独白 第二の手記
⚠本章は、戦争とそれに付随する被害について取り扱います
床を這い、自分の無力さをまざまざと見せつけられる日々。それでも歯を食い縛って血のにじむような努力をした。
その甲斐あって私の行動範囲は徐々に広がり、自室の畳から居間へ、そして父の書斎へと少しずつ広がる。いつの間にか季節は、刺すような寒さを運ぶ冬が終わりを告げ、春の陽気が庭にわずかな色を差し始めるようになっていた。弥生の初旬、私はついに杖を頼りに家の外の土を踏めるようになった。
向かうは家の裏手にある蔵。まず母屋の裏口に向かい、棚の隅にある陶製の招き猫に手を伸ばした。猫が鎮座していた座布団を除け、その下の冷たい鉄の鍵を左手で手繰り寄せる。
手入れの行き届かない庭は、踏み出すたびに小石がぐらりと揺れ、片脚に重心を預ける私の身体を不安定にした。杖を突き、息を整えながら重厚な扉の前に立つ。鈍い音を立てながら扉を開けば、閉じ込められていた埃と黴の匂いや古びた闇が一気に溢れ出した。米も野菜も物資もない、今や形だけの建物だ。淀んだ空気に咳き込みながら、私は陣佐が置いていった本を探した。
流石に怪我人に足場の悪い蔵の奥まで進ませる気はなかったのか、入り口近くに風呂敷に包まれた束が見える。力の入らない身体を庇いながら、それを何とか自室まで引き摺る。震える左手で苦戦しながら結び目を解くと、そこには世界から見放された言葉たちが息を潜めていた。
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。古くなった本や、恐らく不適切と見做された本が何冊も目の前に広がる。その顔触れは、特に近代、少し前の作家の作品が多い印象を受けた。欧米の作家のものも何冊かある。
「桑原慶治の五月雨の寡黙なる様がある! もう一度読みたかったんだ! あ、園崎聖也の訳本まで!」
こんなにも心が躍ったのはいつ振りか。私は手を合わせて陣佐に感謝の意を示した。そして一冊一冊の装丁を愛おしみながら撫で、埃や汚れがあれば拭ってやる。
「あ、」
その時、かつて文壇を席巻し、文学賞の由来でもある池田川朔時の一冊が指に触れた。今は休止に追い込まれているが、この賞に選ばれた作家は今でも文豪と名高い。そんな作家の一冊を前にして、部屋の空気が張り詰めた。一度深呼吸をし、意を決して頁を捲れば、沈黙の底に沈んでいた古臭い紙の匂いが、つんと鼻を突く。
相変わらず、池田川の書く物語は他の作家とは一線を画すようだった。一瞬で彼の持つ世界に引き込まれ、呼吸も忘れて文字を追う。慣れていない左手で頁を捲るのがもどかしかった。
もう少しで読了だというところで、巻末に何かが挟まっていたのか、ストンと数枚の紙が畳に落ちた。首を傾げながら、拾い上げる。
「なんだこれ」
随分と年月を経たのか、縁が脆く黄ばんでしまった原稿用紙。そこには、ペンで綴られた気品ある筆跡がびっしりと並んでいた。
「達川……雷蔵?」
右端に記された、聞き覚えのない名。私は怪訝に思いながらも吸い寄せられるようにその筆致を追った。
「凄い……! 凄い……! 凄い!」
一行、また一行。左手が戦慄く。それは、凍てつく冬を切り裂く春風のような、どこまでも優しく繊細な物語。頁を捲る左手が戦慄く。
達川雷蔵。彼は何者だ。本の虫を自負する私さえ知らない異才の美しさが埋もれている事実に、後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。なぜ、こんな才能が名も残されずに消されようとしているのか。その不条理が、私の肺を締め付ける。
簡単な話。私はこの一瞬で、数枚の原稿用紙で、達川雷蔵なる人物が作る世界に完全に魅了されてしまったのだ。言うなれば一目惚れ。いや、一読み惚れ。数多くの作家が綴ってきた「恋に落ちる瞬間」の比喩が、成程、そういう事だったのかストンと胸に落ちる。心臓が早鐘を打ち、季節でもないのに汗が首筋を伝った。ただの黄ばんだ紙切れと、滲んで色褪せたインクの筆致。それが彩を纏って私を包み、目の前で花火のように弾ける。
達川雷蔵なる男の手がかりを探そうと、原稿が挟み込まれていた池田川朔時の本をくまなく見返したが、蔵書していた大学の名は廃棄に際し墨塗りにされてしまっていた。柄にもなく舌打ちをする。
「陣佐の所に持って行ったら、大学の名前が分かる。そうすれば達川雷蔵に会えるかもしれない……! ややもすれば、これを本にしてくれるかもしれない……!」
私は悟った。陣佐が言っていた「生きて帰った理由」はこれだ。
まだ痛みで疼く身体に鞭を打ち、父の元へ歩いた。
「父様、漸く私も歩けるようになりました。一度東京の病院で再診をして貰おうと思います。足も、腕も、動くようになるかもしれません」
表向きの名目で取得した旅行許可証を見下ろし、歓喜の拳を握った。目指すは病院、ではなく、陣佐の勤める新聞社だ。軍服を着て、杖を頼りに、住み慣れた家を飛び出す。その懐に、命よりも大切な達川雷蔵の手記を忍ばせて。
切符のために長蛇の列に並び、何時間もかけて、日を跨いで降り立った百万都市。
鮨詰めのような客車で何度も読み返した雷蔵の物語が胸を熱く焦がしてくれたせいで、旅の疲れなど皆無だった。高校、大学時代を過ごし、慣れ親しんだ賑やかな都の音と匂い。辿り着いた新聞社は黒く塗られ、窓には分厚い暗幕が掛けられ、重々しい雰囲気を放っていた。
懐にある紙の感触を確かめ、己を鼓舞するように胸をトントンと叩く。深呼吸をして、不格好な足取りで建物へ踏み入った。
「あの、私、帝大文学部所属の日向端と申します。半間陣佐さんは……」
半身を引き摺り、杖を突く若造の登場を前にして、受付の者の怪訝な視線が突き刺さる。それでも構わず、つっかえながらも必死に要件を紡いでいると、隣でもう一人の受付と談笑していた記者らしき男が顔を上げた。
「あ、さては君、日向端千晴君だな? アイツがよく話していた子だ。その身体でわざわざ東京へ来たのかい? 遅れちまって気の毒だなぁ」
「あ、はい。半間さんに用があって。どうしても見せたいものがあるんです」
気さくに声を掛けられて、緊張で強張っていた肩の力が緩む。しかし目の前の男は、笑顔を浮かべた私を見ると、一転して顔を歪めた。
「まさかアンタ、知らないのかい。……アイツは、ついこの前出張先の街で空襲に巻き込まれて亡くなったよ。この前、形だけの葬儀があったばかりだ」
「え……」
思考が白く飛び、呼吸の仕方を忘れたように息が止まる。
私は、達川雷蔵の原稿を抱えたままふらふらと新聞社を出て、東京の街で放心していた。もはや原稿を渡すべき相手はどこにもいない。陣佐でなければ、この美しい物語を預ける意味がなかった。私が、彼の望んだ通りに「再び生きる意味」を見つけたことを、真っ先に伝えたかったのに。
陣佐が居なければ、原稿が挟まれていた本を所有していた大学の名前も分からず仕舞いだ。達川雷蔵の手がかりも、何も無い。
やるせない気持ちの吐き場所を求めて、気付けば悠々と揺蕩う川沿いに立っていた。
「私の、私の担当編集になるって約束したじゃないか……! 何で死んでいるんだよ……! 陣佐の馬鹿。馬鹿野郎……」
胸を突き動かしていた高揚が冷めると、忘れていた痛みがぶり返してきた。立っていることもままならず、私はその場に蹲り、時間も忘れて、この不条理を呪った。
気付けば夕食の時間などとうに過ぎ、頭上の空は、深淵のような真っ暗闇に包まれていた。冬と春の狭間、夜風は流石に体に障り、私は左手で肩を擦って身震いをする。
「宿……取ってないや。どうせどこもいっぱいで断られるか……」
私は一度身を起こそうとするも、鉛のような体の重さに負け、再び冷たい地面の上に腰を下ろした。明かりをつけるのが禁止されているが故の漆黒の空。それは希望を奪われた私の心のようで、冷えた空気を吸い込みながら、じっとそれを見つめていた。
そこに、不気味なサイレンが強い風に乗って耳に届く。寝静まっていた街が、ざわざわと不穏に蠢き出した。私も重い身体を引き摺るようにして身を起こし、杖を頼りに立ち上がる。もう生きる意味などどこにもないはずなのに、本能だけが私に避難を促した。
頭巾を被り、バケツを提げて急ぎ足で行き交う人々。彼らの針の筵のような視線を浴びながら、私は自分が「邪魔者」でしかないことを痛感した。
一時間ほどの警戒の後、何事もなく警報は解除された。人々はやれやれと寝支度へ戻っていく。私も再び、ない居場所を求めて冷たい風の吹く川の畔へと戻った。
地面に寝転び、目を閉じる。眠ろうとしても、寒さと怒濤の感情が胸を掻き乱し、目は冴える一方だった。
「……なんで、なんでだよ」
夜空がぼやけて霞む。喉が引き攣れて上手く呼吸ができない。全身を掻きむしりたくなる程のやるせなさがこみ上げる。大切なものが容赦なく奪われていく自らの運命を呪わずにはいられなかった。
漏れ出る嗚咽を噛み殺しながら、止めどなく溢れる涙を裾で拭う。その時、懐に忍ばせていた達川雷蔵の紙がカサリと音を立てた。
「そうだ……」
こんな所で泣いている場合ではないと気持ちを奮い立たせ、再び虚空を見上げる。しかしその時、暗闇を這う、いるはずのない鋼鉄の怪物たちの陰を見た。
「え……?」
鳴り響くサイレンや半鐘より先に、市街が赤に塗りつぶされた。悲鳴が空を劈き、漆黒の夜を引き裂いて、時間外れの昼が訪れる。
逃げ惑う人々や、消火に躍起になる人々の波。もはやそこには、不自由な若者を労る余裕を持つ隙などどこにもない。私は濁流のような群衆に弾き飛ばされ、杖を失い、無様に地面を転がった。
「っ……!」
死にかけた虫のように地面を這い、何とか立ち上がろうとしたその刹那、傍に粘ついた油が燃え盛りながら落ち、私の身体に燃え移った。
熱くて痛い。どんなに拭っても、引火した油はまとわりついて私の身体を蝕んだ。その激痛の渦中で、私は己の命が消えゆくことよりも恐ろしいことに気づいた。このままでは、懐に入れていた達川雷蔵の原稿までもが燃えてなくなってしまう。
「……消さなきゃ。消さなきゃ! 消さなきゃ!」
その恐怖が、焼き尽くされる苦痛を上回った。この火を消さなければ。この一束の紙だけは失われるわけにはいかない。
しかしどんなに地面を転がっても、掻きむしっても消えない炎。私は一心不乱に片脚を引き摺り、狂ったように足を進めた。視界を埋める劫火や人混みを掻き分け、目の前に広がる暗い川へと身を投げる。
文字通り身体を焼き尽くす痛みに喘ぎながら、私は生温い水の中で呼吸をしようと藻掻いていた。腕をしきりに動かして縋る先を探しても、指先は無情にも濁った液体を掻き分けるだけで、肺には生臭いぬるま湯と焦げ付いた空気が容赦なく入り込む。
酸欠と激痛で朦朧とする意識の中、脳裏に過ったのは一編の小説だった。
優しくて、繊細で、どこまでも静かな、美しい物語。
あぁ、このまま、私の命も、あの物語も、この劫火に巻かれて誰の記憶にも残ることなく沈んでゆくのだ。
焼け焦げた街の匂いが漂う濁った川の底。崩れ落ちた命の残骸の中、それでも私は、あの優しい小説を綴った書き手の名を縋るように呟いた。
「達川、雷蔵……!」
死ねない、こんなところで。こんな素晴らしい物語を知るのが自分だけで。誰も、この素晴らしい作家を知らないままで。
死ねない、死ねない、死ねない……!
達川雷蔵が、文豪に成るまで。
地獄の底からでも這い上がってやる。この身がどうなっても構わない、魂を切り売りしてでも、彼を見つけ出し、光の下へ引き摺り出してやる。
しかし、悪あがきも虚しく意識は遠のき、音も呼吸も遠ざかっていく。視界はどろりと真っ赤に染まり、緩やかな眠りが私を捉えようとした。
その三途の川のように赤く濁った水の中。力尽きてもはや無惨に漂うだけになっていた私の手を、突如として強靭な力が掴んだ。
「ッ……!」
私は目を見開いた。水の中で滲む視界の中、私の爛れた手首を、誰かの手が確かな質量で掴んでいる。
それは信じられないほどの力で、沈みゆく私の身体を忍び寄る死から強引に引き上げる。呆気に取られながらも、私は必死にその手に縋った。
引き上げられるにつれ、私の身体に絡みつく血のように赤い水は徐々に透明度を取り戻していく。淀んでいた視界を、頭上に差し込む鮮烈な日の光が切り拓いた。
水面に顔を出すその刹那。
私は、私を死の淵から攫ったその手の甲に、三つの黒子が星座のように並んでいるのを、見た。




