独白 第三の手記
次に目覚めた時、私は帝都の川の畔に転がっていた。
自由が利くものの、異様に小さい掌に違和感を覚える。這いずるように水面を覗き込めば、そこに映っていたのは、見慣れぬ子供の様相だった。
神が誂えたような美少年の面構えだが、少年らしい丸い頬や、大きな瞳はどこか童顔な自分に似ている。しかし、雪国でしか育たないような真っ白い肌や、筋の通ったすらりとした鼻筋は全く以て見覚えが無かった。
ついでに言えば、街並みも、空気の匂いすらも変質している。古臭い門構えに、行き交う人々の、着物と洋装が混じり合ったどこか時代遅れな格好。風に吹かれて足に纏わり付いた新聞の端を拾い上げ、その日付に度肝を抜かれた。
私は、自分が生まれる前の大正の世に、見知らぬ少年の姿で転がっていたのだ。
新聞を読み込めば、数日前に川で溺れ、行方不明になった子供の小さな記事を見つけた。その子どもに乗り移ったかと思ったのだが、こうして町を歩いても騒ぎにならないところを見ると、私はその子ではないらしい。だが、おそらく、姿形は変われど、私はその子供を「器」としているのかもしれない。などと考えてみる。
川の畔に座り込み、私はなぜ二度目の生をこの時代に受けたのかを問うた。
「いや、考えるまでも無い。決まっているじゃないか」
達川雷蔵を見つけ出し、稀代の文豪にする。そのために、私は此処にいるのだ。こんなこと、現実にあるはずない。どうせ夢だ。死ぬ前の走馬灯のようなものだ。
それならば、好き勝手やらせてもらおうじゃないか。
久しぶりに自由の利く四肢の感覚を噛み締めながら、川沿いの道を駆け出す。不自由だった右脚や右手の痛みはない。視界も鮮やか。自然と溢れ出す笑い声が、春の風に溶けていった。
***
身軽で自由な子供の身体は便利だと思っていたが、それが社会において、いかに無力で不便であるかを知るのにそう時間はかからなかった。
まず私が一番初めに取り掛かったのは、帝都に点在する大学を片っ端から巡り、「達川雷蔵」の名を持つ者を探し出すことだった。 あの未発表の原稿が挟まっていた池田川朔時の本。それがどこの大学の蔵書であったかは、廃棄の際の墨塗りと陣佐の死により永遠の謎となっていた。故に、陣佐が残した「東京の大学」という言葉だけが唯一の手掛かりだった。
しかし、得体の知れない子供が「会いたい学生がいる」と大学の門を叩いたところで、返ってくるのは冷ややかな嘲笑だけだった。
「学年は」
「学部は」
矢継ぎ早に浴びせられる問いに私は困り果てる。ここの学生かも分からない、学部はおそらく文学部だと思う、などという不明瞭な受け答えをすれば、職員の耳には質の悪い悪戯にしか聞こえなかっただろう。まるで迷い込んだ野良猫を追い払うかのように、首根っこを掴まれて放り出されてしまう。
図書館の前で待ち伏せをして、通りかかる学生に縋り付いて聞き込みをしても「知らないね」と一蹴され、あっさりとあしらわれてしまった。
大学への潜入に限界を感じた私は、次に文芸界の海へ潜ることにした。同人誌から文芸誌、公募の名簿に至るまで、彼の名がないかを虱潰しに探す日々。だが、彼の名を見つけることは叶わず、さらに一日中軒先に立ち、血眼で文芸誌を捲る少年は、店主の目には不気味な迷惑客としか映らなかったのだろう。
「おい、ガキ。買う気がないなら帰れ。商売の邪魔だ!」
店主にどやされながら摘まみ出され、私はトボトボと川の畔に座り込んだ。万策尽きし。腹の奥からせり上がってくる言葉は、私の全身を毒のように回る。
「……そもそも、この時代の人間かも分からないじゃないか。『達川雷蔵』という名だって、本名かどうかも定かじゃないのに。もし、この時代に達川雷蔵が居なかったら……。恨むぞ。池田川朔時め……」
自棄だと言わんばかりにごろりと寝転がる。視界を埋めるのは、数十年後に焦土と化す事実が嘘のような、どこまでも清々しい大正の青空。それを見るだけで、まだ終われないという気持ちが湧き出てくる。私は身を起こして胡坐を掻いた。
仮に、この時代に達川雷蔵が存在しているとする。しかし、何処にも彼の名前は無い。ならば、彼はまだ「何者でもない」か、世に出る術を知らずに暗がりで燻っているのではないか。
さすれば、彼がいち早く活躍できるような居場所を私が作ればいい。大正という、同人誌や文芸誌の文化が花開いたこの時代なら、不可能ではないはずだ。
あんなに優しい物語を綴る人だ。きっと月のように美しく、慎ましやかな人に違いない。だが、月は太陽が無ければ輝けない。彼を照らす太陽が無いのなら、私がそれを創ればいい。
「そうだ、それがいい」
思い立てば、やることは一つ。私が達川雷蔵の後ろ楯になれるほど、文壇で力をつけるのだ。子供の姿に不安はあるが、綴る言葉で人を篭絡すればよい。私にはその自信があった。何せ、時代が時代でなければ池田川朔時の再来だと言ってくれた人がいたのだから。
日雇いの小銭を握り締め、紙とペンを買った。図書館の片隅で何本もの物語を綴った。幸い、物資不足で形にされることのないまま脳内で腐りかけていた案は掃いて捨てるほどある。それを真っ白な原稿用紙に刻み込める高揚感が私の全身に迸った。
「そうだ、筆名……」
生憎、私の苗字はとても珍しい。もし、此処が夢ではなく本物の過去ならば、既に私の両親は存在している筈だ。売るべき名で無駄な言及をされるのも厄介に感じる。
「ひなばたちはる……ひなばたちはる……。たちばな……。橘、波留日」
本名を並べ替えて遊んだその名は、案外綺麗な響きだった。 名前が決まればあとは動くだけ。私は書き上げた魂の欠片を携え、出版社を行脚した。
しかし、現実は甘くなかった。
「どいつもこいつも、見た目だけで判断して……!」
出版社を巡っても、見た目で門前払いが八割。残りの二割で「これを書いた本物の作家を連れてこい」と怒鳴り散らされた。私が書いたのだと主張しても一蹴され、「お父様のものを勝手に持ち出しちゃいけないよ」と宥められて追い出される。憐みと嫌悪の視線に、何度歯を食い縛っただろうか。
当然、精神も肉体も削り取られていった。折角誂えられてもらった美少年の顔はみるみるうちに痩せ細り、目は不気味なほど大きくギョロリと光る。白い皮膚に覆われた腕や足は、今にも折れそうな棒きれのようになっていた。
何度目かの挑戦。三大文芸誌の一つを擁する偕成出版に潜り込む。受付で追い返されそうになった私を拾い上げたのは、文芸部の鎌田という男だった。何人か文芸部の人間には会ったが、彼は初対面だった。七三分けの髪型が胡散臭い。
「少年、これは君が? 本当に……後ろに君を遣わせた作家は居ないのか」
「だから、これは私の作品だよ。疑うのなら今此処でもう一本小説を書いたっていいんだ」
応接間に通してもらい、一抹の希望を抱いて原稿を渡したが、返ってきたのは聞き飽きた疑いの言葉。私は、辟易として思わず語気を強めた。
「しかしなぁ。偕成で突如子供の作品を出すってのは……」
「大手と名高い偕成の頭は、案外頭が堅いと御見受けする」
苛立ちが最高潮に達し、見た目に合うよう子供の皮を被っていたことも忘れ、私は鎌田に噛みつく。
「逆だ。……中小の方がまだ融通が利く」
言った後でしまった、と唇を噛んだが、鎌田は意外にも冷静だった。彼はソファに深く腰掛け、眉間に深い皺を寄せて何やら考え込んでいる。
「そうだ、朝星新聞社という中小新聞社に、燻っている優秀な記者が居る。奴の魂を掴むことができれば、お前の運命が変わるだろう」
「朝星新聞社……?」
商店に並んでいる新聞の端、朝星週報を見つけて手に取ってみる。文芸欄もなければ、地味な事件や地元の話題ばかりを取り扱う、普通の新聞だ。鎌田に言われたような、劇的な変化を持つようにはとても思えなかった。
それでも、行き詰まっていた私に、鎌田の言葉を信じない以外の選択肢はない。故に私は朝星新聞社の戸を叩いた。
「御免下さい。どうか、私の小説を読んでほしいのです」
そこで私は「彼」に再会した。まさか、その「燻っている記者」が、若かりし頃の半間陣佐だなんて思ってもみなかった。
やはり、若き日の陣佐も優しかった。どんなに痩せてみすぼらしい子供でも、彼は門前払いすることなく、私の言葉を真っ直ぐに読んでくれた。無論、最初は私の書いたものだと信じてもらえなかった。彼が私を見る瞳には、まるで未知の「化物」に出会ったかのような怯えが混じっている。
「……私は、私の作品に対して決して嘘はつかない。真に受ける人は今のところ居ないけれどね。ねぇ陣佐、貴方はそうではないと、貴方は、貴方だけは、私の文を、魂を、色眼鏡無しに真っ直ぐに見てくれると信じているのだけれども」
ここで駄目ならきっとおしまいだ。私は半信半疑の陣佐に訴え掛け、縋るように説得をした。
「……お前、何者だ。親は、故郷は」
私は身をすっくと起こして、胡坐を掻く陣佐をそっと見下ろした。
「……僕は橘波留日。ただ純粋に、物書きを志す者。親も、故郷も此処には無い。僕が持つのは、この身一つと綴る文字だけだ」
陣佐は私の顔を見上げ、呆気に取られたように目を見開き、やがて腹を括ったように立ち上がった。
「お前の望みは何だ。生憎、この朝星新聞社に文芸誌は無い。では、この小説を載せるために新聞に文芸欄を作ることか。それとも、元大手出版社勤めだった俺の伝手か」
勝機は来た。私は高揚する気持ちを鎮めるように深く息を吐き、胸に手を当てて口を開いた。
「陣佐さえよければ、文芸誌を作りたい。誰でも載せられる、才能を探すための門戸を。この世界を切り開き、未来まで届く物語を綴る、宝石の輝きを放つ才を持つ者を探したいんだ。そして君が、私や、その原石の担当編集になってくれ」
陣佐は再び面食らい、ごくりと喉を鳴らす。きっと頭の中で考えを巡らせているのだろう。やがて彼は、唐突に目を閉じて笑った。
「……かつ丼とオムライス、どっちが好きだ」
唐突に投げられた問いに、今度は私が面食らう。
「腹が減っては戦はできぬと言うだろう。なぁ?波留」
陣佐の大きな掌が、私の頭を乱暴に、しかし温かく撫でた。受け入れられたのだ。答えが「是」だと理解した瞬間、私は我慢できずに飛び上がり、陣佐の胸元へ飛び込んだ。
鼻を突く安煙草の、あの懐かしい煙たい匂い。視界が滲み、涙が止まらなくなった。陣佐が私の頭を撫でる。
「ありがとう、ありがとう、陣佐……!」
あの時生まれて初めて食べた、黄金色の卵に、肉の入った飯で作られた「本物」のオムライス。その染み渡る温かさ。頬が落ちそうな程に美味しかった。
***
そこから私達は、陣佐の知恵や人脈、私自身の執筆する剥き出しの執念を注ぎ込んだ作品を武器に、文芸誌の設立と文壇への殴り込みという無謀な計画に尽力した。
私を波留と言って慕う陣佐の手腕には舌を巻くばかり。数十年後に「痩せた土地でも育つ野菜特集」に押し込められるような未来は、到底役不足だとしか思えない。
彼に頼めば、達川雷蔵なんてすぐに見つけられてしまうのでは。そんな誘惑と近道が脳裏を掠めたが、己の正体を明かすわけにも行かない。何より、未来で待つ彼の凄惨な帰結を話さなければならない可能性が増すことを思うと、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「日々是好日、完成だな」
宣伝の甲斐あって少しずつ集まった原稿を、丁寧に丁寧に纏めて出来上がった一冊。出来上がったばかりの文芸誌を、陣佐は感慨深げに眺めていた。
「これを書店や商店に搬入するまで安心できないよ」
編集部の古びたソファに身を任せながら、気を引き締めるように硬い口調で陣佐に念を押した。それは、自分自身への戒めでもある。
ようやく此処まで来た。準備に随分と時間を費やしてしまったが、達川雷蔵という未発掘で孤独な天才の目を留めるには、これだけの重みを持った「器」が必要だ。あとは、彼がこの扉を叩くのを待つだけ。
「……ありがとう、陣佐」
ゆっくりと身を起こし、私は陣佐を真っ直ぐに見つめた。疲れても興奮冷めやらぬと言わんばかりの、若い男の大きな体躯。何よりも頼りになる、私の大切な友人であり、最高の相棒。
「得体の知れない僕を拾ってくれて。陣佐がいなければ僕は、何も始める事ができなかった」
「それはこっちの台詞だ」
陣佐は柄にもなく大真面目な面持ちで口を開く。
「お前と出会ったあの時、俺は文字に携わることを辞めようと思っていたんだ。それをもう一度文字の力を信じてみたい、お前の夢を叶えたいと情熱を思わせてくれたのは、お前のお陰だ」
心臓が跳ねた。彼は未来で、勤務していた新聞社を一度離れるという過去を持っていた。しかし何も成せず、情けなく出戻ったのだと。今はその「狭間」の時期ではないか。私は、思わぬ形で陣佐の人生にも深く足を踏み入れてしまったらしい。
息を吐き、覚悟の証に微笑んでみせた。そして陣佐の手にあった日々是好日を抜き取り、ソファから降りて窓際に駆け寄る。
外は清々しいほどに晴れ渡っていた。太陽が、光を反射した宝石のように輝いている。堪らず私はその光へ手を伸ばした。
「才能を探し出すんだ。未来を変える、最高の原石を……!」




