幸せは未来永劫続くものでは無かった、らしい。
日向端と名乗る夫婦が朝星新聞社の隣に越してきて、この世界が現実の歴史の流れを確りと汲んでいることに気付かされた。遺影でしか見たことのなかった、丸い頬に人懐っこい笑顔を浮かべる女と、記憶よりも皺や白髪のない、満ち足りた眼差しの男。
仲睦まじく連れ立つ二人の間に生まれる子の名前を、私は知っている。同時に、その子供が生まれ落ちる日に襲い来る、あの巨大な災禍も。
私には、この世界に存在できる「期限」があるのかもしれない。
その仮説を裏付けるように、右手の指先を皮切りに、私の身体は少しずつ朽ち始めた。私の中には常に切羽詰まった焦燥が燻り、多くの無理難題を雷蔵や陣佐に吹っ掛けた。呆れられても、疎まれても構わない。それでも、彼の為にできることは全てやり遂げておきたかった。
彼の作品が、名が、魂が、誰の目にも触れず忘れ去られていくことがないように。
彼の綴るやさしさで、前を向ける人が少しでも多くなるように。
「類……! ……少し、二人で話したい」
もう起き上がることすら難しくなってしまったような頃。遂に私は同じ「違和感」を纏う吝類へ声を掛けた。
そこで分かったことは、彼も同じように三途の川で、池田川の三連星の掌に縋ったということ。そして、様子を見るに、まだ彼の期限は近くないということ。ならば、彼に頼まれて欲しいことがあった。
私が彼の為に残せる、最後の大博打。
「……渡した住所は私の生家の場所だ。あそこの蔵は、少なくとも私の知る範囲では災禍も戦火も免れている。だから……直近に迫る災禍を免れるために、これを蔵に運んで欲しい。鍵は裏口の招き猫の下に隠してあるはずだ。田舎だから戸締りもいい加減だ。問題なく忍び込める」
焼け出され、絶望の淵に立つであろう雷蔵や陣佐を鼓舞し、再び立ち上がらせるための「光」を詰め込んだ鞄。これを私はもう一人で運ぶことができない。
「この荷物を運んで、無事に雷蔵クンに届くんか。そもそも、雷蔵クンがあの災禍で生き残る保証もないじゃろう。大きな災禍ってのは、皆に等しく降り掛かって容赦なく命を奪うものじゃ」
やって欲しい事は事前に伝えていたが、その無茶振りを前に不安な様子だ。
「それに関しては、僕が絶対に雷蔵を守る。この命に代えても」
布団の上で拳を握る私に、類は口を噤んだまま頷いた。
「あ、あと、君の故郷で連絡ができて信頼のできる住所を教えて欲しい。直前に届く原稿を避難させるのと、騒動が落ち着いた頃に、その鞄を私の家に送って欲しい旨を書いた荷物を送るから」
矢継ぎ早に頼みごとをする私に、類は神妙な顔を浮かべながら、文机に向かってサラサラと住所を書き下した。その紙を手渡しながら、類は私に問う。
「そんなまでして、雷蔵クンに執着する理由は何じゃ」
私はそれに手を伸ばしながら、心の底から笑ってみせた
「決まっているだろう? ……僕が、雷蔵の一番の贔屓だからだよ」
***
長月の初め、宿命通りに訪れた地鳴りと、全てを呑み込む劫火。どこか懐かしささえ覚える炎を見上げる。
雷蔵は私との別れを拒み、子供のように喚き散らして泣き叫び、必死に私の手を掴んだ。別れたくないのは私だって同じだ。雷蔵が賞を取り、世間にその存在が見つかるまで見届けたかった。しかし私は、そこまで彼を導くことはできない。
市民の救助活動に回っていた佐伯官兵衛と眞田勇次郎に発見され、担がれる姿を見届けたとき、私の肩からようやく力が抜けた。
日向端夫妻の愛息子が、この混沌の中で産声を上げる。同時に、この長い夢も終わるのだ。
指先が炎の閃光に溶け、意識が遠のいていく。
「あぁ……最高だ!」
死の間際に見せられた、あまりに長く、あまりに美しい夢の中。私は溢れんばかりの充足感と共に、天を仰いで大声で笑った。




