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独白 第一の手記

⚠本章は、戦争とそれに付随する被害について取り扱います

 物心ついた頃から、この世界を包む空気は、熱に浮かされたようにざわつき、血の気が多く、どこかむせ返るような狂熱に満ちていた。


 男は強くあるべし。国を守る盾となれ。


 そう皆が声高に叫び、時代の流れに迎合していく中、私は植物学者である父の影響のせいか、本や勉学を好んだ異質な子供だった。煽動されるように熱を上げていく時代のうねりがどうしようもなく苦手で、かといって真っ向からそれに抗う勇気もなく、私はただ、そっと目立たぬよう息を潜めるようにして生きることを選んだ。


 その内向的かつ臆病で卑屈な性格に育ったのは、かつての災禍に巻き込まれ、私を産み落とすと同時に命を散らした母の影が、私達家族の心にずっと横たわっていたせいかもしれない。


 故に私は外を駆けるよりも室内で孤独を愛し、竹刀や竹槍よりも本を手に取り、筆を握った。無論、世を生きる若者として何もしないことは許されず、柔道だけは習わされたけれども。


 本は、そうして閉塞的で淀んでいた私の心を、無限に遠くへ誘った。本を読み耽っている時だけは、自分の心を巣食うほの暗い感情や、嫌いな熱のこもった世間の雰囲気から逃げられるような気がしたから。


 読み聞かせから読書へ、絵本から児童書へ、そして小説へ。私は成長に伴って文学の世界へのめり込んだ。王道古典の源氏物語から、文明開化前の作家である馬琴の作品、さらには近代文学の黎明を支えた三連星である池田川朔時、桑原慶治、鷺坂有太夫。そして彼らに肩を並べる園崎聖也。私は彼らの紡いだ言葉を貪るように読み耽った。


 しかし、私が大人びるのと歩調を合わせるように、世を覆う熱は濃度を増し、図書室からは言葉が消え始めた。そして私は女のような名前だと揶揄われ、男にしては華奢な身体や、童顔で大きな瞳を蔑まれた。


 しかし、そういった侮辱の言葉など、本を読めなくなることに比べたら痛くも痒くもなかった。



***



「やーい、本の虫! 男女おとこおんな!」

「悔しかったら剣道で勝ってみろ!」


 背後に投げつけられる同級生の罵声と共に、それを面白がった小坊が投げる消しゴムの屑や泥団子が学ランを汚す。


 中学校の帰り道、私はいつものように彼らを無視し、懐に抱えた本だけを庇いながら歩みを進めた。


 ようやく辿り着いた家の前、門の中に見知った大男が立っているのが見え、私は歩く足を早める。


「陣佐!」


「よぉ、坊ちゃん、だから、大人を呼び捨てするんじゃねぇよ……。ん? 派手に汚れてるな。またやられたか?」


 面白半分に揶揄ってくるその声に、私は頬を膨らませた。乾いて白くこびりついた泥を払い、門扉を開いて陣佐を招き入れる。


「本は無事だからいいんだ。それに、僕は柔道だって習っているし。本気を出せば、あんな連中よりは強い自信があるよ。……そんなところで突っ立っていないで、早く入ったら?」


「おう、邪魔するぜ」


 陣佐はその六尺はあろうかという巨躯を屈めて玄関を潜った。歳を取ると背が縮むというものだが、若い頃の陣佐はどれだけの背をしていたのだろうか。取材の為に彼が我が家を訪れるたび、見上げるようなその大きな背中に、憧れと安心感を抱きながら思う。


「今日の記事は何? また痩せた土地でも育つ野菜特集?」


「まぁそんなもんだ」


 屋敷の廊下を二人で歩けば、窓越しに手入れの行き届かない庭と、沈黙を守る古びた蔵が見えた。


「折角、都の大手新聞社に居るというのに、こんな田舎まで来て大変だね。御苦労様」


「このガキ……! 言われなくても分かってるよ。でもな、大人はそんな単純じゃないの」


 陣佐は私の肩をがしりと捕まえると、こめかみの辺りにグリグリと拳を押し付けた。逃れようと揉み合ううちに、彼が纏う安っぽい煙草の匂いが鼻をくすぐる。


「もう! うるさいなァ! 年甲斐もなく恥ずかしいよ! 先に客間で待っていてよ、父様を呼んでくるから」


 その拘束を潜り抜け、私は廊下を駆けた。平屋の奥、古本の匂いと陰気な気配が漏れ出る書斎の扉の前に立つ。


「父様、半間さんがお見えになりました」


 声を掛けて襖を開ければ、うず高く積まれた資料の山の傍、文机で筆を動かしていた父が顔を上げた。


「あぁ、ありがとう、千晴ちはる


 父は分厚い図鑑や書類を抱え、猫背のまま客間へ向かう。その威厳も何も無い背中を私はそっと見送った。


「……また新聞部から左遷されたのかい。数年前に出会った頃の君は優秀な記者だったというのに」


「世辞は良いですよ日向端先生。漸く戻って書いた記事がまた駄目だ、と。市民を扇動するような文章を書くのもどうも苦手でな。……全く、昨今正しい報道なんて無いぜ、先生も気をつけてくれよ」


 私は廊下に身を潜め、壁に耳を当ててその会話を盗み聞いた。やがて取材が終わったのか、客間を出てきた陣佐は、偶然を装って廊下に居た私を「駅まで送れ」と手招きした。


 門を出て、ザリザリと舗装されていない田舎道を歩く。陣佐は広がる果樹園を見渡しながら、なんてことない世間話のように私に口を開いた。


「坊ちゃん、お前もう中学卒業なんだろ? 親父さんから聞いたよ。飛び級たぁよく頑張るねェ。何か将来の夢とか、なりたいものがあるのか? 親父さんと同じ学者サンか?」


 その問いは、父にも教師にも、数少ない友人にも投げかけられてきたことだ。その度に、私はその本当の気持ちを吐き出させないでいた。それなのに、何故か言えない胸中を、陣佐の何気ない仕草はするりと簡単に引き出してくる。


「順当に行けば、そうなっただろうけど……。私は……私は、作家になりたいんだ。大学にもいきたい。桑原慶治が行った帝大でも、鷺坂有太夫が行った成央大でもいい。大学で文学を学びたい」


 そう思わず零れ落ちた告白に私自身が狼狽えていると、陣佐は白い歯を見せて私の頭をガシガシと乱暴に撫でまわした。


「いいじゃないか、夢のある話だ」


「ねぇ陣佐、陣佐の新聞社は文芸部もあるんでしょう? 陣佐が私を作家にしてよ」


冗談半分、縋るような本気半分で交渉してみれば、陣佐は私の額を指先で弾き、胸元から煙草を取り出した。


「俺にそんな権限はねぇよ。一度啖呵切って飛び出して、何一つ成せずに尻尾を巻いて出戻った、情けない平社員だよ俺は」


「何でそんなことしたのさ、勿体ない」


 紫煙が揺れ、彼の横顔を微かに曇らせる。自嘲気味なその言葉に、私は思わず身を乗り出した。


「……ま、俺も若かったんだよ。そうそう、初めて親父さんに取材した時に驚いたんだがな。親父さんとお前の母さん、俺が一時期居た中小新聞社のすぐ隣に住んでたんだってな。俺はその時にはもう出戻っちまってたから、結局、顔を合わせることはなかったんだが」


「何それ知らない。じゃあ、震災も無く、陣佐もそこに居続けていたら、私と陣佐はもっと早く出会ってたってこと?」


「理屈の上では、そうなるな」


「そんなぁ……。会社を辞めた陣佐が悪いんだから、責任とってよ」


 理不尽な言い掛かりに陣佐は怪訝な顔を浮かべて二発目のデコピンをくらわす。


「何だよその責任ってのは。ただ、文芸部へ持ち込むって時に付き添ってやるくらいはいいかもな。そうそう、偕成に友人もいるぞ」


「本当?! ねぇ陣佐、私が小説家になったら、陣佐が私の担当編集になってね」


 柄にもなく飛び跳ねる私に、陣佐は三発目のデコピンを見舞った。


「まずは小説の一本でも二本でも書いてから生意気言いやがれ。何も書いていないんじゃお前はただの口先だけのガキだ」


 陣佐の言葉は、私をより文学に傾倒させるには十分な威力を持っていた。ピリピリと痛む額を押さえながら、私は唇を噛み締めて深く頷いた。


 本を読み、書く。その単純だけれど奥深い行為が、とても尊く思えた。故に、私はこの文字と思考の世界へ魂を捧げようと決めたのだ。



***



 そして月日が経ち、私は念願叶って大学生となった。敬愛する作家を幾人も輩出した、あの帝大の門を、学生帽を正して潜るようになった。


 同じ夢を志す学友と共に、歴史や作家についての議論をしたり、陣佐の貸間に転がり込んでは作品を読んでくれ、作家にしてくれと頼み込む。そんな、世間の熱狂や喧騒とは一歩離れた生活を送っていた。


 今宵も講義と文芸倶楽部の活動を終えてから、帳面にしたためた小説を引っ提げ、仕事帰りの陣佐を待ち伏せる。


「……また来たか。まぁ入れ」


 陣佐がガチャガチャと玄関扉の鍵を開ければ、インクの匂いと安煙草の煙が染み付いた狭く古臭い六畳間が現れる。私は靴を脱ぎ捨てるなり、その薄暗い部屋へと飛び込んだ。


 畳に寝転がって、布で覆った電球の薄暗い灯の下で本棚に並ぶ本を読む。その近くでは、陣佐私の差し出した帳面に目を落としていた。紙が擦れる乾いた音が、狭い部屋の中で和音を奏でる。


 やがて陣佐の音が止み、帳面が閉じられる気配がした。陣佐は凝り固まった肩を回すように、大きく、そして重苦しい伸びをする。


「どう? 前に指摘してくれた部分を意識してみたんだけれど」


「悪くなかった。いや、むしろ良くできている。ともすれば、池田川の再来……。だがなぁ……。この御時世じゃあ、これが活字になる道はねぇよ」


 待ち望んだ評価の末に突きつけられた無情な現実。私は頬を膨らませ、畳に突っ伏して駄々をこねる子供のような声を上げた。


「そう言わずにさぁ……。公募や賞もなくなったんだ。私の頼みの綱は、陣佐しか居ないんだ」


「だったら、もっと……こんな風にほの暗くて、しんみりした繊細な物語じゃなくてさ。国民を鼓舞するような、威勢のいいガッツリした物語を書くんだな。今、読み手が求めているのはそういう作風だ」


 陣佐は、私が物語を刻んだ質の悪い帳面を閉じて、ポンと頭の上に載せた。それを受け取りながら、私は煙草に火を点けはじめた陣佐に冷めた目線を投げかける。


「えぇ……私の趣味じゃないよ……」


 陣佐は私の反論を待たず、重い腰を上げて立ち上がった。電灯を消して暗幕を開けると、窓辺に肘をついて煙を吐く。この御時世で質が落ちているらしく、時折痰が絡んだ咳をする声がした。


 私は身を起こし、夜空を見上げる大きな背中を見つめる。灯りのない真っ暗な東京の空、胸に吹き抜ける不安と寂しさが、私の心を踏み荒らしていく。


「ねぇ、今日泊っていい? こんな夜道歩くの、嫌だし」


「……好きにしろ」


「やったぁ」


 呆れ混じりの許可に胡坐を掻き、私は畳の上に外套を広げて身を横たえた。背中に当たる床の硬さも、今では慣れ親しんだ安心感の一部だ。隣の煎餅布団では、陣佐が寝返りを打ち、衣擦れの音が闇に溶けて行く。


 窓の向こう、世間を包む熱の籠った空気は、だんだんとどす黒く、粘り気のある重みを持って、私たちの未来をこの夜空のような闇で塗り潰そうとしていた。



***



「何で!」


 雑穀を水増ししてもなお、碌に中身が入っていない茶碗を放り投げて私は思わず声を荒らげた。 乾いた音を立てて転がったそれが母の仏壇に当たり、遺影の中の瞳と目が合う。私は堪らず目を逸らした。


 盆の季節、盆地で茹だるような暑さの帰省先。頭痛を誘うような蝉時雨の中で父が口にした言葉に私は憤激した。


「大学生の徴兵延期制度が……?」


 痙攣する目元の不快感が襲う。私の目の前で薄い味噌汁を啜る父は、全てを諦めたように肩を丸め、淡々と口を開いた。


「戦況の悪化によるものらしい。お前が二十歳になる秋頃に正式に発布されると、陣佐君が教えてくれたよ」


「そんな事、東京にいるときは一言も言ってくれなかった……!」


 やり場のない感情が渦巻いて、箸を握る手が震える。だが、その激昂の裏側で、卑屈で冷徹な自分が囁いた。これでようやく後ろ指を指されずに済む、と。


 そんな安堵を抱いてしまった自分自身が、殺したいほどに疎ましかった。


 塩味も旨味も碌にない味噌汁の水面を見下ろして睨む。そこには、醜い感情を抱く怪物が映っていた。



***



 抗おうと必死に足掻いたこうと画策もしたが、そんな勇気は生憎持ち合わせておらず、私は瞬く間に世間の濁流に呑み込まれた。植物学者の父と大学生の息子という家庭ゆえの風当たりの強さに負け、学友たちの熱意に巻き込まれた。


 そうして気付いた時には、私は国防色の服を纏い、ペンを銃に持ち替えて冷たい雨に降られながら整列していた。壇上に立つ偉い人は、勇敢に私達を鼓舞してくれていたのだろう。


「おう、お疲れさん、寒かったろ」


 壮行会が終わった後、記者席から駆け寄ってきた陣佐が声を掛けてきた。二人で当て所無く雨の中を歩き、漸く滑り込んだ軒先。


「……寒いよ。陣佐はもうおじさんだから、私の気持ちなんて分からないんだろうけど」


「煩いよ、まだ五十だぞ」


 そう言って俯く私の頭を、陣佐はコツンと拳骨で小突いた。鈍い痛みが走る脳天を押さえ、私は隣に立つ大きな身体を見上げる。雨空を睨む陣佐の横顔には深い苦渋が刻まれていた。私は、堪らなくなって白髪が混じり始めた彼の髪を掻き上げる手を思い切り掴んだ。


「……ねぇ陣佐、私を雇って。どんな下っ端でも、どんな仕事でも良いから。私も死ぬ前に一度くらい、本に、文字に携わりたいんだ」


 節くれ立った手に必死に縋る私を見下ろし、陣佐は眉を下げ、血が滲むほどに唇を噛んでいる。


「してやりたい気持ちは山々なんだが……俺にそんな権限はねぇよ。俺が言えるのは、命あってこそだ。だから、ちゃんと生きて帰ってこいよ。待ってるから」


 陣佐は、私の震える手をゆっくりと、だが拒絶するように振り解いた。そして子供を宥めるような手つきで、私の頭を撫でる。私はされるがまま、歯を食いしばった。頬に伝う雨粒を拭うために、ゴシゴシと顔を強く拭う。



***



 私はとても運が良かったのだと思う。


 数か月の訓練で、文字を綴る筈だった指先に我が国を勝利へと導く術を叩き込まれ、私は大陸の土を踏んでいた。


 砂混じりの風に吹かれながら、肌を焼く夏の激しい日差しに晒されながら、私達はただひたすら進軍し、終わりの見えない鉄道沿いを歩き、都市を制圧する。


「日向端って千晴って名前なのか。女みたいだな」


 都市に近い野営地でのことだ。同じ部隊の男が、私の名を聞いて無遠慮なことを宣った。


「そんなの言われ慣れてるから、揶揄っても別に効かないよ」


 そっぽを向いた私に、男はそんなつもりじゃないと困ったように笑った。張り詰めた静寂と、神経を削るような退屈を紛らわせるための、取るに足らない話題が欲しかっただけなのだろう。


「死にに行くんだ、そのくらいは許してくれよ」


 いつ熱病に倒れるか分からぬ、いつ物資が尽きるかも分からぬ、いつ襲われるか分からぬという環境で。進軍の先に待つものが、輝かしいものだとは到底思えないというのは、私達全員の共通認識のようだった。私もその気持ちは痛いほど分かったから、ただ苦く微笑んで頷く。


 そうして暗い中を歩いていた時、ぞくりと総毛立つような戦慄が背筋を駆け巡った。私はじっと立ち止まり、薄暗い森の奥へ目を凝らす。次の瞬間、ガサガサという身じろぎの音と共に、月光を反射する鈍色の銃口が私達を捉えているのに気付いた。命を奪わんとする、鋭く冷徹な殺気だ。


「伏せろッ!」


 裏返った私の叫びを合図にするかのように、激しい銃声が夜の静寂を切り裂いた。叫び声と肉を穿つ嫌な音が耳を貫く。私も気を動転させながら必死に銃へ手を伸ばし、鉛玉の飛んでくる方向へ、無我夢中で引き金を引いた。 


 先程まで私を揶揄っていた彼も顔色を変えて私の腕を掴む。奴らの死角へ引き寄せ、再び銃の引き金を引いた。だが、その刹那。月光に照らされて一つの鉄の塊がころりと私達の元へ転がってきた。


「危ないっ!」


 考えるより先に身体が動いていた。私は咄嗟に彼の上へ覆いかぶさり、炸裂する熱を全身に受けた。


「おい! おい、日向端! 生きてるか!」


 小柄な私の身体では、その衝撃を殺しきれなかったようだ。額から血を流す彼が、必死に私の名を呼んでいる。


「……いきて、る」


 辛うじて声を絞り出すが、右半身が火に焼かれているように熱く、同時に氷のように末端から体が冷えて感覚が遠のいていくのを感じていた。


「誰か、誰か! っクソ何でこんな……激戦区でもないのにゲリラが……!」


 力が抜け、霞んでいく視界の中で、私は何も成し遂げられなかった人生を呪った。


 しかし中途半端な私は、勇敢に死ぬこともできなかった。


 幸か不幸か、私が倒れた場所は野営病院に近く、時期もまだ鉄道や航路が息をしていた。応急処置により死の淵を彷徨いながらも、私は「役立たずの怪我人」として、来た道を後戻りすることになった。輸送船の底で揺られ、再び本国の地を踏み、病院を経てようやく故郷の地を踏んだ。


「千晴……! 千晴……あぁ……」


 人に支えてもらわなければ歩くこともままならず、半身が使い物にならなくなった私を前に、父は言葉もなく抱き締めた。愛しかろう母の面影すら失い、ペンを握ることも、銭を稼ぐこともできなくなった無惨な肉体。父は、そんな壊れた私を掻き抱き、子供のように声を上げて泣き続けた。



***



「おー。派手に大怪我したな、よく生きて帰ってきたもんだ」


 自宅での療養を続けていた私を久々に訪ねてきた陣佐は、開口一番、包帯に埋もれた私の姿を見てそう呟いた。その眼差しは相変わらず生意気なガキを見るような揶揄いの色を帯びている。腫れ物に触れるような、あるいは英雄だと囃し立てるような周囲の憐れみにに辟易していた私にとって、その無作法な視線は何よりの救いだった。片手で何とか身を起こし、目を細めて笑みを作った。


「でも……見ての通りだ。右目も駄目だね。右足は骨折の予後が悪くて満足に歩けるか怪しいんだ。何より……」


 布団の上で力無く横たわる右手を、憎しみを込めて睨みつける。 


「右手は神経をやられてもう動かないらしい。もう、文字なんて、書けない……」


 空元気さえもあっさり萎んで肩を落とす私に、陣佐は布団の傍らへどっかりと胡坐を掻いた。彼が纏う、安っぽい煙草の少し焦げたような匂いが、死んでいた私の感覚をわずかに刺激する。


「それでも、お前が生きて帰った事に何かしら意味があるんじゃねぇのか」


 陣佐は、私の絶望を突き放すように鼻で笑って続けた。


「右手が駄目なら左手、左手が駄目なら口で書け。……ああ、そうだ。取材先の東京のいくつかの大学で、廃棄予定だった本を何冊か分捕ってきた。お前の家の蔵に適当に放り込んでおいたから、這ってでも動けるようになったら読んでみろ。中に一冊、興味深いものがあったぞ」


 陣佐の言葉は、絶望に打ちひしがれ、凍てついていた私の心に一筋の熱と光をもたらした。


 文字に触れられなかった空白の時間を取り戻すように、私は床を這ってでも動き、無謀な再起への道を歩み始めたのだ。

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